「ペンと消しゴムの歴史」イギリス生まれの鉛筆。パンと代えられたゴム

ペンいろいろ

ペンとインク小史

葦の茎。鳥の羽

 古代エジプトでは、パピルス紙に、葦の茎製の筆を使って、煤と水でできたインクで文字が書かれていた。
 筆はやがてペンとなった。
葦の茎の先を削ってとからせ、小さな切れ目を入れてペン先にしたのである。
葦の茎の空洞のてっぺんからインクを入れ、それがペン先に届くようになっていた。

 6世紀頃からは、ガチョウの羽を使ったペンが登場した。
粗い表面のパピルス紙より、柔らかな素材の羊皮紙には、柔らかな鳥の羽ペンが向いていたのである。

羽ペンから金属ペンへ

 羽ペンは、19世紀に金属製のペンが登場するまで、ずっと主流の筆記用具であった。
先を金属製にしたペンは、 古代ローマでも既に使われていたが、しかし金属を使って、細めのペン先を作ることが難しかったから、実用性に乏しかったのである。

 古くから、金属製や葦のペンが、羽ペンよりも優れているとされていた点のは、内側にインクをためれる空間を作りやすいこと。
羽ペンをインク壺にしょっちゅう浸していては、めんどくさいというだけでなく、線の濃さを一定させることも難しい。

 19世紀以降。
製造技術の進歩により、細い金属製ペン先が作れるようになると、需要はあっという間に増えていった。
金属製のペンは、羽ペンよりも長持ちするし、しかもコストをかけずに大量生産できたのである。

会社員のための万年筆。金持ちのための万年筆

ウォーターマンのアイデアル

 初期の万年筆は、インクを補充するために、スポイトなどを用いて、インク壺からペン軸にインクを移す方法をとっていた。
当然、このペンを使う者は、スポイトを携帯する必要があった。
だが、ガラスのスポイトは脆くて壊れやすかったため、だんだんとゴム製のインク貯蔵袋を内蔵した、吸入式のペンが活躍するようになっていった。

 1884年。
ルイス・エドソン・ウォーターマンが開発した、『アイデアル』という万年筆が、初めて商業的に成功を収めた。
これは従来のものよりも、ペン先までインクが均一に流れやすく、そのために、むやみに漏れにくい、実用性の高いものだった。

 ウォーターマンが、改良型の万年筆を開発しようと思い立ったきっかけは、保険外交官として働いていた時に、重要書類に、万年筆から漏れたインクがつけた大きなシミにより、契約がおしゃかとなってしまったから。
という話があるが、デヴィッド・ニシムラという人が、ウォーターマン社の宣伝資料を調べ、どうもこの話は創作らしいと結論しているという。

パーカー・デュオフォールド・ビッグレッド

 パーカーペンカンパニーは1913年に、インク瓶にペン先を入れ、ボタンを押すことでインクを吸入する、ボタンフィラー式と呼ばれる方法を発表した。

 パーカーペンカンパニーの製造していたペンは基本的に、黒色の地味な外見だった。
しかし1920年、ルイス・テッベルという社員が、創業者であるジョージ・パーカーに、「会社員向けばかりでなくて、もっと高級な客層を狙ってはどうでしょう?」と進言した。
 この話をした時、テッベルは、窓から見えた渋滞の中のリムジンにを指さしていたされる。
彼は言った。
「経済が厳しくても、高級車を買う余裕のある人はいるのだから、高級なペンの需要もあるのではないでしょうか」

 テッベルの意見がきっかけに、鮮やかなオレンジ色の高級ペン、『パーカー・デュオフォールド・ビッグレッド』は作られた。
このペンはすぐに、裕福層のステータスシンボルとして人気となり、様々な色違いも作られた。

アクリルボディのパーカー51

 1941年、新たに発売した『パーカー51』というペンは、さらなる成功をパーカー社にもたらした。
これ以前からパーカー社は、すぐに乾くインクを発表していたが、そのインクは腐食性が高く、当時の市場の主流であった、ゴムチューブやセルロイド製の万年筆では、ダメージを受ける恐れが大きかった。
そこでパーカー社は、アクリル樹脂製ボディ、プラチナとルテニウムの合金素材プラテニウムのペン先の、パーカー51を開発したのだった。
 インクが乾かないよう、ペン先がフードで覆われているという製品の作りは、とても話題となり、絶賛された。

ボールペンの実用性

ビロ社のエテルペン

 ペン先に、ボールを仕込み、それを転がす事で、インクを抽出するアイデアを、最初に考えたのは、ラズロ・ビロではなかった。

 初期のボールペンは、ペン先の幅が広く、インクが漏れたり書けなくなることも多くて、信頼性が低かった。
ビロは、ペンの構造だけでなく、中に入れるインクにも注目した。
 彼は、歯科医であり、化学知識のある兄ジェルジェに、新型ペンに使える、新インク開発を依頼した。
ジェルジェは、知り合いの応用化学専門の教授に、「カートリッジの中にあるときは液体だけど、紙に触れた途端に乾くインク」を求めていると伝えた。
教授は鼻で笑い、「気分次第で、すぐに乾いたり乾かなかったりする魔法のインクなんて存在しませんよ。そんなもの作れはしません。絶対に」

 しかし、魔法のインクはともかく、1938年に、兄弟は、インクの漏れにくい、実用性の高いボールペンを開発した。
アルゼンチンに亡命したビロが、ビロ社を設立し、最初の実用ボールペンとされる『エテルペン』を発売したのは1942年の事だったとされる。
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世界初の使い切り。ビッククリスタル

 世界初の使い切りボールペンは、マルセル・ビックという人が 1951年に開発した、『ビッククリスタル』とされている。

 ビックは、 1930年代初頭に、イタリアからフランスに移住し、第二次世界対戦の終幕と共に、パリ郊外の小さな作業場を手に入れた。
そこでエドゥワール・ビュッファールと一緒に、万年筆などの部品製造の会社、PPA社を設立。
 1940年代末頃。
PPA社(後のビック社)は、他社が開発した、ボールペンについての問い合わせを受けた。
それがきっかけで、当時の最新の筆記用具であるボールペンに、大きな可能性を感じたビックは、独自デザインのボールペンを開発することに決める。

 PPAが開発したボールペンは、従来のものの欠点、インクの漏れやすさをかなり改善したものだったという。

宇宙空間でも使えるペンの伝説

一方、ロシアは鉛筆を使った

 1960年代のことだ。
まさしく時代は、宇宙開発競争の最中。
アメリカのNASAは大問題に直面していた。
それは宇宙飛行士のために、真空状態でも書けるペンがなかったこと。
そこでこの問題を解決するべく、NASAは、150万ドルもの大金を使って、ついに無重力でも使える、『アストロノートペン』を開発。
 一方、宇宙開発競争のライバルであり、同じ問題に直面していたロシアは、鉛筆を使った。

 という話は、一種のジョークだが、アストロノートペンは実際あった商品だという。
ただし、NASAが開発しようと企画したものでも、まして開発費を出した代物でもない。

 また鉛筆は、先が折れやすく、そうして散り散りとなった炭素が精密機器を傷つけたりする危険性があるので、宇宙で使う筆記用具としては、理想的とは、とてもいいがたくはあった。

フィッシャー。宇宙ペンを作った男

 で結局、誰がアストロノートペンを作ったのかというと、ポール・C・フィッシャーという人物である。
彼は1960年に、ニューハンプシャー州の大統領予備選挙に出馬。
ニューハンプシャー大学で行われた、ケネディの選挙集会に飛び入り参加した。
自分にも演説をさせるように要求した彼に、ケネディは、「合衆国憲法によると、大統領はアメリカ生まれの市民で、35歳以上であればよい。ということは、フィッシャー氏の立場は、私と同等といえましょう」と、寛大であったという。

 フィッシャーは結局、大統領にはなれなかった。
しかし、自分を負かして大統領となったケネディが、1962年に、「10年以内に人類を月へ送る」と公約したに触発されたか、宇宙空間でも使える、宇宙ペンの開発に、彼は乗り出す。
 そして彼は、100万ドル以上もの資金を自身で捻出し、無重力空間でも筆記が可能な、加圧式インクカートリッジ内蔵のペンの開発に成功したのだった。

 フィッシャーは、ある意味勝利した。
NASAは、彼のペンを一本あたり5ドルほどで、数百本注文したのである。
 フィッシャーのペンは、逆さまの状態でも書けるというのが案外ウケて、宇宙に行く予定などまったくない人の間でも、わりと売れたという。

水性インク、ゲルインクの色彩

 1963年、日本のオート社が、 それまでの油性インクではなく、初の水性インクを使ったボールペン、『ローラーボール』を開発した。
 水性インクには多くのメリットがあった。
ペン先をスムーズに動かしやすいため書きやすく、水溶性の染料を用いて、様々の色を作ることができた。
 そして、多くのライバル会社が、独自構造のローラーボールペンを次々と開発。
そんなしのぎを削りあう文具メーカーの中でも、大きく遅れをとっていると自覚していたサクラクレパス社は、独自のローラーボールを売り出すのでなく、『ゲルインク』を開発した。
これは油性と水性の長所をあわせもった、全く新しいインクであった。
サクラクレパスは、1984年に特許を取得している。

 水性インクもゲルインクも、ペンの色彩の多彩さを大きく強化した。
日本人はやはりカラフルなモノが好きなのかもしれない。

鉛筆は鉛が使われてるか

嵐明けに見つかった黒い物質

 鉛筆は、16世紀のイングランドで誕生したとされる。
イングランド「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について ある時、ケズウィック郊外のボローデールの野原にて、嵐により、カシの大木がなぎ倒された。
そしてその後の、空いた穴から。謎の黒い物質の塊が見つかった。
 それは外見が鈍るに似ていたから、『ブラックリード(黒鉛)』と名付けられた。
その黒鉛を用いて作られたから、鉛が使われてもないのに、鉛筆は、鉛筆というのである。

 ケズウィックのボローデール鉱山は、当時、高品質の純粋な黒鉛を採取できる、唯一の鉱山とされた。
そのため価値が高まるにつれ、売りに出される黒煙の運搬途中の警備は、一時はかなり凄いものだったようである。

 ケズウィックの鉛筆の作り方は、黒鉛の塊を薄いシート状に裁断し、細い角形の木の棒に一本の溝を彫り、その溝に刃で刻み目をつけ、木と平行になるようにカットし、黒煙を挟みこんで、最後に全体の形を整えるというもの。

コンテの加工黒鉛

 1793年。
フランスは大英帝国に宣戦布告し、二国間の貿易が遮断。
フランス国内にケズウィックの鉛筆は一切届かなくなってしまった。
そこで戦争大臣のラザール・カルノーが、輸入原料に頼らない鉛筆の開発を、ニコラ・ジャック・コンテに命じた。

 コンテはもともと肖像画家だったが、科学にも関心がある人で、黒鉛に関してはかなり知り尽くしていたという。
 彼は、黒鉛の粉末と粘土を混ぜて、細い棒を作り、高熱で焼くという製法を考案。
そうして作った素材は、純粋な黒鉛と比べたら脆いが、それでもかなり優れていて、彼は1795年に特許を取得。
そして彼の時代以降、鉛筆は彼の製法が基礎となっていった。

消しゴムは偉大

ラバーと初めて呼んだ人

 消しゴムの登場以前、鉛筆の字を消すのによく使われていた道具は、固くなったパンだったらしい。

 鉛筆で書いた文字を消せるゴムの特性に、初めて目をつけたのは、イギリスの文具商人、エドワード・ネアンとされる。
 ソーダ水を発明した化学者、ジョゼフ・プリーストリーは、鉛筆の字を消せる、ネアンの新しい商品を、 1770年に発表した著書で大絶賛した。
そして彼は、それを初めて「ラバー(消しゴム)」と呼んだという。

グッドイヤーのまいた種

 18世紀までは、固いパンと消しゴムは、同列に扱われてるような道具だった。
しかし1830年代くらいに、アメリカの発明家チャールズ・グッドイヤーが、天然ゴムをある程度の温度変化にさらされても、安定させる方法を開発。
彼は、天然ゴムに硫黄を加えて加熱し、強い耐久性を持たせる事に成功。
 それからは消しゴムの有用性が広く認められ、鉛筆の字を消す道具は、ほぼ一択となった。

 グッドイヤーは、特許出願するよりも以前から、自作のゴムのサンプルを、イギリスの様々な会社に送って、可能性をアピールしていた。
そのために。見事それは模範され、ハンコックという人が、彼よりも先に特許を出願してしまう。
 グッドイヤーはこうして、新商品開発のために、莫大な借金を抱えてしまっただけで、何も得なかった。

 「自分がまいた種を、他人が刈り取った事に不満はない。誤解してる人が多いけど、人生をかけた仕事の価値は、金で測れるものではない。自分が種をまいた種を、誰も刈り取らなかったとしたら、 むしろ僕は後悔したろう」