「メディチ家の登場」フィレンツェを支配した一族の始まり

フィレンツェ

メディチという名

 イタリアはフィレンツェの記録に、『メディチ』の名が現れたのは、13世紀の前半からとされる。
その一族の名を有する者の何人かは、だんだんと裕福になり、地位を高くしていった。

 14世紀になる頃には、フィレンツェの評議委員会に、メディチの名がよく見られるようになる。

メディチという名の意味は「医師」であるが、この一族が元々医師の家系であったのかどうかは謎に包まれている。

ゴンファロニエーレ・デッラ・ジュスツィツィア

 父と同じ名を持つアヴェラルド・デ・メディチが、執政しっせいに選ばれたのは1304年。
『ゴンファロニエーレ・デッラ・ジュスツィツィア』となったのは1314年であった。

 ゴンファロニエーレ(旗手きしゅ)は、『ルネッサンス(再生)期』と呼ばれる14〜16世紀くらいのイタリアで、地域コミュニティなどのリーダーに与えられていた称号。
 1293年のジュスツィツィア(正義)の規定条令による、ゴンファロニエーレ・デッラ・ジュスツィツィアは、執政と共にフィレンチェの当時の政治機関『シニョーリア』を構成していたかなりの権力者であった。

 シニョーリア(支配)は、基本的には僭主せんしゅ(tyrant)が支配する政治体制。
僭主は、血筋に関係なく、自らの力で権力を得た者。
ようするにシニョーリアという政治体制は、実力主義である。

 アヴェラルドは多くの市民にとって有能な権力者で、商人と下層階級の者達の利益を守ったとされ、「国の安全のために生まれた人」ともで称されたという。
彼は「民衆の前で見世物を演じてはならない」という信条を持ち、政治的な野心は隠していた、とも言われる。

 また1311年に、母の兄、テギア・ディ・シッツィが、有能なアヴェラルドを後継者として選び、莫大な資金と領地と聖職者の庇護を、彼に与えた。
そういう事情で、彼の代に、メディチ家は、フィレンチェでも最大級に裕福な市民の一族となった。

二人のサルヴェストロ

騎士サルヴェストロ

 14世紀のフィレンツェは、支配者層の間で、熾烈しれつな戦いが繰り広げられていた時期であった。
 地位も名誉も得た勝利者の背後には、当然、敗北者もいた。

 アヴェラルドの息子、サルヴェストロ・デ・メディチは、母がチュートン系(ゲルマン民族の一部族)だったので、イル・ゲルマーニと称されていた。

 14世紀にメディチ家は、銀行業務で台頭したが、サルヴェストロは、あまり銀行には関心がなく、武器作りに情熱を注いだという。
 1318年、執政に選ばれた彼は、フィレンチェがミラーノのヴィスコンティ家と戦う事になった時、フィレンチェ軍の司令官にもなった。

 戦いで手柄を立てたサルヴェストロは、司政委員会から、 騎士の称号までもらった。
しかし、騎士サルヴェストロは、 貴族の肩ばかり持ち、アルビッツィ、リッチ、ストロッツィなど他の名家と共に、少人数による独裁政治を行おうとした。
 しかし、彼ら皇帝派(ギベリーニ)と対立する平民派(ポーポロ)は、相手に強い悪意を見て、1370年に、騎士の方とは異なる、弟脈の、もう一人のサルヴェストロ・デ・メディチに働きかける。

法王派。自由。統治者となる方法

 騎士でないサルヴェストロは、 民衆が支持していた法王派(グエルフ)の指導者に転向し、公的義務に献身して人気を高めた。

 サルヴェストロは、いよいよ実質的な権力者となり、1376年には、ゴンファロニエーレをさらに超える地位とされた、『法王派の領袖りょうしゅう(カピターニ・デイ・バルテ・グエルフア)』にも選ばれている。
これは、「没収財産の管理」という、まさに権力者のためにあるような権利を有する地位であった。

 さらに1378年に、ゴンファロニエーレとなったサルヴェストロは、 様々な階級や党派の者達を、パラッツォ・ヴェッキオ(ヴェッキオ宮殿)の議会に招集。
法王派として彼は、「社会秩序の修復(商人や下層階級の者達の社会的地位の回復)」を提案した。
 皇帝派は、そんな提案を受け入れるつもりはなく、サルヴェストロもそれは承知していた。
そして彼は、自分の提案が受け入れられないならば、辞職すると宣言。

 全ては計算通りだった。
サルヴェストロの宣言は、まったく彼が期待した通りの結果をもたらした。
 群衆達が、「自由(リベルタ)、自由(リベルタ)」、「市民万歳(エヴイヴア・イル・ポーポロ)、ゴンファロニエーレ万歳(エヴイヴア・イルゴンファロニエーレ)」と叫び始め、フィレンチェという都市に、大きな波を起こしたのだった。

 皇帝派に所属する者達の豪邸は、次々焼き討ちにされた。

 結局のところ、反乱者達は反対派に鎮圧され、どさくさに紛れて商店街の経営権などの財を得ながらも、サルヴェストロ自身、1982年には国外追放され、フィレンチェは一時アルビッツィ家が支配する事となった。

 それでも、カピターニ・デイ・バルテ・グエルフアのサルヴェストロの名は、フィレンチェの人々の心に永く刻まれ、「下々の者を籠絡し、利用する事で、統治者となる方法を、自らの家の後継者達に示した、最初の人」と称されるようになった。

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ

アヴェラルド3世

 兄脈、アヴェラルド3世は、ビッチと呼ばれた。
このあだ名は、「無価値な奴」、あるいは「城に住む人」の意と考えられている。
つまり彼は、本人には大した価値もない成金野郎とバカにされていた。
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 一方で、人の前に出ることを常に避け、謙虚に自分の位置に留まる事で、議会でも地味に票を集めた好人物、というような評価もある。
 アヴェラルドは、 富を得ても、それをひけらかしはせず、必要以上には利用もしない人物だった。
そして、アヴェラルドの息子、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360〜1429)は、父の性質を見事に継いでいた。

メディチ銀行

 ジョヴァンニは、資本をひたすらに溜め込み、銀行事業を拡張する事に専念した。
彼は、富豪とは思えないほど貧相な格好で街を歩き回り、いろいろな人と気軽に話をして、職人達とのコミュニティを形成していった。
一方で商売事に関しては、非常に狡猾こうかつかつ無慈悲であったようである。

 ジョヴァンニは、最盛期にはヨーロッパで最大最高とされた、『メディチ銀行』を起ち上げてもいる。

家廟となったサン・ロレンツォの教会堂

 ジョヴァンニは、政治には、あまり積極的に関わろうとはしなかった。
社会的地位なんて不安定なものと考えていたとも言われる。
 ただ彼は、表向きはいつも、ただ生きてるだけみたいな地味な存在でいて、しかし内心はいつも、遠い未来を見ているような人物だった。

 1406年に、ナポリへの派遣太子。
1407年に、ピストイアの執政。
1409年に、法王アレッサンドロ五世への特使。
そして1422年には、ゴンファロニエーレ・デッラ・ジュスツィツィアに選ばれた。

 ゴンファロニエーレになった時、いかにも無害そうな、この老人を警戒する者はほとんどいなかったと考えられている。
 ジョヴァンニは、地租台帳制度というのを実施させた。
それは、戦争に必要な税が、各自の資産によって決められる、という制度であり、民衆によって大いに支持された。
 これは明らかに、リナルド・デッリ・アルビッツィや、ニッコロ・ダ・ウッツィアーノのような政敵を抑え込むための政策であった。

 ニッコロ・ダ・ウッツィアーノは、賦課金ふかきん(ある土地の恩恵を受けている者が、国や地方自治体などに納める税)の金額が、それまでの10倍くらいである150フロリンも払わなくてはならなくなり、苦渋を飲むハメになった。
 一方で、ちゃっかり金を溜め込んでいたジョヴァンニは、涼しい顔で300フロリンを納めたとされている。

 1429年に亡くなったジョヴァンニは、 彼が生前にマルテッリ家と共同で修復し、市に寄贈していた、サン・ロレンツォの教会堂に葬られた。
その教会は、メディチ家の家廟かびょうとなった。

コシモとルネッサンス芸術

 ジョヴァンニには、オドランド・デ・ブエリの令嬢ドンナ・ピッガルダとの間に、四人の息子がいた。
 上の二人、アントニーオとダミアーノは、夭折ようせつ(早死)したが、下の二人、コシモとロレンツォは、立派に育った。

 コシモ・デ・メディチは、父を遥かに超える野心家であり、ルネッサンス芸術史において、重要な役割を果たす事となる。
 彼のフィレンチェは、宮殿や修道院のような建物から、彫刻や絵画に莫大な資産を注ぎ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ベノッツォ・ゴッツォーリのような優れた画家の作品は、フィレンチェの誇りとなった。

 コシモは、有権者を少数とした、実質的な独裁政権を確立していたようてある。
一方で外交に力を入れ、慈善事業や公共建築などにも多額の金を使って、彼は25年もの平和を実現させた。

 コシモはメディチ家の経済網を、ヨーロッパ全土に、中近東にまで広め、財をさらに増やす。
彼がジョヴァンニから受け継いだ18万フロリンは、彼の息子ピエロが亡くなり、孫のロレンツォが継ぐ頃には、30万フロリンになっていたとされている。

 ジョヴァンニとコシモにより、メディチ家は、この頃、 ヨーロッパで最も裕福な一族となっていた。
そして、次には大ロレンツォの時代という流れであった。
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