「オーストリアの歴史」ハプスブルク家、神聖ローマ帝国、ウィーンのユダヤ人

オーストリア

ハプスブルク家以前のオーストリア

ドナウ川沿いのフランク王国

 ヨーロッパの川の中でも、ヴォルガ川に次ぐ2番目の長さの「ドナウ川」の流れる広い地域のうちのいくらかに、ローマの文化と、ついでにキリスト教がもたらされたのは1世紀くらいとされる。
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 しかし4世紀後半くらいから、ゲルマン民族やフン民族がドナウ川の地域に次々やってきて、彼らの圧迫もあり、ローマ帝国は5世紀に消滅。

 5世紀後半くらいには、ゲルマン人たちは「フランク王国」を設立。
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王国は、カール大帝(742~814)、あるいはシャルルマーニュ(カール大帝のフランスでの名前)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、後のフランスとイタリアの北部、ドイツの西部、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、スロベニア、そしてオーストリアに相当する地域を支配していた。
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神聖ローマ帝国とバーベンベルク家

 カール大帝は800年に教皇(カトリックの王)からも正式に皇帝としても認められる。
そして、帝国の東の境界として、ドナウ川沿いに辺境領を置いた。

 だが、そのドナウ沿いの辺境領は、9世紀末くらいからマジャール人たちの侵略を受け、消滅の危機にさらされる。

 その後、カール大帝の頃から、すでに強い影響力を持っていたザクセン族でもあるオットー一世(912~973)が、955年の「レヒフェルトの戦い」でマジャール人を打ち破り、辺境領はまた再建された。

 オットーは皇帝の座を継いで、教会の聖職者たちと手を取り合う。
そうして962年頃に、『神聖ローマ帝国』が誕生した。
その支配領域は、現在のドイツに相当する地域のほぼ全てを中核として、その周辺領域にも及ぶというものだった。
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 オットーは976年に、バーベンベルク家のレオポルド一世(940~994)をドナウ沿いの辺境伯に任じる。
それから260年ほど、バーベンベルク家がその地を統治し、その期間に、徐々に政治的な自立が成されていく。
そうして、後のオーストリアという独立性の強い地域がひとつ生まれたわけであった。

オタカルとルドルフ。オーストリアをかけた戦い

 ドイツ語でオーストリアは、「エスターライヒ」、古くは「オスタルリキ」と呼ばれていたようだが、その呼び名が文書に登場するのは10世紀の末頃からだという。

 オーストリアというのは、ラテン語命の『アウストラリア』からきている。

 1156年。
バルバロッサ(赤ひげ)こと、皇帝フリードリヒ一世(1122~1190)が、オーストリアを迫領から、格上である公領へと昇格させる。
その頃のバーベンベルク家の宮廷所在地が『ウィーン』であった。

 ところが1246年に、バーベンベルク家の男子が断絶したために、彼らが支配していた地域の相続をかけて、有力貴族たちが争うこととなった。

 結局、隣国ボヘミアの王であったオタカル二世(1230~1278)がオーストリアを得た。
彼はさらに、1256年に、皇帝家までもが断絶し、「大空位時代」となったのをいいことに、さらに支配権を広げていった。

 このオタカルの台頭を脅威とみなした他の貴族(諸侯)たちは、大空位時代をさっさと終わらすべく、新たな皇帝の選出を決定。
それを選ぶ権利を持った有力諸侯たちは、あえてオタカルを避けて、地位も権力も彼より格下であった『ハプスブルク家』のルドルフ(1218~1291)を選ぶ。
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 そうしてルドルフは1273年に帝国の国王となった。
ただし彼は、教皇による戴冠式たいかんしきを受けれなかったために、皇帝とは名乗らなかったという。

なぜルドルフが選ばれたのか

 ルドルフが選ばれた理由については、「普通に彼が優秀だったから」とか、「当時すでに50歳を超えていた彼を単なる一時的なつなぎ役として選んだ」とか、諸説いろいろある。

 しかし選ばれた理由が何であれ、彼はチャンスを逃すことなく、帝国の威厳や財産の回復、法の整備などによく努めながら、時に「貧乏貴族」とバカにされていたハプスブルク家の領土拡大を図った。

 また、ルドルフの即位に反対するオタカルが敵となった。
ルドルフは裁判で、オタカルを帝国追放へと追い込む。
そして、1278年8月。
ウィーン北東のマルヒフェルトで、往生際の悪いオタカルの軍は、ルドルフの軍に敗れ、オタカル自身もこの世を去ることになった。

 オーストリアはルドルフの直属となり、彼はその地域を息子たちに授封じゅほう叙任じょにん)、つまりは与えた。

 このようにオーストリアはハプスブルク家のものとなり、ヨーロッパの中で、最大の勢力を得るようになるこの一族の支配の、中心地となっていくのである。

オーストリア家と呼ばれたハプスブルク家

 ルドルフが国王に選出された時のハプスブルク家の領土は、後のドイツ、フランス、スイスが国境を接している辺りを中心とした地域であった。
そして、ハプスブルク家がオーストリアを得た流れからも明らかなように、もともとハプスブルク家のルドルフは、オーストリア外の人である。

 しかし、ハプスブルク家も、ルドルフの孫の代には、オーストリアに墓を用意した者もおり、一族とその地の繋がりは急速に高まっていった。

 そこで、いつからか、ハプスブルク家は、『オーストリア家』とも呼ばれるようになっていく。
また、オーストリアの歴史の大半は、ハプスブルクの歴史とも言われている。

オスマン帝国の脅威

 マクシミリアン1世(1459~1519)の時代、彼自身と、子供たちの政略結婚により、ハプスブルクの支配領土は、ネーデルラント、スペイン王国、ハンガリー王国まで取り込む。
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 ハプスブルク家は、 自分たちに統一された、巨大なヨーロッパ帝国という理想まで考えていた、という説もあるが、それが真実にせよ、そうでないにせよ、そんな野望が叶うことはなかった。

 15世紀から17世紀にかけて、東から進出してきたトルコ人たちが率いるオスマン帝国が、ハプスブルクの支配する地域にも、大きな衝撃をもたらしたのである。

 17世紀末には、スペインのハプスブルク家が断絶するなど、領土を大きく失ってしまったが、それはトルコの脅威というプレッシャーの縮小も意味していた。
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哲学王の啓蒙主義的改革

 ハプスブルクの初の女帝となったマリア・テレジア(1717~1780)は保守的であったようだが、そんな彼女と正反対であったのが、息子であり、後を継いだ「哲学王」ヨーゼフ二世(1741~1790)であった。

 彼はまた、有名なマリー・アントワネット(1755~1793)の兄としても知られている。

 理性を重視する「啓蒙主義けいもうしゅぎ」を旨としていたヨーゼフは、母が亡くなるや、自身が理想としていた世界を構築するために、改革を開始する。

 自らを神の関係者などでなく、単に国のために人格を捧げる人間とアピール。
身分にとらわれず、多くの者の話に耳を傾け、皇帝と謁見えっけんする者に義務付けられていた「跪拝きはい(Worship)」、つまり頭を深く下げて膝まずく行為を、「お互い人間であるのに、そんなことするのはおかしい」と禁じた。

 宗教改革の時代にあって、反宗教改革の中心地ともなっていたはずのウィーン。
この地でヨーゼフは、プロテスタントやユダヤを受け入れることを宣言。
カトリック教会の当時の教皇ピウス六世も焦り、1782年にはウィーンに自らやってきて、皇帝に直談判するほどの事態にまで発展する。

 多くの人を受け入れられる大病院や、女子のための教育施設などの設立に、ヨーゼフはとにかく資産をつぎ込み、彼の時代のウィーンは、 ヨーロッパで最も自由な都市だったとも言われる。

 しかしさすがに改革を急ぎすぎていた彼は敵も多く、政治的孤立を余儀なくされていく。
そして彼の死とともに、後から見れば短すぎた、啓蒙主義中心のウィーンは終了した。

ローマ皇帝の王冠

 王にはかんむりがつきものであろう。
15世紀くらいからは神聖ローマ皇帝の座すらも、実質独占することになったハプスブルク家の、歴代の王たちも、当然王冠を被ったとされている。

 神聖ローマ帝国の冠が作られた時期は諸説あるが、オットー一世が戴冠した962年から、11世紀前半、コンラート二世(990~1039)の時代までの間であることは、ほぼ確実とされている。

 帝国の崩壊の時まで使われていたというこの冠は、8枚のプレートを環状かんじょうにつないだ基本設計で、キリストや預言者のイメージなどが彫られている他、十字架やアーチがついている。

 もともと皇帝の冠は、皇帝自身が独自に保管していたようだが、1423年からは、ニュルンベルク市が保管場所と定められて、皇帝その人すら、特別な儀式の時など以外に被る機会がなくなってしまう。
そこで普段の機会に使う、個人用冠が別に制作されるというのが基本になった。

 個人用冠は、代ごとに作り変えられ、さらに歴代のものはそれほど大事にされてきたわけではないようで、ほとんどが失われていった。
しかし、1602年に完成されたとされるドルフ2世の冠は、後の世に残り、ハプスブルクの王冠として受け継がれることになり、オーストリア帝国の象徴にまでなった。

 そしてルドルフの王冠の、象徴としての役割は、第1次世界大戦の頃に、ハプスブルク帝国が崩壊し、オーストリア共和国が誕生した時にまで続くことになる。

ウィーンのユダヤ人、貧しいユダヤ人

 精神科医のジークムント・フロイト(1856~1939)、音楽家のグスタフ・マーラー(1860~1911)、医師で創作作家のアルトゥル・シュニッツラー(1862~1931)など、十九世紀のウィーンで、偉人と称えられた多くの者がユダヤ系であった。

 ただし、「ウィーンのユダヤ人」と尊敬されたのは、一部の成功者たちのみ。

 ユダヤ人は、ヨーロッパの歴史の中で、差別によく苦しまされてきた。

 1670年には、当時の神聖ローマ皇帝レオポルド一世(1640~1705)が、ゲットー(ユダヤ人地区)を排除し、ユダヤ人を都市から追い出した。
しかし、商業的に成功し、国家経済に 影響を与えるほどのエリートの者は、 ユダヤ人であっても、税金(寛容税かんようぜい)を払うことで、ウィーンでもどこでも住むことができた。

 そして、19世紀に活躍したウィーンのユダヤ人は、ほとんど例外なく、その特別エリートのユダヤの家系であった。

 妙なもので、1848年以降。
移動制限の撤廃てっぱいをきっかけに、成功を夢見て都市になだれ込んできたユダヤ人たちを最も激しく差別したのは、上層社会にそれなりの立場を得ていたエリートユダヤたちだったとも考えられている。

 貧しいユダヤ人の多くは、風呂敷を背負った古着回収業者となって、露店でそれらを売って生活費を稼いだ。
彼らは『ハンドレー(handlé)』と呼ばれていたが、「ハンドレーがやってきて連れ去っちまうよ」と子供を脅すのに使われるくらいに、悪く思われていたとされる。

 そういう悪い印象をもたれていたユダヤ人たちの悪評が、もうすっかりユダヤの伝統などから離れていたエリートユダヤ人たちの反感を呼んだのは、当然といえば当然かもしれない。
彼らからしてみれば、これまで自分たちの努力で築いてきた立場を、一気にダメにされる可能性があったわけなのだから。

 1895年にウィーン市長となり、反ユダヤ主義を掲げたカール・ルエーガーは、以下のように述べたという。
「誰がユダヤ人かは私が決めることだ」

 そして半ユダヤ主義者の中でも、最大の恐ろしさの男、アドルフ・ヒトラー(1889~1945)は、1907年から1913年までの期間、この都市で画家を志していたのである。

ドイツ帝国をこえて

 第一次世界対戦の敗戦と、その末期のオーストリア革命により、ハプスブルク帝国の時代は完全に終わった。

 1938年3月に、その頃にはドイツの首相となっていたヒトラーは、オーストリアをドイツ帝国に編入させることを高らかに宣言する。

 そして第二次世界対戦。
ヒトラーの敗北をこえて、オーストリアは1955年に改めて独立することになったのだった。

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