「ドイツの成立過程」フランク王国、神聖ローマ帝国、叙任権闘争。文明開化

ドイツ

ゲルマン民族とは何か

 ドイツ人はゲルマン系、あるいはチュートン民族と呼ばれる。
英語ではドイツの事を、ゲルマンの英語読みで、ジャーマニーという。

 ゲルマン民族とは、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる人達の一民族。
紀元前5世紀くらいに、スウェーデン南部、デンマーク半島、北ドイツに定住しはじめたと考えられている。
その後のゲルマンは、北ゲルマン(デーン人、ノルマン人)、西ゲルマン(アングル人、サクソン人、アラマン人、フランク人)、東ゲルマン(東ゴート人、西ゴート人、ヴァンダル人、ブルグント人)に分かれてったという。

フランク王国。ドイツ王国

カロリング朝。ドイツ以前

 『フランク王国』は、5世紀後半にゲルマン系部族のフランク人によって建てられた王国である。
 特に『カロリング朝』と言われる、カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)。
フランク王国は、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア、スロベニアなどに相当する、ヨーロッパの大部分を支配下においていた。

 このカロリング王国時代には、まだドイツ民族という概念は成立していなかったとされる。
ドイツの地には、ザクセン族、アレマンネン族、バイエルン族、ランゴバルド族などが定住していた。

ハインリッヒ一世の新王国

 ドイツという言葉がいかにして登場したかという問題に関しては、古くから言語学者、歴史学者達の間で議論が絶えないという。

 ただ、どうやら10世紀くらいに、カロリング王国が崩壊した後、その東半分ほどに住んでいた、共通言語の浸透していた人達が、ドイツ人と呼ばれたらしい。

 オットー(1112~1158)という聖職者が残している記録によると、カールの血筋が途絶え、ザクセン族のハインリッヒ一世が919年に新たな国王となり、ドイツ王国は誕生したのだという。
当時のドイツ王国は、バイエルン、シュヴァーベン、ザクセン、チューリンゲン、フリースラント、ロートリンゲンの地域を合わせた領域で、実質的に、フランク王国の一部であったという。

ザクセンのハインリッヒとオットー

 911年に、フランクの血筋の東フランク王ルートヴィッヒが死亡。
そのまま西フランクとの合併の可能性もあっが、東フランクの大公達はそれをよしとせず、すぐにコンラート公を王として選出。
そのコンラートも918年に世を去り、続いて新たに王となったのが、ザクセン公ハインリッヒだった。
 彼は自らフランク王と名乗りはしたがらフランク族でも、カロリングの血筋でもなかった。

 ザクセン族は、統治の過程で、カール大帝が苦戦させられた部族であり、強い影響力があった。
ハインリッヒは、ザクセン族とフランク族により選ばれた王だったのだが、936年に、息子のオットー一世が王位を継ぐ頃には、バイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲンの3部族も、既に従えていたという。

 ハインリッヒとオットーの父子が勢力を広めた背景には、9世紀頃からの、ノルマン人やマジャール族という人達の侵略があったとされる。
カロリング王達が、それらの侵略者に対処しきれず、弱体化を余儀なくされたのに対し、ハインリッヒとオットーは親子二代の戦いで、マジャール族を打ち破ったのだ。

神聖ローマ帝国の誕生

 オットーはさらに、自立性の強い複数部族を従える為に、教会と手を結ぶ事にする。
十字架 「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
 行政の重要な役割を聖職者に任せる彼のやり方は、『帝国教会制度』と呼ばれ、それなりに上手くいったという。

 962年。
オットーは教皇ヨハンネス十二世により、ローマで戴冠。
そうして『神聖ローマ帝国』が誕生したのであった。

 オットーは973年に死亡。
オットー二世も983年に、28歳の若さで亡くなってしまったので、オットー三世が王位を継いだのはわずか3歳での事だった。
彼が王位を守れたのは、母テオファーヌと、大司教ギリギスによる所が大きいという。
 そのオットー三世も1002年に死に、次のハインリッヒ二世が1024年に亡くなって、ザクセンの時代は終わりを告げた。

叙任権闘争

 叙任(じょにん。Investiture)とは、位階を授与し、官職に任ずることである。

グレゴリウス七世。ハインリッヒ四世

 中世ヨーロッパにおいて教会は、強い特権を有していた。
教会の財産や所有地に、俗人が介入する事は許されず、国の法に縛られもせず、税も免除された。

 しかし、実際には、そんな特権など無視される事も、教会や聖職者が暴力にさらされる事もあったようである。

 11世紀。
ドイツ国王は、首都を設定せず、常に数千人ほどの部下を従えて、国内を巡回していた。
その際に、国王は司教区や修道院に宿泊。
良好な待遇を用意してもらう見返りに、聖職者達の特権の庇護者のようになっていたのだという。

 ところが教皇グレゴリウス七世が1074年から1075年にかけて、俗人による聖職叙任を禁じる勅書を発布。
しかし、当時のドイツ王ハインリッヒ四世は、これを無視。
ドイツやイタリアにて、司教の叙任を続けた為に、グレゴリウスは、ハインリッヒを破門にし、皇帝の座の廃位も言い渡す。

 これが世に言う『叙任権闘争(Investiture controversy)』の始まりであった。

カノッサの屈辱

 教皇側は、司教の叙任権は、俗人のものではない。
いくら偉かろうが、国王も俗人なのだから、当然叙任権はない。
という風に主張。

 一方、ドイツでは、伝統的に国王は俗人でなく、神にも近しい、聖なる職位と考えられていた。
だから、国王も俗人だという、教皇の主張自体が、とてつもなくひどい侮辱だったのである。

 しかし強気なだけではお偉い教会に勝てはしなかった。
ドイツ貴族達は、破門が撤回されない限り、ハインリッヒ四世は王でないと評決。
 そこで1077年1月24日。
ハインリッヒは、妻と、二歳の子コンラートと共に、北イタリアのカノッサに滞在していたグレゴリウスに会いに行く。
そして雪の中で、王は自らひざまずき、破門の撤回を嘆願した。
そうしてようやく、教皇は破門を撤回してくれたのだった。

 このハインリッヒの嘆願は、『カノッサの屈辱』と言われている。

その後の顛末。クレメンス三世。ウルバヌス二世

 1080年に、ハインリッヒ四世は司教会議を収集。
グレゴリウスを廃位し、ラヴェンナの司教ギベルトゥスを教皇に任命。
彼はクレメンス三世を名乗った。
 しかし彼は、1085年に死んだグレゴリウスの跡を継ぐウルバヌス二世により失脚させられ、教皇を自分の息のかかった者にしようとしたハインリッヒの計画は失敗となった。

 ここまでが、叙任権闘争と言えるとして、勝者は教皇だったとする見方が一般的である。

 また、叙任権問題に完全に決着をつけたのは、ハインリッヒ五世であった。
彼は1110年にローマで、教皇とそれぞれの権利について話し合い、いくつかの権利を王側に返還させる事に成功したのだという。

眠れるバルバロッサ王

 ハインリッヒ五世は子を残さなかったので、彼が1125年に死んだ後は、選挙が行われ、ザクセン大公ロタールが新たな王となった。
そのロタールも後継者なしで、1137年に死亡。
ロタールのさらに次が、シュヴァーベン公コンラート三世で、さらに彼の後が、シュタウフェン家のフリードリッヒ一世であった。 

 赤髭王(バルバロッサ。Barbarossa)と呼ばれたフリードリッヒ一世は、有名な十字軍遠征にも参加した勇猛果敢な皇帝だったという。
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結局彼は、小アジア南東部キリキアのサレフ河にて溺死したらしいが、この豪快な王がそう簡単に死んだ事実はなかなか受け入れられず、やがて復活するとかいう『眠れるバルバロッサ王』なんて伝説が生まれたのだという。

ハプスブルク家の登場

 1273年。
後にヨーロッパ全土に影響を及ぼしていく事となる、ハプスブルク家のルドルフ一世が、ドイツの新たな王となった。
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 このハプスブルク家の、勢力拡大に恐れをなした諸侯らはルドルフの息子アルブレヒトでなく、小国のアドルフ・フォン・ナッサウを国王に選出。
しかし結局アドルフはすぐ廃位され、アルブレヒト一世は王となった。
 そして1308年。
アルブレヒトが暗殺されると、次にはルクセンブルク家のハインリッヒ七世が選出。

 ドイツは、ハプスブルク陣営と、ルクセンブルク陣営に、二分した状態となった。

 そんな状況であった14世紀半ばくらい。
ルクセンブルクのカール四世の時代に、ヨーロッパ中でペストが大流行。
ドイツ人口も、1/3ほどにまで減少してしまう。

印刷技術と宗教改革

 十五世紀から十六世紀。
あまり記録が残っておらず、謎の多いグーテンベルクという人が、生み出したとされる『印刷技術』は、ドイツのみならず、ヨーロッパ中に大きな影響をもたらした。

 また、聖書をドイツ語に訳すなど、ルターの宗教改革の信念も、民衆文化のあらゆる領域に影響を与えたという。
特にキリスト教の新しい息吹は、音楽の世界の薙がれにも影響を与え、神へ捧げる様々な音楽。
果ては、バッハにまで繋がっていったのだとされる。

ゲーテの時代

 十八世紀のドイツは、もう実質的に帝国ではなくなっていたとされる。
国王(皇帝)も帝国議会も残ってはいたが、全然機能せず、ドイツは連邦と決めつけて問題ない状態だった。

 この時代は、多くの作品を残した、大作家ゲーテの時代とも言われている。
文学に親しむ人が増えた時代であったのは確かなようである。

 ゲーテは述べている。
「ドイツ人よ、国民になろうなんて望むだけ無駄だ。その代わりにより自由になればいい。それなら出来るだろう」
 市民の自由は政府に与えられるものでない。
芸術や、心のなかにそれはある。

 結局のところ、やがて市民は、現実にも自由を求めるようになり、1789年のフランス革命に始まる、ヨーロッパの革命祭りが開幕したのだった。

ナポレオンの時代を超えて

 十九世紀になって間もなく。
フランスのナポレオンの支配下に入ったドイツ。
その時、それまでは各地域で別々であった者達に、ようやくドイツ国民という自覚が芽生えたのだとされる。

 そして抵抗運動があちこちで始まり、やがてナポレオンが失脚した後の1815年6月8日。
1866年まで続くドイツ連邦が、正式に成立したのだった。

 さらにこのドイツ連邦を母体として1871年にドイツ帝国。
二度の世界対戦の敗北の後には、西ドイツと呼ばれたドイツ連邦共和国が成立。
そして1990年のベルリンの壁の破壊で、東ドイツを取り込み、ドイツは現在のドイツの形となった。

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