「アステカ文明」帝国の首都、生贄文化、建国神話、社会の階層

アステカ

スペイン人たちの征服

「高原の湖に浮かび、ピラミッド神殿や、宮殿や、市場広場が備わっている。
身の毛もよだつような生け贄を必要とする事もある、派手な宗教の儀式。
何より、美しく、壮大な都市」

 十六世紀にアステカ帝国を征服したエルナン・コルテス(Hernán Cortés。1485~1547)その人は、アステカの首都『テノチティトラン』をそのように記録している。
この名はテトル(岩)、ノチトリ(サボテン)トラン(場所)の組み合わせらしい。

 1517年。
エルナンデス・デ・コルドバ(Francisco Hernández de Córdoba。~1517)が、ユカタン半島にたどり着く。
間もなくスペインの探検隊は、カトーチェ、カンペチェ、チャンポトンなどの地域で、石造りの建物に住まう先住民たちの都市を発見。

 1518年
フアン・デ・グリハルバ((Juan de Grijalva。1489~1527)率いるスペイン人たちは、コルドバのルートをたどり、そのさらに先の海岸へと船を進めた。
より大きな都市や、黄金の噂に触発されての事だった。

 やがてスペイン人は、先住民たちの話す、『クルワ』や『メシカ』という単語を聞く。
さらに、スペイン人たちは、とある川で、旗を振り、船を招いてきた先住民の一団と出会う。

 木綿のケープに、色鮮やかな鳥の羽や、黄金の装身具で着飾った先住民たち。
彼らは鶏肉や果物やトルティーリャ(砕いたトウモロコシの料理)などで、スペイン人たちをもてなしてくれたとされるが、なぜ歓迎されたのかはわからなかった。

 後に、コルテスは知った。
グリハルバたちをもてなしてくれたのは、アステカから派遣されてきた使節団であり、彼らは、コルドバ以来、次々やって来るという不思議な船と人々の調査を兼ねて来ていたのだ。

 ただ言葉は通じなくとも、スペイン人たちは、さらに裕福な何らかの文明が、内陸部に存在するのだろうと確信。

 そうして、コルテスが未知の王国を求めキューバを出発したのは1519年だった。
激しい戦闘を繰り返した末に、スペイン人たちは1921年にテノチティトランを没落させ、この地を征服した。
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伝えられるテノチティトランのアステカ王たち

(1375~1395)アカマピチトリ。
(1396~1417)ウィツィリウィトル。
(1417~1426)チマルポポカ。
(1427~1440)イツコアトル。
(1440~1469)モテクソマ一世。
(1469~1481)アシャヤカトル。
(1481~1486)ティソック。
(1486~1502)アウィソトル。
(1502~1520)モテクソマ二世。
(1520)クイトラワク。
(1520~1525)クアウテモク。

テオティワカンとトルテカ

 アステカ人というのは、すでに遠方からきた侵略者たちだったという。
ただし西洋風の世界を築こうと、植民地文化を破壊したヨーロッパ人と違い、彼らは自分たちの帝国に、先人の文化を大いに取り入れた。

 特にアステカに強い影響を与えた文化が、1~8世紀のテオティワカンと、10~12世紀くらいのトルテカ(特にその首都トゥーラ)。

テオティワカン。死者の大通り。月と太陽のピラミッド

 テオティワカンは周辺の地域の者たちと共同体を成していた都市国家で、アステカ人が知っていたテオティワカンは、今日の我々と同様に、その共同体の中心都市であったはずのテオティワカンであった。

 市の端から端に続く『行列の道』、あるいは『死者の大通り』に接する巨大な『太陽のピラミッド』。
北にある『月のピラミッド』。
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放棄されていた、それらに名を与えたのはアステカ人である。
 
 昔、まだ真っ暗闇だった世界で、神々の評議会が開かれた。
そこでふたりの神が、自らを生け贄として、炎に包み、月と太陽となった。
そうして世界に光が射し、時の運行も始まった。

 だからテオティワカン(神々の都市)は、時の始まりの地であり、月と太陽となった神を供養する為のピラミッドが建っているわけである。
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伝説的なトゥーラの支配者ケツァルコアトル

 トルテカ人の記録は少し伝説的すぎる感があるともされる。
大都市トリャン(トゥーラ)に宮廷を置いたとされる彼らは、かつてメキシコのかなり広い地域を支配していたらしい。

 このトゥーラの人たち、あるいは彼らの伝説的な支配者ケツァルコアトルを崇拝していたのは、どうもアステカ人だけではなかったらしい。
多くの民族が、自分たちこそが偉大なるトゥーラの末裔であると名乗っていたのである。
アステカ人も例にもれず、自分たちは『トルテカヨトル(トルテカの心を持つ者)』と名乗ったのだ。

メシカ人

アストラン

 メシカ族は13世紀くらいから増えだした、新たにメキシコの地に定住した、遊牧民族のひとつだったろうとされる。
彼らは、土地の他部族たちと、婚姻同盟を結ぶと、あちこちに伝わる物語を組み合わせ、自分たちの神話を形成した。
だからアステカ神話や伝承は、ほぼ、以前からあった物語である。

 メシカの祖先は、原初の時代に、洞窟か、あるいは泉にて誕生した。
これはよくあるパターンらしい。
万物の母は大地であり、スペイン人到来以前の、メキシコのどんな部族の神話でも、人は大地から出現したとされているのだという。
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 メシカ人が、故郷であった北の沼の島から、新天地を求め発ったのは、12世紀くらいの事のようである。
彼らの故郷の名は『アストラン』だったとされ、後のアステカという呼び名の由来となったのだという。
また、この名から、その起源を有名な伝説に繋げたがる者も多い。
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 最もアステカという名は、十八世紀くらいから使われ始めた名称であり、彼ら自身は、自分たちの事をメシカと名乗っていたとされる。

ウィツィロポチトリと不吉な予言

 おそらく1440年代に、当時の王モテクソマ一世は、アストラン探しを初めているという。
すでにその時代のアステカ人たちにとって、故郷アストランは伝説的な地であったのだ。

 モテクソマ一世は、祭司や呪術師を含む60人ほどの探索隊を派遣。
やがて彼らは、祖先神であるウィツィロポチトリの生誕地らしい場所にたどり着いたという。
しかしウィツィロポチトリは一計を案じ、魔法で、彼らを鳥や、翼を有する獣に変えてしまった。
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 それから彼らが、そのまま飛んでアストランに着くと、彼らは人間の姿に戻り、『カヌーを漕ぐ同胞たち』から歓迎された。
その後、いくつかの試練をこえた彼らに案内役の者が、テノチティトランの者たちは軟弱だと叱りつける。
最後に、探索隊は、ウィツィロポチトリの年老いた母に出会うが、彼女は不吉な予言を告げた。
「あなたたちが、メシカの地を征服しテノチティトランを築いたように、いつかあなた方も、征服されるであろう」と。

放浪するアステカ人たち

 ウィツィロポチトリは、おそらく遊牧民暮らしをしていた頃のアステカ人たちの優れた指導者であった。
アストラン探索の伝説にいくらかでも真実があるならば、おそらく彼が誕生したのはアストランではないから、新天地を最初に求めた人物ではないと思われる。

 アステカ人たちは高原や山地をこえて旅を続け、時々気に入った場所を見つけては、何年か、時には10年、20年と滞在したという。
長く暮らした場所には、神殿や球技場まで築いたりしたとされる。

 やがてウィツィロポチトリもついに死したが、彼は呪術師の口を借りて、仲間たちを導いたという。

三国同盟。テノチティトラン、テスココ、トラコパン

 アステカ人がテノチティトランを築いたメキシコ中央高原は、テスココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパン、トラコパンなどの都市が密集する地域であった。

 やがてテパネカ人のアスカポツァルコが勢力を増し、周辺地域を支配し始める。
テノチティトランも属国のひとつになったが、アスカポツァルコの支配は長くは続かなかった。

 その内に、テノチティトラン、テスココ、トラコパンの三国同盟が、アスカポツァルコに反旗を翻し、崩壊させる。
この三国同盟が支配した全地域の総称が『アステカ帝国』なのである。

アステカの子供たち。学校制度

 アステカでは、子のしつけや教育に関して、両親には大きな責任が伴うと考えられていた。
子は年長者を敬うように教えられ、神々への感謝の気持ちをうえつけられた。

 アステカでは個人より団体の発展が重視され、中国や日本の伝統的文化に近かったようである。

 優れた天文学的知識や数学を有していたというアステカには、学校制度があり、しかるべき年齢になった子は誰でも通ったという。
学校は男女別が基本で、男子は軍事教育中心、女子は宗教祭儀教育中心だった。

 また、『テルポチカリ』ていう一般校と、『カルメカク』というエリート校があり、カルメカクはひとつの都市に、男子校、女子校がそれぞれひとつずつだけだったという。
貴族などが通うカルメカクは、宗教、軍事はもちろん、政治についても詳しく学び、テルポチカリに比べると、厳しい決まり事などが多かった。

大市場とスパイ

 アステカの市場は、魅力的で、人々が集まる場だった。
そして同時に情報交換所としても機能していた。

 アステカの女たちは、市場で、暇を見つけては、さまざまな噂やゴシップを語ったとされる。

 特に、「近く反乱が起きる」とか「隣国から攻撃が近い」とか言った、国家的にも、かなり重要度の高い情報も普通に飛び交っていたという。

 そこで、『ナワロストメカ(商人のふりをする者)』という、商人を装ったスパイもいた。
これは、おそらく日本の忍者のような、諜報員だったのだろう。
手裏剣 「忍者」技能と道具、いかにして影の者たちは現れたか?
このナワロストメカは、怪しまれない格好などに変装し、敵地に潜入したりもしていたようであるから。

四人評議会のアステカ軍

 アステカ軍は、司令官的な4人の貴族からなる、特別な評議会に統率されていた。
4人の貴族の役職名は、トラコチカルカトル、トラッカテカトル、エツワンワンコ、ティリャンカルキ。
それらの役職につくのは、たいていトラトアニ(王)の親戚であったという。

 特にトラッカテカトルは、王の後継者とされていた。

 評議会に次ぐ高位の戦士たちには、平民出身の者もいた。
この地位までなら、生まれに関係なく、出世する事が出来たのである。

 最もランクの高い軍団は、『オトンティン』と『クアウチケ』のふたつ。
戦士たちは階級に応じて、『鷲の戦士』とか『ジャガーの戦士』と呼ばれていた。

 ただ、アステカには常備軍はなく、必要に応じて、軍人たちは収集されたという。

生贄

 神話の時点で、すでに神が自らを生贄にしてしまうなど、アステカ文明には、生贄を捧げる文化が存在していた。
戦闘においても、敵を殺すよりも、生贄にする捕虜を捕らえた者の功績が大きかったくらいだという。

 生贄文化に関しては、スペイン人たちが、自分たちの征服を正当なものとするための創作だとする説もかつてはあったようである。
しかしそれこそ、アステカ帝国を理想化する者たちの創作だったろうと、今ではされている。
アステカというより、この地域に古くから生贄を神に捧げる習慣があったのはかなり確からしい。

 人間の生贄が本当にあったかどうかの議論は、南のインカ帝国の方が盛んか。
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 生贄というのは特に豊穣と結びついていたようである。
この地の人々は流れる血を、恵みの雨と関連付けていたのだ。

 しかしスペインからの征服者たちは、生贄の儀式にゾッとしたというが、彼らだって、悪魔の使いが世界に災いをもたらそうとしている、とかいう理屈で、適当な人たちを恐ろしい目にあわせてたりもしている。
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 現在でも、神様が現れ、「年に百人生贄にならないと世界が崩壊する」と言われたらどうか。
昔の彼らは、地震や伝染病の原因なんて知らなかったのだという事も考慮する必要もある。

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