愛人ルクレツィア。婚約者クラリーチェ
ロレンツォ・デ・メディチ(1449〜1492)は、メディチ家をヨーロッパで一番くらいに裕福にしたとも言われるジョヴァンニ・デ・メディチの孫にあたる。
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19歳になった時、ロレンツォには、ルクレツィアという愛人がいた。
彼女は、フィレンチェの名家ドナーティ家の令嬢であったが、二人の関係は望まれていたものではなかったという。
そして、ロレンツォの母である、ドミナ・ルクレツィアが選んだ、息子の結婚相手は、ローマのヤコボ・オルシーニの令嬢クラリーチェだった。
メディチ家としては、ローマの名門であるオルシーニ家と繋がる事は、法王庁に接近する機会でもあり、重要であったそうである。
1468年12月。
ロレンツォは、正式に婚約者となったクラリーチェとは会った事もなかった。
しかし、恋は時に作為的なもの。
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最初は無関心であったロレンツォも、だんだんとクラリーチェに対して愛情を向けるようになっていった。
ロレンツォとクラリーチェの結婚式は、 婚約から半年後の1469年6月4日。
そしてそれからさらに半年後の12月3日に、ロレンツォの父、ピエロ・デ・メディチは亡くなり、ロレンツォは若くして、メディチの当主となった。
サンタントーニオ修道院での秘密会議
遺言のために簡略に行われた、ピエロの葬式の日の深夜。
フィレンチェの行政委員会(シニョーリア)、すなわち権力を握る者達は、サンタントーニオ修道院に、密かに集結。
国家元首であったピエロの後釜を決めるための緊急秘密会議が行われた。
トマソ・デ・ソデリーニの演説
この会議自体を提案したのは、リドルフォ・デ・パンドルフィと、トマソ・デ・ソデリーニであった。
ソデリーニ家は、フィレンチェでも特に有名だった名門で、トマソの伯父の、フランチェスコは、コシモ・デ・メディチの政敵であった。
さらに、フランチェスコの弟ニッコロは、コシモの子ピエロの暗殺すら企てた事があった(結局失敗して、彼は1455年に追放された)。
だが、聡明なトマソは、ピエロの生前、彼の側に立ち、またピエロも彼を信頼し、二人の息子ロレンツォとジュリアーノを指導してもらったりしていた。
トマソが、演壇に立つと、拍手が起こる。
彼はストレートに、まだ若くして亡くなったピエロを讃え、悼んだ。
そしてフィレンツェやイタリア、市民達の一致と平和のためにも、現状維持の重要性を説いたという。
彼にとっては、フィレンチェが第一。
トマソ・ソデリーニは、メディチ家の者が、偉大な前世代の権力を受け継ぐべきである、と熱心に語った。
トマソの実質的な辞退を惜しむ声も多かったが、彼は頑なだった。
ジャノッツォ・デ・ビッティや、ドメニコ・デ・マルテッリと言った反メディチの者達も、最終的には、トマソが、若きロレンツォとジュリアーノの相談役になる、という事を受けて、妥協した。
彼らは、トマソが実質的な支配者になる事を望んでいた訳である。
そうして、いろいろ思惑はあったが、結局ピエロ亡き後のフィレンチェの主権は、未亡人ドミナ・ルクレツィアと、二人の息子が継ぐ事になったのだった。
エル・マニフィーコの兄と、弟ジュリアーノ
実のところ、多くの人がロレンツォに期待していた。
詩人として知られ、様々な学問や哲学に造詣が深く、政治に関しても、父ピエロは彼の意見を尊重していたほどであった。
さらには、すでにフィレンチェ大使として、ローマ、ベネツィア、
ナポリに赴いた経験があり、特にトスカーナによく親しんでいた。
やがて彼は、『エル・マニフィーコ(偉大な人)』と称されるようにもなる。
一方で、四つ下の弟ジュリアーノは、兄よりも容姿に優れていたが、やはり兄ほどの才を持ちえてはいなかったと評されたりもする。
彼は、重要な役割からはある程度の距離を置いた。
政治にも、一族の繁栄にもあまり関わる事なく、ひたすらに芸術や、可愛い女の子を好んだとされる。
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そもそも長男であるし、ロレンツォの元首就任は当然の流れであった。
メディチ家のやり方。芸術人ロレンツォ
ロレンツォの政治的手腕は見事なものだったとされる。
彼は、名家の多くを、敵にはせずに、味方としてメディチに取り込んだ。
大勢を支配し、全てを支配するやり方はメディチのお家芸であり、ロレンツォはまさしく、偉大な先祖達の方法を受け継いでいた。
しかし、元首として、内政や外交を行い、メディチ家のためにも労力を使いながら、ロレンツォはしかし、本質的には弟と同じように、自由人でもあった。
彼は、ページェント(野外で行われる劇)や、ラ・ジオストラ(騎馬槍試合)などで、よく市民達を楽しませたという。
また芸術を愛し、ミケランジェロやダ・ヴィンチなどのパトロンになったとも言われる。
法王シスト四世
1471年。
フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が、法王シスト四世となった。
ロレンツォは、新法王への慶賀(めでたい事を祝う事)のために、ドメニコ・デ・マルテッリ、アニョロ・デッラ・ストゥファ、ボンジャニオ・デ・ジャンフィアリッツィ、ドナート・アッチャイウオリといったフィレンチェの誇る最高の有力者達と共に、ローマに赴いた。
莫大な贈り物を用意していた彼らを、シスト四世は歓迎した。
ロレンツォは、弟ジュリアーノを枢機卿にしてくれるよう、法王に頼んだ。
彼の狙いは、まさしくそれであり、それは、母ドミナ・ルクレツィアの望みでもあった。
結局、申し出は退けられたが、ロレンツォは、ローマ在住の伯父ジョヴァンニ・デ・トルナブォーニの仲介で、法王の財政管理を、メディチ銀行に任せてもらえる特権を得る事に成功する。
こうして、メディチ銀行は、「法王の銀行」として宣伝が出来るようになった。
ローマの美術品。法王の金
ロレンツォは、ローマ滞在中に様々な骨董品や美術品を買い集めた。
聖職売買で 悪名高く、とにかく金が第一の法王であったともされるシスト四世は、芸術などに全く興味はなかったが、ロレンツォの関心を得ようと、話は合わせた。
また、商売魂も見せて、部下の枢機卿達を通し、多くの美術品を、高値で売りつけたりもした。
ロレンツォはローマを去る時、 古代の様々な遺物をなるべく破壊しないように、法王に嘆願した。
芸術を愛するロレンツォは、おそらく、シスト四世という人が、金儲けのためなら、貴重な古代の建造物などためらいもせずに破壊して、住宅を建てたりするだろう事を知っていて、恐れていたのである。
誰であろうとも、俺の喉を足で踏みつけられる奴なんていない
ロレンツォが政治家としてどれだけ有能であったとしても、パーティーやページェントを好む彼の趣向は、幾人かの不信感を高める結果にもなった。
ようするに、彼は権力を私的に利用しているのではないか、というふうに考える人が増えていった。
だがロレンツォはいつも余裕を持っていた。
「誰であろうとも、俺の喉を足で踏みつけられる奴なんていない」
彼は批判してくる相手に対して、自信満々にそう返したとされている。
パッツィ家の陰謀の始まり
パッツィ家は、もともとメディチ家と敵対していて、ロレンツォは 権力を持つや、すぐにパッツィ家の人達を公職から追放した。
以降も、ロレンツォのパッツィ家に対する扱いは、ジュリアーノがやりすぎでないかと、心配するほどであったようである。
フランチェスコ・パッツィは、そういう訳で、ロレンツォに対しても、メディチに たいしたも 強い憎しみを抱いていた。
フランチェスコ自身は、明るい色の髪と化粧で薄汚れた顔を隠し、すれ違う他人に対して皮肉を浴びせるのが得意な、ちょっとした変人だったようだ。
1466年頃。
フランチェスコは、メディチ家への攻撃として、シスト四世に近づき、強欲なこの法王の財政管理の権利を、メディチ銀行から、パッツィ銀行に移す事に成功する。
それは、法王のフィレンチェへの明確な挑発行為でもあった。
暗殺計画の失敗
それからフランチェスコ・パッツィは、仲間を集め、ロレンツォとジュリアーノの暗殺計画を立てる。
だが、ジュリアーノに対しては、成功したものの、肝心のロレンツォへの暗殺は失敗。
フランチェスコ・パッツィはもちろん、多くの暗殺者達が、捕まり処刑された。
ロレンツォも傷を負ったし、喉を足で踏みつけられてしまったとは言えるだろうが、最終的には勝利に終わった。
この暗殺計画の失敗は、結果的にはロレンツォの支持を高め、彼の人気をさらに上げる事になったのである。
原因不明の死。最後の食事
1492年。
ロレンツォは、全身に原因不明の苦痛を感じ、死が迫っている事を察した。
そしてついにその時が来ると、彼は最後の食事を食べて言った。
「これから死ぬ人間にしては美味しかったと思う」
同時代のベネデットー・ディは、「イタリアから光輪が消えた」と書いた。
マキャヴェッリは、「フィレンチェ史」にて、「イタリアの全歴史を通じて、彼ほど祖国に惜しまれて死んだ人はいない」と評価した。