アイルランドがイギリスの植民地として支配された経緯「中世のアイレ」

中世アイルランド

最初のアイルランド上王。ドール・カイスのブライアン・ボルー

 かつて、ギリシア人にエリウ、ローマ人にヒルベニアと呼ばれたアイルランドに、ケルト人が定住したのは、紀元前6世紀ぐらいの事。
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 それからずいぶん時間も経った10世紀の後半。
マンスターのクレアに新たな勢力が台頭した。

 ドール・カイスという国の指導者マガメインが周辺地域を次々に征服。
マガメインは976年に戦死したが、後を継いだ、弟のブライアン・ボルー(941〜1014)が、980年くらいまでにマンスターの全域を支配。

 一方、同じくらいの時期に、オニールにて台頭したモール・セックネール二世が、980年にダブリンにいたヴァイキングに大打撃を与え、981年には、その地を占領。
 ヴァイキングは、以降はただただ、弱体化するばかりで、諸侯の勢力争いにおける、従属的な役割しか果たせなくなっていく。

モール・セックネールの臣従。アイルランドの統一

 ブライアン・ボルーは、 どんどん勢力を拡大しついには、アイルランドの南部一帯の統一に成功。
更に勢いづいて、全国統一すら目指していた。

 モール・セックネールも、名門オニールの代表者として、数多くの戦いに勝利したが、結局、ボルーに対しては、戦わずして臣従しんじゅうを誓う。

 こうして、ボルーは、史上初のアイルランド統一を成し遂げたとして、自分こそが、全アイルランドを代表する、「上王(ハイ・キング)」と名乗った。

 ボルーがアイルランド王として君臨した期間は、1002年から1014年までの12年間。
ただし実際には、彼に従わない勢力や、抵抗を続ける者達もけっこう残っていたとされる。
 ボルー自身も、最大の敵であったレンスター王との戦いで重症を負い、それが原因で亡くなってしまう。

 ボルーの死後は、彼の王朝は弱体化し、後を継いで上王となったのはモール・セックネールだった。

イギリスの植民地へ

イギリス王ヘンリー二世

 王は広大な土地を所有し、自らに従う貴族達には土地を貸し与えた。
そして土地を得た貴族達は、その見返りに、王に忠義を誓い、戦いでは武勇を競い合った。

 12世紀には、諸侯の覇権争いがまた激しくなった。
特に、マンスター王アハータ・オブライエン、オニール王ムアハータ・マクロクリン、コノート王ターロック・オコナーなどが有力な勢力を率いていた。
 ターロック・オコナーは、1131年にはマンスターを攻略し、その勢いのまま、アイルランド全域に大部隊を展開しようとしたが、叶わず1156年に死亡。
 続いてマクロクリンが覇権を握ったが、彼はダブリンを侵略した時に、市民の予想外の抵抗にあい失敗。
1166年には、彼も死に、彼と組んでいたレンスター王ダーモット・マクマローは、イギリス王ヘンリー二世に助けを求めた。
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 これがきっかけとなり、アイルランドに他民族の支配の手が広がる事になっていったのだった。

ウィンザー条約

 12世紀の後半には、アイルランドは、すっかりイングランドの植民地となってしまった。
 それが決定的になったのは1175年10月の『ウィンザー条約』とされる。
それは、当時のアイルランド上王ローリー・オコナーが、コノート地方の支配権と引き換えに、イギリス王の、アイルランドへの宗主権そうしゅけん(他国の内政や外交を管理する権利)を確認した条約であった。
 ようするに、イギリス王が、アイルランドの王のさらに上に位置する存在である事を認めるに等しい事。

ストロングボウ、リチャード・ド・クレア

 当時のイングランドは、フランスに住み着いたヴァイキング派生とされるノルマン人に支配されていたから、アイルランドも、実質ノルマンが支配する事になったのだった。

 外国人の支配を嫌ったケルト人やノルマンでない北欧系アイルランド人の中には、抵抗もしたが、ノルマン人は、武器の強さでも、戦術でも上をいっていた。
 しかし実際のところ、アイルランドで権力を持ったストロングボウとも呼ばれるペンブローク伯リチャード・ド・クレアが、力を持ちすぎたと判断したヘンリー二世が、自らアイルランドにやって来た時。
アイルランドの諸侯達の多くは、大した抵抗もしなかったとされる。

取り込まれるアイルランド

ノルマン人の支配

 ノルマン人達は、当時すでに、外国からの移民が多く、国際的な都市となっていたダブリンを中心として、中央集権化を推し進める。
12世紀末、ダブリン城を建設したジョン王は、7つの州と、6つの特別行政地区を定め、中央から地方を統括する政治を行った。
さらに、貨幣を発行し、経済を発展させたり、警察や裁判所などを設けて、司法制度を整備したりもした。
 ある意味で、ノルマン人は、アイルランドに平和をもたらしたとも言えた。

ゲール文化の復興運動

 しかし、イギリスによるアイルランドの統治はわりと酷いものだったとされる。
理由は明らかであった。
ようするにイギリスにとってアイルランドは大して価値ある土地ではなかったのである。

 ノルマン人は次第に勢力を弱め、イギリス本国も、フランスなどの敵国との戦いの長期化で、だんだんと疲弊していった。
 そうした状況の中、14世紀には、アイルランドで、ゲール(ブリテン諸島のケルト)文化の復興運動が盛んになっていく。

 ゲール語で様々な物語や詩が書かれ、外国語の文献も、たくさんゲール語に翻訳された。

アングロ・アイリッシュ

 イギリスも、さすがにゲール部族の勢力の拡大に懸念を抱きだしていたが、外交や内戦など、他に多くの問題を抱えすぎていたために、アイルランドに手を回す余裕はなかなか生まれなかった。

 ただし、15世紀も中頃。
アイルランドで一番勝利を収めていたのは、土着のゲール人ではなく、イギリスからやってきて、ゲールと一体化していた、アングロ・アイリッシュの人達だったという。
 特に、オーモンドのバトラー伯爵家、デズモンドのフィッツジェラルド伯爵家、キルデアの同じくフィッツジェラルド伯爵家の三大名家が、大きな勢力を有していたようである。

ヘンリー八世の完全支配

 アイルランドを実質的に、最初に統治したイギリス王は、ヘンリー八世とされる。
ヘンリー八世の後も、エドワード六世、メアリー、エリザベスにより、アイルランドは制圧され続ける。

 その支配は、アイルランドのイギリスへの完全な同化を強要するものであり、アイルランド的なものはいくつも禁止された。

 イギリスが、そのような強行手段に出た背景には、ヨーロッパでの覇権争いや、 宗教戦争の激化があった。
アイルランドがイギリスとが完全に同化していない限りは、外国が、アイルランド人をけしかける事によって、イギリスを攻撃するかもしれなかったのだ。
 特に当時はスペインが強国として台頭していて、イギリスは、これに対抗するために、自分達を強化する必要がどうしてもあった。

 紆余曲折の末に、アイルランドが、イギリスから独立を果たしたのは20世紀になってからの事である。

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