壬生浪士組。新撰組。池田屋事変
1853年のペリー(Matthew Calbraith Perry。1794~1858)の来航より、10年後。
1863年。
幕末真っ只中の京都にて、治安維持に当たっていた会津藩の傘下の組織として、新撰組は誕生した。
当初は、壬生浪士組と名乗っていた彼らだが、誕生から半年ほどで新選組の隊名を授かった。
もともとは、あまり大きな期待もかけられていなかった彼らだが、「池田屋事変」と呼ばれる出来事によって、その存在は広く知れ渡る事になった。
池田屋という宿屋で集まっていた、京都放火なんてのを企んでいたらしい反幕府勢力の者たちを、一気に討ち入った、池田屋事変。
この一件は新撰組の名を広めた。
しかし幕末はもう終わろうとしていた。
新しくできた明治政府と旧幕府軍の、幕末最後の戦い「戊辰戦争」において、新撰組は旧幕府軍側として戦い、その運命を散らしていったのだった。
幕末の簡単な概要
旗本、譜代大名。中央の大名
幕末と呼ばれる時代は、1853年6月に、アメリカのペリー率いる艦隊が、浦賀に入港した時に始まったとされる。
ペリーは鎖国中だった日本に、国交の樹立を求める。
幕府は、翌年の回答を約束し、艦隊を退去させ、その間になんとか対策を考えようとした。
幕府の政治は、将軍を頂点とし、徳川家の「旗本」と「譜代大名」によって運営されていた。
旗本とは、将軍直属の幕臣5000家。
譜代大名は、110くらいの藩。
外様大名、御三家、御三卿、親藩。外側の大名
130くらいの藩である、「外様大名」は部外者扱いであり、中央の行う政治に参加できない。
また、将軍の親族である、水戸、尾張、紀伊の、「御三家」
田安、一橋、清水の、「御三卿」
21の親藩も、俗事に関わりを持つべきではないとされ、政治に参加できなかった。
ペリー来航と十二代将軍の死。老中、阿部正弘
しかしペリー来航により巻き起こった混乱の時期に、不幸にも、12代将軍、徳川家慶(1793~1853)が死亡してしまう。
次期将軍も決まらぬうち、老中の阿部正弘(1819~1857)は、譜代大名、外様大名などに拘る事なく、様々な大名や幕臣に、広く対応策を求めた。
だがこの阿部正弘による、実質的な独立政権の否定が、幕府を滅ぼすことになった経緯の初期とされる。
十四代将軍の問題。二つの派閥
13代将軍には、徳川家定(1824~1858)が就任した。
ただ問題は、その次に来るべく、14代将軍だった。
明確な後継者がいなかったため、紀州藩の徳川家茂(1846~1866)と、一橋家の一橋慶喜(1837~1913)を、次代としようとする2派が誕生。
対立した。
14代将軍の問題は、旧例にのっとった政権の維持をはかろうとする、譜代、旗本の派閥。
新しい連合政権を欲した、御三家、御三卿、親藩、外様の派閥。
ふたつの大派閥の争いへと発展していく。
日米修好通商条約。天皇の権威
1854年1月にペリーは再び日本に再びやってきた。
ペリーは上手くやり、5月には、目標としていた日米修好通商条約、つまりは通商条約の調印にまでこぎつけた。
だがこの条約に反対する勢力は多く、幕府はそのような反勢力を沈黙させるために、条約に関して天皇に勅許を求めた。
だが、天皇の権威を利用しようとしたこの一件が、逆に、今だ幕府は、天皇の下にあることを、世の中に知らしめてしまうことになってしまう。
その上、幕府にとっては最悪だったことに、天皇は勅許を拒絶したのだった。
井伊直弼。佐幕派、倒幕派
混乱が続く中、譜代大名の彦根藩主であった井伊直弼(1815~1860)が幕府の大老に就任した。
彼は。揺らいでいた政治体制を今一度立て直そうと、徳川家茂を将軍とし、さらに天皇の勅許がなくとも修好通商条約の締結を強行。
反対勢力も次々と弾圧していったが、反発を抑えきることはできず、1860年3月に、桜田門外の変で、井伊は暗殺された。
そうしたふうに続いた、幕府を佐けんとする「佐幕派」と、独裁体制をしく幕府を倒さんとする「倒幕派」との対立が、後に、幕末の戦いと言われる、いくつもの戦へと繋がっていったのだった。
天然理心流道場、試衛館。新選組始まりの場所
気力で敵を討つ、田舎的実戦剣術
天然理心流は、天真正伝神道流から派生した剣術。
ペリー来航以前から、外国船が日本近海に出没し、上陸してくる事件は増えてきていたから、防衛意識から、民間人の間でも剣術熱が高まっていた。
そしてその理由が防衛という実用的なものであったから、実践的な流派の剣術が特に人気となっていた。
多摩地方を中心として勢力を拡大していた天然理心流も、そうした実践的剣術流派のひとつだったとされている。
天然理心流は田舎剣術とも評されていたようだが、気力で敵に立ち向かうという要素が強いようなので、確かに田舎剣術ぽいかもしれない。
近藤周助
天然理心流の三代目宗家の近藤周助(1792~1867)は、1840年に、江戸市ケ谷甲良屋敷にて、「試衛館」という道場を開いた。
甲良屋敷は、地名である。
かつて甲良家が所有していた土地に、新しく人が暮らすようになり、それがそのまま町の名前となったのだ。
とにかく近藤周助は、甲良屋敷の試衛館道場を拠点としながら、八王子や日野などといった地にも、出稽古におもむいた。
同門と、道場に出入りしていた仲間たち
近藤周助には、子供がいなかったが、養子としてひとりの少年を迎えていた。
その少年こそ、後に新撰組を率いることになる近藤勇(1834~1868)。
成長した彼は、年老いた義父から、試衛館道場を継ぐ。
そしてその時、試衛館には門人として、土方歳三(1835~1869)、沖田総司(1842~1868)、井上源三郎(1829~1868)がいた。
また、他流派ではあったが、永倉新八(1839~1915)、藤堂平助(1844~1867)、原田左之助(1840~1868)、斎藤一(1844~1915)らも。試衛館によく出入りしていた。
彼らはみんな新撰組の中核をなした剣客たち。
言うなれば、試衛館は、新撰組の始まりの場所であった。
壬生浪士組、新撰組の誕生
清河八郎の野望
幕府が政権を安定させるためには天皇との信頼関係が最重要とされていた。
そこでその関係の強化のため十四代将軍、徳川家茂は、京都に向かう事になった。
しかし当時の京都は、倒幕派の藩士や浪士が大勢いて、天誅と称した佐幕派の暗殺が頻繁にあった。
そこで、幕府は事前に、会津藩を京都守護職として派遣。
治安の強化をはかろうとした。
さらに、関東の浪士を組織して、京都へ送り込み、倒幕派の者たちを、先に鎮圧しようと、出羽庄内(山形県)の郷士、清河八郎(1830~1863)が幕府を促す。
彼は、各地に使者を送り、浪士を募集した。
実は、清河は、もともと倒幕派で、この浪士集めの裏側には、ある野望があった。
浪士組への応募
浪士募集の知らせが、試衛館に届いたのは、1862年末頃だった。
妻子もいる近藤武は悩んだが結局道場の経営を、何人かの高弟に任せ、自身は浪士に応募した。
この時に、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、土方歳三。井上源三郎らも、共に浪士に応募。
応募し集まって来た浪士の数は250名ほどだったとされる。
我らは、1番から7番までの小隊にわけられ、各小隊ごとに3人の小頭が決められた。
近藤勇は、6番組の小頭となった。
会津藩の配下となって
浪士組一行は、1863年2月8日に江戸を出発し、23日に京都に到着した。
京都の入り口にあった三条大橋を渡り、壬生村(中京区)に来た一行。
その夜、本部としていた新徳時に有力なメンバーを集合させた清河八郎。
そこで彼の狙いが幕府でなく、朝廷に直属し、倒幕を目的とする浪士組の結成だと知った近藤らは、 本隊から離れ、京都守護職であった会津藩の配下となる。
京都で合流した斎藤一と、謎に包まれた佐伯亦三郎なる人物を加えると、この時彼らの総数は、24名。
会津藩の配下となった彼らは、壬生村の浪士集団ということで、壬生浪士組を自称するようになったのだった。
不穏分子の排除。新撰組の成立
出来たばかりの壬生浪士組には、近藤勇のグループ、芹沢鴨(1826~1863)のグループ、殿内義雄(1830~1863)と家里次郎(1839~1863)のグループの、3グループがあった。
彼らは、意見の相違や主導権を巡って、すぐに争うこととなった。
そしてついには、殿内義雄が四条大橋で暗殺され、浪士組で近しく、ある程度の結束があった、近藤、芹沢グループ以外の者は全員、京都を去った。
また芹沢鴨も、近藤勇と共に壬生浪士組の局長であったが、酒癖が悪く問題行動が多かった。
そして会津藩主の松平容保(1836~1893)は、ついには近藤らに、芹沢グループの粛清を命じ、彼らはそれを実行した。
彼らが、新撰組という名前を与えられたのも、この時期である。
一応は朝廷より直接授かった名称とされている。
だいたい1863年の、8月〜9月ぐらいの時期。