「伊達政宗」独眼竜と呼ばれた戦国武将

龍

伊達家

藤原山陰の血筋?

 若干怪しいが、伊達(だて)家の先祖を辿っていくと、平安貴族の藤原山蔭(ふじわらのやまかげ。824~888)にまで遡るという。
 山蔭の子孫であり、初代伊達氏とされる朝宗(ともむね)は現在の茨城県の辺りで、伊佐氏、あるいは中村氏と名乗っていた。
 
 文治(ぶんじ)5年(1189)。
 源頼朝(みなもとのよりとも。1147~1199)率いるって鎌倉幕府軍が、東北地方の豪族、奥州藤原氏を滅ぼした、『奥州合戦』にて、朝宗と彼の息子達は手柄を立てた。
そして、伊達郡(福島県の地域)の領地を褒美として貰い受けた彼らは、地名から伊達の姓を名乗るようになる。

 それから、伊達郡を拠点にした伊達の本家は、14世紀以降の動乱を機に勢力を拡大し、やがては奥羽(東北地方)を広く支配していく事になったのである。

陸奥国の伊達家

 大永2年(1522)。
伊達家の十四代目当主、稙宗(たねむね。1488~1565)は、幕府より、陸奥国(むつのくに)の守護職に任命される。
 稙宗は、その立場を大いに利用し、周辺諸国との外交や、その領土への侵略などを行い、伊達の勢力をさらに拡大。

 稙宗は単に、野心溢れるだけでなく、支配地域に法を整備するなど、政治家としても、なかなかしたたかであった。

 戦国の世において、稙宗は、伊達家を大名の座へと押し上がらせた訳である。

 ところが天文11年(1542)。
種宗の前に予想外の敵が立ちはだかる事になる。
その敵とは種宗の長男、晴宗(はるむね。1519~1578)であった。

天文の乱

 晴宗が挙兵したのは、稙宗が三男、実元(さねもと)の養子縁組みにより、越後国(新潟県)の上杉家と関係を結ぼうとしたのに反対していたからと考えられている。
 しかし理由はともかく、晴宗は父である稙宗を幽閉。
娘婿らにより彼は救出されたが、伊達の父子は簡単には和解しなかった。

 勢力が大きかった影響か、内戦は、周辺諸国を巻き込んだ、『天文の乱』へと発展。
6年もの期間の後、幕府や周辺諸国の仲介により、戦は終結。
 結局、稙宗は隠居し、晴宗が伊達家の十五代目当主となったのだった。

梵天丸

 永禄8年(1565)。
晴宗の跡を継いだ、伊達家十六代目当主、輝宗(てるむね。1544~1585)が継いだ時期は、ちょうど尾張(愛知県)の織田信長の勢力が天下に迫りつつある頃であった。

 天文の乱が残した混乱の収束に追われながら、列島の中央で激変しつつある強大な勢力にも気を配らねばならない。
その重圧は、若き当主たる輝宗には、とても耐えきれるようなものではなかった。
 
 だが、永禄10年(1567)には、めでたい知らせがあった。
輝宗の妻、義姫(よしひめ。 1548年~1623年)が、男子を産んだのである。
 梵天丸(ぼんてんまる)という幼名を授けられたその男の子こそ、後に奥州の支配者としてその名を響かせる事となる、独眼竜こと伊達政宗(1567~1636)その人であった。

独眼竜伝説

幼名の由来

 政宗の母、義姫は、優れた子を願い、木の実ばかり食してばかりの修行の日々を送る、長海(ちょうかい)という僧侶を頼ったという。
長海は承知し、湯殿山という山の湯に浸した、幣束(ごへい)を義姫の寝室に置く。

 幣束とは、神道の祭儀に使われる、竹などに巻き付けられた紙である。
これが複数枚巻き付けられたものを梵天というのだ。

 とにもかくにも、幣束が置かれてから少ししたある日、義姫の夢に老人が出てきて、「あなたの中に宿を借りたい」と告げたのである。
義姫はひとまず「夫に相談します」と答え、実際すぐに輝宗にこの事を伝えた。
 輝宗は、これは瑞夢(ずいむ)、つまり縁起のよい夢に違いないと考え、次また老人が現れたら、許可すればよいと告げた。
そしてその通り、その夜、再び夢に出てきた老人の願いを許すと、彼は幣束を振り、「よい子が生まれる」と笑みを見せた。
 間もなく生まれた子が梵天丸、つまり政宗だった。

 この伝説的な出生秘話が、まさに伝説だとしても、完全な作り物か、大げさなのかは微妙なところである。

天然痘で、明るさを失う

 
 政宗は幼少の頃より賢く、5歳の頃、寺の不動明王像の前に立ち、僧に問うた。
「なぜ慈悲深いはずの仏が、このような恐ろしい怒りを見せている?」
僧は答えた。
「この仏は悪を懲らしめる為にしかたなく、このような恐ろしさを見せておるのです。ですから本当は慈悲深いのですよ」
政宗はその恐ろしい仏と向き合いながら、こう言ったらしい。
「こうあるべきなのだろうな、人の上に立つならば」

 だが彼自身の才はともかく、その道は決して明るく照らされたモノではないようだった。

 『天然痘(smallpox)』は、『天然痘ウイルス(Variola virus)』というウイルスが原因の感染症。
疱瘡(ほうそう)、あるいは痘瘡(とうそう)とも言った。
皮膚に出来物を生じさせ、高い致死率に加え、仮に治癒しても『あばた(scar)』と呼ばれる痕を残す、恐ろしい病気である。

 政宗は幼少時代、この天然痘にかかり、一命は取りとめたものの右目を失ってしまったのである。
そしてそれが強烈なコンプレックスとなり、政宗は内向的で人見知りな性格となったという。

龍に奪われた右目

 
 母、義姫は我が子の悲劇に胸を痛め、そしてそれ以上に憎しみを抱いた。
期待をかけた長男であったのに、病気にかかり、引きこもりがちになり、もう何も期待できない。
 義姫は、次男の小次郎(幼名は竺丸)ばかりをひいきに、可愛がるようになり、政宗は母の愛をも失ってしまったのだった。

 幼くして挫折を味わった政宗を支えたのは、子守りの立場であった10歳上の片倉小十郎(1557~1615)であった。
そして隻眼というコンプレックスを抱える彼を、再び目覚めさせたのは、教育係であった虎哉宗乙(1530~1611)という僧だったという。

 元亀3年(1572)に輝宗に招かれる形で、当時6歳だった政宗の教育係となった虎哉宗乙の教えは、学問はもちろん、仏教の教え、兵法と多岐にわたった。
 そしてある日。
隻眼を恥じる政宗に、彼は告げた。
「あなたの右目は竜に奪われたのです。立派な武将になるあなたを、どうしても見守りたかったのでしょう」
 
 虎哉宗乙の言葉は幼い政宗の心に響き、やがて彼は自ら独眼竜を名乗り、その隻眼こそを誇りとするようになるのだった。

初陣

 天正5年(1577)。
政宗は元服し、梵天丸改め、藤次郎政宗と名乗るようになった。
 藤次郎は伊達家の跡継ぎがもらい受ける名前であるので、これはつまり彼が正式に伊達家の次期当主になったという事であった。
 その内向的な性格の為に、一時は当主の座を危ぶまれた政宗だが、小十郎との友情や、虎哉宗乙の教えを糧として、立派に再起していたのである。

 そして天正7年(1579)に、政宗が、三春(福島県)で有力な田村家の娘である愛姫(めごひめ)を娶る事で、伊達家は新たな戦力を確保する。
それは、この頃、千葉県から福島県くらいの範囲に領地を抱えていた大名の相馬氏の侵略に悩まされていた伊達家の、反撃の準備であった。 

 政宗の初陣は、その相馬氏に奪われた領地を取り戻す為に、父輝宗が起こした戦であった

 たび重なる政略結婚で、周囲の大名とはたいてい実質的な親戚であった伊達家。
初陣にあたり小十郎は政宗に問うた。
「戦場での敵が親戚という事もあります。情に流されはしないですか?」
政宗はこう返したという。
「関係はない、戦では、ただ目の前の敵を討つだけだ」

家督相続と、小十郎への手紙

 合戦において若造であっても、独眼竜政宗はその強い意志を持って、大いに活躍した。
そしてその活躍により、伊達家は奪われた領地を徐々に取り戻していく。
 最終的に伊達家は相馬氏を負かして、功績を認められた政宗は18歳にして、父から家督を譲り受ける事になった。

 家督相続に関して政宗本人からの手紙で知った小十郎は、主君に仕えるにあたり「自らの足枷はいらぬ」とばかりに、自らの子を殺そうとしたという。
しかし噂を聞いた政宗の説得により、結局小十郎が子殺しとなる事はなかったらしい。
 その説得の手紙にて政宗は友に告げている。
「私を信じてついてきてほしい」

父の死

 天正13年(1585年)
小浜城主の大内定綱(1545年~1610年)に愚弄されたとして、その支城のひとつ小手森城(おてのもりじょう)を攻めた伊達軍。
この時、若き当主、政宗は、「女子供、家畜まで、城に籠る者達を誰も生かして外に出すな」と命じたという。
 これは織田信長など成り上がりの戦国大名に習った、政宗の恐怖政治戦略だったとされている。
実際このような恐ろしい行為は、周囲の者を震えさせ、戦わずしてその者達を取り込める場合も多い。

 そして実際に、この伊達の新しい当主に恐れをなし、和睦を申し入れてきた家もあった。
二本松城主の畠山義継(1552~1585)はそんな家のひとつであったが、事もあろうに仲介役になってくれた輝宗を彼は誘拐。
 しかし急を聞きつけた政宗率いる軍はすぐに義継らを追い詰める。
鉄砲隊を率いていた政宗の軍を前に、囚われていた輝宗は「撃て」と叫んだ。
政宗も覚悟を決めていたとされる。
そしてその覚悟を感じ取り、もはやこれまでと悟った義継は、輝宗を道連れに自害したという。

初の敗北

 父の死を悲しむ間もなく、その勢いのままに二本松城を攻めた伊達軍。
しかしここに伊達家の勢力拡大を恐れる、常陸(茨城県)の佐竹氏や、会津(福島県)の蘆名(あしな)氏が、二本松城に加勢。
一転して伊達軍は窮地に陥った。

 佐竹氏や、蘆名氏の連合軍の兵数は3万ほど。
対する伊達軍は1万ににも満たなかったとされている。

 伊達軍は数では圧倒的に不利ながらも、善戦。
しかし次第に追い詰められ、全滅こそまぬがれたものの、政宗は初めて、決定的な敗北を味わう事となったのだった。

豊臣秀吉

 もちろん、たかが一度の敗北で政宗は折れなかった。
天正14年(1586年)に伊達軍は今度こそ畠山家を滅ぼし、そして天正17年(1589年)には会津の蘆名氏と再び激突。
前回とは逆に数で押し切り、見事勝利する。

 だがもう群雄割拠の時代は終わろうとしていた。
蘆名氏との戦は、当時すでに天下を目前としていた豊臣秀吉の出していた私戦禁止令に背いたものであった。
しかも政宗は、幾度もの秀吉の上洛命令をも無視していた。
これではその怒りを買うのも当然であろう。

 そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下への最後の大仕事といえた小田原城攻めに対し、各地の大名に支援を要請。
この小田原城攻めへの参戦が、伊達家が秀吉に下る最後のチャンスともいえる状況であった。
 政宗は小十郎ら、有力家臣達と話し合い、最終的には秀吉の元に下る事を決意する。

命懸けの謁見

 
 だが小田原攻めへの参戦を控える中、政宗が、母である義姫に毒殺されかけるという事件が発生。
結果、伊達軍の出発は遅れ、政宗はますます秀吉の怒りを買う事になってしまう。
 
 だが今や圧倒的な勢力を持っていた秀吉と戦うのは不可能。
伊達家の未来をかけて、秀吉の前に遅ればせながら参上した政宗は、甲冑の上に白い死装束を纏っていたという。
それはまさしく独眼竜最後の大博打。
命懸けの謁見であった。

 そして政宗は賭けに勝利した。
秀吉は政宗の首に剣を当てて笑ったという。
「もう少し遅ければ、ここが飛んでたろうよ」

母との確執

 政宗が小田原攻めへの参戦を決めた当時、母である義姫が暮らしていたのは黒川城であった。
その黒川城の母に挨拶に来た息子を、義姫は毒殺しようとしたのである。
 出された食事を食べるや、苦しみ、嘔吐した政宗はなんとか一命をとりとめた後、弟である小次郎を、政宗は切り伏せたとされている。
義姫の目的が、小次郎を新たな当主にする事にある事を知っていたのだ。

 一方でこの事件は政宗の陰謀だったのではないかという説もある。
幼い頃より義姫は政宗よりも、小次郎に期待をかけていた事から、伊達家内部には小次郎派の者達がいて、政宗の目的はその一掃であった。

 また小次郎は斬られたのでなく、こっそり追放されたのだとする説もある。

太平の世の伊達政宗

 慶長3年(1598)に秀吉が死ぬと、実質的なナンバーツーであった徳川家康がすぐに台頭。
彼の躍進を既に見越していた政宗は、すぐさま豊臣と敵対する徳川方へと下った。

 天下人が徳川となってからも、政宗は自らの天下という野心を抱えていた節もある。
彼は遠くスペインへと使者を送り、外国の軍を味方につけようとしていたという説まである。

 だが結局の所、政宗は生まれてくるのが遅すぎた。
若くして、わずかな期間で、東北のかなりの地域を手中に収めた彼なら、確かに「後、10年早く生まれてたら」天下も夢ではなかったかもしれない。

 戦国最後の戦いと言われる、大阪の陣においては、政宗はあののような真田幸村の軍とも戦い、五分の勝負を演じたとも言われている。
幸村の恐ろしさを見抜き、夏の陣にて、徳川軍をバカにしながら撤退する幸村軍への、味方の追撃を止めたのは政宗だったという説もある。
その後、幸村は娘を伊達家に託していたりするので、両者には何らかの関係があったと見る向きもある。

 そして大阪の陣にて終幕となった戦国時代。
太平の世になってからは趣味であった料理に時間を使う事が多かったという。
また、若くして戦国時代を戦い抜いた生ける伝説として、三代目将軍である徳川家光からは、親父殿と呼ばれ尊敬されていたという。

 また、ある時の事、家光に献上する料理を、「先に毒見せよ」と言われた政宗は激怒して、こう言い返したらしい。
「この独眼竜、伊達政宗をなめるな。戦国の世であっても、戦で戦おうとは考えても、毒殺などという卑怯を目論んだことなど一度たりとてないわ」
さらに一説によると、この会話をこっそり聞いていた家光は「さすが伊達の親父殿よ」と、感動のあまり涙を零したとされている。

 死の前日、政宗は述べたとされる。
「戦場で死ぬと決めてたのにな」

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