「新選組の主要メンバー一覧」性格、エピソード、最強は誰だったか

新選組の人

近藤勇。盤石の局長

以前の名前。宮川勝五郎。島崎勝太

 新撰組局長としてよく知られている近藤勇こんどういさみ(1834~1868)は1834年に、宮川家の第四子として生まれた。
後に、新選組の幹部になる者たちの多くが学び、 友情を育んだ試衛館道場の、近藤周助こんどうしゅうすけ(1792~1867)の養子になる以前の名は、 宮川勝五郎みやがわかつごろう

 彼は幼少の頃より、三国志や水滸伝などの英雄活劇を好み、実家の道場で、子供用の防具をつけて、よく竹刀をふるっていたという。
1848年に、兄たちと共に近藤周助の門下となり、それから1年ほどで、周助の養子となった。
それから勝五郎は、周助の旧姓、島崎しまざきを称するようになり、名前も勝太かつたと改めた。

免許皆伝。結婚。天然理心流4代目となって

 近藤周助の道場、試衛館しえいかんで修行を積んだ彼は、1855年には免許皆伝となり、名前をまた、勇と改名。
近藤の性を名乗ることも許されるようになった。

 1860年には、御三卿ごさんぎょうのひとつとされていた清水家の家臣、松井八十五郎まついやそごろう(1837~1892)の長女、ツネ(1837~1892)を妻に迎えた。
ツネは、勇がこの頃、見合いをしていた女性たちの中で、最も容姿が劣っていたとされている。

 勇はツネの誠実さを好み、また、男ばかりの道場の妻は、間違いがないよう、美人ではない方がよい、と考えていたらしい。

 そして1861年。
彼は、近藤周助が三代目である剣術、天然理心流てんねんりしんりゅうの4代目を襲名した。

 名実ともに天然理心流師範となった近藤勇は、他流試合を拒まず、どのような者であろうと、来る者たちは、手厚くもてなしたという。
そしてその人柄に惹かれ、試衛館に出入りしていた他流派の剣士たちも多かったとされる。

土方歳三。鬼の副長

格式ある農家の家の生まれ

 土方歳三ひじかたとしぞう(1835~1869)は、農民の家の生まれ。
1835年に生まれた彼は、幼い頃に両親を亡くし、兄夫婦によって育てられたという。

 1845年。
彼は、江戸上野の松坂屋呉服店まつざかやごふくてん(後の松坂屋百貨店) に丁稚奉公に出された。
松坂屋は有名な店であり。そこへ奉公に出されるというのは、土方家が、それなりに格式ある農家であった事を意味している。

役者のような美男子

 しかし彼は、奉公に出てから間もなく、番頭と喧嘩して店を飛び出し、家に帰ってしまった。
その後も彼は、17歳の時に、日本橋大伝馬町にほんばしおおでんまちょうの呉服屋へ奉公に出されたが、また上手くいかなかった。

 まるで役者のような美男子と評されていた彼は、非常に女性たちの人気をよく集めたようで、店に勤める女性たちと次々と関係をもち、わりと厄介な存在だったとされる。

近藤勇との出会い

 土方は、そのうちに、土方家の家伝薬である石田散薬いしださんやくの行商を任されるようになった。
しかし一方で、武士になることをずっと夢見ていた彼は、行商先で、道場に次々と試合を申し込んだ。
そして、そうするうちに、佐藤家に出稽古に来ていた近藤周助と出会い、彼のもとに入門。
周助の養子であった近藤勇とは一歳違いで、ふたりはすぐに意気投合し、友情を深めていった。

沖田総司。優れた才の一番隊組長

惣次郎

 1842年。
沖田総司おきたそうじ(1842~1868)は江戸に生まれた。
親から授かった名前は、惣次朗そうじろうであったが、浪士組として京都へ旅立つ直前の、1863年1月頃に改名したとされている。

 彼の父、沖田勝次郎おきたかつじろうは、白河藩しらかわはんで足軽の小頭をつとめていた。
しかし1845年に、勝次郎は亡くなり、惣次郎の姉ミツ(1833~1907)が結婚した、 井上林太郎いのうえりんたろうが、沖田家を継いだ。

 林太郎は、天然理心流の門人で、後に新選組幹部となる井上源三郎いのうえげんざぶろう(1829~1868)とは、親戚関係にあたる。
惣次郎はこのような縁あって、1852年頃、試衛館に弟子として預けられることになった。

剣術の天才

 沖田総司は剣術の天才として知られている。
沖田家の伝承によると、彼は試衛館に入門してから、わずか2年後には、白河藩の剣術指南役と試合をし、勝利したという。

 また免許獲得まで10年以上は必要とされる天然理心流において、10歳くらいで入門したはずの彼は、20歳になった頃には、すでに免許を与えられ、道場の塾頭を任されるほどになっていたという。

 彼が得意技の三段突きを繰り出す時は、3回繰りだしているはずなのに、竹刀の先は一つに見えたと言われる。
その才能は近藤勇もよく認めていて、自分に万が一のことがあった場合、彼が天然理心流5代目となるようにと願う、手紙を残していたほど。

 また、彼は浅黒い肌の大男で、その稽古は厳しかったそうだが、一方でいつまでも無邪気な一面があって、冗談を好み、身近な子供たちとよく遊んだりもしていたという。

永倉新八。がむしゃら無鉄砲な二番隊組長

 1839年。
松前藩主の子として生まれた永倉新八ながくらしんばち(1839~1915)は、神道無念流しんとうむねんりゅうを学び、免許皆伝を受けると脱藩して、武者修行の旅に出た。
そして各地を巡るうちに、試衛館にも出入りするようになった。

 彼は、天才とされた沖田総司以上の剣の使い手であり、 新撰組では、二番隊組長として活躍した。

 かなり無鉄砲な性格だったようで、 がむしゃらな新八、を略して、ガム新などとと、あだ名がつけられていた。
そんな性格のためか、彼は近藤と対立することもよくあったようで、後には、原田左之助らと、別隊を組織し、近藤と道を違える事となった。

斎藤一。三番隊組長。近藤亡き後の隊長

 1844年。
明石藩あかしはんの足軽から御家人となった、山口裕介やまぐちゆうすけの次男として、斎藤一さいとうはじめ(1844~1915)は生まれた。 

 江戸で一刀流を学んでいた彼は、1862年頃、京都にて聖徳太子流を修めたとされる。

 新撰組の中において、彼は永倉新八に次ぐ腕前とされていた。
そんな彼だが、試衛館と何らかの関わりを持っていたのはほぼ間違いないが、よくわかってなかったりする。
ただ彼は京都で、近藤勇たちと合流するや、すぐに副長助勤(新撰組幹部)となっている。

 後に山口二郎と改名している。
また近藤亡き後、新撰組の隊長役を継いだ。

井上源三郎。人当たり良い六番隊組長

 試衛館でなく、日野地方で天然理心流を学んでいた井上源三郎は、八王子千人同心はちおうじせんにんどうしんの三男として、1829年に生まれた。
近藤周助の門下となってから後、1860年に免許皆伝となっている。

 無口だが、人当たりの良い人物だったとされている。

藤堂平助。最年少だった八番隊組長

 1844年生まれの藤堂平助とうどうへいすけ(1844~1867)は、出身地は明らかでないが、伊勢の津藩主、藤堂和泉守とうどういずみのかみ御落胤ごらくいん(貴族の私生児)と自称していた。

 江戸にて北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうを学んでいた。
美男子であったとされる。

原田左之助。短気な荒くれ者の十番隊組長

 1840年に伊予(愛媛県)の松山で生まれた 原田左之助はらださのすけ(1840~1868)は種田流槍術たねだりゅうそうじゅつの使い手であった。
彼はかつて、失敗した時に腹を切ろうとした事があった。
酒に酔った時は、よく腹を見せ、その傷跡を自慢したという。

 かなり短気な性格で、二言目には「斬れ斬れ」と怒鳴ったとされる。

 彼に関しては、試衛館に出入りするようになった経緯はわかっていない。

山南敬介。もう一人の副長

 1836年。
仙台の剣術師範の次男として生まれた山南敬介やまなみけいすけ(1833~1865)は、江戸で剣術を学んでいた。
しかしある時、近藤勇との試合に敗れた彼は、近藤の人柄に惹かれ、弟子になった。

 彼は新撰組では土方歳三と共に、副長をつとめた。
しかし彼は、近藤と意見を違え、無断脱退を試みたために、切腹することとなった。

伊東甲子太郎。三木三郎

 池田屋事変後に、 新撰組に加わり、すぐさま幹部級となった伊東甲子太郎いとうかしたろう(1835~1867)は、1835年生まれ。
江戸深川佐賀町で、北辰一刀流の道場を開いていた。

 彼は、北辰一刀流を学んでいた藤堂平助と面識があった。
また、彼とともに入隊した、弟の三木三郎みきさぶろう(1837~1919)は、九番隊組長となる。

 彼自身は、新選組の参謀役を担っていた

谷三十郎。松原忠司。武田観柳斎

  
 七番隊組長となる谷三十郎たにさんじゅうろう(1832~1866)は、 1832年生まれらしいが、はっきりしない。
新選組への入隊時期も不明。

 原田左之助に、槍術を指導したという話もあるが、 剣術一筋だったともされる。

 四番隊組長、松原忠司まつばらちゅうじ(1815~1865)は1815年生まれ。
柔術の達人だったとされる。

 五番隊組長、武田観柳斎たけだかんりゅうさい(~1867)は、生年は不明。
ただ医学を学んでいた経歴があり、文武両道をいく人であったという。

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