「新選組の主要メンバー一覧」性格、エピソード、最強は誰だったか

新選組の人

近藤勇。盤石の局長

以前の名前。宮川勝五郎。島崎勝太

 新撰組局長としてよく知られている近藤勇(こんどういさみ)は1834年に、宮川家の第四子として生まれた。
後に、新選組の幹部になる者達の多くが学び、 友情を育んだ試衛館道場の、近藤周助(こんどうしゅうすけ)の養子になる以前の名は、 宮川勝五郎(みやがわかつごろう)。

 彼は幼少の頃より、三国志や水滸伝などの英雄活劇を好み、実家の道場で、子供用の防具をつけて、よく竹刀をふるっていたという。
1848年に、兄達と共に近藤周助の門下となり、それから1年ほどで、周助の養子となった。
それから勝五郎は、周助の旧姓、島崎(しまざき)を称するようになり、名前も勝太(かつた)と改めた。

免許皆伝。結婚。天然理心流4代目となって

 近藤周助の道場、試衛館(しえいかん)で修行を積んだ彼は、1855年には免許皆伝となり、名前をまた、勇と改名。
近藤の性を名乗ることも許されるようになった。

 1860年には、御三卿(ごさんぎょう)のひとつとされていた清水家の家臣、松井八十五郎(まついやそごろう)の長女、ツネを妻に迎えた。
ツネは、勇がこの頃、見合いをしていた女性達の中で、最も容姿が劣っていたとされている。
 勇はツネの誠実さを好み、また、男ばかりの道場の妻は、間違いがないよう、美人ではない方がよい、と考えていたらしい。

 そして1861年。
彼は、近藤周助が三代目である剣術、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の4代目を襲名した。

 名実ともに天然理心流師範となった近藤勇は、他流試合を拒まず、どのような者であろうと、来る者達は、手厚くもてなしたという。
そしてその人柄に惹かれ、試衛館に出入りしていた他流派の剣士達も多かったとされる。

土方歳三。鬼の副長

格式ある農家の家の生まれ

 土方歳三(ひじかたとしぞう)は、農民の家の生まれ。
1835年に生まれた彼は、幼い頃に両親を亡くし、兄夫婦によって育てられたという。

 1845年。
彼は、江戸上野の松坂屋呉服店(まつざかやごふくてん。後の松坂屋百貨店) に丁稚奉公に出された。
松坂屋は有名な店であり。そこへ奉公に出されるというのは、土方家が、それなりに格式ある農家であった事を意味している。

役者のような美男子

 しかし彼は、奉公に出てから間もなく、番頭と喧嘩して店を飛び出し、家に帰ってしまった。
 その後も彼は、17歳の時に、日本橋大伝馬町(にほんばしおおでんまちょう)の呉服屋へ奉公に出されたが、また上手くいかなかった。

 まるで役者のような美男子と評されていた彼は、非常に女性達の人気をよく集めたようで、店に勤める女性達と次々と関係をもち、わりと厄介な存在だったとされる。

近藤勇との出会い

 土方は、そのうちに、土方家の家伝薬である石田散薬(いしださんやく)の行商を任されるようになった。
しかし一方で、武士になることをずっと夢見ていた彼は、行商先で、道場に次々と試合を申し込んだ。
そして、そうするうちに、佐藤家に出稽古に来ていた近藤周助と出会い、彼のもとに入門。
周助の養子であった近藤勇とは一歳違いで、ふたりはすぐに意気投合し、友情を深めていった。

沖田総司。優れた才の一番隊組長

惣次郎

 1842年。
沖田総司は江戸に生まれた。
親から授かった名前は、惣次朗(そうじろう)であったが、浪士組として京都へ旅立つ直前の、1863年1月頃に改名したとされている。

 彼の父、沖田勝次郎(おきたかつじろう)は、白河藩(しらかわはん)で足軽の小頭をつとめていた。
しかし1845年に、勝次郎は亡くなり、惣次郎の姉ミツが結婚した、 井上林太郎(いのうえりんたろう)が、沖田家を継いだ。

 林太郎は、天然理心流の門人で、後に新選組幹部となる井上源三郎(いのうえげんざぶろう)とは、親戚関係にあたる。
惣次郎は、このような縁あって、1852年頃、試衛館に弟子として預けられることになった。

剣術の天才

 沖田総司は剣術の天才として知られている。
沖田家の伝承によると、彼は試衛館に入門してから、わずか2年後には、白河藩の剣術指南役と試合をし、勝利したという。

 また免許獲得まで10年以上は必要とされる天然理心流において、10歳くらいで入門したはずの彼は、20歳になった頃には、すでに免許を与えられ、道場の塾頭を任されるほどになっていたという。

 彼が得意技の三段突きを繰り出す時は、3回繰りだしているはずなのに、竹刀の先は一つに見えたと言われる。
その才能は近藤勇もよく認めていて、自分に万が一のことがあった場合、彼が天然理心流5代目となるようにと願う、手紙を残していたほど。

 また、彼は浅黒い肌の大男で、その稽古は厳しかったそうだが、一方でいつまでも無邪気な一面があって、冗談を好み、身近な子供達とよく遊んだりもしていたという。

永倉新八。がむしゃら無鉄砲な二番隊組長

 1839年。
松前藩主の子として生まれた永倉新八は、神道無念流(しんとうむねんりゅう)を学び、免許皆伝を受けると脱藩して、武者修行の旅に出た。
そして各地を巡るうちに、試衛館にも出入りするようになった。

 彼は、天才とされた沖田総司以上の剣の使い手であり、 新撰組では、二番隊組長として活躍した。

 かなり無鉄砲な性格だったようで、 がむしゃらな新八、を略して、ガム新などとと、あだ名がつけられていた。
そんな性格のためか、彼は近藤と対立することもよくあったようで、後には、原田左之助らと、別隊を組織し、近藤と道を違える事となった。

斎藤一。三番隊組長。近藤亡き後の隊長

 1844年。
明石藩(あかしはん)の足軽から御家人となった、山口裕介(やまぐちゆうすけ)の次男として、斎藤一(さいとうはじめ)は生まれた。 
 江戸で一刀流を学んでいた彼は、1862年頃、京都にて聖徳太子流を修めたとされる。

 新撰組の中において、彼は永倉新八に次ぐ腕前とされていた。
そんな彼だが、試衛館と何らかの関わりを持っていたのはほぼ間違いないが、よくわかってなかったりするという。
ただ彼は京都で、近藤勇達と合流するや、すぐに副長助勤(新撰組幹部)となっている。

 後に山口二郎と改名している。
また近藤亡き後、新撰組の隊長役を継いだ。

井上源三郎。人当たり良い六番隊組長

 試衛館でなく、日野地方で天然理心流を学んでいた井上源三郎は、八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)の三男として、1829年に生まれた。
近藤周助の門下となってから後、1860年に免許皆伝となっている。

 無口だが、人当たりの良い人物だったとされている。

藤堂平助。最年少だった八番隊組長

 1844年生まれの藤堂平助(とうどうへいすけ)は、出身地は明らかでないが、伊勢の津藩主、藤堂和泉守(とうどういずみのかみ)の御落胤(ごらくいん。貴族の私生児)と自称していた。

 江戸にて北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を学んでいた。
美男子であったとされる。

原田左之助。短気な荒くれ者の十番隊組長

 1837年に伊予(愛媛県)の松山で生まれた 原田左之助は種田流槍術(たねだりゅうそうじゅつ)の使い手であった。
彼はかつて、失敗した時に腹を切ろうとした事があった。
酒に酔った時は、よく腹を見せ、その傷跡を自慢したという。

 かなり短気な性格で、二言目には「斬れ斬れ」と怒鳴ったとされる。

 彼に関しては、試衛館に出入りするようになった経緯はわかっていない。

山南敬介。もう一人の副長

 1836年。
仙台の剣術師範の次男として生まれた山南敬介(やまなみけいすけ)は、江戸で剣術を学んでいた。
しかしある時、近藤勇との試合に敗れた彼は、近藤の人柄に惹かれ、弟子になった。

 彼は新撰組では土方歳三と共に、副長をつとめた。
しかし彼は、近藤と意見を違え、無断脱退を試みたために、切腹することとなった。

伊東甲子太郎。三木三郎

 池田屋事変後に、 新撰組に加わり、すぐさま幹部級となった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、1835年生まれ。
江戸深川佐賀町で、北辰一刀流の道場を開いていた。

 彼は、北辰一刀流を学んでいた藤堂平助と面識があった。
また、彼とともに入隊した、弟の三木三郎(みきさぶろう)は、九番隊組長となる。

 彼自身は、新選組の参謀役を担っていた

谷三十郎。松原忠司。武田観柳斎

  
 七番隊組長となる谷三十郎(たにさんじゅうろう)は、 1832年生まれらしいが、はっきりしない。
新選組への入隊時期も不明。
 原田左之助に、槍術を指導したという話もあるが、 剣術一筋だったともされる。

 四番隊組長、松原忠司(まつばらちゅうじ)は1815年生まれ。
柔術の達人だったとされる。

 五番隊組長、武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)は、生年は不明。
ただ医学を学んでいた経歴があり、文武両道をいく人であったという。

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