「歴代天皇」実在する神から、偉大なる人へ

歴代天皇

古事記に記録された天皇

最初の天皇と辛西

 初代天皇である『神武天皇(じんむてんのう)』こと神倭伊波礼毘古命(かむやまいわれびこのみこと)は架空の人物だとされる。
もし実在したなら、神話時代の最終世代の王とも言える人で、天照大神(あまてらすおおかみ)の曾孫の孫である。
日本神話「日本神話」神々の国造りと戦い。現代的ないくつかの解釈 アマテラス。スサノオ。ツクヨミアマテラス。スサノオ。そして謎のツクヨミ「記紀の三柱神」  現在の九州である「日向」の国に生まれた彼は、四十五歳の時に、よりよき国を作ろうと、東方の「大和」へと向かう。

 神の武器である「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」と、神の使いである「八咫烏(やたがらす)」に助けられながら、彼は多くの困難を乗り越えていく。

 そして最終的に大和を平定し、彼は日本国の初代天皇となった。
紀元前660年1月1日の事だとされている。

 この明らかに適当ぽい即位年の背景には、中国から伝わった「干支(かんし)」という年月を60年サイクルで数える方法があると考えられている。
 干支に信仰のひとつに「辛酉(かののとり)の年には何か大きな変化が起こる」というのがあり、紀元前660年は、この辛西に当たる。
 さらに古事記に記録された中では一番最後である天皇の治世で、最も輝いていた年が紀元601年とされている。
そこで、この601年の前年から1260年遡った辛西年に、初代天皇が即位したと設定付けたのだと考えられている。
 干支のサイクルは60年。その10倍の倍にさらにもう60を足したのが1260という数である。
とにかく昔という事にしたかったのかもしれない。

 伝承では、127歳まで生きたという彼の在位は76年。
つまり彼の治世は紀元前660~585年という事になる。

悪党の兄を成敗した二代目

 二代目天皇の候補は三人いた。
しかしその中でも年長であった手研耳命(たぎしみみのみこと)は、人柄が悪く、権力に憑かれていた。
 そして神武天皇が死ぬと、手研耳命は、すぐさま自らの王座を確実なものとするため、二人の弟達を殺そうとする。
 
 だが計画を察知した二人の弟、神八井耳命(かんやいみみのみこと)と神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)は、逆に兄を襲撃。
 しかし次男である神八井耳命は、震えて矢を放つ事が出来なかった。
代わりに兄を射殺した末の皇太子である神渟名川耳命が、その武勇により、王座を委ねられ、二代目、『綏靖天皇(すいぜいてんのう)』となったのだった。

 綏靖天皇、在位は、紀元前585~553年までの33年である。

伝承上の残り七代

 綏靖天皇は即位の翌年に結婚。
皇后である五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)との間に生まれた、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)が三代目、『安寧天皇(あんねいてんのう)』となる。

 安寧天皇、在位は、紀元前553~516年までの38年。

 神武、綏靖、安寧。
そして四代目、『懿徳天皇(いとくてんのう)』(在位、紀元前516~483年までの34年)。
五代目、『孝昭天皇(こうしょうてんのう)』(在位、紀元前483~401年までの83年)。
六代目、 『考安天皇(こうあんてんのう)』(在位、紀元前401~300年までの102年)。
七代目、『孝霊天皇(こうれいてんのう)』(在位、紀元前300~225年までの76年)。
八代目、『孝元天皇(こうげんてんのう)』(在位、紀元前225~169年までの57年)。
九代目、『開花天皇(かいかてんのう)』(在位、紀元前169~110年までの60年)。
以上の九代の天皇達は、伝説に過ぎず、実在はしないというのが定説である。

 ちなみに孝元天皇は側室との間に、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を産んでいる。
彼の孫である武内宿禰(たけしうちのすくね)は、300年生きて、五代の天皇に仕える事となる人物である。

実在が確かとされる最初の天皇

 十代目、『崇神天皇(すじんてんのう)』こと、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)は、歴代天皇の中で、実在した最初の人物と考えられている。
 ただし実在したとされる時代は、記録に残されてるよりも数百年ほど新しい三世紀頃である。

 「初めて天下を取った天皇」と称えられる初代神武天皇に対して、「初めて完成された国を納めた天皇」と称えられた。

 彼は、善悪を判断する能力に長け、大袈裟なはかりごとを好んだ。
一方で神への忠義心が強く、寛大にして、慎み深くもあった。

 また、国を広めようと、都より、東西南北各地に、「四道将軍(しどうしょうぐん)」なる四人の将を派遣したとされる。

 崇神天皇、在位は110~43年までの68年。

ヤマトタケルとタケシウチノスクネ

 十一代目、『垂仁天皇(すいにんてんのう)』は父と同じように神をよく信仰されていて、天照大神の信託に従い「伊勢神宮」を建設させたのは彼だとされている。

 崇仁天皇、在位は紀元前43~紀元55年までの99年。

 十二代目、『景行天皇(けいこうてんのう)』は、有名な「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の父でもある。
 日本武は、父より先に死んでしまった為に、天皇にはなれなかったが、生前、その武勇を大いに轟かした人物である。
景行天皇は、各地の朝廷に従わぬ首長達の平定に努めたのだが、日本武は、その多くの戦いで活躍したとされる。

 景行天皇、在位は55~114年までの60年。

 十三代目、『政務天皇(せいむてんのう)』は、同じ日に生まれた幼なじみの武内宿禰を、「大臣(おおとみ)」として、特別扱いした。

 政務天皇、在位は114~173年までの60年。

 武内宿禰は、政務天皇の死後も、大臣の座に居座ったとされる。
十四代目、『仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)』(在位、173~181年までの9年)。
十五代目、『応神天皇(おうじんてんのう)』(在位、181~221年までの41年)。
十六代目、 『仁徳天皇(にんとくてんのう)』(在位、221~307年までの87年)。
十七代目、『履中天皇(りちゅうてんのう)』(在位、307~312年までの6年)。
の四代にも仕えたらしい。

外交と病気と

 十八代目、『反正天皇(はんぜいてんのう)』は、歯並びが美しかったと伝えられている。
また、中国や朝鮮との外交にも力を入れていたとされる。

 反正天皇、在位は312~315年までの4年。

 十九代目、 『允恭天皇(いんぎょうてんのう)』は、病弱で、最初は、「自分など天皇の器でない」と考えていた。
しかし、後に皇后となる「忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)」の、冬の寒さにたえながらの嘆願により、天皇として生きることを決心した。

 允恭天皇、在位は315~356年までの42年。

 二十代、『安康天皇(あんこうてんのう)』は臣下に騙されて無実の親族を殺してしまい、その息子に復讐され、殺されるという、なかなか哀れな人である。

 安康天皇、在位は356~358年までの3年である。

本家の終焉

 二十一代目、『雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)』は野心ある人で、兄である安康天皇が死ぬや、他の次期天皇候補を全員殺して、天皇となった。
 また、唯我独尊で、人の言葉にしっかり耳を傾けない面があり、殺人をためらわぬ為に「大悪天皇」と恐れられていた。
 一方で、趣味の狩りをよく楽しみ、神への信仰心は強かった事から、「有徳天皇」とも称されていた。

 雄略天皇、在位は358~380年までの23年。

 二十二代目、『清寧天皇(せいねいてんのう)』は、生まれた時から白髪だったという。

 清寧天皇、在位は380~384年までの5年。

 二十三代目、『顕宗天皇(けんぞうてんのう)』は、最初、兄と皇位を譲り合った為に、なかなか決まらず、その期間は姉の飯豊女王(いいどよのひめみこ)が政治を行ったとされる。

 顕宗天皇、在位は384~386年までの3年。

 二十四代目、『仁賢天皇(にんけんてんのう)』は、聡明で、謙虚で、穏やかな性格であった。

 仁賢天皇、在位は386~396年までの11年。

 二十五代目、『武烈天皇(ぶれつてんのう)』は、悪王だったと記録にある。
しかしそれは、天皇一族の本家の血筋が、彼で終わってしまった事の正統性を示す為に、塗り替えられた史実だという説が有力と考えられている。

 武烈天皇、在位は396~403年までの8年。

仏教の伝来

 二十六代目、『継体天皇(けいたいてんのう)』は、心広く、強く人を愛し、尊敬した。
彼以降の、現在までの全ての天皇は、彼の血筋であるとされている。

 継体天皇、在位は403~427年までの25年。

 継体天皇の後は、
二十七代目、『安閑天皇(あんかんてんのう)』(在位、427~429年までの3年)。
二十八代目、『宣花天皇(せんかてんのう)』(在位、429~433年までの5年)。
二十九代目、 『欽明天皇(きんめいてんのう)』(在位、433~462年までの33年)。
三十代目、『敏達天皇(びだつてんのう)』(在位、462~475年までの14年)。
三十一代目、『用明天皇(ようめいてんのう)』(在位、475~477年までの3年)。
三十二代目、『崇峻天皇(すしゅんてんのう)』(在位、477~482年までの6年)
と続いていくが、欽明天皇の時代には、日本に仏教が伝来。
お寺「仏教の教え」宗派の違い。各国ごとの特色。釈迦は何を悟ったのか  さらに後、敏達天皇は排仏派にそそのかされて、寺や仏像を焼いた。
一方で用明天皇は、仏教も神道と同じように重んじて、最終的には仏に帰依したとされる。
 そしてさらに次の崇峻天皇が死ぬと、皇位はしばらく空白となった。

 そこで新しい天皇として白羽の矢が立ったのは、欽明天皇の娘であり、敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)であった。
 彼女は三十三代目、『推古天皇(すいこてんのう)』となった。
日本で最初の女帝である。

最初の女帝

 推古天皇は、とりあえず6世紀~7世紀頃の人物である。

 十七条憲法で有名な聖徳太子は、彼女の時代の人であり、その政治を大いに助けたらしい。
聖徳太子聖徳太子について。予言伝説。日本のブッダ「厩戸皇子とは何者だったのか」  また、古事記に記録された最後の天皇でもあり、天照大神が女神なのは、彼女の影響だとする説もある。

 史実的な在位期間は593年1月15日から628年4月15日までとされている。
つまり記紀に記された、特に初期の、天皇達の在位期間の大半は、デタラメなのである。

神秘が強く残ってる方たち

中大兄皇子

 三十四代目、『舒明天皇(じょめいてんのう)』(在位、629~641年までの13年)。
三十五代目、『皇極天皇(こうぎょくてんのう)』(在位、642~645年までの4年)。

 皇極天皇は、また女帝であった。
神に祈る事で天候を操作する事が出来たらしい。
 彼女の時代、権力を不正に用いていた有力貴族の蘇我氏一族を、後に自身も天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が成敗した。

 それから、三十六代目、 『考徳天皇(こうとくてんのう)』(在位、645~654年までの10年)。
三十七代目、『斉明天皇(さいめいてんのう)』(在位、655~661年までの7年)。
以上の時代を皇子として生きた中大兄は、さらにしばらくの空白の後に、ようやく三十八代目、『天智天皇(てんじてんのう)』となる。
その在位は、668~671年までの4年であった。

歴史記録、国名、妖術

 三十九代目、『弘文天皇(こうぶんてんのう)』(在位、671~672年までの1年)。
の後、四十代目、『天武天皇(てんむてんのう)』は占星術に秀でた天皇であった。

 また彼は史実を記録した文書を作るように、家臣達に命じ、それをきっかけに「古事記」、「日本書紀」が書かれたとされる。

 天武天皇、在位は673~686年までの14年。

 四十一代目、『持統天皇(じとうてんのう)』は、当時はまだ「倭(やまと)」と書かれていた国の名称を「日本(やまと)」と改めた女天皇である。

 持統天皇、在位は690~697年までの8年。

 四十二代目、『文武天皇(もんむてんのう)』は儒教に通じ、また弓矢の名手でもあった。
雨乞いの儀式もよく行っていた。
 文武三年(699年)には、「修験道」の開祖とされる「役小角(えんのおづぬ)」を、民を妖術で惑わした罪で、流刑に処している。

 文武天皇、在位は697~707年までの11年であった。

仏と天皇

 四十三代目、『元明天皇(げんめいてんのう)』(在位、707~715年までの9年)。
四十四代目、『元正天皇(げんしょうてんのう)』(在位、715~724年までの10年)。
以上二人の女性天皇の後に、父である文武天皇が死んだ時には、まだ七歳と幼すぎた為に、即位が見送られていた皇子が四十五代目、『聖武天皇(しょうむてんのう)』となった。

 聖武天皇は仏への信仰心が強く、彼の治世では仏教が大いに流行ったという。

 聖武天皇、在位は724~749年までの26年。

 聖武天皇の娘、安倍内親王(あべないしんのう)は、初の女性皇太子となり、そのまま四十六代目、『考謙天皇(こうけんてんのう)』となった。
儒教を重んじ、儒教の書である「考経(こうきょう)」を家に一冊ずつ持たせたとされる。

 考謙天皇、在位は749~758年までの10年。

 さらに彼女は、
四十七代目、『淳仁天皇(じゅんにんてんのう)』(在位、758~764年までの7年)。
の後に、再び女帝として返り咲き、四十八代目、『称徳天皇(しょうとくてんのう)』となった。

 称徳天皇、在位は764~770年までの7年である。

平安京と幼帝

 四十九代目、『光仁天皇(こうにんてんのう)』(在位、770~781年までの12年)。
その次の五十代目、『桓武天皇(かんむてんのう)』は、長い間奈良にあった都を、京都に移した天皇である。
794年の事。
だから「鳴くよ(794)ウグイス平安京」なのである。
 また桓武天皇は、蝦夷(えぞ)、つまり関東や東北地方の支配に、「鬼退治で有名な坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」を派遣した。

 桓武天皇、在位は781~806年までの26年。 

 五十一代目、『平城天皇(へいぜいてんのう)』(在位、806~809年までの4年)。
 五十二代目、『嵯峨天皇(さがてんのう)』(在位、809~823年までの15年)。
 五十三代目、『淳和天皇(じゅんなてんのう)』(在位、823~833年までの11年)。
 五十四代目、『仁明天皇(にんみょうてんのう)』(在位、833~850年までの18年)。
 五十五代目、『文徳天皇(もんとくてんのう)』(在位、850~858年までの9年)。
 
 そして五十六代目、『清和天皇(せいわてんのう)』は、初の幼帝であった。
天皇となった時の年齢は九歳。
 ただし特に長生きは出来ず、その在位は858~876年までの19年。

王の器と真の歴史

 五十七代目、『陽成天皇(ようぜいてんのう)』もまた九歳での即位だった。
 まるで呪われてるみたいに奇行がひどく、ついには天皇の地位を剥奪された。

 陽成天皇、在位は876~884年までの9年。

 陽成天皇が地位を剥奪された後、有力貴族の藤原基経(ふじわらのもとつね)は、皇族の者を訪ね回った。
基経が訪ねるや、誰も彼も大慌てなのに、ひとりだけは、落ち着いて、話を聞いた。
 そして彼こそは王の器だと基経の推薦を受け、五十八代目、『光考天皇(こうこうてんのう)』は即位した。

 光考天皇、在位は884~887年までの4年。

 光考天皇には多くの子がいたが、ほとんどが、単に天皇の家臣にすぎなかった。
その中でも、天皇によく仕えていたひとりが、五十九代目、『宇多天皇(うだてんのう)』となった。

 宇多天皇、在位は887~897年までの11年。

 宇多天皇は、新たに史実をよりはっきりさせた歴史書の製作を命じていたが、それが「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」という形で完成したのは、六十代目、『醍醐天皇(だいごてんのう)』の時代である。

 醍醐天皇、在位は897~930年までの34年。

才を招く優しさ

 六十一代目、『朱雀天皇(すざくてんのう)』(在位、930~946年までの17年)。
 六十二代目、『村上天皇(むらかみてんのう)』(在位、946~967年までの22年)。
 六十三代目、『冷泉天皇(れいぜいてんのう)』(在位、967~969年までの3年)。
 六十四代目、『円融天皇(えんゆうてんのう)』(在位、969~984年までの16年)。
 六十五代目、『花山天皇(かざんてんのう)』(在位、984~986年までの3年)。

 そして六十六代目、『一条天皇(いちじょうてんのう)』は七歳で即位した。
彼は優しき心で知られ、不平等を嫌った。
冬の寒い日に、わざわざ衣を脱いで、「民が寒がってるのに、自分だけぬくぬくなんて出来ない」と言ったという。

 また、有名な陰陽師の「安倍晴明(あべのせいめい)」や、古典作家として有名な「清少納言(せいしょうなごん)」や「紫式部(むらさきしきぶ)」は彼の治世の人達である。

 一条天皇、在位は986~1011年までの26年。

政治家としての天皇達

弱気と無関心

 六十七代目、『三条天皇(さんじょうてんのう)』は病弱かつ、弱気な性格で、自分勝手な家臣達の不正をいつも防げない哀れな王だった。

 三条天皇、在位は1011~1016年までの6年)。

 六十八代目、『後一条天皇(ごいちじょうてんのう)』(在位、1016~1036年までの21年)。
 六十九代目、『後朱雀天皇(ごすざくてんのう)』(在位、1036~1045年までの10年)。
 七十代目、『後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)』(在位、1045~1068年までの24年)。
 七十一代目、『後三条天皇(ごさんじょうてんのう)』(在位、1068~1072年までの5年)。
 七十二代目、『白河天皇(しらかわてんのう)』(在位、1072~1086年までの15年)。

 白河天皇は、悪王だったとされるが、息子でもある七十三代目、『堀河天皇(ほりかわてんのう)』は温和な人柄であった。
 ただし政治家よりも芸術家な人でもあり、和歌や楽器を愛した。

 白河天皇、在位は1086~1107年までの22年。

噂は当てにならぬ

 七十四代目、『鳥羽天皇(とばてんのう)』(在位、1107~1123年までの17年)。
 七十五代目、『崇徳天皇(すとくてんのう)』(在位、1123~1141年までの19年)。
 七十六代目、『近衛天皇(このえてんのう)』(在位1141~1155年までの15年)。

 七十七代目、『後白河天皇(ごしらかわてんのう)』は、鳥羽天皇の子なのだが、父含む多くの者から低く評価されていて、前評判は最悪であった。
 ところかこれが、いざ天皇になると優れた政治力を発揮して、家臣達の懸念を吹き飛ばした。

 また、彼の時代には、有力貴族の源氏と平家の争いが激突。
後白河天皇は源氏側を支援する。

 後白河天皇、在位は1155~1158年までの4年。

幼さと多芸と易占い

 七十八代目、『二条天皇(にじょうてんのう)』(在位、1158~1165年までの8年)。
 七十九代目、『六条天皇(ろくじょうてんのう)』(在位、1165~1168年までの4年)。
 八十代目、『高倉天皇(たかくらてんのう)』(在位1168~1180年までの13年)。

 六条天皇も高倉天皇も、若くして天皇となった幼帝だったのだが、八十一代目、『安徳天皇(あんとくてんのう)』などは、さらに若き王であった。
 彼は生後一ヶ月あまりで皇太子となり、三才で即位した。
そして八歳という若さで死んだ。

 安徳天皇、在位は1180~1185年までの6年。

 八十二代目、『後鳥羽天皇(ごとばてんのう)』は、たぐいまれなる多芸多才の人てあった。
和歌に画などの芸術に優れ、相撲や弓などの武術も好んだ。

 後鳥羽天皇、在位は1183~1198年までの16年。

 後鳥羽天皇の跡継ぎ候補は三人いたが、誰がなるかは易占いで決められたとされる。
そうして即位したのは、またしても幼い八十三代目、『土御門天皇(つちみかどてんのう)』であった。
四歳の即位である。

 土御門天皇、在位は1198~1210年までの13年。

王か傀儡か

 八十四代目、『順徳天皇(じゅんとくてんのう)』は幼い頃から和歌の才を発揮し、その神童ぶりは期待されていた。
 ただし、気性が激しく、感情的すぎるのは欠点であった。

 順徳天皇、在位は1210~1221年までの12年。

 八十五代目、『仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)』は、だいたい二ヶ月程度という、あまりに短い在位の為に、「半端者の皇帝」とよく笑われた。

 八十六代目、『後堀河天皇(ごほりかわてんのう)』(在位、1221~1232年までの12年)。
 八十七代目、『四条天皇(しじょうてんのう)』(在位、1232~1242年までの11年)。
 八十八代目、『後嵯峨天皇(ごさがてんのう)』(在位、1242~1246年までの5年)。
 八十九代目、『後深草天皇(ごふかくさてんのう)』(1246~1259年までの14年)。
 九十代目、『亀山天皇(かめやまてんのう)』(在位、1259~1274年までの16年)。
 九十一代目、『後宇多天皇(ごうだてんのう)』(在位1274~1287年までの14年)。
 この辺りの天皇は、権力を強くしていた鎌倉幕府の傀儡みたいな面もあったとされる。

期待外れと学問の人

 九十二代目、『伏見天皇(ふしみてんのう)』は、すっかり失われてしまっていた朝廷の権威回復によく努めたとされている。

 伏見天皇、在位は1287~1298年までの12年。

 九十三代目、『後伏見天皇(ごふしみてんのう)』の時代、三種の神器のひとつ「八咫鏡(やたのかがみ)」を保管していた「内侍所(ないしどころ)」のしめ縄が落ちるという事件があった。
何かの前兆かとも考えられたが、結局は何もなかった。

 後伏見天皇、在位は1298~1301年までの4年。

 九十四代目、『後二条天皇(ごにじょうてんのう)』は容姿端麗であったとされる。
ただ人気はあまりなかったという。

 後二条天皇、在位は1301~1308年までの8年。

 九十五代目、『花園天皇(はなぞのてんのう)』は、非常に学問を重んじる人であった。
「叡知とは、ただ言葉を暗記するだけではない。物の本質を見抜き、過去の全てを、未来に活かす事である」
などと言ったとされている。
 
 人柄もよく、ある時、長期の大雨に苦しむ民のために、神に祈った。
民のためなら、我が命すら差し出そうと誓った。

 花園天皇、在位は1308~1318年までの11年。

権威か思いやりか

 九十六代目、『後醍醐天皇(ごだいごてんのう)』は、自身の理想の政治を行うために、鎌倉幕府を潰した天皇である。
 しかし結局天皇の権威は、思ったほどは強くもならなかった。

 後醍醐天皇、在位は、1318~1339年までの22年。

 九十七代目、『後村上天皇(ごむらかみてんのう)』(在位、1339~1368年までの30年)。
 九十八代目、『長慶天皇(ちょうけいてんのう)』(在位1368~1383年までの16年)。
 九十九代目、『後亀山天皇(ごかめやまてんのう)』(在位1383~1392年までの10年)。
 百代目、『後小松天皇(ごこまつてんのう)』(在位1392~1412年までの21年)

 百一代目、『称光天皇(しょうこうてんのう)』は、弟の早死にや、父である後小松天皇との不仲により、精神を病んでいた。

 称光天皇、在位は1412~1428年までの17年。

 百二代目、『後花園天皇(ごはなぞのてんのう)』は、贅沢を悪とし、税などを嫌った事から「聖王」とされた。

 後花園天皇、在位は1428~1464年までの37年。

小さき島国の王達

戦国時代

 百三代目、『後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)』の時代、日本はいわゆる戦国状態突入し、朝廷は金に困っていて、この天皇は、死後の火葬すら危かったという。

 後土御門天皇、在位は1464~1500年までの37年。

 百四代目、『後柏原天皇(ごかしわらてんのう)』も財政難に悩まされ続けた治世であった。

 後柏原天皇、在位は1500~1526年までの27年。

 百五代目、『後奈良天皇(ごならてんのう)』の時代にも財政難は続いていて、彼は神に、大層な儀式も出来なくて申し訳ないと謝っている。
 しかも大名達の争いに加えて、食物が不作で、疫病もよく流行った、悲惨な治世であった。

 後奈良天皇、在位は1526~1557年までの32年。

 百六代目、『正親町天皇(おおがまちてんのう)』は、日本統一の野心を秘めた、かの織田信長(おだのぶなが)と通じ、財政的な援助を受けた。
 あくまで実質的な権力者の立場を信長に譲る事で、天皇家は生き延びたともされる。

 正親町天皇、在位は1557~1586年までの30年。

 そして百七代、『後陽成天皇(ごようぜいてんのう)』が即位した年に、豊臣秀吉が、実質的な最高権力者「太政大臣(だいしょうだいじん)」となった。

 後陽成天皇、在位は1586~1611年までの26年。

少女と無邪気と天変地異

 百八代目、『後水尾天皇(ごみずのおてんのう)』(在位1611~1629年までの19年)
 
 そして百九代、『明正天皇(めいしょうてんのう)』は、四十八代目、称徳天皇以来、859年ぶりの女帝であった。
それもわずか七歳での即位である。
 この少女天皇は手芸を好み、絵も得意だったという。

 明正天皇、在位は1629~1643年までの15年。

 百十代、『後光明天皇(ごこうみょうてんのう)』は、学問を好んだが、和歌や物語などの娯楽的作品は嫌った。
 そしてまた武芸を好み、剣術にあまりに熱心に打ち込むその姿に、臣下が「それ以上するなら切腹します」と止めようとしたが、彼はこう返したとされる。
「それはいい機会だ、実は切腹は見たことがなくてな」

 後光明天皇、在位は1643~1654年までの12年。

 百十一代、『後西天皇(ごさいてんのう)』の治世は、また悲惨であった。
江戸で大火事。
伊勢神宮の炎上。
大洪水や大地震が各地で勃発したという。

 後西天皇、在位は1654~1663年までの10年。

姉弟

 百十二代目、『霊元天皇(れいげんてんのう)』(在位1663~1687年までの25年)。
 百十三代目、『東山天皇(ひがしやまてんのう)』(在位1687~1709年までの23年)。
 百十四代目、『中御門天皇(なかみかどてんのう)』(在位1709~1735年までの27年)。
 百十五代目、『桜町天皇(さくらまちてんのう)』(在位、1735~1747年までの13年)
 
 七歳で即位した百十六代目、『桃園天皇』は、幼少時から漢字に造詣(ぞうけい)が深く、遊ぶ様が優美であったという。

 桃園天皇、在位は1747~1762年までの16年。

 百十七代目、『後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)』は、桃園天皇が早死にしたために、急遽即位した女帝である。
桃園天皇の姉にあたる。
 賢く、未来をよく考える人であり、跡継ぎ候補の教育にも熱心だった。

 後桜町天皇、在位は1762~1770年までの9年。

侵略者ヨーロッパ

 百十八代目、『後桃園天皇(ごももぞのてんのう)』(在位1770~1779年までの10年)。
 百十九代目、『光格天皇(こうかくてんのう)』(在位1779~1817年までの39年)。
 百二十代目、『仁考天皇(にんこうてんのう)』(在位1817~1846年までの30年)。
 彼らの時代に、海外では大きな変化が生じ始めていた。
 ヨーロッパの強国が、アジアを含む世界中に次々と植民地を広げていたのである。
 
 そして百二十一代目、『考明天皇(こうめいてんのう)』の時代に、ヨーロッパの魔の手はついに日本を捉える。
彼の即位から8年後、かのペリーが日本に来航したのである。

 強い愛国心こそ武器であった考明天皇は、開国などして、財産を外国にやるなどあってはならない。
そんなことすればこの国を作った神々にも、国を平定してきた歴代の天皇達にも、会わせる顔がないと考えていた。
 病死するその最後まで、鎖国状態の継続を願っていたという。

 考明天皇、在位は1846~1866年までの21年。

 それは日本という国が、日本内部だけで成り立っていた最後の時代であった。

私も人間です

 考明天皇以降、時代は、
 百二十二代目、『明治天皇(めいじてんのう)』(1867~1912年までの46年)
 百二十三代目、『大正天皇(たいしょうてんのう)』(1912~1926年までの15年)
を経て、百二十四代目、『昭和天皇(しょうわてんのう)』は、1946年に、第二次世界対戦で日本が敗北した時、自分のために戦ってくれた全ての国民と、その家族達に向けて、ある告白をした。

 「天皇と民は、神話やお伽噺によって繋がっている訳ではない」
それは例え自身がどうなろうと、
「私達は、ただ信頼と愛で結ばれている。私も、神などでなく、ひとりの人間だから」
愛する友人達のために、背負わせていた重荷を自ら破壊されたのである。

 昭和天皇、在位は1926~1989年までの64年。
伝説のような話を除けば、歴代で最長の治世であった。

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