「真田幸村」最後に日本一の兵となった強者

真田幸村

薩摩藩主の記録

 幼い頃は『弁丸べんまる』、通り名を『源次郎げんじろう』。
元服がんぷく、つまり成人の儀の後は『信繁のぶしげ』と名乗っていた。

 初代薩摩藩主さつまはんしゅ島津忠恒しまづただつねは、その男についてこう書いた。

 「日本一の兵、いにしえの物語にもこれに勝る者なし」

 江戸から明治にかけての薩摩藩主や家臣たちの文書を集めた薩藩旧記雑録さっぱんきゅうきざつろくにその一文はある。
たったひとりの兵を称えるものとしては、間違いなく最上級の言葉。

 忠恒が、日本一と評した男とは、戦国時代末期の武将。後世には『真田幸村さなだゆきむら』の名で知られた真田左衛門佐信繁さなださえもんのすけのぶしげ

 伝説でも、創作でもなく、間違いなく存在した「天下一の強者」である。

難波戦記と、幸村という名前

 今でこそ幸村の名で有名だか、実は信繁が幸村を名乗った事は生前一度もないという。

 ではなぜ今では、誰もが彼を幸村と呼ぶのか?
彼を指すのに、初めてその名が使われたのは、彼の没後から57年経った1672(寛文かんぶん十二)年に出版された『難波戦記なにわせんき』なる軍記である。
当然、この書は江戸時代の出版であり、幕府方の徳川とくがわを敵とする彼に本名を使わなかったのは、お上(幕府)への配慮とされている。
そしてこの難波戦記が人気を博した為に、幸村の名前がすっかり定着し、今に至るのだという。

 ちなみに幸村とはどうやら、今に名を残す真田家の他の者の名によく見られる「幸」という漢字と、徳川一族に災いをもたらしたという逸話を持つ妖刀「村正むらまさ」の「村」をくっつけて創られた名前らしい。

伝説の戦いまでの物語

出生

 1567(永禄えいろく十)年、戦国大名、武田たけだ家の傘下として、真田家はそれなりに名を馳せていた。

 その真田家ゆかりの地、真田郷さなだきょう
ではなく、武田家の本拠地である、甲斐かい国にて、幸村は生まれた。

 幸村の父は、武田の元で活躍し、最初に真田家の名を世に響かせた真田幸隆ゆきたかの三男、昌幸まさゆき
母は、後に敵対する年子(ひとつだけ上)の兄、信之のぶゆきと同じく、昌幸の正室、山手殿やまのてどの

人質として上杉家へ

 幸村の父、昌幸は三男である為に、本来は真田の姓を受け継ぐ立場にはなかった。
ところが、1574(天正てんしょう二)年に、幸村の祖父にあたる幸隆が死んでから、わずか一年ほど後に、昌幸の二人の兄、信綱のぶつな昌輝まさてるが戦にて死亡。
そういうわけで、昌幸は真田の名を継ぐ事になったのだった。

 しかし1582(天正十)年に武田家が滅亡。
昌幸は真田家当主として、お家を守る為、当時、すでに天下統一に最も近くあった織田家の元へ。
ところが、織田の傘下となってからわずか数ヶ月で、配下の裏切りにより織田家当主、信長は死亡。
さらに紆余曲折あり、わずか一年足らずで、昌幸は真田家の主を、北条ほうじょう、徳川と次々に鞍替え。

 後に『表裏比興ひょうりひきょう』。
つまりは卑怯者と馬鹿にされたりもするのだが、それは昌幸なりの真田家を守る為の戦いであった。

 そして1585(天正十三)年に、徳川とも決別した昌幸は、当時徳川と敵対していた上杉うえすぎ家に走る。

 戦国時代にはよくあったが、ある家が、より大きな家の配下となる時、忠義の証として、親族の誰かを人質として差し出したりする事がある。

 そんなわけで、当時、19歳だったとされる真田家の次男、幸村は、人質として上杉家の招待を受ける。
そして、そんなわけだから、上杉の所有する春日山城で過ごしていた幸村は、後に激戦を演じる運命にある、徳川軍と、真田家との最初の戦いである「上田城の戦い」には参加出来なかったとされている。

上田城の戦い

 1585(天正十三)年、裏切り者の昌幸に対し、徳川は一軍を真田家所有の上田城へと向かわせる。

 真田軍3000に対し、徳川軍は8000。
数において明らかに不利な戦いであり、最初、城外に打って出てきた真田軍を、徳川軍は次々と蹴散らし、そのまま城内へと侵入。

 しかし実は、ここまで全て、昌幸の作戦通りの事であった。
城内にて徳川軍は、張り巡らされた柵に動きを止められ、そこを真田軍の鉄砲隊が突如狙い撃ち。

まさに袋の鼠とはこの事であった。
ネズミ「ネズミ」日本の種類。感染病いくつか。最も繁栄に成功した哺乳類  混乱状態の徳川軍を、さらにあらかじめ潜んでいた伏兵隊が襲撃。

 哀れ、怒濤の予想外攻撃に、徳川軍は退却を余儀なくされるも、その退路にも昌幸は罠を仕掛けていた。

 退路には川があるのだが、昌幸はあらかじめ仲間にその上流にしきりを置いて、水流を止めておき、徳川軍が撤退してきたタイミングで、しきりを外したのである。
当然、川は急に水嵩を増やし、徳川軍の兵は次々と溺死。
 
 そしてなんとか川を抜けたかと思うと、待ち構えていた信之の部隊の襲撃。
もはや徳川軍に逆転の目はなかった。

 徳川軍は見事1000人以上の犠牲を出すという、恥ずかしすぎる大敗。
一方で圧倒的不利を覆し、勝利をものとした昌幸は、凄まじく名を上げた。

 そしてこの戦いが、後に、江戸幕府を立ち上げる、徳川当主、家康いえやすと、「家康の天敵」などと呼ばれる事となる真田家との因縁の始まりであった。

豊臣秀吉

 上田城の戦いでは勝利したものの、徳川軍はやはり強大であり、昌幸はさらなる後ろ楯を得ようと、上杉のさらに上に立つ豊臣家と繋がりを深めていく。

 ところがやがて豊臣は徳川をも配下として取り込み、昌幸は、徳川の下につかされる可能性を危惧。
そんなこんなで、ある時、豊臣家当主、後に最初の天下人となる秀吉ひでよし直々のお呼びがかかるも、昌幸はこれを渋ってしまう。

 昌幸の態度に激怒した秀吉だったが、上杉景勝のとりなしもあり、大事にはならずにすんだ。
しかしさすがにもう、昌幸は、お呼びを無視出来ず、秀吉の元へ。
結果的には、春日山城の幸村を、新たに秀吉に献上。
幸村の人質人生第二幕がこうして始まったのだった。

 しかしこの新たな人質生活が、幸村に与えた影響は大きいとされる。
天下人街道をひた走る秀吉と、その配下の武将たちから、政治や軍法を学び、おそらくはその経験を糧として、幸村は、日の本一の兵への道を歩み出したのである。

名胡桃城事件

 かつては決別したが、結局は同じ主の下に並ぶ事となった、真田と徳川。
そしてそこにはさらに、真田との間に領土問題を抱えていた北条もあった。
真田と北条は沼田という地域の権利で揉めていて、徳川はまた、北条の肩を持っているという状態であった。

 しかし沼田の領土問題は、1589(天正十七)年に、豊臣秀吉が直々に介入した事で決着がつく。

 秀吉は妥協案を提供。
真田が、現在の群馬県にあたる上野こうずけに持つ領土の三分の二と沼田を北条に渡す。
代わりに、真田が北条に渡したのと同じくらいの規模の領土を、徳川が真田に渡す。
上野の三分の一も、そこにある名胡桃城なぐるみじょうともども真田がそのまま所持。

 真田、北条、徳川、それぞれ上の存在である秀吉のこの案を断る事はなかった。

 秀吉の案により、北条は沼田城を手にしたわけだが、問題は真田に残された名胡桃城であった。
実は、高台に建てられた名胡桃城は、沼田城を見下ろせる位置関係にあり、北条側としては沼田城を手に入れながらも安心して使う事ままならないという状況となる。

 秀吉は、名胡桃城を、真田に与えた理由を、真田家の先祖の墓がある為としたのだが、実はそんな事実はなく、この状況は秀吉の陰謀であった。
目前に控えた天下統一にあたり、最終的には邪魔となるかもしれない北条を滅ぼす為の。

 そして見事、秀吉の思惑通り、沼田城が北条のものなってからわずか数ヶ月後には、北条から沼田城を任された猪俣邦憲いのまたくにのりが、名胡桃城を襲撃。
真田から名胡桃城を任されていた鈴木主水すずきもんどを自害に追い込む。

 秀吉は傘下の者たちに争いを禁じる法を制定していて、後に『名胡桃城事件』と呼ばれる、猪俣邦憲のこの暴挙は明らかに、これに反するものであった。

 北条は、全て邦憲の独断だと弁明するも、秀吉は取り合わず、北条に宣戦布告。
翌年には、北条の本拠、小田原城おだわらじょうを初めとして、北条の所有する城の数々を秀吉軍が攻撃。

 その北条の城のひとつ、松井田城まついだじょうを攻める軍に、秀吉の命で参加したのが、幸村、記念すべき初陣であった。
幸村、24歳頃の事である。

初陣にて、見事手柄取り

 北条氏を滅ぼした、その秀吉の陰謀戦争により、幸村は初陣ながら見事手柄を立てたという。
ただし手柄といっても、真田家の記録に残っているだけなので、大したものでもなかったようである。

 しかし兵としてよく働いた為か、幸村は人質生活を終え、真田家に戻る事を許される。

 北条の手に渡されていた沼田は、真田に返され、信之が領有する事となる。

結婚

 1954(文威禄三)年頃の事。
朝廷から左衛門佐さえもんのすけなる官位が授けられた幸村は、この時期に結婚する。
その結婚相手が、秀吉の側近の一人、大谷吉継おおたによしつぐの娘であった事で、幸村は豊臣家との繋がりを強くする。

 一方で、兄の信之は、徳川の有力家臣、本多忠勝ほんだただかつの娘と結婚し、徳川家との縁を深めていた。

 こうして真田兄弟はそれぞれ違う道を歩み始め、後に対立する事となっていく。

犬伏の別れ

 1598(慶長けいちょう三)年に秀吉が世を去るや、突如徳川家康は勢力を広げ始め、新たな天下人を目指しだす。
 しかし当然反発する者も多く、そのひとり上杉景勝は、家康との敵対を視野に入れ、軍を整備。
そこで家康は、「上杉に、豊臣家への謀反の企てあり」と触れ回り、各地の武将たちに呼びかけ討伐隊を結成。
自ら軍を率いて上杉家の元に進軍。

 一方、秀吉に長年仕えた政治家の石田三成いしだみつなりは、家康が上杉討伐に気を向けている隙に、仲間を集め、打倒徳川を計画。

 その頃、真田家はというと、秀吉が亡くなり、実質的に最大の権力を持つ徳川の命令に逆らう事も出来ず、恩もあり、よき関係を築いてきた上杉の討伐に仕方なくも参加。
 しかし、下野国犬伏しもつけこくいぬぶしという土地まで軍を進めた所で、昌幸のもとに、一通の手紙が届けられる。

 それは三成率いる徳川打倒軍からの勧誘状であった。

 昌幸は、先発していた信之を急遽呼び寄せてから、幸村も交え、父子三人で一晩話し合った。

 三成の誘いは、幸村にとっては願ってもない事だった。
犯人の中でも、彼は特に秀吉との縁が深く、上杉家も人質だった自分に、それなりによくしてくれた相手。
しかし信之は、徳川方との縁が深く、そんな簡単に裏切るわけにも行かない。

 結局、最終的には、幸村が昌幸と共に徳川打倒軍へ。
信之がそのまま徳川軍に、と真田家の道は完全に違える事となったのだった。

上田城の戦い、再び

 昌幸と幸村は、しかし打倒軍に直接加勢しに行くのではなく、上田城へと向かった。

 昌幸の、徳川への敵対心は、信之を通して伝えられたはずなので、その昌幸率いる真田軍が籠城する上田城には、必ず徳川軍が攻めてくるはずだと、昌幸は考えていたのだ。
 
 そして予想は当たり、すぐに徳川軍は上田城を攻めてきた。
ただその規模はさすがの昌幸も予想外だったかもしれない。

 いつか8000の徳川軍を相手にした昌幸。
今回も自身の軍は3000。
しかし一方の徳川軍は、家康の後継者、秀忠ひでただ率いる、なんと38000もの大軍であった。

 秀忠は、余裕をもって、昌幸に告げた。
「今からでもこちら側につけば、褒美を与えてやろう」
兵力差は歴然としている。
もし戦えば徳川軍の勝利は確実であるので、秀忠は、昌幸がよもや断るとは思ってなかったのだろう。
「実にありがたい。家臣共にも話したいので、しばし待ってほしい」という昌幸の返答を秀忠は素直に受け止めてしまう。

 だがこれは単に時間稼ぎにすぎなかった。
昌幸は返事など返さず、ついには送り込まれてきた新たな使者に、「我々は豊臣につく」とはっきり返答。
さすがの昌幸も、38000もの兵を、打ち負かそうなどとは考えてもいない。
彼の目的は最初から、その38000もの兵の足止めにあったのだ。

 怒りのままに上田城へと攻め寄せる徳川軍。
しかしこの戦いは結局、徳川にとって、かつての悪夢再来となる。
徳川軍を充分に引き付けた後、真田軍は一斉に攻撃。

 幸村もこの戦いでは、伏兵部隊を率いてそこそこ活躍。
徳川部隊を奇襲により混乱させ、蟻を潰すような戦いだったはずの戦いは、いつの間にか一進一退の攻防となる。
そしてそうして時間を潰されてしまった秀忠軍は、結果的に、関ヶ原せきがはらにおける総力戦に参加する事が出来なかったという。

九度山へ

 決戦期間中、4万近くもの徳川軍を見事足止めした真田軍だったが、結局、関ヶ原の総力戦で、徳川打倒軍は敗北。
それでも最初は命ある限りの籠城ろうじょうを決意していた昌幸だったが、上田の地を徳川に任されたのが信之だと知ると、ついには上田城を後にして幸村と共に、徳川の元へ投降。

 当然、昔も含め、徳川に二度までも苦い思いを味わわせた昌幸と、彼と共に戦った幸村は、死罪を言い渡されるも、それはなんとか信之の嘆願により立ち消えとなる。

 しかし昌幸、幸村親子は、地位も土地も剥奪され、高野山こうやさんにて軟禁生活を強いられる事となる。

 父子は16人の家来と共に高野山に入り、しばらくすると、許しを得て、高野山麓の九度山村くどやまむらの屋敷に移住し、そこで穏やかに、しかし武士としては屈辱の日々を送り始めた。

 やがて昌幸も世を去り、残された幸村は、貴族として再帰する事も、武士として戦場に散る事も出来ず、ただただ惨めに歳を重ねていった。

 親戚に、「近頃は髪も薄くなり、歯も抜けてきて、とにかく疲れてます」などという、弱音を綴った手紙を送ったりもしていたという。

家康の言いがかり

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、実質、天下人となった今の自分の立場を、次世代の徳川家にも引き継がせる為に、将軍の座を早々に、秀忠へと譲り渡した。
 
 しかし立場は完全に逆転したとはいえ、秀吉の残した大量の金銀を持ち、他の家に比べると領土も広い豊臣家は、家康にとって油断ならない存在である。

 そこで家康は、豊臣家が建てた『方広寺ほうこうじ』なる寺の釣り鐘に書かれた「国家安康こっかかんこう」という一文が、(家と康を分断している為に)家康を酷く侮辱しているとの言いがかりをつけて、豊臣家を滅ぼす為の戦国時代最終戦を開幕。

 後にふたつの『大阪の陣』として語り継がれるその戦いにて、九度山でくすぶっていた幸村は、大いに活躍し、伝説となるのである。

真田一族について

 伝説の戦いの話に入る前に、真田幸村を生んだ、真田一族について、説明しておく。

幸隆

 幸村の祖父、幸隆以前の真田家については謎とされている。
ただし現在残された記録によると、どうやら幸隆は、武田家に滅ぼされた海野氏うんのしなる一族の生き残りの者らしく、彼は最初、現在の群馬県にあたる上野の上杉憲政のりまさを頼ったが、上手くいかず、結局、仇であった武田家に取り入る。

 海野の故郷を滅ぼした時とは当主も変わっていたので、幸隆の恨みも和らいでいたのだろう。
その武田の新しい当主、信玄しんげんの元で、幸隆は大いに活躍。
特に難攻不落とされていた砥石城という城を武田軍が攻めた時は、内部争いを誘発させるなどの策略により、これを幸隆が見事に攻略。
 
 砥石城の件で、武田家内での幸隆の地位は急上昇。
彼は、信玄から領地ももらい受け、その領地内にあった真田卿に本拠地を構えて、その地にあやかり、姓も真田と変えたのである。

昌幸

 幸隆には四人の息子があったが、幸隆の死から間もなく、長男、信綱と次男、昌輝も戦死し、真田の名は、三男であった昌幸が継いだ。

 昌幸は信玄の後継者、勝頼かつよりの元で、父のように活躍するも、1582(天正十)年に武田家が、織田と徳川の連合軍に滅ぼされてしまうと、まずは織田家へと走る。
しかしその織田家も家臣の謀反により、すぐに滅びてしまい、続いて昌幸は北条家に取り入る。
ところが北条とはすぐに、沼田を巡る領土問題で揉め、今度は徳川へ走った昌幸。
それから三年は徳川に仕えたものの、徳川が北条と手を結び、領土問題に関して、北条側に味方した為に、昌幸はまたしても主を変える事となる。

 最終的な主となった豊臣秀吉は、短期間に次々と主を変えた昌幸を、「表裏比興」、つまり卑怯者だとバカにしたという。

 だが、昌幸は単なる卑怯者などでは絶対になかったろう。
それは上田城での二度の戦いにおける華々しい勝利が示している。

 それに、後に豊臣家との最終決戦時、真田が高野山を離れ、豊臣の元へ向かったと聞いた時、家康は体を震わせながら、まず確認したという。
「それは父の方か?息子の方か?」と。
昌幸はすでに死んでいる為、間違いなく息子の方だと聞き、家康は安堵したという。
もちろんそれは少々早計だったわけだが。

信之

 弟の幸村に比べ、少し地味な存在であるが、幸村が参加出来なかった上田城最初の戦いでは、かなり活躍したという記録が残っている。

 そして関ヶ原の戦いの時、犬伏にて、昌幸、幸村と決別した後、上田城を攻める秀忠の軍に、彼も参加していた。

 幸村とも対峙したが、その時は、兄の姿に気づいてからすぐに幸村が撤退した為に、兄弟が死闘を演じる事はなかったという。

 信之の名は元々、「信幸」と書いたのだが、関ヶ原の後に、父の名前にもある幸という漢字を取って、信之と改名した事から、彼の決意が見て取れる。

 信之は真田家を守る為に、耐える戦いを選択。
徳川家が完全に天下を治め、江戸の世となった後も、有力貴族との繋がりを守り、実に90歳以上を生きて、明治維新まで残る真田家存続の立役者となったという。

大阪の陣

 

豊臣の元に集った五人衆

 1614(慶長十九)年、言いがかりをつけて、豊臣家を滅ぼすために、その本拠である『大阪城』襲撃を決定した家康は、各地の将を呼び集め、一大軍を結成。

 もちろん、豊臣家の方もただ黙ってはいない。
名のある家の大半が徳川につくも、その莫大な遺産により兵を集う。
徳川と因縁ある没落貴族や浪人たちも続々と集結。

 そして集まった兵の中でも、特に有力な五人は、『五人衆ごにんしゅう』と称えられ、徳川軍を大いに苦しめる事となる。

 かつて秀吉の軍師、黒田官兵衛くろだかんべえに仕え、数々の戦にて活躍したが、官兵衛の息子、長政ながまさに嫌われ、袂を分かち、それからは浪人暮らしを余儀なくされていた後藤又兵衛基次ごとうまたべえまたつぐ

 元々は四国統一を果たした事もある名家の子でありながら、関ヶ原の戦いで三成に加勢した上に、お家騒動で兄を殺した経歴から家康に嫌われ、地位を剥奪されながらも、忠実な家臣たちと共に再起を夢見ていた長宗我部盛親ちょうそかべもりちか

 盛親と同じく、関ヶ原で三成側についた武将であり、その為に終戦後、領地を剥奪され、今回も最初から大阪びいきだったが、家族の為に迷っていたところ、その家族に「覚悟は出来ている」と後押しされ、大阪行きを決意した毛利勝永もうりかつなが

 そして熱心なキリシタンであり、信仰の自由を条件に、キリシタン軍共々、大阪城入りした明石全登あかしてるすみ
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  もちろん最後のひとりは、後に「日本一の兵」として名を残す事となる幸村その人であった。

最強軍団の再結成

 1614(慶長十九)年、10月。
九度山の幸村は、大阪からの密偵からの誘いを受ける。

 豊臣への恩、徳川への敵対心。
何よりも、再び武将として戦える喜びに、幸村は震えたであろう。
彼は密偵の誘いを快く承諾し、すぐに九度山を脱出。
そして幸村の九度山脱出の話を聞いた、真田家の家臣たちも、大阪城へ向かう彼の元に集結。

 ここに、最強と称された真田軍団が再結成されたのである。

冬の陣と真田丸

 言わば豊臣と徳川の天下分け目の最終決戦である大阪の陣。
その第一戦となる『冬の陣』の時には、防御力最強と謳われる大阪城がある為に、話し合いの末、豊臣軍は籠城戦を決定。

 豊臣軍十万に対し、徳川軍二十万。
この兵力的には圧倒的不利な戦いにおいて、幸村に任された役割は、平原続きで地形的に弱点となる大阪城南側の防御であった。

 幸村はそうと決まってから、すぐに防御戦の為の『出丸』、つまり小城を建設。
それを『真田丸』と称して決戦に備えた。

 やがて押し寄せた徳川軍を、幸村は、偵察隊の射撃で挑発。
その繰り返される挑発に、ついに我慢できず突撃してきた部隊に、真田丸にて得意の一斉射撃。
 さらに同じ頃、事故による火薬の爆発音を、スパイの合図と勘違いした徳川軍は、好機とばかりに、真田丸に次々突撃。

 しかしこうなっては、待ち伏せ攻撃を得意とする真田流の思う壺である。
押し寄せる徳川軍を次々と堀や射撃の罠にかけ、一夜の戦いが終わる頃には、徳川軍には10000を越える犠牲者が出てしまっていた。
これはまさに、二度の上田城の戦いをも越える圧倒的勝利であり、この輝かしい大勝利が、真田家の新参としてでなく、真田幸村の名前を列島中に知らしめたのであった。

 ところが、その後、遠くより放たれてきた大砲の弾によって、お付きの者の死を目の当たりにしてしまった、豊臣方の実質的最大権力者、豊臣当主秀頼の母、淀殿よどどのは、徳川方が提案する和睦に応じてしまう。

 そうして、大阪冬の陣は終戦の運びとなったのだった。

夏の陣

 徳川は、和睦の条件として、大阪城を守る深い堀を埋め立て、そしてしばらくすると、再度、「豊臣に反逆の意思あり」と難癖をつける。
 そうして戦国最後の戦いとなる、大阪の陣、第二戦となる『夏の陣』が開幕。

後藤又兵衛、散る

 前回とは違い、もはや堀を埋め立てられた大阪城に防御力はなく、豊臣軍は、どんなに無謀であろうと、平原での直接対決に打って出るしかない。

 徳川方は大和(奈良県側)、河内(大阪東部側)の二方面から軍を進軍させ、道明寺なる寺で合流してから、一気に大阪を叩こうとする。

 豊臣方は先手を打ち、合流前に、河内軍を盛親率いる部隊が、そして大和軍を、又兵衛、勝永、幸村の部隊が迎え撃つ事に決定。

 しかし合流場所にいち早く着いた又兵衛は、勝永、幸村の両部隊が来るよりも先に、二万を越える徳川軍を確認。
敵はまだ又兵衛の軍に気づいてはいない。
まさに奇襲をかけられる好機。
援軍を待ってはいられなかった。
2800人の又兵衛軍は、高地から徳川軍を勢いよく攻撃。
又兵衛軍は、徳川軍を徐々に追い詰めるも、徳川方の援軍がそこに駆けつけた事で形勢は逆転。

 又兵衛は自軍に対し叫んだ。
「もうよい。死にたくない者はどうか去ってくれ」
去る者はひとりもいなかったという。

 そして乱戦の中、鉄砲に撃たれ、馬から落ちた又兵衛は、家来の金方平左衛門かねかたへいざえもんに言った。
「俺の首を、あんな奴等に渡すな」
平左衛門は承知し、又兵衛の首を斬って、その場に埋めたという。

 こうして又兵衛軍は、徳川軍相手に八時間以上もの間、善戦し、しかしついには全滅した。

八尾の戦いと長宗我部盛親

 大和方面で、又兵衛が激闘を演じていた頃。
河内方面の、八尾やおでは盛親軍が、徳川の河内隊を襲撃。

 この時、盛親は真田のような、待ち伏せ兵を使った戦術で、徳川軍を追い詰めるも、大和側の戦いと同じく、徳川方の援軍が来ると、逆に追い詰められる形となる。

 結局盛親は、逃亡するも、後に捕らえられ斬首となった。

徳川軍に男はいない

 幸村と勝永の軍が、又兵衛との合流に遅れてしまったのは、思いがけず発生した霧のせいであった。
 ようやく両軍が又兵衛の元に現れた時、既に戦いは始まり、又兵衛は戦死してしまっていた。

 失態をおかしながらも、幸村、勝永の軍は既に数えきれぬほどの大軍となっていた徳川軍と戦闘を開始。
この時の幸村軍の強さは、伝説となるにふさわしいものだった。

 幸村軍は又兵衛を撃ち取り、士気をあげていた、徳川方の有力武将、伊達政宗だてまさむねの軍を相手取り、見事大打撃を与える。 
龍「伊達政宗」独眼竜と呼ばれた戦国武将  しかし八尾で盛親軍が敗北したとの知らせが届くと、幸村らもさすがに一旦引くことを決意。

 幸村をしんがりとし、撤退する豊臣軍。

 この時追撃しようとする徳川方の仲間たちを止めたのは政宗だった。
知将とされた政宗は、真田流の待ち伏せ戦法を知っていて警戒していたともされる。

 そして徳川軍が追ってこないと見るや、振り返り幸村は叫んだ。
「徳川軍は数はいるのに、男はひとりもいないみたいだな」

 とはいえ、幸村はこの後すぐに、娘の一人を伊達家に託していて、本音は、政宗の冷静な判断を評価していたようである。(コラム1)

(コラム1)真田と伊達

 歴史上明らかとなっている(戦国時代における)真田と伊達の関わりはこの時ぐらいであるらしい。
 幸村は伊達というより、伊達の側近である片岡の元に娘を送ったとも言われるから、案外真田家と片岡家に何か繋がりがあったと考えるのもよいかもしれない。

 何にせよ、幸村と政宗は同年代くらいだったというから、実は記録に残ってない繋がりがあった。とはしやすいと思う。
 真田が各地の情報を集めさせていた忍者が、伊達家に知られてしまったりとか。
手裏剣「忍者」技能と道具、いかにして影の者達は現れたか? そういう感じで。

毛利勝永が開いた道

 翌日、大阪城南側に陣取った150000もの徳川軍。
もはや豊臣方に残された対抗手段は、総大将、徳川家康を直接討ち取る事のみ。

 そこで幸村らは、前線にて幸村軍と、勝永軍が囮となり、手薄となった徳川軍本陣に、全登の軍が奇襲をかけるという作戦を立てる。

 しかし、鉄砲隊が先走って、機を待たずに射撃戦を始めてしまった為に作戦は破綻。

 こうなっては、もう真田、勝永に残された道は、一か八かの突撃のみ。
逃げなどという選択は彼らの頭にはなかった。

 勝永軍は先攻し、徳川兵を、次々撃退。
しかしついに追い詰められると、さすがの勝永も撤退。
だがこの時、彼の部隊が徳川軍の前衛をバラバラにした事で、後続する幸村軍は、突撃をしやすくなる。

 そして撤退した勝永は、大阪城へ戻った次の日に、秀頼を介錯後に自害する。

五人衆唯一の生還者(?)、明石全登

 本来の作戦では徳川本陣襲撃を任されていた全登は、作戦が破綻してしまってからは、普通に戦うも、次々敗走する味方部隊を見て、自軍も撤退を決意。
 彼は結局失踪し、五人衆の中で、唯一その後が謎となった。

 ただ彼は自殺を禁じられたキリシタンだったので、自害とかはしていないとは思われる。

真田幸村の伝説的な最後

 幸村の祖父幸隆が定めた、真田家の家紋である『六文銭ろくもんせん』は、仏教において、あの世での通貨であり、それは「武士たる者、いつ死んでも構わぬ」という幸隆の覚悟の現れであった。
 
 その思いは、子、昌幸。
そして孫である幸村に受け継がれていった。

 幸村軍の赤に染められた甲冑も、まさに決意の証であった。
戦場にて目立つ赤色で、「真田幸村軍団ここにあり」と示したのである。

 大阪夏の陣。
幸村軍、最後の突撃。
その勢いは凄まじく、幸村軍は、徳川軍を蹴散らしながら、真っ直ぐに突き進み、ついには徳川本陣の前に姿を見せる。

 その赤き鬼神のごとき幸村の戦いぶりに、徳川本陣を守っていた兵たちも、恐れをなして次々逃走。
家康は、壊滅状態の本陣から12キロほども逃げるはめとなり、幸村が迫ってきた三度の危機にて、三度とも死を覚悟させられたという。
筆使い「鬼」種類、伝説、史実。伝えられる、日本の闇に潜む何者か  だがさすがの幸村も圧倒的な多勢に無勢。
ついには力尽き、そこを西尾にしおという武将が襲撃。
打倒家康の悲願叶わず、幸村は討ち取られてしまう。

 しかし、この戦いにて幸村は伝説となった。
数の不利などものともせず、仲間と共に人外的な強さで、大いに暴れた彼を、終戦後、誰もが褒め称えた。

 かの家康自身も、西尾が幸隆を討ち取ったと聞いた時、むしろ激怒したという。
「嘘をつくな。西尾ごときにやられるものか」
そう言ったとされている。

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