「琉球の歴史」統一王朝までの歩み、東シナの大貿易国、日本の支配の手

沖縄諸島

 九州の南の方から、放物線を描いて台湾まで伸びているような島々。かつては日本でなく、『琉球王国りゅうきゅうおうこく』という国があった。

 『屋久島やくしま』と『種子島たねがしま』より南に『奄美大島あまみおおしま』。その奄美大島の北には、南北で大きく変化する動植物相の境目ともされるトカラ海峡。 沖縄本島はさらに南であるが、奄美大島はちょうど鹿児島市と沖縄本島との真ん中ぐらい。

 『琉球諸島(Ruucuu-reptoo)』と言えば、古くは奄美大島も含んでいたようである。しかし2011年、『国土交通省こくどこうつうしょう(Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism。MLIT)』の『国土地理院こくどちりいん(Geospatial Information Authority of Japan)』と、『海上保安庁かいじょうほあんちょう(Japan Coast Guard。JCG)』の『海洋情報部かいようじょうほうぶ(Hydrographic and Oceanographic Department))』が開催した「地名等の統一に関する連絡協議会」で、奄美大島は定義的に除外された。 その定義によると、琉球諸島とは、沖縄諸島と先島諸島さきしましょとう(宮古列島、八重山列島、尖閣諸島)の総称。

 沖縄は地理的に、その北に日本と朝鮮、西に中国、南は『バシー海峡』を抜けて東南アジアに繋がっている。 1853年と54年に黒船を来航させたペリーは、本州の浦賀うらが(神奈川県横須賀市東部にある地域)に行く前に、まず沖縄本島南の『那覇なは』に立ち寄ったりしていた。そして合衆国政府にも、開国要求に幕府が応じない場合に、アメリカが極東に持つべき拠点の最有力候補は琉球だと報告していたという。

先史時代の琉球列島

 琉球諸島にいつから人が住むようになったのかは結構謎。しかし少なくとも、(放射性炭素年代測定法により)数万年前のとされている人骨がいくつか見つかっているそうである。
古い遺跡に、よく化石化したシカ(鹿。Cervidae)の角が出土するので、昔の沖縄人にとっては(現在は基本的に絶滅してしまったと考えられている)シカの肉が重要な食料だったと考えられている。シカの角や骨に加工を加えて道具とした『骨角器こっかくき(bone tool)』の文化があったともされている。

 日本列島で旧石器時代といえば、だいたい1万6500年前くらいまでの時代とされる。
琉球諸島における旧石器時代の化石人類としては、那覇市の『山下町第一洞穴遺跡やましたちょうだいいちどうけついせき』で発見された『山下洞人やましたどうじん(約3万2000年前)』。沖縄県島尻郡具志頭村ぐしかみそん(現在の八重瀬町)の『港川人みなとがわじん(約2万年前)』。『伊江島いえじま』のゴヘス洞人(約2万年前)。宮古島市の『ピンザアブ洞人(約2万6000年前)』などが知られているが、紀元前5000年くらいから始まったとされる『沖縄貝塚文化おきなわかいづかぶんか』との関連性もどれくらいあるのか、よくわかっていない。

 貝塚時代にはすでに焼畑農耕が存在していた説もあるが、基本的には、野山の木の実や、イノシシ(猪。Sus scrofa)やカタツムリ(蝸牛。Euhadra)を食料とした陸型採集と、貝殻や魚類を取る海型採集を合わせた、自然物採集経済だったと考えられている。
土器、石器も造られ、存分に使われていたようである。
この時代は11世紀くらいの、『グスク時代』まで続いたとされる。

 グスク時代では、穀類の農耕が行われ、鉄器も利用されるようになった。外来文化からの影響を思わせる土器なども発見されたりしているという。
また、グスクとは信仰の対象とされていた特定の場所、聖域であったらしい。グスクは後に「城」の意味でも使われるようになるが、そうなってからでさえ、城の中には聖域があることが、一般的だったようだ。
統一王朝が現れてからも、日本の支配が及ぶ以前の琉球において、城は単に権力者の家であったり、戦のための基地であるだけでなく、宗教的に重要なものだったのである。

琉球王国の伝説的な初期王たち

天孫氏。誰の名前も残っていない一族

 17世紀頃に成立した『中山世鑑ちゅうざんせいかん』、『中山世譜ちゅうざんせいふ』。18世紀に成立したとされる『球陽きゅうよう』などの正史書には、『天孫氏てんそんし』という沖縄における最初の王族のことが書かれている。しかし25代の治世続いたとされる、その天孫なる一族は、歴史を長く見せるための架空のものだと考えられている。その開祖は、天帝という神の長男であるという。

 沖縄本島を『国頭くにがみ』、『中頭なかがみ』、『島尻しまじり』という3地域に分ける考え方がある。中山世鑑によると、その区分を始めて適用させたのは天孫氏らしい。
天孫氏はさらに、人々に食事や住居、農業に、塩や酢の製法を教えた。中山に城都を建て、それを『首里しゅり』と名付けた。『間切まぎり(郡)』を置き、『按司あじ(地方豪族の首長などの称号)』をおいて、行政をほどこした。ただし彼らの時代は遥かに古代の頃なので、記録も全然残っておらず、天孫氏25代の姓名はまったくわかっていない。とのこと。

舜天。平安の世の日本との関係

 天孫氏の25代王の後継者が、臣下の利勇りゆうに殺されたのが、淳熙じゅんき(1174~1189)の頃で、これをきっかけに、あちこちの治安が乱れてしまった。そして、浦添按司うらそえあじだった尊敦そんとんの軍が利勇を攻めて、追いつめられた利勇は、妻子とともに心中した。
尊敦は、国中の人の尊敬を集めて王位について、舜天しゅんてん(1166~1237)と呼ばれたが、この舜天こそ初代琉球国王。しかしやはり架空の人物という説が有力。仮に実在した人物なのだとしても、琉球にやってきた平安時代の武将、源為朝みなもとのためとも(1139~1170)の子供という伝説は史実ではないだろうとされる。

 源為朝は、琉球に妻子を持ったものの、故郷が懐かしく思われ帰国しようとした。しかし船が嵐に阻まれてしまうためになかなか帰国の願い叶わない。原因は女を船に乗せているためだということで、泣く泣く妻と子を残して自分だけ帰ることにする。
妻は夫の帰りをずっと待っていたようだが、結局帰っては来なかった。という話。

英祖。仏教を広めた太陽王

 舜天の王族の三代目であった義本ぎほんの治世に、飢饉や疫病が広がる。義本は自らの徳のいたらなさを痛感し、英祖えいそ(1229~1299)という人物に政事を助けてもらい、災いをおさめた。そして英祖は、禅譲ぜんじょうによって新たな王となった。

 英祖の父は浦添按司だったが、その妻にはなかなか子供が生まれなかった。伝説によると、ある時に妻は、日輪(太陽)が飛来して自らの懐に入る夢を見て、目覚めたら身ごもっていた。生まれた男の子が英祖であり、だから彼は太陽の子なのだという。

 1260年に即位した英祖は、翌年にはあちこちの田野でんやを巡って、耕地の境界を定めることで民力みんりょくを等しくし、生産性を高めた。
また、浦添に『極楽山ごくらくざん』という陵墓りょうぼを築いた。
また1264年から、久米島、『慶良間けらま』、『伊平屋いへや』といった、 他の島々からの『入貢にゅうこう(外国の使者がみつぎものを持ってくること)』も増えてきた。1266年に、初めて奄美からの使者も来たが、「私の政令も及ばない、それほど遠くの島から、なぜやってこられたのか」と英祖は聞き、使者は「私たちの島々は天候に恵まれていて、とても豊かなのですが、これはあなた様の善政と威光のなせるわざかと存じているのです」と返したという。
英祖は、 他の島からの入貢に備えて、『とまり』に公館を建てて、他島に関することを司る官吏をそこに置いた。公館の北には貢物を収めるための倉庫もあった。

 咸淳かんじゅん(1265~1274)の頃には、浦添城の西に『極楽寺ごくらくじ』という臨済宗りんざいしゅうの寺を建てて、琉球に漂着していた禅鑑ぜんかんという僧に与えた。沖縄における仏教史はここから始まったのだとされる。

察度。農民と天女の子

 英祖の王族は5代続いたが、その5代目である西威せいいの時に、 大葉が権威を欲しいままにしたために 世の中は乱れ 1349年に王が死亡すると、その子供は廃されて、(またしても)浦添按司の察度さっと(1321~1395)が新たな王となった。
この察度は、貧しい農夫であった奥間大親おくまうふやと天女の間で生まれた子とされる。いわゆる羽衣伝説である。ある時、野良仕事を終えて、泉に手足を洗いに来た奥間は、そこで美しい女が水浴びしているところを見かけた。彼は側の木にかけてあった彼女の衣服を隠して、女に近づいた。そして二人は夫婦となって、一男一女をもうける。後に衣服を見つけた天女は、家族との別れを惜しみつつもどこかへと飛び去ってしまった。二人の子供の内の男子の方が察度という訳である。

 察度は元々、遊び呆けてばかりのダメ息子だったらしい。
そしてある時に、勝連かつれん按司に美しい一人娘がいると聞いた察度は、彼女の所に行って求婚した。按司の一族の者は、大した家柄でもない彼の身の程知らずなふるまいを嘲笑したが、彼を物陰から見ていた娘は、それまでどんな相手にも心動かされなかったのに、自分の周りの者たちと明らかに空気が違う彼に夢中になった。そして大反対の父親を説得して、彼女は察度の妻となった。
ところが貧しい若者のところに嫁いだはずだった彼女は、夫の家のあちこちに金塊が転がっていることに驚く。それどころか、彼の住んでいたところは石が転がっているかのように金が転がっているようなところであった。妻に教えられて黄金の価値に気づいた彼は、その財産を元手に、港の日本商人から鉄を買い集め、農具を作って、農民たちに無償で配った。そうして人望を高めた彼は、幼王の側で好き勝手していた王母を除き、民衆に推されて新たな王となった。

 天女の血をひくという、この察度に関してはこんな伝説もある。
ある時に彼は1つの高楼(高い建物)を立てたのだが、夜に、その高楼内で、彼は毒蛇(ハブ)に左手を噛まれてしまう。彼は毒が体中に回らないように、さっさと左手を切り落とした。この時に臣下の1人が、自らの左手を切って王に捧げたが、察度はそれを自分の左手に繋いだ。それ以降、彼の左手は、体の他の部分と比べて明らかに黒色で多毛だったという。

中国の歴史書に書かれた、いくつかのリュウキュウ

隋書に書かれた流求の謎

 中国にて7世紀くらいに書かれた『隋書ずいしょ』には、福建省ふっけんしょう(Fújiàn Shěng)から東海を進み5日くらいの距離だという、『流求』について書かれている(ただし台湾という説もある)
それによると、隋朝の第2代皇帝である煬帝ようてい(569~618)は、琉球を3度征服しようと試みたが、全部失敗したらしい。最初は607年で「言葉が通じず1人を連れ去っただけ(因为语言不通、所以只“掠一人而返”)」。次に608年、「布甲を取っただけ(宽取其布甲而还)」。3回目は610年だが、これは「数千人の男女を捕虜にする(虏其男女数千人)」ほどに大規模な軍事作戦だったようである。
「隋王朝」賢き皇帝、愚かな皇帝。あまりに早かった滅亡  608年に持ち帰った布甲なるものに関しては、倭国(日本列島の国)からの使者に見せたところ、「これは『夷邪久国いやくこく』の人が用いるものです」と教えてくれたとも。
夷邪久というのは、 『日本書紀』や『続日本紀』といった古い書物に確認できる『掖玖やく人』や『夜句やく人』なる人たちと同じなのでないか、という説もある。彼らは、多禰たね(種子島?)、阿麻弥あまみ(奄美?)、信覚しがき(石垣島?)、球美くみ(久米島?)大、度感とから(吐噶喇列島か徳之島?)といった(まとめて南島と呼ばれていたともされる)島々の人たちと同じく、大和朝廷の領土に漂着したり帰化していたようだ。
ヤクというのは、屋久島という説もある。また、日本の古い書物には、上記の島々に加えて、沖縄本島と思われる名称が見つかっていないことも、奇妙とされる。

 流求は隋書では「山洞が多く、各国に4~5人の諸洞を統べるすいがいて、各洞には小王がいる。また村々には烏了師うりょうすいなる者がいて、それは戦いを善くする者。刀のような武具はあるのだが、鉄が少ないから普通は骨角を用いる。王ら木獣のかごに、小王は机に乗る。民は戦闘的で、戦闘の時には勇敢な者からそれぞれ3~4人の代表を前に出し、罵声を浴びせあい、互いに戦う。一方が負ければ、すぐに和解の使者を立てて、和解に至ったなら、戦死者の肉を食い、ドクロを王に献上して、王はその者に冠を与えて隊帥たいすいとする。
その国では男も女もみな白紵はくう白苧しろそ?。白い布?)」の縄で髪をまとめ、うなじの後ろからまといめぐらして額にいたっている。男は鳥羽を用いて冠とし、各人各様に珠貝たまがいなどで装飾を施している。婦人は正方形の白布を帽子としている。闘鏤樹とうるじゅ(ガジュマル?)の皮や、雑食のや、雑毛まじりげを織って衣を造る。
彼らは文字を知らないが、月の満ち欠けを持って時節を知る。
男は髭を抜いて体中の毛を除去する。女は手に刺青をして、虫やヘビの文様をつくる。女が嫁に行く時、あるいは嫁を娶る時は、酒肴と真珠を贈り物とする。女は自らの乳を出すために子供の衣を食べる。産後は火で自らを炙り、汗を出せば則ち5日にして平復へいふく(回復)する。木の汁で酢を作り、麹をかもして酒を造るが、その味は薄い。食事には手を使う。死にそうな者がまさに死ぬ寸前の時に、庭に運び、親戚や客などみんなで弔い、屍を浴して布帛ふはく(縦糸、横糸を交互に織り込んで作る生地)でまとい、アシ(葦。Phragmites australis)で包んで埋葬する。
また、土俗どぞく(その土地の住人たち)は山海の神々を崇めていて、酒肴で祀る。戦闘で人を殺した場合はその死者を神に捧げる。茂った樹の側に小屋を造り、またはドクロを樹にかけて矢で射ることで、あるいは石を積んではた(高く掲げて目印や装飾とする道具)を掲げて神主とする。
王がいるところ、壁下に多くドクロを集められていて、人々は門戸の上に必ず獣頭や骨角を安置する。
租税はないが、必要になった時は均等に賦課ふかする。
法律がなく、刑罰はその時ごとに決められる。罪を犯した場合、烏了師を処断しょだんし、王に上請うえうけす。王は臣下にこれを検討させ、裁断さいだんする。牢獄には枷も鎖もなく、ただ縄で縛っているだけ。死刑を行う場合、流さ1尺くらいの鉄錐てっすいで頭を打ち砕く。軽い罪の場合は杖で叩く。
クマやヤマイヌやオオカミがいるが、イノシシやニワトリが多く、ウシ、ヒツジ、ロバ、ウマはいない。
田はよく肥えている。火で焼いて、水を引いて灌漑する。長さ1尺くらいの石刃せきじんのスキを用いて田を耕す。土質は、稲、おおあわきびあさ、豆、赤豆、胡豆ことう(エンドウ)、黒豆に適する。
楓、かつ(ビャクシン)、くす、松、やまにれくすのき、杉、あずさ 竹、藤の木がある」というように紹介されているという。

元史。モンゴル帝国の驚異

 げん(モンゴル帝国)の時代の歴史書である『元史』にも、モンゴル帝国(Yeke Mongγol Ulus)の第5代、元王朝の初代皇帝クビライ(忽必烈。Qubilai1215~1294)が、1291年、6000の大軍を率いる楊祥ようしょうに、服せざる『瑠求』を攻めさせたが、退けられた。という話が記述されているという。
元朝は、1297年にも瑠求征服を試みたが、それも失敗した。
モンゴル帝国(元朝)は、1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)に日本襲撃したことが有名だが、時期的にそれと近い。

 ただ、元史において「(瑠求は)漢唐より、史が載せざるところ」と書かれてたりするし、これもまた台湾ではないかという説がある。
仮にこの2度の侵略失敗の話の瑠求が、琉球のことなのだとしたら、英祖の時代の出来事となる。

明実録。大交易時代の幕開け

 異民族国家であった元朝が滅びた後、中国では再び、漢民族の国であるみん(1368~1644)が興り、中国全土を掌握した。
この明王朝も歴代王朝にならい、諸外国に使節を送って、入貢や帰順を促した。対外交易の政策に関してはかなり厳しく、中国皇帝への貢物の献上を最低限の前提とする『朝貢貿易ちょうこうぼうえき』以外を禁じたのである。また、中国人の海外進出自体も禁止され、基本的に中国の商人が取引のために海外に出かけるのは密航扱いとなった。出航できたとしても帰国が簡単ではなく、外国に出かけたまま現地に定着して帰って来なくなった中国人も増えた。

 そして1372年1月頃のこと。明の洪武帝こうぶてい朱元璋しゅげんしょう。1328~1398)は、楊載ようさいを正使とした使節団を琉球に派遣させ、入貢を促させた。
同じ年の12月に中山王察度は、弟である(とされている)泰期たいきを遣わせ、皇帝に貢物を献上した。という話が、『明実録』という書に書かれているという。

 明実録の記述は、沖縄(琉球)の歴史に関して、そうだと信頼できる最古の記録と言われる。したがって、中山王と称されている察度と、その弟である泰期も、ほぼ確実に実在した人物と思われる。そして、琉球の中山王の国は、1372年より中国と朝貢の関係を持ったようである。
これは琉球という表記が初めて使われた記録ともされるが、この後の中国においては、この表記がずっと一貫しているという。

 沖縄史において、大交易時代の幕をあけた英雄とも、商売の神様ともされる泰期だが、彼は一般的に察度とは異母兄弟とされるが、察度の母である天女が産んだ子供が1男1女であることを考慮すると、それは当然の解釈であろう。

三山時代

 察度が中山王と呼ばれたのは、まさしく中山の王であったからとされる。
明実録には、彼の他、山南王の承察度しょうさっと、山北王の怕尼芝はにじの中国明朝への朝貢の記録がある。
つまりこの時代(14世紀くらい)の琉球本島においては、南部の『南山(山南)』、中部の『中山』、北部の『北山(山北)』の三国が存在していた訳である。

元々統一王朝が存在していたのか

 (天孫氏はともかくとして)舜天や英祖の時代を史実として記述している歴史書においては、『三山時代』以前にも統一国としての琉球が存在していたことを前提にして、三つの国が勢力を拮抗させていた三山の時代を語っているという。
英祖の王統の4代目、玉城たまぐすく(1296~1336)という王は、ろくでもない王であり、政治を怠ったため、国中が大いに乱れた。そこで、延祐えんゆう(1314~1320)の頃に、大里おおざと按司が山南王を、今帰仁なきじんが山北王をそれぞれ称したことで、琉球は三国に分裂してしまったのだという。

 統一王朝の分裂したという『三山分立論』に対し、琉球本島の各地にあった勢力の按司(首長)たちが互いに抗争を続け、強力な按司が弱い按司を従わせる流れで、三つの大勢力が成り立ったとするのが『三山進化論』である。後者の説を初めて唱えたのは伊波普猷いはふゆう(1876~1947)という人で、彼は沖縄学の父ともいわれる大学者。
実際問題、三山時代以前の琉球に関する信頼できる資料の乏しさを考えると、分立と進化のどちらが有力かをはっきりさせることは難しい。

官生、久米三十六姓。中国文化の流入

 1392年5月。
中山王の察度と、山南王の承察度はそれぞれ、中国皇帝の認可を得て、隋代以降の最高の学府(学校)とされていた『国子監こくしかん』に留学生を送っているが、これが『官生かんしょう』と呼ばれる伝統の始まりであった。ようするに、琉球王国より、王命を受けた留学生が、中国の国子監に派遣されてきて学ぶ伝統。500年ほども続いたこの制度は、人材の育成のほか、琉球にその時代ごとの中国の最新の文化情報をもたらした。

 また『久米三十六姓くめさんじゅうろくせい閩人三十六姓びんじんさんじゅうろくせい)』と呼ばれた多くの者(中国姓を持つ中国人)たちの琉球への移住もあった。彼らは結構エリートたちで、航海、通訳、文書作成、造船などの技術技能方面で活躍。対中国関係の業務において非常に貴重な人材となった。
もちろん彼らも、琉球に多くの中国文化をもたらしたとされる。

朝鮮、日本列島との関わり

 琉球はまた、察度らの時代に、高麗国こうらいこく(朝鮮半島の国)との貿易も始めたとされている。

 察度は1389年に、倭寇わこう(13~16世紀くらいに朝鮮半島や中国大陸の沿岸部などで活動していた日本の海賊。あるいは違法貿易商人)に捕まっていた朝鮮人たちを送還するとともに、いくらかの献上品を高麗の王に送ったのだという。
高麗側も、使者を送って礼を述べさせた。そして正式に通交が開始されたそうである。
倭寇は、当時の東シナ海(East China Sea)周辺国にとって、かなり悩ましい存在であったようだが、おそらく彼らが捕まえた日本人、朝鮮人、中国人の中には、琉球の奴隷市場で売られた者もけっこういたとされる。

 また1384年には、日本から頼重らいじゅうという真言宗の僧が中山にやってきて、察度王の帰依を受け、王の祈願寺でもある『護国寺ごこくじ』を建てたという。
本尊を聖観世音菩薩しょうかんせのんぼさつ(Āryāvalokiteśvara。アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ)とするこの寺は、現存する沖縄の寺院の中では最も古い。

 1390年代ぐらいには、先島諸島からの使者もあった。
当時の宮古列島において最大の勢力を誇っていたようである豪族、『与那覇勢頭豊見親よなはせどとぅゆみゃ』は、祭壇にて祈願を行ったところ、はるか東方に大国があることを神より告げられた。そこで船出して、琉球へたどり着いた。
最初は言葉が通じなかったが、とりあえず3年ほどそこで過ごしたところ、意思が交わすことができるようになったので、察度のもとに入貢したのだという。

尚巴志、尚思紹

 察度が亡くなってから、後を継いだ武寧ぶねいは悪王で、ここでもまた乱れた世の中をどうにかしようと考えた救世主が現れる。それは佐敷さしき按司の尚巴志しょうはし(1372~1439)という人で、彼はまず武寧に会って、政道を 改めるべきであると説得したが聞き入れてもらえなかった。それならば兵を挙げてやるぞと脅したが、それでも武寧は耳を貸さず、それどころか悪王は自分の方に兵を用意して、尚巴志を討とうとした。しかし他の按司たちは尚巴志の味方をし、武寧はろくに兵を集められず、降伏するしかなかった。
尚巴志は、父である尚思紹しょうししょうを新たな中山の王に立てた。

 天に代わって地上の王朝を治めさせる王が、徳を失ってしまうと天に見切りをつけられ、新たに徳高い革命者がその座をもらう。というような、いわゆる『易姓革命えきせいかくめい』の(儒教的)思想に基づいているような、琉球王朝の交代劇は、実在したであろう王たちの時代になってからのも、基本的に創作か、大げさに語られているものだと思われる。

 また中国皇帝が、周辺諸国の君主に、王や侯などの爵位を与え、藩国はんこく(朝貢国、藩属国など)とすること(ほぼ封建)を『冊封さくほう』と言うが、1407年に、尚思紹は中山王位継承の冊封を中国に求めて、中国側もそれを受け入れ尚思紹は王とされた。

山北の滅亡。霊石を切った宝剣

 1416年のこと。
山北王の攀安知はんあんちもまた、あまりよくない王で、羽地はねじ按司が兵を率いて、中山に投降してきた。それに続くように国頭くにがみ按司、名護なご按司も投降。
これを好機と見たのか、中山王尚思紹は、尚巴志に山北征伐を命じる。
山北軍はなかなかてごわかったが、尚巴志は敵勢力の買収などの策を講じ、ついには攀安知も城内に追いつめられた。もはやこれまでと考えた彼は、城の守り神ともされていた霊石に向かって、「私は死ぬだろう。お前1人生きながらえることもあるまい」と言って、それを切り裂き、それから自らの命を絶ったという。
そうして山北は滅びた。

 攀安知が自害に用いた刀は、後に伊平屋の人の手に渡り、中山王に献上されたが、その宝刀、『千代金丸ちよきんまる』は普通に日本刀とされる。これは、夜に妖しい光を放つ刀だったともされる。

琉球最初の統一王朝

 1429年の山南の王は他魯毎たるみいという人だったが、正史書においては彼もまた悪王であったという。
日夜、宴会ばかりにうつつを抜かしていた彼は、自分への反抗心を抱く者をことごとく弾圧したりもした。そんなだから、また多くの按司が中山の方に投降し、1421年に死亡した尚思紹に代わって正式に王となっていた尚巴志は、やはり山南を攻め滅ぼした。

 そうして1429年に琉球本島に統一王朝が生まれた。ただし以降も中国においては、琉球国中山王と称されていたようだ。
『第一尚氏王朝』など呼ばれることもある、この尚巴志が始めた王朝は、記録はともかくとして、実際的には、琉球最初の統一王朝とされる。

またしても悪い王のための滅び

 統一王朝としての第一尚氏王朝は、ほんの30年ほどで滅んだが、その短い期間に6代もの王がいたのだから、少なくとも政府内部においては太平とは言えなかったようだ。
例によって、最後の尚徳王しょうとくおう(1441~1469)は悪い王だったとされる。そして次に王となる金丸かなまる思徳金うみとくがね。1415~1476)は、元は百姓の子だった。

 伊是名いぜな島で生まれ育った金丸は、働き者で農耕仕事にとても精を出していた。しかし島中が干ばつに見舞われた時、なぜか彼の田だけは水が十分にあったために、他の人たちに他人の田から水を盗んでいるのではないか、と疑われ、迫害を受けるところだった。危険が迫っていることを白髪の老人に教えられ、妻と弟と一緒に小舟で島から逃げた彼は、本島北部の宜名真ぎなよにひとまず落ち着いた。やがて各地を放浪した後、彼は越来ごえく按司(後の尚泰久王しょうたいきゅうおう。尚徳王の前代)の使用人となった。
そしてその優れた資質を按司に見抜かれた彼は、どんどん出世して、ついには『御物城御鎖側官おものすくうざすぬすば(貿易長官)』になる。
さらに尚徳王が廃された後、新たな王、尚円王しょうえんおうに推挙されたのだった。

 尚円王からの新王朝は『第二尚氏王朝』と呼ばれ、第一よりもかなり安定していたと考えられている。

アジア貿易の中心国家

 琉球の歴史において、(伝説的な記録を除けば)統一王朝形成の時期は、大交易時代の始まりの時期でもあった。

 ちょうどその時期、アジア世界は全体的に大きな変化を見せていた。

 1392年、朝鮮において、400年以上も続いた高麗国(918~1392)が滅び、新たに<『ruby>李氏朝鮮りしちょうせん(1392~1897)』という国が立った。
高麗国が滅びた理由は、倭寇問題にあったという説もある。

 もちろん明王朝の中国の外交政策(朝貢貿易という限定。中国商人の海外進出制限)が、周辺諸国の外交事情に与えた影響は非常に大きかったはず。

 東南アジアの方では、アユタヤ王朝(1351~1767)の『シャム国(Siam。タイ)』が勢力を伸ばす一方で、ジャワ島を拠点としていたマジャパヒト王国(Kerajaan Majapahit。1293~1527)は衰退の道を辿っていた。そのような状況の中で、マレー半島沿岸部、スマトラ島の北東、ジャワ島北の方の海港かいこう都市を中心にして、イスラムの影響が強まる。そしてその辺りの海港都市においては、インドやアラビアからの商船もよく見られるようになった。
そして、マレー半島南岸にて、イスラム系国家のマラッカ王国(1402~1511)も栄えた。

 つまり東南アジアにおいて交易活動が活発化する一方、東アジアの方では、中国の外交政策と倭寇問題のために従来の交易ルート全てが危機状態となっていたのだった。
こういう情勢の中で、なかなか絶妙な位置にあった統一王朝、琉球王国は、各国の交易の中心として、その地位を確立していったわけである。

商人たちのヤマト旅

 どうも琉球王国の人たちは、日本のことをヤマトと呼んで、そして日本へ渡航することをヤマト旅などと称していたようだ。
琉球より室町幕府(1336~1573)へ、正式の使節が派遣されることもあった。
第一尚氏王朝7代目(つまり最後の)尚徳王の送った使節は、将軍への謁見を済ませた後、総門の外で火砲を鳴らして、京都の人たちを驚かせたという。
しかし幕府の力が弱くなり、ヤマトの治安が悪くなってきたために、特に応仁の乱(1467~1477に起き大規模な内乱)以降は、琉球からの使節がヤマトを訪れることはほぼなくなってしまったとされる。

 民間の商人のヤマト旅もよくあった。多くの琉球船が日本の代表的な貿易港であった堺や博多に通って、そちらの商人たちとの取引が行われた。幕府も『琉球奉行りゅうきゅうぶぎょう』というのを置いて、その交易を推奨したらしい。
琉球商人を介してもたらされた、中国や東南アジアの方の貴品、珍品は、上流階級の者たちに人気だったようだ。
しかしやはり応仁の乱は、琉球船をヤマトから遠ざけてしまう。
それでも、日本刀や扇や屏風など、日本産商品の仕入先としても重視されていたこともあり、日本側からやってくる日本商人たちから購入した、それらの品々を、琉球商人がまた他国にもたらす、ということは続いたようだ。

朝鮮とどのくらい関わっていたのか

 李氏朝鮮の政治家であったの申叔舟しんしゅくしゅう(1417~1475)が書いた『海東諸国紀かいとうしょこくき』には、「琉球は土地が狭く、人が多いため、海外交易を業としている。西は南蛮と中国に、東は日本と朝鮮に通じている」などと書かれているという。

 しかし倭寇問題の他、距離的な問題もあったのか、琉球は朝鮮との貿易に関してはわりと消極的だったともされる。
琉球は朝鮮と貿易したがったが、倭寇に強く悩まされていた朝鮮側が、海外貿易どころではなかった。という説もある。
15世紀頃の那覇は、当時のアジア世界の中でも最大級の奴隷市場であった、という説がどのくらい真実であったかはともかくとして、倭寇に捕まった朝鮮人を、琉球側が送還させるという流れがわりとあったことは確かなようである。

 ただし、奴隷として連れてこられた中には日本人もいて、彼らの中には琉球に永住する者もいた。 そしてそういう者たちが残したと思われる、日本文化の痕跡に比べると、那覇には朝鮮文化の痕跡は全然見出されないともされる。

 李氏朝鮮の初代国王である李成桂りせいけい(이성계。太祖。1335~1408)の時代からを記録している歴史書の『朝鮮王朝実録ルビ(李朝実録)』にも、 昔の琉球王国に関しての手がかりとなりよる記述がわりとみられるようだ。
琉球に漂着して、その後那覇から朝鮮に送還された金非衣きむびいら3人は、 琉球王国の版図であったともされる八重山列島の話なども報告している。
「その島の住人たちは、見た目は朝鮮人と似たような感じだが、耳たぶに穴をあけて貝をぶら下げている。草履は履かずにみんな裸足で、衣服も粗末。鉄器もあまり普及してはいない。磁器類もほぼなし、土をこねた物を熱で焼いたのを使っている程度。酒は主に米を水に漬けたものを婦人が口で噛んだ後に発酵させる口噛みの酒。家も粗末で、灯火もなく、竹を束ねた松明を毎度用いている。便所もなく、野原で用を足す。漢字を見せてもそれを理解できる者はいない」というような感じらしい。
周辺諸国の交易人たちの大市場であった本島に比べて、わりと技術文明的に格差があったかもしれない。

マラッカ人たちが伝えた評価

 琉球王国は東南アジアを南蛮とし、そちらへの交易ルートも開拓した。公益市場としての琉球国という立場をさらに安定させるためであろうとされる。
琉球王国はマラッカとも交易したが、1511年にそれがポルトガルの植民地となって時に、関係は終わった。琉球船はマラッカに姿を見せなくなったが、マラッカ人の噂を通して、西洋人たちの記録にも、琉球の人たちが記述されるようになった。
マラッカでは、「琉球の商人たちは、シナ人よりも基本的に裕福で、正直な人たちだった」と評価されてたりした。

 西洋世界で起こった大航海時代、そしてヨーロッパ人たちのアジア進出航路の開拓の影響は大きかったと考えられる。
それに加えて中国の方でも、王朝の力が弱体化していくと、厳しかった外交性格は形骸化。東シナ海で活躍する中国商人はまた増えた。
ついでに日本商人の中にも、琉球を介さず、 直接的に東南アジア各国と繋がりを持つ者が増えた。
すべて16世紀くらいのことである。そして中継貿易地点としての地位を、琉球王国は失っていく。

那覇という浮島

 琉球王国の大貿易時代。那覇(現在の那覇市でなく、那覇市の久米や松山辺りらしい)は、南蛮、日本、中国からの商人船が港で出会う市であったようだが、この那覇は現在のそれとはかなり違う感じだったとされる。
那覇はその時代、国場川こくばがわ安里川あさとがわの流れが注ぐ複雑な地形の中、流域と浅瀬に陸地が寸断されていた『浮島(floating island。積み重なった植物の遺骸などが泥炭化して形成されている島)』であったのだ。

 利便性を追求して、1451年には、首里から那覇への『長虹堤ちょうこうてい(浮道)』という、堤防と橋から成る1キロメートルほどの水上道路が造られたという。

 人口増加に対応して、西の海の一部が埋め立てられ、宅地とされたのは1733年のこととされるが、もっと本格的な埋め立ては、明治時代に入ってからのようだ。

尚真王、半世紀の治世と、母の陰謀

 第二尚氏王朝の3代目、尚真王しょうしんおう(1465~1527)となる真加戸樽金まかとだるかねは、父である尚円王が50歳、母の世添御殿大按司よそえおどんのおおあんじ世添御殿よそえうどぅん)こと宇喜也嘉おぎやか(1445~1505)が20歳の時の子。妹に、音智殿茂金おとちとのもいがねが知られている。

 彼は少年の頃に王となり、半世紀ほどもの間、王の座に君臨し続けた。その期間は、歴代王の中で最も長い。

ニライカナイの女神の嘘?

 尚真王は12歳の時に、前王の弟、つまり叔父に当たる2代目国王の尚宣威しょうせんい(1430~1477)から王位を次ぐが、それは尚円王が亡くなってから早くも翌年のこと。

 琉球に伝わる理想郷『ニライカナイ』に住まうという、海と太陽を司る琉球の守護女神、君手摩きみてずりは、国家にとっての転換期などに降臨するとされているが、尚円王が亡くなった翌年にも出現した。
その知らせを受けて、新王(尚宣威王)の祝賀を告げる儀式が、首里城正殿前の広場で行われたが、祝福を与えられることになっていた王の側に、尚真もいた。
しかし、内殿を出た神女たちは奉神門(君誇門きみほこりもん)に至ってから、本来は東側を向くはずなのに、この時は西側を向いて立った。
そして神は謳った。
「首里おわるてだこ(首里城の太陽の子、国王)が
思いぐわ(王子)の遊び
見物遊び
よればの見物」
この『オモロ(歌謡)』が自分でなく、尚円を讃えていたことは衝撃であった。
これを「徳のない者が玉座を汚してしまったことを神が咎められたのだ」と尚宣威も考え、すぐに王位を甥に譲ったのだった。

 上記の、幼くして尚真が王となった経緯は、当たり前のように彼の母であり、王府の女官たちを意のままに従わせていた宇喜也嘉の陰謀とされている。彼女は幼君の隣で実権も握った。
「馬上の王は幼少なため、金飾りのカゴに乗っている母后が政治を見ているらしい」とする朝鮮人の記録も残っているという。

3人の妻の戦い

 子が生まれてから間もなく、占師が尚円王に告げた。「吉日を選んで、王宮(首里城)を出て南に向かいなさい。そしてどのような身分の者であったとしても、最初に会った人物をこの王子さまの養父となさいませ。そうすれば必ず千福を得ることになります」
その言う通り、子を臣下に抱かせて、南に歩かせると、最初に出会ったのは阿擢華あてきか阿擢莘あこうき)という人だった。
王に事情を説明されて、最初彼は、重責に思い辞退したが、熱心に説得されて王子の養父となった。
そういう話も歴史書にあるようだが、この阿擢莘は、南山王国の血筋の者(第3代国王の孫)で、実際、王子の養育係だったという。
また、阿擢莘のさらに孫ともされる思戸金按司加那志うみとかねあんじがなしは、尚真王の妻の1人(あるいは側室)となり、第4代の尚清王しょうせいおう(1497~1555)の母となった。

 尚真王には、居仁きよじん茗刈子めかるしいの娘、思戸金按司加那という3人の妻がいたともされるが、居仁は従姉(尚宣威の娘)らしい。

 そして、興味深いというより、むしろ奇妙なことに、茗刈子の出生譚もまた羽衣伝説である。そもそも茗刈子の娘というのは個人の名前ではなく、そのまま、「茗刈子という人の娘」という意味。
その茗刈子は、安謝あじゃという村の農民だったが、 例によって手足を洗いに泉に来た時、美しい女性が沐浴を楽しんでいるのに気づいた。そして近くに見つけた女の衣を隠し、服がないことに気づいて泣き出した女を誘い、夫婦となった。
やがて2人の男の子と1人の女の子が生まれたが、隠されていた服を見つけた天女は、家族との別れを惜しみながらも去っていった。
2人の男の子はまもなく死んでしまったが、女の子は立派に成長して王の妻となった。らしい。

 後に伝わっている尚真王の子供たちの中には、母親が不明な者もいる。
またここでも、尚清王が長男でなかったことなどから、陰謀論が推測されることもある。実際、本来は第一王位継承者であったと思われる長男であり、居仁の子であった尚維衡しょういこうは、問題を起こして追放されたともされている。
それは尚宣威の血筋がまた王になることを嫌った宇喜也嘉の陰謀と考えられているが、他の婦人の策略だったという説もある。
ただこの頃の琉球に、「長男が継承者」という決まりがあったかは、実は不明なようだ。

聞得大君

 尚真王はまた、全琉球の『ノロ(神女)』を統括する『聞得大君きこえおおぎみ(チフィジン)』という役職を設けたが、この初代は、尚真王の妹である音智殿茂金がなっている。
この聞得大君というのも、宇喜也嘉の意思という説があり、そうだとすると、これをもって母后は、王と神女のいずれも掌握したということになる。

アヤケアカハチの乱。先島諸島まで支配していたか

 琉球本島以外に王国の影響はどのくらいあっただろうか。
琉球王国は三山の時代から、中国(明)の朝貢国となっていたが、同じように、琉球本島周辺のいくつかの島々の共同体社会が、琉球との間に朝貢関係を築いていたようである。

 1500年頃には、『オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)の乱』が起こったとされる。これは一般的に、琉球王国と、オヤケアカハチという首長が率いた八重山の豪族との間で行われた戦争。

 琉球側に残った記録(球陽)によると、1486年頃、毛国瑞なる琉球からの使者が八重山に渡り、そこの人たちが『イリキヤアマリ』という神を信仰し、それに財産を浪費しているという実情を見て、 その神様に関する祭祀を禁止した(時期的に、この出来事が反乱と関係あったかは意見が割れやすい)

 そして1500年頃、八重山の首長であるオヤケアカハチの意向により、毎年行われていた朝貢が3年ほど滞った。さらに野心深かった彼は、宮古島までも自らの支配下に置こうとした。
そこで琉球王国は戦艦100隻を『大平山たいびんざん(宮古、八重山の両島)』に送り、アヤケアカハチを討った。

 毛国瑞なる人物が尚貞王しょうていおう10年(1678年)にも派遣されているという記録もあるようで、1486年の件に関しては、漢字間違いによるミスだという説もある。
また、球陽以外の資料では、「(乱を起こしたのは)アカハチホンカワラという2人」と記述されていることも多いようで、まさしくアカハチとホンガワラという2人の人物がいたとも。ただし2人の関係に関してはかなり不明。

島津氏、薩摩の琉球征服

 友好的であったはずの、薩摩さつま(九州、鹿児島辺り)の島津しまづ氏が、琉球王国に対して高圧的になってきたのは、中国商人、日本商人、そしてヨーロッパ勢力の台頭によって、貿易国としての立場を弱めてしまった16世紀中頃くらいからのようだ。

 島津氏はもともと、15世紀頃から、琉球に渡航する日本商人を統制する管理権の保有をよく主張していた。商売のために琉球に渡る者は、島津氏が用意した渡航許可書を必要としていた訳である。
しかし実際には、島津氏に金を払わなければならないそんな証明書 などお構いなしに、勝手に琉球へと向かう商人は多かった。島津氏は琉球側に、「そういう商人たちは那覇で取り締まってほしい」と 頼んだが、返事はともかく、実際は放置状態だった。
そんな中、1516年に、三宅国秀みやけくにひでという人が、 12艘の船を率いて琉球を征服しようとした。しかしその船団が薩摩の坊津ぼうのつに来た時に、島津忠隆しまづただたか(1497~1519)が討伐。1536年には、島津氏が琉球に、この時いかに島津氏が琉球のために戦ったかを、書簡で力説したという。
しかしそもそもこの出来事は、島津氏が琉球に恩を売るためのでっち上げとされている。

 そのうち九州でその力を高めた島津氏は、九州制覇にまで乗り出すが、それが実現するよりも前、1586年に豊臣秀吉と敵対してしまい、1587年には20万もの大軍を差し向けられ敗北
この頃には、島津氏と琉球側との外交関係はかなり緊迫としたものになっていて、さらに1591年には、今度は豊臣秀吉が、島津氏を介して、朝鮮出兵のための兵士たち1万5000人を琉球に要求。その要求は島津氏のとりなしのおかげで7000人にまで減らされたが、しかし琉球側にとっては、従う意味がわからない他国からの命令であった。しかし島津氏のしつこい催促のために、いくらかの出兵はあったようだ。

 そして次の徳川家康の時代になると、島津家久しまづいえひさ(1576~1638)は、「かねてよりの無礼を問う」という名目で、家康からの許可ももらい、3000の兵で、琉球王国を征服した。それが1609年の『琉球侵攻』と呼ばれている出来事。
戦国の世で鍛えられた薩摩の軍に対して、琉球は闘う気力もあまりなく、無条件降伏まで結構(規模のわりには)あっさりしていたともされる。

 琉球王国の輝かしい歴史はこうして幕を閉じ、この国は実質的に日本の属国となり、そして明治(1868~1912)の世に、沖縄県として完全に取り込まれて、単独の国としての歴史も終わる。

王国の消滅

 薩摩琉球を征服した後、すぐに検地(水田や畑などを調査し、生産高と年貢を納める責任者などを決めること)を行って、琉球王国が支配していた奄美と五島列島の割譲かつじょうも命じている。
さらに1611年に、人質として捕らえていた尚寧王しょうねいおう(1564~1620。第二尚氏王朝7代目)を帰国させる際には、「琉球は昔から島津氏の付庸ふよう(従属国)であったというのに、努めるべき義務を怠った罪は重い。しかしそれにもかかわらず帰国を許され、しかも諸島も与えられている。そのご厚意に感謝し、子々孫々にいたるまで、この契約に背きません」というような内容の『起請文きしょうもん(契約を破らないことを神仏に誓う文書)』を書かせている。

 特に薩摩は、やはり国外との交易に関して、自分たち側で支配したがっていたようだ。

日本への歩み寄り

 日本の属国状態になりながらも、17世紀のころは沖縄文化の黄金時代と言われる場合もある。
それはこの時代の、羽地朝秀はねじちょうしゅう(1617~1676)や、蔡温さいおん(1682~1762)といった、優れた政治家たちのおかげとされる。
上記2人は、薩摩による政治支配を現実として受け入れ、それでもまだ国として存在する琉球の民の生活安定のために腐心した。

 羽地朝秀は、琉球王国の初めての正史の書である中山世鑑も編纂した。
また、日本人と琉球人の起源が、人種的に同じであるという『日琉同祖論』を説いて、日本人への強い歩み寄りの姿勢を見せた。

 とにかくそうして、政治や経済の安定とともに、積極的な日本文化の導入が、薩摩が支配していたこの頃の琉球を、文化的に再び輝かせたのだった。

人頭税。先島に押しつけられた負担

 しかし18世紀になると、薩摩による経済的な締め付けと、王府自身の財産破綻により、国家の危機を迎える。悲惨なことに、その頃にはもう、琉球はかつての貿易国家としての基盤もほぼ失ってしまっていた。
『人頭税(poll tax。国民1人につき一定額を課す税金)』まで採用され、特に厳しく課せられた先島諸島の農民たちの負担はかなり大きかった。

 先島諸島では少しでも税金を減らすために、組織的に妊婦が殺されていたという伝説すら残っており、そういうことが本当にあったかどうかはともかくとして、一時期は生きるのもかなりギリギリであったようだ。

 そして19世紀には、アジアの多くの国を掌握した欧米諸国の勢力が、沖縄に開港を要求することも増えて、支配されながらも国家の形は残している琉球王国は、まさしく板挟みの状態となってしまう。

琉球処分という終焉

 『明治維新(Meiji Restoration)』という近代化の波は、数年遅れで琉球にも押し寄せた。
明治政府はいよいよ琉球王国を沖縄県として、自分たちの統一国家に編入させようとした。そのためには、薩摩の支配下においてすらまだ続けられていた、琉球の、清から冊封を受ける伝統などを完全に終わらせる必要があった。
そこで琉球王国を琉球藩とし、琉球王を藩主とする処置を1872年にとった。 さらに、1871年の、台湾に漂着した宮古島住民の殺害事件をきっかけとした、台湾出兵の際の、 中国との外交交渉において琉球人が日本国民であることを認めさせる。琉球(沖縄)が日本の領土であると、はっきりさせたわけである。
そして1879年。琉球問題の処理を任された内務大丞ないむだいじょう松田道之まつだみちゆき(1839~1882)は、清との冊封関係を絶つことを申し渡し、武力を示して首里城を明け渡させた。これが『琉球処分』と呼ばれる、沖縄における『廃藩置県はいはんちけん』で、文字通りに琉球王国という国の最後であった。

明治政府にとっての沖縄

 琉球処分間もなく、日本(明治政府)はなんと、宮古と八重の両諸島を引換にして、中国における欧米なみの『最恵国待遇さいけいこくたいぐう(most favored nation treatment。通商条約などにおいて、同条件の他国より有利な待遇を長く受ける約束)』を得ようとする。
この頃の日本政府にとって沖縄は、自分たちの大切な国土というよりも、国益のための切り捨て要因、優先順位低めな取引用アイテムでしかなかったのかもしれない。
そして水面下で受け継がれていったこの悪しき思想が、世界対戦の時代の沖縄の悲劇(一般市民を含む大勢が死んだ沖縄本土決戦)。その後のサンフランシスコ条約(実質的に軍事基地の場としての沖縄の提供)に繋がったのだと考える向きもある。