「数を数えること」自然数とは何か。その時、我々は何をしているのか

自然数

同じ数がふたつある

 0.999……という、0.の後に9が無限に続いているような数を考えてみる。

0.999……×10=9.999……
9.999……0.999……=9
99=1

 という訳で、0.999……は、明らかに1である。
しかし、それはいったいどういう事なのか。

 人それぞれによって限界はあるにせよ、数を数えられない人はほとんどいない。
しかしあまりにも当たり前すぎることだから、数というものが何なのか、を考える人も少ない。
実際問題、数というのが何なのかなど、教えられず、気にもしないで、方程式、関数、πやiやeを学ぶ人が多い。
 19世紀くらいまでは、数学者にすら、数とは何かをしっかり考える人は少なかったとされている。

 0.999……と1が同じである事が、奇妙な事なのか、そうではないのかすら、わからないかもしれない。

 また、方程式の答として登場する事のないらしい、πやeのような超越数(Transcendental number)の登場も、大きな影響であった。

 かくして、人は、数という物を定義する事にした。

集合論で、数を定義する

 数というもの、そして数学という方法を定義するのに、基礎とするものをどうすべきか。
20世紀に至って、「集合がよいだろう」と、多くの人が考えはじめた。

集合の記号。構成要素、部分集合

 『集合(set)』とは、文字通り、何かの集まりである。
数学における集合は、何かの要素を持つものの集合である。
集合を用いる『集合論』は、数学上における、地味ながら、そこそこ便利な道具とされていたようである。

 例えばxとyとzという整数があるとする。

x2 + y2 = z2

となるような場合のzの集合を得たいとする。
整数域(整数全体)をZで表し、集合の記法を用いれば、以下のように書ける訳である。

A={z|z= x2 + y2 = z2 ,[x,y,zΖ]

この式は、「Aは、x、y、zを整数として、用意された数式が成立するような、zの集合」を表している。
∈は「属している」という意味合いの記号。
 例えば、Sという集合があったとして、「x∈S」は、xがSの集合に属している事を意味する。
「xはSの要素である」とか、「xはSのげんである」とか言う。

 また、普通は、「O=S」である場合も、「O∈S」である。

 集合の集合の記号は⊆である。
例えばA、Bが集合である場合に「A∈B」なら、「A⊆B」である。
部分集合(集合の集合)と構成要素は違う概念だが、ややこしくもある。
 ただ、部分集合は構成要素だが、構成要素は部分集合とは限らない。

 集合は基本的には、そういうものである。

あらゆるものは、何かの集まり

 集合を数学の基礎に置くとはどういう事であるのか。
数学の諸概念の全てを、集合論の記法、考え方で、定義しなおすのである。

 例えば、複素数を、実数という集合と、虚数という集合の、集合とみなすのである。
虚数「複素数とは何か」虚数はどれほど実在してないか。実数は本当にリアルか 平面Aは、点Bの集合とみなすのである。
0(あるいは無)ですら、何もない「空集合からしゅうごう」として解釈出来る。
 他、当たり前すぎるような事であっても、とにかく集合論的に言えばどうなのか、定義しなおしていく。

 集合論とは確かに、あらゆる数学的概念を、あらたに、定義しなおせるような方法のようだった。

 そうして、エウクレイデスから2000年以上も後になって、ようやく我々は、「数とは何か?」という問いに、希望を持てるようになったのである。
幾何学なぜ数学を学ぶのか?「エウクレイデスと原論の謎」

数は結局どのようなものか

 集合論的な考え方で普通に、自然数を定義していく。
自然数に0は含まれないともされるが、0から始める方がわかりやすいから、0から定義していく。
ちなみに以降の話において、0が自然数かどうか、どっちであろうと影響はまったくない。

空集合。数学的な考え方

 空集合∅は要素をひとつも持たない集合である。
そんな集合がそもそもあるのか、という疑問も、もう過去のものな感じがある。
純粋数学は、物理学でも統計分析でもない。

 よく、数学、特に高等数学なんて何の役に立つのか、と数学嫌いは言うが、確かに役に(立つけど)立たない。
 例えば、RPGやアクションゲームと、スポーツと、映画と、子育てスキル(技術)と、人間関係を円滑に進めるスキルだけで生きているような人がいるとして、その人には、三角関数なんて何の約にも立たない。
そしてそういう人は現実にたくさんいるように思う。
 他にも、人が生きるための目的としているあらゆる事において、高等数学が何の約にも立たない事は数えきれないほどある。

 実のところ、純粋数学が好きな人は、数学が実用的だとは思ってない。
そもそもそんな事どうでもいいのである。
高等数学を実用的に使ってるのは、物理学や工学、社会学などの分野であって、純粋な数学は、実用的かどうかなんて、普通は気にもしない。

 そういう訳で、空集合に違和感を感じる人は、なんだかんだで数学を現実的なものとして見ているのだろうと思う。
何の約に立つのか、という的外れな質問をする人と同じだ。

 別に空っぽを空の集合としたところで、矛盾はない。
「矛盾がないなら、問題なし」は、ある意味、数学の究極の基本ルールである。
矛盾がないから、空集合∅を認めても、何の問題もない訳である。
 
 ところで、0を無とするイメージは我々に馴染み深いが、まさしく、空集合∅を0と定義するのは、我々の平均的な感覚にも、実用的にも、理に適っている。

自然数の定義

 0は空集合であるから要素を持たない。
とすると、1は、1個だけの要素を持った集合とするのがよいと考えられよう。

 aだけを要素とするような集合aを{a}というふうに表す。

 空集合∅を、言うなれば「空である事」を要素として、それのみを要素とするような集合{∅}もある。
∅を0と定義したが、ここに{∅}を1としてみる。
{∅}は、∅のみを要素としている集合なので、1としてよいであろう。
つまり1は{0}とする。

 そうして2は{0、1}、3は{0、1、2}としていく事で、自然数は定義出来る。

数を数える時に、何が起こっているか

無限集合。写像

 無限集合が存在する事を、まず認める。

 奇数の無限集合「1、3、5……」と自然数の無限集合「1、2、3……」があるとしよう。
それぞれを数列として並べた時に、どの数にも隣り合う数はあるかを見ていく。
奇数1は自然数1、奇数3は自然数2、奇数5は自然数3という感じである。
 そのように考えた時に、並び伸びる奇数と自然数の無限列は、それぞれのどの数にも、互いに対応している数を有しているとしたら、そのような数列ふたつを「写像しゃぞう(Mapping)が一対一で、対応している」と言う。

 写像は別のふたつの要素がひとつの要素に対応している場合もある。
例えば集合A「1、2、3、4」というのと、集合B「奇数、偶数」があるとして、Aの1、2と3、4は、Bの奇数と偶数にそれぞれ対応していて、写像が成立している。
一対一で写像が成立している、とは、つまり、aというbに対応している要素は、b以外の何にも対応していない、というような要素で埋め尽くされた写像である。

冷蔵庫の卵を数える

 有限の集合Sが集合Nと、写像が一対一で対応していた場合、S=Nである。
 次に自然数は集合で定義されてたなら、まさしく集合である。
つまり、数を数えるとは、集合として定義されたものに対し、写像が一対一である自然数を見つけるという事に他ならない。
少なくとも、数というものの基礎として、集合論を用いている場合は。

 具体的な例として、冷蔵庫の中の卵を数えるとしよう。
「冷蔵庫の中の卵」とは、冷蔵庫の中の卵の集合である。
その卵と、何らかの自然数Nの集合を比べ、一対一の写像となっていたなら、卵=N個な訳である。

無限のサイズ

 実のところ、写像が一対一で対応しない、無限と無限がある。
例えば少数がそうである。
整数、偶数、奇数、分数などの無限数列は、互いに一対一の写像となるのに、それらと少数の場合、それは不可能となるのである。
少数は、整数や分数の無限よりも、大きな無限なのである。

 無限に大きさがある、とはいったいどうなっているのか。

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