「カルノー」熱機関サイクルの研究。熱力学の最初の論文の行方

ラザール・カルノー

 ニコラ・レオナール・サディ・カルノー(1796~1832)は「熱力学(thermodynamics)」という科学分野の歴史における、最初期の重要人物である。

 彼の父ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(1753~1823)は、有力な政治家であり、「エネルギー保存の法則(law of the conservation of energy)」の一般的な証明の提案など、数学者としての一面も持っていた。

 ところでフランスの歴史において、1795年11月2日から1799年11月10日までの行政府は「総裁そうさい政府(Directoire)」と言われる。

 サディが、フランス元老院げんろういん議事堂ぎじどうとして知られる、パリのリュクサンブール宮殿で生まれた1796という年。
ラザールは、総裁政府の五人の総裁の一人であった。

勝利の組織者

 ラザール・カルノーはフランスのブルゴーニュ地方の町ノレーで生まれた。
実家は貴族ではなかったが、それなりに古い家ではあったらしい。

 彼は息子と違い、軍人、政治家として有名である。

 1789年くらいから、身分制や領主制などに反対する市民たちが起こした「フランス革命(Révolution française)」をきっかけに起きた、 革命政府を敵視する諸外国とフランスとの戦争である「フランス革命戦争(Guerres de la Révolution française)」で、彼は補給や人材集めなどの援助で活躍。
また軍事エンジニアとして、「カルノー壁」と呼ばれた要塞の設計など、革命軍にとってかなり重要な役割を果たした。
後には「勝利の組織者」と呼ばれるようになったのは、そういった功績からである。

工学分野における活躍

 ラザールは14才の時に入学したコレージュ・ドールオータンで、哲学や文学をよく学んだとされる。
そして1771年に、エコール・ロワイヤル・デュ・ジェニー・デ・メジエールに入学した彼は、そこで幾何学、力学、工学などを学び、卒業後は技術将校として、軍人としてのキャリアを積んでいく。

 ラザールは1783年に、「機械の稼動部分における加速や衝撃は、出力される仕事を損なわせるため、理想的には機械は、小さな機構で素早く力を伝えるのがよい」というふうなことを書いた論文を出す。
これは機械工学の問題に理論的に取り組んだ初期の例とされる。

 ラザールは科学者としては特に突出した人ではなかったようだ。
彼の発表した論文も、今となっては工学の分野でそれほど重要なものとは考えられていない。
しかし、熱機関の原理を一般的に定式化するという目標は、彼から息子に引き継がれたものとも言われている。

 ラザールの、特に水力機関の研究は、息子に大きな影響を与えたとされる。

サディ・カルノー

 1824年。
軍事工学者であったサディ・カルノーは「火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察(Réflexionssur la puissance motrice du feu et sur les propresàdevelopper cette puissance)」という本(というか論文)を出版した。
このタイトルの「火」とは、後の世の熱力学における「熱」、「動力」は「仕事」のこととされる。
熱力学 エントロピーとは何か。永久機関が不可能な理由。「熱力学三法則」
 サディ・カルノーは早死にし、熱機関の一般的動作原理を発見するという目標は果たせなかった。
彼自身の研究もあまり注目されなかったが、後世に熱力学が発展すると、彼の本は、早すぎた研究として再評価されていく。

 今ではサディ・カルノーといえば、熱力学の父とまで呼ばれている。

目立つことを嫌った生涯

 サディは父の影を追うように、1796年にエコール・ポリテクニクを卒業した後、軍隊の経験を経て、物理学や工学の研究に身を寄せる。

 サディはあまり人付き合いや、目立ったりするのを好まない、何事にも控えめな人だったらしい。
彼のその、時代の先を行き過ぎた科学的知見を知る者も、ごく一部の友人に限られていたようだ。

 そして、軍人暮らしは肌にあってなかったのか、1826年に一時的に軍に戻るも、1828年にはまた研究者に戻っている。

 早すぎる死の原因はコレラだったようだ。
1832年6月に倒れた彼は、8月24日に世を去った。 

カルノーサイクル。理想的な熱機関の考察

 サディ・カルノーは、熱機関の中で、熱が高温から低温に変わる時に、何らかの作用が外部に出力されることに注目した。
そして理想的な水力機関の考え方を参考とした概念的モデルを想定する。

 水力機関の場合、理想的というのは、落ちる水のすべてが水車にあたってくれて、それらの一切が無駄にならないようなものである。
カルノーは、高温から低温に熱が流れる時、 その差が高い時に漏れでる作用こそが、水車にかからずに無駄になった水のようなものだと考えたわけだ。

4つのステージ

 カルノーは理想的な熱機関のサイクルとして、4つのステージを想定した。

(ステージ1)ある温度tの熱源を等温膨張、つまり温度を一定に保ちながら膨張させ、外部の他の熱から隔絶されている気体に熱を与える。
(ステージ2)熱を与えられた気体をそのままに、つづけて断熱膨張させ、それ自体の温度は下がる。
(ステージ3)さらに等温圧縮により、低温Tの熱源へ気体の熱を捨てさせる。
(ステージ4)断熱圧縮により、気体を初めの温度tへと戻す。

 このサイクル自体よりも、このようなサイクルの理想的熱機関が、どのように働くかという結論こそが、重要である。
そのような理想的熱機関は、熱を下げて仕事を出力させるのと逆に、仕事を入れて熱を上げることが容易。

 つまりカルノーは、理想的な熱機関が複数あったとして、それらに入力する熱の値がtで固定なら、出力される仕事wも必ず固定であると示唆したわけである。
これは今でいう、熱力学の第一法則、「エネルギー保存の法則」を示している(注釈)。

(注釈)それなら永久機関

 仮に、理想的な熱機関が二つあるとする。
さらに、熱tを入力すると、熱機関の片方がw。
もう片方がそれよりも大きなWを出力できるとする。

 仮にWを出せる方の機関で、wの方を逆作動させたなら、戻ってきた熱tをWの方に入力することで、外部からの干渉なしに、W-wの仕事を得られてしまう。

カルノー論文はなぜ無視されたのか

 熱力学の始まりとされるその論文は、彼が生前に発表したたった一つの論文であった。

 しかしこの論文はフランスの学会に、本当にまったく何も起こさなかったと言われる。
極端な言い方をすれば、サディ・カルノーは無視された。

 父ラザールが学者としてもそれなりに知られていたことを考慮すると、学会の態度はかなり異常なことであった。
なぜ彼の研究が、最前線の科学者たちに何の感銘も与えなかったのかは、基本的には謎である。

 ただ、少なくとも彼は、例えばフーコーのように嫌われていなかったはずだ。
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 実はサディの本が出版されてすぐ、個体の抵抗などを研究していたピエール=シモン・ジラール(1765~1836年)という人が、それをアカデミーで紹介している。
その場には、フランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴ(1786~1853)。
アンドレ=マリ・アンペール(1775~1836)。
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック(1778~1850)。
シメオン・ドニ・ポアソン(1781~1840)。
アドリアン=マリ・ルジャンドル(1752~1833)。
ピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)など、そうそうたる顔ぶれが揃っていたという。
だがその誰にもサディの研究成果の重要性は理解されずに終わってしまったのだ。

橋渡し役となったクラペイロン

 カルノー論文は、その発表から10年後に、サディと同時期にエコール・ポリテクニクの生徒だったブノワ・ポール・エミール・クラペイロン(1799~1864)により、さらに練り上げられて、再び紹介される。
しかしその時にも、まだ、その研究は学会から無視されたそうである。

 興味深いのが、クラペイロン自身も、カルノーの研究を特に積極的に広めたりしようとはせず、基本的には無視のスタンスだったことだろう。

 だがクラペイロンのその紹介は、遅れながらも、確かに後世にに繋がることになった。
1844年頃。
後に熱力学の重要な開拓者の一人となる、若き日のウィリアム・トムソン(1824~1907)が、カルノーの理論に出会ったのは、クラペイロンの紹介論文を通してだったからである。

 また、トムソンと同じく熱力学の分野の重要人物であるルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(1822~1888)は、クラペイロンとトムソンの論文で紹介されている、そのカルノー論文をついには直接手にできなかったそうだ。

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