「ロベルト・マイヤー」熱とエネルギー保存の法則の、秘密の物語

メカニズム好き少年

 1814年11月25日。
ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー(1814~1878)は、ドイツのヴュルテンベルク州ハイルブロンに生まれた。
父は薬屋をやっていたという。
ドイツ「ドイツの成立過程」フランク王国、神聖ローマ帝国、叙任権闘争。文明開化 幼い頃のマイヤーは好奇心旺盛おうせいで、物質の機械的なメカニズムに強い興味を抱いていたとされる。

 ある程度成長してからは、化学的、物理的ないろいろな実験も自分なりに行い、趣味の一貫で、ちょっとした電気機器やエアポンプを作ったりしたとも言われる。
ただし、この趣味が本格的になったのは大学に進学してからかもしれない。

 一方で興味のないこともあった。
ギムナジウム(中等教育機関)では、古典の言語などを学んだが、やるきがあまりなく、成績はよくなかったらしい。

世界を見て、物理学を知った

 1832年5月
アビトゥール(ギムナジウム卒業資格試験)を得たマイヤーは「エバーハルト・カール大学テュービンゲン(Eberhard Karls Universität Tübingen)」に入学。
彼はそこで医学を学ぶことになったが、関心が強かった化学の講座も受けたようだ。

 彼が大学で、特に優れた学生だったとか、そういうことはないという。
彼はビリヤードとトランプが得意で、学生会の活動に熱心に参加した。
しかし反抗的で、大学の評判は悪かった。

 また学生隊である「コープス・ゲストファリア(corps guestphalia tübingen)」の一員にもなった。

停学期間中の旅行

 1837年。
マイヤーは友人の何人かと、禁じられてた学生組織を勝手に作り、大学と対立。
結果的には、1年の停学処分を受けてしまう。
彼は停学処分に対して、ハンガーストライキ(勝手に邪魔になったりするところで断食する行為)で抗議したが、餓死する前にあきらめて、せっかく時間もできたので旅行に出ることにする。

 マイヤーは、スイス、フランス、オランダ領東インドなどに旅行したとされる。
各地の病院を巡り、もっと広い世界を見たいというような気持ちも得たらしい。

 また、おそらくこの時期、マイヤーは、カール・バウアーという友人に数学と工学の教えを個人的に受けていて、それらの分野に関する関心も大きく高まったようだ。

オランダ船での経験

 大学に復学してからは、以前の反抗的態度は鳴りを潜めたとされる。
彼は真面目に勉強して博士号も取った。
ただ、普通みたいな生き方は嫌だという野心もあったようだ。

 そして1840年2月。
マイヤーは、インドネシアのジャカルタ行きのオランダ船の船医として、また世界を旅することになる。
そしてこの旅に出る時までは、マイヤーは物理学という分野に大した関心もなかったという。

 しかしマイヤーはこの時の船旅を通して、穏やかな時と、嵐の時の波の違いの観察から、その裏側の物理法則。
特に熱に関する物理現象について、よく考えるようになっていく。

 そして決定的なきっかけとなったのが、ジャワ島でのある出来事だった。

なぜ熱帯で血は赤かったか

 この話はマイヤー自身が生前によく語った話だったともされている。

 東ジャワの港で、ヨーロッパ人船員たちの静脈血じょうみゃくけつを採取したマイヤーは、それが通常考えられるよりも、ずっと深い赤色であると判断した。

 静脈血は、全身に酸素を供給した後の血液である。
これはまた、心臓で血液を含められて放出された動脈血どうみゃくけつに比べて、黒ずんでいるとされている。

 アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(1743~1794)などは、静脈血が黒いのは、酸素が減少した化学反応の結果でないかと推測したという。

 そこでマイヤーは、ジャワのような熱帯地方においては、体温と外気の温度がそれほどに違わないため、体温を一定に保つ代謝だいしゃを行うために使われる酸素が少ないのではないかと考えた。

 熱帯でも、血の色がそんなに明らかに変わるほどに、代謝の化学反応が影響を受けるというのは妙であったとされる。
つまり、おそらくと血の色が変わったということ自体が、マイヤーの 勘違いだったのだろう。

 なんか重要なのは会社によって熱が生まれるという化学反応それ自体だった。
たとえば人は食物を燃焼させて、自身の栄養とする。
果物「五大栄養素とは何か」働きと、含まれる食品。生命を維持する要素 その過程。
食物が熱に変わる過程で、姿や形、性質まで変わっても、それらの、何か根本的な量だけは変わらない。
そういう結論こそが大事だった。

 そして、そのように物理法則を暴き出す楽しみを、マイヤーはその時にはっきりと知ったのである。
それからの彼は、船がどこかの港に着いても、観光に降りようとはせずに、自室にずっとこもって、ひたすら思案にくれていたという。

エネルギーについての最初の論文?

 1841年2月。
ハイルブロンに医師として戻り、そこで結婚もしたマイヤーは、しかし今や物理学の魅力にとりつかれていた。

 マイヤーは医者としての日常を送りながら、ひたすらに熱というものに関して考えていた。
あまりにそればかり考えすぎて、普通の会話があまりできなくなってしまっていた、という話もあるほど。

 そして6月にマイヤーは、最初の論文である「力の定量的、質的な規定(On the Quantitative and Qualitative Determination of Forces)」を書き終えた。
マイヤーのいう力とは、今日ではエネルギーと概念されるものであったとされる。

 その、マイヤーの最初の論文は、科学雑誌に掲載を拒否されて、結局公表されたのは彼の死後となったが、単純にその論文の出来はあまりよくなく、当然も当然の結果であったようだ。

熱の仕事当量をいかにして測るか

 マイヤーは、数学の師ともいえる友人バウアーにも助けてもらい、論文をかなり手直しした。
そしてその新しい論文の方は、著名な化学者であるユストゥス・フォン・リービッヒ(1803~1873)が編集長をしている「化学薬学年代記(Justus Liebigs Annalen der Chemie)」にちゃんと掲載された。

 特にこの新しい論文では、以前の物には無かった、加熱した気体が膨張することによって発生する仕事の計算などが書かれているという。
それは今日、「熱の仕事当量(Mechanical equivalent of heat)」と呼ばれているものの計算とされている。
ようするにある熱量で発生する仕事量の計算だ。

 マイヤーは、一定の体積に保たれた気体と、一定の圧力に保たれた気体では、温度を上げる場合、一定圧力の気体の方が多くの熱が必要になることを実験で示した。
それぞれの気体の、その結果の差は、一定圧力の気体が膨張する時に、仕事に変換されてしまう熱の量に相当するのだと、マイヤーは推測。
そこでそれらの気体の仕事と熱の比率から、熱の仕事当量を算出したわけである。

 そのような計算は、同時期にジェームズ・プレスコット・ジュール(1818~1889)も行っているが、どちらが先であったのかはかなり論争があったようだ。
「ジュール」電流、熱、羽根車の巧妙な実験。金持ち素人学者の研究人生 1842年の論文では、マイヤーは計算結果以外の詳細は省略していて、それを明らかにしたのは1845年だった。
問題なのが、ジュールがその仕事当量に関しての報告をしたのも1845年ということ。

 ただしマイヤーの 計算結果、「1キロカロリーの熱を仕事に変換すると1キログラムの物体を366メートル持ち上げられる」は、熱の測定をミスっていたことで、正しくなかったとされる。
ジュールが測定結果(1キロカロリーの熱で、1キログラムの物体を425メートル持ち上げれる)の方がかなり見事であり、仕事量、あるいはエネルギー、熱量、電力量の単位J(ジュール)の基準となった。

力はたったひとつしかない

 マイヤーは1845年の論文では、力(エネルギー)の保存性に言及している。

「化学が物質に対して行うことを、物理学は力に対して行う必要がある。物理学の使命は、その力がとりうるあらゆる形と、その変化条件を研究することだ」

「力はたったひとつしか存在しない。それが永遠にやり取りされる」

 当時としてはかなり斬新な考え方であったろう。
物質が姿形を変えても、質量は変わらないことを化学者たちは明らかにしていた。
同じようにマイヤーは、あらゆる物体を動かしている力は定量的な、一種類だけと定義できるものと考えたのだった。
ただ後にエネルギーと呼ばれることになるその力とやらが 物質の質量と同じものであるということまで、マイヤーは想像できたろうか?
時空の歪み「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙  何にせよ、この論文をマイヤーの最高傑作とする人も多いが、残念なことにこの論文も、彼の生前には大してちゅうもくされなかった。

精神を病んだ晩年

 マイヤーは、研究が世間に認められないストレスと、子供の連続した死などの不幸が重なり、次第に精神を病んでいった。
1850年には自殺未遂まで起こした彼は、精神病院の世話になることになる。

 しかし精神状態は日に日に不安定になるばかりで、1853年にマイヤーは、退院というか、さじを投げた医者たちに退院させられた。

 実のところ、病院の環境がむしろよくなかったのだろう。
またハイルブロンに戻ったマイヤーは徐々に回復し、限定的ながら医者の仕事に復帰さえしたとされる。

 彼が精神病で苦しんでいた1850年代には、熱力学という分野はよく発展したが、彼の業績はまだ評価されないままであった。
それどころか、1858年にはどういうわけだか、保護施設で亡くなったという噂が流れ、その話が辞典の記事にまで公式に掲載されたりもした。

 しかし例えばヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ(1821~1894)などは、1854年の講演で、エネルギー保存法則を最初に発見した人物はマイヤーと述べているらしい。

 また、リービッヒもマイヤーの功績を紹介したりしたようだが、誤って死亡説を流したのは彼とされている。

マイヤーか、ジュールか

 1860年代にもなると、彼の業績も科学会にだんだんと知れ渡るようになってきたが、彼自身にはもう研究者を続ける気力がないようだった。

 ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(1822~1888)は最初、マイヤーの論文に大した意味はないと考えていた。
しかし熱力学に関する講義を行うというジョン・ティンダル(1820~1893)にその論文を送ることになり、 おそらくはその論文を初めてじっくりと読んだクラウジウスは、意見を一気に変えた。

 クラウジウスはエネルギーと、その保存法則を最初に理解した人物がマイヤーでないかと確信した。
しかし、その栄光は当初ジュールのものであって、大論争が巻き起こることになったのだった。
しかしその論争にも、マイヤー自身はあまり積極的に関わらなかったようである。

 結局のところ、どちらが先かなど些細な問題であった。
イギリスの王立協会は、ジュールには1870年、マイヤーには1871年に、コプリー・メダルを授与した。
そして、メダルをもらってから7年後。
1878年3月20日に、マイヤーはその生涯のほとんどを過ごした故郷ハイルブロンで、永遠の眠りについたのだった。