「レンブラント・ファン・レイン」光と影のエピソード。完璧主義な画家として

粉屋の息子であった画家

 オランダはライデンにて、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(1606~1669)は、粉屋を営んでいた父ハルメンと、母コルネリアの夫婦の8人目の子として生まれる。
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 レンブラントが生まれた1606年という時代は、ちょうどオランダが最終的にスペインから独立を勝ち取ることになる「八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog。1568~1648)」の真っ最中であった。
実質的な独立は、1609年に12年の休戦条約が、独立を目指す7州とスペインとの間に結ばれた時とされている。
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 独立以降、海外貿易の成功や、プロテスタントの影響下における資本主義精神により、オランダは大きく発展。
富を築いた、いわゆるブルジョワ階級の者も増えたが、やがて画家レンブラントは、そういう人たちのための作品を多く描くことになっていく。

絵画への興味

 1613年。
ラテン語学校に入学し、ラテン語とオランダ語の読み書きを習ったレンブラントは、1620年には当時は有数の名門とされていたライデン大学に入学した。

 レンブラント以外の兄弟は大学には行かず、さっさと家計を助けることになったのに、なぜ彼だけは名門大学に通えたのかは謎とされている。
普通に勉強のよくできる優秀な子だったのだろうと推測する人もいれば、単に末の息子であったために溺愛されていただけと考える人もいる。

 しかしレンブラントは数ヶ月ほどで、大学は辞めてしまう。
美術の学科がなかったからだろうとは、よく言われる。
勉強はそれなりにできるのに、絵画以外のことに興味を示さない息子を見て、両親が決意したという説もある。

修行の日々

優れた才能を秘めていた

 大学を辞めるのと並行して、レンブラントはヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ(1571~1638)という画家に弟子入りした。

 スヴァーネンブルフは、建造物か、あるいは地獄などの空想画をよく描く画家であったが、平凡であったと評価されることもある。
彼に師事した3年ほどの間、直接的に教えられたのは本当に基礎ばかりだったとされているが、レンブラントは野心を持って、デッサンや遠近法などの技術をよく吸収したようだ。

 レンブラントの進歩はとても目覚ましく、父ハルメンも彼の画家としての才に期待し、続いてアムステルダムに在住していたピーテル・ピーテルスゾーン・ラストマン(1583~1633)に、息子を紹介した。
ラストマンは、神話の物語をテーマとした作品を得意としていて、当時のオランダにおいて最高峰とされていたほどの画家であった。

 ラストマンのもとにいたのは、半年ほどの期間にすぎなかったが、さすがに有名な大画家の指導は、レンブラントに大きな影響を与えたとされる。

一歳下のよきライバル

 ライデンに戻ってきてすぐ、レンブラントは、父の家に自分のアトリエを用意してもらった。

 レンブラントは、自分と同じくラストマンのもとで修行していた経験を持つ、自分の先輩画家でありながら1歳年下のヤン・リーフェンス(1607~1674)と親交を結んだ。

 二人はアトリエを共有し、よき仲間でもあるライバルとして、互いの技術を高めあったという。

記録に残る最初の評論

 1628年のこと。
ユトレヒトの美術評論家ファン・ブヘルに、レンブラントは作品を見せる機会があった。
ブヘルは立ち寄ったライデンにて、若き画家レンブラントの噂を聞いた。
彼は「粉屋の息子(The miller’s son)」と称され、よく話題になっていたという。

 ブヘルがどんな作品を見たかは不明らしい。
しかし彼は自らの著作で、「まだその真価は定かでない」と評しているという。

 そしてこのブヘルのものが、記録された最初の評論とされている。

最初の弟子

 ブヘルに作品を見せた頃のレンブラントは、おそらくすでにそれなりの名声をえていたとされる。
絵画に彼自身が登場する時、その服装は客を迎えるための正装であった。

 またその年にレンブラントは初めて弟子もとっている。
当時15歳のヘラルト・ドウ (1613~1675)である。
レンブラントはすでに、自身の得意技であった「明暗法(キアロスクーロ)」の達人で、ドウもそれをよく学んだ。

コンスタンティン・ホイヘンス

芸術オタクな、オランダ公の秘書

 オランダの実質的な君主であったオラニエ公フレデリック・ヘンドリック(1584~1647)、あるいはその次代のウィレム2世の秘書官であったコンスタンティン・ホイヘンス(1596~1687)は、物理学者として有名なクリスティアン・ホイヘンス(1629~1695)の父であり、自身も詩人であり、特に音楽を愛する芸術オタクであった。

 そのコンスタンティンだが、レンブラントとリーフェンスに関して、1930年頃の日記に書いているという。
「粉屋の息子と刺繍屋の息子、彼ら二人はすでに著名な画家たちと同等の実力を持っている。今の彼らを彼らの師匠が見たならば、キケロやアルキメデスの師匠たちと同じように、自分のことを恥じることであろう」などと絶賛している。

 コンスタンティンは二人の若き才能を比べてもいる。
彼曰く、創造のための発想力はリーフェンスが優れている。
しかしレンブラントの方が、常に冷静であり、絵に感情を上手く込めているのだという。

 おそらくリーフェンスの方が、単純な才能という意味では上であるが、レンブラントの方が技術が高いということでなかろうか。

 実際レンブラントは画家として優れた才能はもちろん、常に新しい技術に貪欲な努力家でもあった。
彼はよく弟子に「とにかく自分が今持っている技術を意識することだ。そうすれば今の自分に足りない必要なものが見えてくる」というふうに教えていたという。

王に献上された絵

 当時のヨーロッパでは、イタリアは画家の聖地のような場所で、コンスタンティンは、レンブラントとリーフェンスにも、イタリア行きを勧めた。
しかし二人とも、その必要はないと返したという。

 イタリアの名画なら、オランダにもすでに多くあるし、すでに画家として有名であり、多忙であることも理由だったとされる(それでも断られたことにコンスタントは驚いたようだ)。

 コンスタンティンは、本当に二人を買っていた。
ある時、イギリス王チャールズ1世(1600~1649)の使者に、オラニエ公が、王に献上するための絵画をいくつか託すことになったが、その中には、コンスタンティンが推薦した、レンブラントとリーフェンスの作品があったとされる。

つきまとう死と、黄金の時代

画商の仲介

 1630年4月には父が亡くなった。
これがきっかけであったとも言われるが、レンブラントはこの年に、 絵画の依頼も多くあったアムステルダムに移住することを決めた。

 アムステルダムにやってきて間もなく、すでに交流があり、レンブラントを高く評価していた画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルフ(1587~1661)が、家やアトリエも用意してくれる。

 レンブラントへの注文は、アイレンボルフを介することも多かったが、ニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプという医師からの依頼もそのひとつであった。

 解剖学の講義の様子を描いてほしいという依頼であり、レンブラントは引き受けた。
完成した絵は外科医組合の会館に飾れることになっていたのだが、それは明らかに大きなチャンスであった。
その会館には、町の重要人物たちもよく出入りしていたのである。

 そもそもトゥルプ自身も、2度ほど市長に選ばれたこともあるほどの人物であった

トゥルプ博士の解剖学講義

 レンブラントは動きに注目する。
彼は、集団の肖像画を描くことを頼んできた理由について、教授たちが自分たちの知見を世に知らしめたいからであることを、しっかりと理解していた。

 すでにオランダにおいて、集団の肖像画は一世紀以上の伝統をもっていたが、従来のものはたいてい、描かれる人物たちがみな同じようなポーズをして並んでいるだけというものであった。

 しかし、今回肝心なことは、今その瞬間に彼らが何をしているかということをしっかり伝えることだと、レンブラントは気づいていたわけである。

 レンブラントは解剖を行うトゥルプ博士に威厳をもたせて、それを他の者たちが静かな興奮をもって眺める様を見事に描いた。

 そしてその作品「トゥルプ博士の解剖学講義」が、画家レンブラントの名声を一気に大きくしたのであった。

恋と結婚

 レンブラントはまた、アイレンボルフの親戚であったサスキア・ファン・オイレンブルフ(1612~1642)と恋に落ちた。
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 1633年6月に婚約した二人は、1634年7月22日に、教会で結婚式を挙げる。

 サスキアは名士の家の娘であり、結婚の持参金も多かったようで、彼女との結婚によりレンブラントは富も得る形となった。

 レンブラントはある時、ドイツ人商人グロスマンのサイン帳に書いたという。
「誠実な心は、富よりも名誉を重んじるものだ」

 夫婦は2年ほどはまだアイレンボルフの世話になってから、アムステル川のほとりの家で暮らすことになった。

幼い死と、浪費癖

 いいことばかりではなかった。
1635年12月に、サスキアは身ごもり、初めて子を産んだが、その子ルンバルトゥスは、2ヶ月で天に召された。
さらに3年後の1638年に生まれたコルネリアも、3週間で世を去った。

 またレンブラントは、あらゆるものを、練習も兼ねて描いたが、例えば預言者や戦士の絵を描くのに、モデルにそれっぽくなってもらうためのターバンや武器などを買い与えたりもした。
早い話、彼には浪費癖があった。
サスキアの家族に、持参金を無駄に使っていると非難されるほどであったという。

 いくらなんでもやや見栄があった、贅沢な新居に引っ越すことに決まった1639年には、ホイヘンスを介して、総督にまで金をねだった(正確には自分から絵を買って欲しいと頼んだ)。

 そして私生活ではしつこく死の不幸が彼を苦しめる。
1640年7月。
二人目と同じくコルネリアと名付けられた三人目の子も、2週間ほどの生涯で終わった。
さらには、早死にした娘たちと同じ名の母も、9月に亡くなった。
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光と影を自在に操る技術を求めて

 連続する悲しみも、レンブラントの創作への意欲を削ることにはならなかった。
誰に妥協はなく、依頼される肖像画に求められていた、モデルの思想を上手く表現するために、光の技術を極めんとした。

 とにかくイタリア絵画などを購入しては、光と影をいかにして表現するのか、どのように配置すればどのように影響し合うのかを熱心に研究した。

 レンブラントは後の時代にまさにそう評されるように、光と影の魔術師のような画家であった。

 一方で彼が求めていたのは、絵に込められた本質を明らかにすることだけであり、過剰すぎる演出はあまり好まなかったとされている。

夜警。最大の評価をされた大傑作

 1641年9月には、4人目の子供であるティトゥス(1641~1668)が生まれた。
そして彼は、これまでの子供たちと同じようにあっさり死なず、しっかりと成長した。

 そして1642年。
依頼から1年以上もかけて、レンブラントは、スペインとの戦争時に活躍しながらも、平和な時代となって忘れ去られつつあった市民兵の勇姿を記録した作品を完成させた。
『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊(De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh)』、通称、『夜警(De Nachtwacht)』と呼ばれるその大作は、彼の最高傑作のひとつとして非常に有名である。

 レンブラント以外にも市民兵を依頼されて描いた者は大勢いたが、市民軍本部の施設で並べられたそれらを見た、優れた弟子の一人であったサミュエル・ファン・ホーホストラーテン(1627~1678)は、師の作品を大絶賛した。
彼は「これにどのような評価が寄せられたとしても、同じテーマの作品でこれより勝るものなど決して現れないだろう。この偉大な作品と比べたら、横にかけられた作品はすべてトランプのカードのようにしか見えない」とまで言ったとされる。

 一方で、レンブラントはまだ死神に好かれたままであった。
夜警の製作中から、妻サスキアは体調を崩していて、6月14日に(おそらくは結核けっかくで)先の子供たちの後を追ったのだった。

芸術へのこだわりとうぬぼれ。没落の時代

完璧主義すぎて客離れ

 おそらくレンブラントの栄光の黄金時代の絶頂期は夜警の完成であり、サスキアの死が暗い没落の時代の始まりであった。

 夜警のようなレンブラントの作品は、非常に高い評価を受けながらも、モデルの意向を無視しているという批判がよく寄せられるようになった。
言うなればレンブラントは、芸術家として完璧主義を貫きすぎていた。

 肖像画を依頼する者たちは、自分たちこそ目立つように描いて欲しいのに、レンブラントの絵は、しばしばドラマチックな構成のためにモデルを脇役にしてしまった。

猿の死骸、帽子の位置

 レンブラントはまだ幼いティトゥスのためにヘールトヘ・ディルクスという乳母を雇い、後には愛人関係にもなった。

 商業画家としての人気はどんどん落ちていった。
やはり肖像画を依頼する貴族たちは、専門的により高い水準とされるレンブラントの絵よりも、彼の弟子たちも含めた他の多くの画家たちが描いてくれる、自分を主役とした作品を求めたからだ。

 それに、本当に彼は、客よりも絵の完成度を重要視するようになっていた。

 こんな話が伝えられている。
ある時、レンブラントはとある家族の肖像画を描いていたが、その最中に飼っていた猿が死んでしまった。
すると彼は、そのまま作品に猿の死骸を書き込んだ。
モデルの家族は肖像画に描かれたその死骸を消してくれと希望したが、それも含めた作品として気に入ったレンブラントは、客を失う選択をしたのだった。

 また、レンブラントは仕事が遅いことでも有名な問題であった。
モデルに長い時間ポーズをとってもらい、描き始めて、それに絵の具で色をつける段階までいったところで気に入らなくなり、一からやり直す。
なんてこともよくあったようだ。
モデルがかぶった帽子の位置すらも、何度も何度も描き直して、その調整に1日がかりだったりもしたという。

泥沼の愛

 客の多くを失っても、レンブラントの浪費癖は続いていた。
彼は絵に描くために、古着や武器など様々な骨董品をあちこちで買い漁った。

 サスキアは多額の遺産を残していたが、それらはどんどんなくなっていった。

 レンブラントは、かなりはっきりと落ちぶれていく。
彼は1649年から、20歳ほども若いヘンドリッケ・ストッフェルス(1626~1663)を新たに愛人にした。
しかし、その関係に嫉妬した(あるいは危機感を覚えた)ヘールトヘは、レンブラントから贈られていた、彼の亡くなった妻サスキアの宝石を根拠に、婚約不履行を訴える裁判を起こした。

 レンブラントは毎年ヘールトヘに金を支払うことになったが、宝石を質にいれた彼女への怒りがきっかけで、彼女自身の私生活もかなり荒んだものであることを調べ、裁判所に報告。
「道徳的過失」があるとして、ヘールトヘは禁固刑に処され、レンブラントと彼女との関係は完全に終わった。

借金を返すためのオークション

 サスキアは遺言の中で、レンブラントが再婚したなら、財産相続の権利はなくなると書いていた。
そのために、もうろくに仕事がないにもかかわらず金遣いの荒いレンブラントは、ヘンドリッケと結婚することがなかなかできなかった。

 そして、かつては国の総督にまで作品を依頼されていた有名画家が、イギリスとの戦争などで国の経済も圧迫されていた1650年代には、借金まで抱えるようになってしまっていた。

 1656年5月。
追いつめに追いつめられたレンブラントは、とりあえず裁判所に出頭して、自らの財産を全て息子に継がせようとしたが、申し出は拒否された(おそらくレンブラントは、息子にすべての財産を与えた上で、破産しようとしたのだろう)。

 さらに7月には、いよいよ彼自身の財産をすべて現金へと変えて、債権者さいけんしゃ譲渡じょうとすることが決定。

 レンブラント自身の絵を含む363点の品がピックアップされ、それらのオークションが開かれることとなった。

たいていほとんど失って、ただの画家となって

無一文になっても残っていたもの

 債権者たちの間でもいろいろもめ事などがあり、オークションが終了したのは、1660年12月18日であった。

 自らの芸術への姿勢と、悪癖あくへきにより、レンブラントは豪邸を含め、多くのものを失ってしまった。
しかしそれでも借金は残っていたとされる。

 コルネリアと名付けた娘もすでにいたヘンドリッケとは、サスキアの遺言が意味を失ったからか、ちゃんと結婚した(とされているが確たる証拠がない)。
そして一家は、ローゼンクラフトの街の小さな借家に移り住む。

 まだ幸運であった。
家族と、それに画家としての絵心も残っていた。

 ヘンドリッケと、もうずいぶん大きくなっていた息子ティトゥスは、レンブラントの世話の義務を持つが、しかし彼が新しく描くあらゆる作品の権利を有する、ということになっていた。

晩年の暮らしと、息子と孫

 1663年には、ついにヘンドリッケにまで病気で先立たれ、レンブラントは、まだ20代のティトゥスに、生活に関するすべての援助を頼らなければならなくなった。

 決して画家として評価されていないわけではなかったろうが、もう華やかな暮らしに少しでも戻ることは不可能だった。
晩年の彼の食事は、毎日少しのパンとチーズばかりであったという。

 そして1668年の9月には、ティトゥスも死んでしまう。
しかしその翌年に、未亡人となったティトゥスの妻マグダレーナは娘を授かり、孫の誕生にレンブラントも元気付けられたはずと言われる。

 その孫の誕生から間もなく。
1669年10月4日。
死神はいよいよレンブラント自身の命も奪い去る。
その遺体は、先に亡くなった二人の妻のすぐ隣に埋葬されることになった。

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