「おもちゃの雑学」なぜプレミアか、どう進化したか、どのように作られたか

プレミア化。幻のマシーンマン

 「増田屋コーポレーション(旧名=増田屋斎藤貿易)」は、まだ江戸時代である1724年に創業したとされる、かなりの老舗しにせなおもちゃメーカー。

 1940年代から1960年代くらいまでにかけて、まだ増田屋斎藤貿易という社名だった増田屋コーポレーションは、ブリキの玩具を数多くつくり、海外にも輸出していた。

 そして現在。
特にブリキのロボットは、マニアたちの間で人気を高めているという。

 1997年12月19日のことニューヨークで開かれたオークションで、『マシーンマン』というブリキロボットが、どういう訳だが製造元であるはずの増田屋コーポレーションに落札された。
その値段はなんと、日本円で800万ほど。
おもちゃとしては、世界でも最高レベルの額とされた。

 マシーンマンは、増田屋製のブリキロボットの中でも、 特に人気の高い「5人のギャング」と称されている5種類のロボット群の1体。
5人のギャングは、足が一体となっているはかま形が特徴的な、大きめなサイズのロボット。
その通称は、黒澤明くろさわあきら監督の「七人のサムライ」が参考にされてるらしい。

 マシーンマン以外の4種は、灰色の「ラジコンロボ」、桃色の「ノンストップラベンダーロボ」、紫の「ターゲットロボ」、赤色の「ソニックロボット」。
マシーンマンは、ソニックロボットと同じく赤いカラーリングだが、顔が黒いあちらと違って顔まで赤い。
そしてこのマシーンマンは、 なぜかこれだけ生産数が極端に少なかったようで、五人の中でも現存している数が(数体程度と)少なく、プレミア化しているというわけである。

友達。青い目の人形との友情

 野口雨情のぐちうじょう(1882~1945)作詞、本居長世もとおりながよ(1885~1945)作曲の「童謡どうよう(Nursery rhymes)」である「青い目の人形」は、実話を元にしているという。

 第一次世界大戦(1914~1918)から少し。
中国への進出を試みていた日本は、アメリカとの間の政治的な緊張を高めていた。
勤勉であったアメリカへの日系移民が、本国の人たちの仕事を奪っていくことになるのではないか、というアメリカ側の危惧もあったようだ。

 そして、親日であったとされるアメリカ宣教師のシドニー・ルイス・ギューリック(1860~1945)は、両国の関係に胸を痛めていた。
彼は第一次世界対戦の教訓から、大人たちは頼りにならないと悟っていた。
そこで、平和のために子どもたちの交流が必要だと考える。

 こうして宣教師の提唱により、1927年、アメリカの小学生から、日本の小学生へ、手紙と人形、それに人形の着替えや、ハンカチ、香水、聖書などが贈られることになったのだった。
贈られた西洋人形の数は、12000体ほどだったという。

 人形だったのは、少し前の1923年に発生した関東大震災により、首都に住んでいた多くの子供たちが、家と共に人形を失ってしまったためだったからとも言われる。

 日本ではこのようなイベントは前例がなく最初は当惑もあったが、マスコミが盛り上げたこともあり、全国の小学校で、西洋の青い目の人形の歓迎式典が行われるたりもしたという。

 ところが結局、 友好関係を築くことはできなかった。
第二次世界対戦(1939~1945)が起こり、日本はアメリカと敵対。
青い目の人形は米兵の手先とされ、大人たちの手によって無惨にも焼き捨てられたのだった。
そのはずであった。

 実は、子供たちに愛された小さな親善大使たちを殺すことが忍びなかった多くの教師たちが、非国民と呼ばれるのを覚悟で、天井裏や物置の奥などにそれらの人形を隠したりしていたのだ。

 そして戦争がようやく終わった後。
それらの人形は、古い学校の校舎から、次々と発見されてきたという。
青と赤の「赤と青色の怪談、都市伝説」赤い部屋、赤マント、青い目の人形

二大スタンダードだった素材

ブリキ。ティンプレートからチンプレ

 「ブリキ(Tin)」というのは、鉄鋼てっこうをスズで表面処理したもので、かつては玩具の主要材料であった。
他の合金素材に比べると、軽量で扱いやすかったのである。

 ブリキが表に使われるようになったのは19世紀に入ってからとされている。
特に、ブリキ製のおもちゃの生産量が多かったのはドイツだが、フランスがそれに対抗する形となっていた。

 1815年に、ブリキ対応の「プレス機械(forming press)」、つまりは圧力を加え、狙った形状に変形させる機械が登場したことが、以降の大量生産につながったとされている。

 また、刷版さっぱん(専用の板)についたインクを、ブランケットと呼ばれる(樹脂やゴム製の)ローラーにいったん転写。
そのブランケットを介し、印刷用紙にさらに転写する印刷方式を「オフセット印刷(Offset printing)」という。

 オフセット印刷は、版が直接的に紙に触れないために、鮮明な印刷が、短時間で可能とされる。

 そしてこのオフセット印刷により、1880年代くらいから、カラフルなブリキ製玩具も、よく作られるようになっていった。

 しかし機械によるカラー印刷工程は、実はなかなか浸透しにくかったという説もある。
伝統的な塗装スプレーなどを使った職人たちが、多くいたからである。

 日本でも開国して間もなく、(素材が基本ブリキである)空き缶を使って、 ブリキ製のおもちゃを作っていたと言う。
当時の日本人たちは、イギリスでそれがティンプレートと呼ばれていることから、ブリキのことを「チンプレ」と呼んでいたという。

セルロイド。セル画のわけ

 19世紀中頃から利用されだした合成樹脂の「セルロイド(celluloid)」は、金属に比べると軽くて錆びにくくて、水にも強く、大量生産もしやすいために、日用品などの素材としてよく使われるようになり、おもちゃの素材としても人気が高かった。

 日本にも欧米から伝わってくるや、セルロイドは広く使われ、20世紀初めから第1次世界対戦ぐらいまで、セルロイド製おもちゃは最盛さいせいを極めていたという。

 しかしセルロイドは燃えやすいことが問題であった。
1932年には、東京日本橋の白木屋デパートで、セルロイド製おもちゃが火災の原因となったりもした。

 アメリカでは1940年代から、おもちゃの素材としても、セルロイドはプラスチックに取って代わられ、日本でも第二次世界対戦が終結した後は、そちらにシフトしていくことになった。

 また、アニメのフィルムにも、かつてはセルロイドが使われていたが、やはり可燃性の問題からあまり使われなくなっていった。
しかしその時代の名残として「セル画」という技法の名前が残ることになったそうである。

ロボットおもちゃの進化

 ロボットの模型ではなく、実際に科学的な原理のコンピューターを搭載したおもちゃを『ロボットおもちゃ』という。

 1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にかけて行われた、「国際科学技術博覧会こくさいかがくぎじゅつはくらんかい(The International Exposition, Tsukuba, Japan) 」、あるいは「つくば科学万博」は、第一次とされるロボットおもちゃブームのきっかけであったとされる。

 トミー社の「オムニボット」のシリーズは、普通に数万円と、おもちゃにしてはかなりの高額であったにも関わらず、それなりにヒットしたという。

 また同時期、バンダイ社も、ユーザーが実際に組み立てることで、ロボットの仕組みを学ぶこともできる「ロボテックシリーズ」や、当時としては画期的な二足歩行ロボット「ウォーキングロボRK」などを発売している。

 続く第二次ブームのきっかけは、1999年にソニーが販売したロボット犬の「アイボ」だったとされている。
アイボは20万円以上もの高額商品であったが、リアルな子犬の動きを再現した新しい時代のペットとして、特に高齢者などに人気を博したという。
以降、ペットロボットや、癒し系ロボットなどと呼ばれる犬や猫型のロボットおもちゃは、ロボットの一大ジャンルとなった。

 そして2000年。
ついに、本田技研工業ほんだぎけんこうぎょうが、リアル人間サイズ二足歩行ロボットの「ASIMO」を公表した。
もちろんこれはもはや、おもちゃというのがちょっと躊躇われるようなものであるが、 人形が子供の友達として作られたものだとするなら、このようなリアルロボットは人間の友として開発されていると言えるだろう。
つまり、おもちゃの範疇はんちゅうと言えるかもしれない。

有名おもちゃの起源の謎

紙めんこ、泥めんこ

 『めんこ』とは「面子」、つまり「小さな面」の意味。
基本的には丸かったり四角だったりする、特定のキャラクターなどが描かれているカードのようなもの。
遊び方はわりと自由だが、よくあるのが、あらかじめ場に置かれた相手のめんこに対し、自分のめんこを当てたりして、 裏返したり、弾き飛ばしたりする。
後は、あらかじめ決められている様々なパターンのルールに則り、勝った方は負けた方のめんこを手に入れることができる。

 このめんこは、大正(1912~1926)や昭和(1926~1989)と呼ばれる時代には、よく遊ばれていた定番のおもちゃであったという。

 大正や昭和に遊ばれていた紙製めんこが生まれたのは、明治時代の頃とされているが、めんこ自体は江戸時代中期に発明されたとされている。
当時のめんこは、型をつけた泥を焼いて固めた、いわば泥製であった。

 古い泥めんこは、よく農地などから出土したから、 厄除けのお守りや、ゴミとして捨てられた後に肥料として使われていた説もある。

けん玉のルーツは複数か

 『けん玉』は十字状になっている剣的なものと、基本的に紐で繋がっている玉からなるおもちゃ。
世界中で人気であるが、現在のスタンダードタイプは、日本製のもののようである。

 このけん玉のルーツは諸説あるが、日本でないことはほぼ確かである。
一般的には古代の中国か、アフリカとされているようだ。

 ただし、 単に似たようなゲームが古代世界のあちこちにあったというだけで、現在のけん玉の直接的なルーツは、フランス王アンリ3世(1551~1589)が愛好していたという記録がある「ビルボケ(Bilboquet)」でないかとされている。
しかし、このビルボケ自体の起源もまた不明。
しかし、普通にフランス、でなくともヨーロッパ起源の説以外にも、インドや、メキシコ(マヤ)から伝わってきたという説もあるという。
メキシコの遺跡「メキシコの歴史」帝国、植民地、そして自由を求めた人々 

ヨーヨーが流行ったフランス革命時

 「ヨーヨー」は、二つの円盤をくっつけたものに紐を巻いて、その紐ののびた端に、指を入れるための小さな輪がついているというおもちゃ。
輪に指を入れて、円盤を回転させるように手を離すと、もちろんそれは回転するが、紐が伸びきった時、反対に紐を巻きつけながら、手元まで戻ってくるようになっている。

 円盤の回転は摩擦抵抗で弱まるが、 高等技術の持ち主は、タイミングよく指を動かしたりして、自在に回転を操ることもできる。

 このおもちゃの起源もまたはっきりしないが、かなり古いことは確かのようである。
定番の説としては、紀元前500年頃の古代ギリシアで生まれたとされているようだ。
他に中国起源説やフィリピン起源説などがある。

 ヨーロッパにおいて、フランス革命の時に流行して以降、このおもちゃは欧米諸国で特に人気だとされる。

 日本には江戸時代に中国から伝来したとされているが、欧米諸国のものは昭和の初期に伝わってきたようだ。
気軽に遊べる上に、少しコツをつかめば、なかなか派手な技も楽しみやすいため、すぐさま大流行となった。
国会議事堂周囲を警備していた警察官が勤務中に遊んでいるところを見つかり、懲戒免職になったりするほどであったという。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA