「デカルト、哲学原理」第一原理要約と考察。思想のまとめの書

哲学原理

哲学原理について

デカルト的哲学、自然学のまとめの書

 「Principia philosophiae(哲学原理)」は、フランスの哲学者ルネ・デカルトの著作。
1644年の刊行である。
 この書にデカルトが着手し始めたのは、1642年からで、有名な哲学者の代表作とされる作品としては、比較的短い時間で書かれている。
しかも、途中で何度も中断されたらしいから、実際の執筆時間はもっと短かったはず。

 執筆時間の短さについては、おそらくこの書が、デカルトの思想や研究の集大成的なものであるからと考えられる。
いわば哲学原理は、デカルト的哲学の入門、あるいは教科書のような著作なのである。

 ただし、哲学原理という書は四部構成で、第二部以降は、哲学というより、自然学とする意見もある。

形而上学、自然学、哲学とは何か。知恵の探求

 空間とか時間とかに縛られないもの、感覚や経験で捉えられないような実在性の研究、いわゆる形而上学を扱うのが第一部。
時空の歪み 「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙
第二部からは、実在する、物質的な原理の研究記録とも言えるかもしれない。

 しかし個人的には、自然学、物質的原理の研究は、科学の範囲であり、哲学とは違うと考える。
だから哲学原理は、デカルト哲学、科学の総合的な著作のように思う。

 もっとも、それは現代的な見方なのも確か。
現在の我々が哲学と聞いてイメージするような哲学は、形而上学だが、デカルトの時代、それは『第一哲学』と呼ばれていた。
哲学という言葉は、かなり広くを包括するような言葉だった。
物質を超越したようなものも、物質も、哲学で扱う範囲。
今日、科学と呼ばれてるような科学は、哲学の一分野だった訳である。
 また、デカルト自身が、友人が訳したフランス語版に寄せた序文にて、哲学とは「知恵の探求」を意味していると述べている

人間の認識。物質の原理。可視的な世界。地球

 哲学原理の構成自体は、以下のようになっている。

 第一部、人間の認識の原理について。
第二部、物質の諸原理について。
第三部、可視的な世界について。
第四部、地球について。

 また、構想段階では、
第五部、動物および植物の本性について。
第六部、人間の本性について。
と続く、全六部であったようである。

哲学原理の哲学

真理を知るために全てを疑うべき理由

 本当のことが知りたいなら、その前に一度は、全てのことを疑うべきだ。

 それは全ての事が、正しくない可能性が少しはあるからである。
我々は生まれた瞬間には知恵がない。
感覚で生きるしかない。
(そもそも覚えてないのではないだろうか)
最初の時は、学ぶことを選べないとも言えるだろう。
そのせいで、余計な先入観が、我々には必ずついてる。
先入観は、理解を邪魔するものだ。
だから、真理を知るためには、まず不確かなもの全部、つまり全部を疑うしかない訳である。

感覚と証明された数学への疑い

 疑わしいものは、偽りと考えるべきだ。

 明らかな真実を見つける方法がある。
少しでも疑わしいものすべてを偽りと決めつけるのだ。
そしたら、(そこに残るものがあれば)確実な何かが明白になるはず。

 ただ、普段の生活においては、そのような疑いは有用とは言えないという。
(我々の普通みたいな)普通は、正しい答えがあるのだとしても、それはすぐに意味を失う。
真理かどうかはともかく、もっともらしいものなら、たいていすぐに見つかるし、それで実用的には十分。

 (疑うべき例として)自身の感覚もそう。
それが間違う事を我々は知ってる。
夢を見てる時に、一瞬でも、自分は起きているのだという感覚を持った事があるなら、その事はわかるはず。
 数学的な証明に関してもそう。
後に間違いとわかった事が、信じられてた事もある。

我思う故に我あり。自明的な基本の事

 自らが存在している事を疑う事は出来ない。

 神も天も、その他どんな物質も、自分の体の実在性すら疑ったとしても、それらを疑う、自分、と言える思想が存在してる事は確実。
 考えている者が、考えている時に、どこかに存在していないのはありえない。

 だから「我思う故に我あり」。
あらゆる認識のうち、順序正しく哲学した場合に、最初に出会う最も確実なものがそれだ。

 自分と異なるすべてを疑った時、精神と物体の区別も出来よう。
精神の本性が現れる。
(どちらかというと、自分という精神の一次領域が浮き彫りになる、というような感じもする)

 ただし最も自明的な事は、ここでは考察もしていない。
それはつまり「思うとは何なのか」、「存在とは何なのか」、「確実性とは何なのか」というような事である。
多くの哲学者達が、これらもっとも自明な事を、なんとか論理的に説明しようとして、それを不明なものとしてきた。
 それらは、それらだけでは、自己認識をしない。
(おそらく論理的に考えられるという領域の外側。あるいは限界を超えている)
だからこそ、思考、存在、確実性は、 そもそも自明の概念として、最初の命題は「我思う、ゆえに我あり」なのである。

自分を論理的に証明できるか

 「我」の存在を論理的に証明する。

 無というのは、 形とか色とか雰囲気とか、とにかく性質を何も持たない事。
 大地に触れた時、たとえそこに大地なんてものが存在していないのだとしても、大地に触れていると我々は判断できる。
そう判断するという性質の精神が、無であるということはありえない。

実在性の謎。物質、概念、認識、証明

 認識できるあらゆる観念は、外にも存在するものだと主張したり、否定したりしない間は、自身を欺きはしないだろう。

 確かに存在している精神が認識する周囲は、物質的には実在していないかもしれない。
だが我々が認識している以上、例えば三角や四角のような形は、観念的には明らかに存在している。

 物質的に存在しているかに関係なく、エウクレイデスの原論に書かれてるような証明は全て行えよう。
幾何学 なぜ数学を学ぶのか?「エウクレイデスと原論の謎」
 三角比や素数とかも証明できる。
直角三角形の三角比 sin、cos、tanは何を表すか?「三角比の基本」
123 「素数とゼータ関数」リーマン予想に晒された架空の実領域
(今は、ゲーデルという人が、単純な演算ですら、その答が確実でない事を明らかにしてしまっている)

実在するのか、しないのか。神の存在証明

 我々の観念上では、それが必然的に存在しているため、神の存在は正当に結論できる。

 精神は自らの内に、最高に叡智的で、最高に完全なものの一つをも見出せるだろう。
三角形を考えるとき、「三つの角がニ直線に等しいというようなこと」が、そこに含まれていると認識できることから、そのことを確信できる。
同じように、我々の精神が認識する全ての観念の中に、その必然的で永遠なる神が存在することは、それが確かに存在することを示していることに他ならない
(デカルトの神に関する証明は、基本的に意味わからないが、彼が正しいなら、神だけでなく、 魔法やドラゴンの存在も証明できる)
音楽魔術 「現代魔術入門」科学時代の魔法の基礎
 完全な存在、それが神である。
どんなことも、自分も含めて、不完全さがどこかにあるから神ではない。
物質とは全てそうであろう。
だから神は、物質的なものでないことは明らかである。

 神は全知全能であるから神から伝えられることはすべて信ずべきとも言える。
例えば三位一体などの事。
我々がうまく理解できないとしても、それは我々が不完全であるからにすぎない。
(仮に、三位一体の概念が、神が我々に教えてくださったものなのだとしても、うまく理解出来てないなら、それは確実に信ずべきとは言えないような気もする)

無限とはなにか。有限とはなにか

 無限については議論するべきではない。

 時間の無駄、我々が無限でない限りはそうだ。
我々の存在が有限であるなら、無限のことを考えるのは無理である。
 例えば、無限に長い線を考える。
線をひたすらに長くしていく。
だが、ひたすらに長くしていっても、我々が有限である以上、その途中で限界がくるはず。
無限に線を伸ばせるのは、無限の者だけだ。
 我々が有限であるならば、無限というものを定義することは不可能なのだ。
だからそもそも、「無限があるとしたら、その半分は無限だろうか」とか、「無限の数は偶数なのか奇数なのか」というようなことを考える人は、自分の精神が無限であるのだと信じているのだろう。

どうして自由意思で、わざわざ間違えるのか

 神は詐欺師ではない。

 我々が間違うことがあるといって、我々を創ったのだろう神を恨むのは、見当違いであろう。
神は完全な存在であるが、我々を不完全な存在とした。
(なら、おそらくそれが原因で、この世界は、この世界となった)

 神は我々を、愚か者や、悪に陥れたのではない。
そうなった時、明らかに我々自身を陥れているのは我々だからだ。
つまり神は、我々に自由意志を与えてくださったのだ。
善でいる事は出来る。

 しかし、誰も間違うことなんて望んでないのに、なぜ我々は自由意志で間違うことができるのか。
それは、我々は明らかな間違いを選ぶことはしないが、間違いかもしれないことを選ぶことは、普通にするからだ。
また我々が、まだちゃんと認識しないことに判断を下してしまうこともある。

我思う故に我ありの意味

 デカルトは、少しでも疑える可能性のあるもの全てを疑った場合、最終的に、確実に信じられるものは、そのような考察をしている、自分という精神のみと考えた。

 物質的なものの存在を確かには証明できない。
しかし、それらの認識する精神と、認識している何かを確かとする。
我思う故に我あり、という訳である。

 デカルトの哲学上においては、認識の重要性は、実際する物質の現実とあまり関係ないとも言えるかもしれない。
例えば、ある男が、自分は女だと、強く信じていたなら、例え肉体的には男であっても、その(精神が認識する)本質的には、彼は女という事になる。
そして、そもそもしっかりと考えてみたら、その精神認識の方が、確実に確かな事なのである。

 しかし、自らを神だと信じる誰かは、我々が思ってる以上に、神なのだろうか?
 

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