「江戸の生活文化の雑学」江戸時代とはどんな時代だったか

江戸の街

江戸は小さな田舎町だった

ボロボロだった江戸城

 江戸えどといえば、大都会というイメージが強い。
しかし徳川家康とくがわいえやす天正てんしょう18年(1590年)に、一万人ほどの家臣と共に入国した時、江戸はずいぶんと小さな町だったという。

 だが、後に家康が築いたものと比べると、ずいぶんとみずほらしかったものの、江戸城は一応あったようだ。
この江戸城は、関東管領かんとうかんれい扇谷上杉おうぎがやつうえすぎ氏に仕える、太田道灌おおたどうかんという人が築城ちくじょうさせたもの。
わりと放置されていて、ひどい雨漏あまもりにより、畳が腐っていた。

 家康は、家臣の本田正信ほんだまさのぶから、「(城の状態はあまりにも酷いから)せめて玄関周りだけでも改築してはどうか」と進言されたが、取り合わず、家臣らの移住地の確保や、城下町の建設を急いだそうである。

貿易場から、将軍の城下町へ

 後に埋め立てが進み、海は狭くなったが、家康が入国した当時の江戸湾はなかなか広く、港には貿易船がよく集まり、流通の拠点であった。
江戸は小さな町だったが、それでも当時の関東においては、賑わっていた方だったようだ。

 慶長けいちょう8年(1603年)3月3日。
家康が将軍となって、江戸幕府を開いた直後のこと。
家康は諸大名に対し、将軍の城下町にふさわしい町を築くよう、江戸の町づくりを命じた。
これは、『御手洗い普請ふしん』とか、『天下普請』と呼ばれていて、天下人になった家康に媚を売ろうと、規定以上の人員を出してきた大名もけっこういたとされる。

 そうして江戸の町づくりは本格化したのだった。

山を切り崩し、海を埋めていく

 江戸城の南には日比谷入江ひびやいりえがあり、後の東京の、新橋、内幸町うちさいわいちょう皇居外苑こうきょがいえん、大手町、日比谷公園、霞が関辺りの地域であった。
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これらは、海を埋め立てた地に作られたのである。

 日比谷入江の埋め立ては、江戸の町づくりにおいて、特に大きなプロジェクトだったとされる。
埋め立てに必要な土は、江戸城の北にあった、神田山かんだやまという広大だった山を切り崩して、得たという。

 江戸城を、ボロから、立派なものに建て替える作業は、家康の代では解決せず、三代目将軍、家光いえみつの代の1643年頃に終了したようである。

江戸っ子の水自慢

張り巡らされた江戸の上水道

 家康により、改築された江戸の自慢のひとつが、上水、つまり飲料水として利用できるような水の、水道であった。
江戸では、大通りの地下などに石や木で作られたとい、つまりは水道管を敷設ふせつし、上水を配水させていた。

 実は当時、江戸のような、大規模な水道が張り巡らされた都市は珍しいものだった。
他の地域では、川の水や、湧き水を汲むか、掘井戸の水を利用するのが普通であったのだ。

 江戸の人たちの言う井戸は、外見は似たようなものでも、掘井戸でなく、上水道から引いた水を、地中に埋めたおけに溜めたものだった。
使う時は、その溜めておいた水を汲み上げて使う。

 伝統的な深い掘井戸は、釣瓶つるべと呼ばれる、「縄などに、桶をつけ、滑車のような機構を用いる方法」で、地下深くから水を汲む。
一方で、江戸の水道井戸は浅く、竹竿たけさおに桶をつければ、それで水を汲めたという。

水の都、江戸

 江戸の水道設備は、人口の増加とともに、その規模を大きくしていった。
しかし、1722年頃、八代将軍吉宗よしむねの時代に、それまでに設けられた6つの上水の内、神田上水と、玉川上水以外は、廃止にされる。
その理由として、当時、江戸には火事が多く、問題となっていて、その原因が、水道の敷きすぎにより土地が乾燥したせいだと考えられていたから、という説がある。
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 一方で、江戸でも、井戸掘り技術が発達し、工事費用も安価になっていった事で、商売の関係などで多量に水を欲しい人が、伝統的な深堀井戸を持つ事も増えていった。

 また、江戸は水の都。
船が便利な移動手段として使えたほどに、今よりもずっと、川が張り巡らされていたという。

水停止のお触れ。水銀。井戸替え

 地下水管の交換や修理のための工事の際には、水切れするのが当たり前だから、事前にお触れが出され、その知らせを受けた人たちは、桶などに水を蓄えて、工事に備えた。

 水道の利用料金は「水銀みずぎん」と呼ばれ、所有する土地の大きさなどが基準だった。
そのために貸家などに住む庶民は、水道料金を支払うということがなかったが、当然、家賃の中には水道料金の分も含まれていたろう。

 年に一度。
たいていは7月7日に、長屋の住人たちは、一斉に仕事を休んで、「井戸替え」と呼ばれた、井戸の大掃除をした。
掃除の後は、みんなで宴会をしたり、長屋の人たちにとっては、井戸替えは、ちょっとしたお祭りだったという。

江戸のゴミ問題

不衛生だったゴミ捨て場

 江戸という街が出来た当初は 人々はゴミを 家近くの氷屋川空き地などに勝手に捨てていた。
しかし17世紀の中期くらいから、長屋には『芥溜ごみため』と呼ばれる、共用のゴミ捨て場が設けられるようになっていく。

 しかし芥溜は、たいていほった穴に、仕切りを備えただけのもので、フタもなかった。
しかも、同じく共用の雪隠せっちん(トイレ)の近くに設置され、さらに飲料水を溜めてる井戸にも近い事が多かった。
言ってしまえばかなり不衛生だったわけで、疫病が蔓延しても、仕方ないような環境であった。

 芥溜に溜まったゴミを処理場へ運ぶ際は、仕切りを取り外して掻き出したのだが、めんどくさい時は、仕切りをさらに付け足して、もう少し溜める、というようなこともあったようだ。

永代島。越中島。江戸のゴミ処理場

 やがて、永代島えいたいじまという小島が、幕府から、公式のゴミ捨て場に指定される。
1662年には、それについての法令も出された。
さらに江戸市中に、『大芥溜おおごみため』という、ゴミの中継地点が設置され、そこに置かれたゴミを、幕府の船が永代島に運搬するという仕組みが出来ていた。

 芥溜に集まったゴミが大芥溜に運ばれ、さらに永代島に運ばれ、処理されたわけである。

 またゴミは、『肥芥こやしあくた』と呼ばれた、肥料になるものと、そうでないものに分別できる。
そこで、『芥船あくたぶね』と呼ばれた、ゴミを運ぶ船の上で、二種のゴミは分別され、肥芥は農村などに売られた。

 1730年くらいからは、ゴミで埋まった永代島に代わり、越中島えっちゅうじまが、新たにゴミ捨て場に指定されたという。
また、ゴミの不法投棄の問題を受けて、その罰はかなり厳しく設定されていたそうである。

リサイクル文化。中古文化

 衣服を何度も縫い直しては、再利用した。
傘や提灯を買い取り再利用する業者。
また再生紙の商売など、とにかく江戸はリサイクルが得意な街だったそうだから、ゴミ自体はあまり出なかったとされている。

 とにかく新品が高いものは、庶民たちはみな、使い回せるだけ使い回したようだ。
中古を扱う店も、かなり多かったとされる。

江戸の火の用心と、消防組織

なぜ火事と喧嘩は江戸の華か

 江戸では火事が多かった。
家のほとんどが木造だったために、被害もすぐに広まった。
そこで江戸では、武家の『大名火消だいみょうひけし』と『定火消じょうびけし』。
町方の『町火消まちひけし』。
三つの消防組織が存在していた。

 大名火消は、大名の家から人を出して、火消しに当たる。
定火消は、幕府の役職として設けられた火消し。
町火消は、町民たちの火消し組織。

 それらの組織は指揮系統が異なっており、基本的には、互いに協力などはしなかった。
それに、組織同士の対抗意識が強く、喧嘩になることも多かった。
だから、「火事と喧嘩は江戸の華」なのである。

見張り。知らせ。消化活動。水は使ったか

 高く、周囲を監視するための施設である『やぐら』から、 どこかで火事がないかは常に監視されていた。
そして、火事を発見すると、太鼓や鐘を鳴らして知らせたのである。

 音の鳴らし方には決まりがあって、例えば大火事になるおそれがある場合は、カンカンと二度打ちしたりしたようである。

 初期の江戸において、消化活動は、大量の水をぶっかけるというものではなく、基本的には、周囲の家を破壊して、被害の拡大を防ぎ、自然鎮火を待つというものだった。
しかしやがては、通りに面して、『天水桶てんすいおけ』と呼ばれた、防火用の雨水を貯めておく桶を配置したりして、放水も行うようになっていった。
しかしながら、当時の手押しポンプ式消化道具である「竜吐水りゅうどすい」は、高価かつ、性能が低い事もあって、そもそも大して役に立たなかったとされる。

焚き火をしていただけだ

 火事の時に、火の元にいた人は、かなり厳しく罰せられた。
しかし、ある程度広い土地を所有する大名の土地内で、火事が起こった場合、他の土地に火が回らなければ、お咎めはなかった。 
「敷地内で焚き火をしていただけだ」と言い訳できたらしい。

 そこで大名たちはみんな、自分たちで、大名火消しという消防組織を作り、自分たちの土地の火は、とにかくさっさと消すようにしていた。

 よくわからない基準だが、他の土地に被害がなくても、門が燃えてしまうと、多少の罰があったため、一時的に門を取り外し、火から離れさせたり、という事もあったようである。

町奉行、岡っ引き。江戸の警察組織

 江戸においては、北町奉行所ぶぎょうしょ、南町奉行所に勤務する、『町奉行まちぶぎょう』というのをトップとする役人たちが、今でいう警察の人たちであった。

 しかし何十万といた町民に対して、奉行所の役人の人数は、北町、南町を合わせても、350人程度だったとされている。

 実際に現場で活躍した奉行所の役人は、「与力よりき」と「同心どうしん」という人たちだった。

 与力は、 奉行所で裁判記録や容疑者の犯罪事実を調べたり 取り調べをしたりなどの仕事。
同心は与力の下で、実際に外回りで、犯罪者を追う仕事だった。

 しかし町奉行の人数は少なすぎるが、それを補うように、「おかっ引き」という民間の協力者たちがいた。
岡っ引きに手下がいる場合も多く、下っ引きと呼ばれていた。
実のところ、岡っ引きには、他の犯罪者の情報を役所に提供することで、この立場となった者。
つまりは、元犯罪者もけっこう多かったという。

 また、奉行所とは独立した、民間の自警団的な組織も多かったようである。

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