抜歯の恐怖
抜歯(dental extraction)とは、歯科医師が、患者の口腔内から歯を抜く医療行為の事。
抜歯はかなり古くから行われて来たようであるが、麻酔の技術が大した事なかった頃には、拷問のように苦しいものだった。
曰く、あまりに抜歯が痛いために、虫歯などを放置する者が多かったとか。
歯の痛みは、(抜歯が恐怖すぎて)歯医者を見たら一時的に治るとか。
実際に、拷問に使われてたりもしたようである。
人類は、外科麻酔(surgical anesthesia)を求めていた。
ホレス・ウェルズ
ホレス・ウェルズ(1815〜1848)はバージニア州ハートフォードの生まれ。
ノースカロライナ州ホプキントンとウォルポール、およびマサチューセッツ州アマーストの学校に通ったが、それらの学校に歯科部はなかったとされる。
ウェルズは、何人かの歯科医の下で、歯科技術を学んだ。
ウェルズは、1836年にコネチカット州ハートフォードに定住する以前は、放浪歯科医であった。
そして、1838年に彼は、歯の形成、病気、適切な治療の簡単な説明を含めた、歯に関するエッセイを出版した。
ウィリアム・トーマス・グリーン・モートン
ウィリアム・トーマス・グリーン・モートン(1819〜1868)は、マサチューセッツ州チャールトン出身。
父ジェームズの職業は鉱夫だった。
モートンは、ボストンで、書記官、プリンター、セールスマンと、医学とは何の関係もないキャリアを重ねた後、1840年に、ボルチモア歯科外科に入学したとされている。
1841年。
彼は、金のプレートに、偽の歯を、ハンダ付け(ハンダと呼ばれる、鉛とスズを主成分とした合金を用いて、金属同士を接合したりする行為)する新しいプロセスを見出し、そこそこ有名になったようである。
モートンは、1842年〜1843年くらいの時期に、短期間、ウェルズと共同で、歯科病院を営んでいたが、1844年には、もう二人は、別々になっていた。
外科手術の痛み
かつては、歯科医というのは、大変な仕事だった。
抜歯を行う場合、まず助手が患者を、椅子などに押さえつけ、歯科医が患者の口を出来るだけ大きく開く。
そして、大型のペンキのような道具で、抜く歯をつかみ、強引に引き抜きにかかるのだ。
抜歯に限らず、外科手術の際に痛みを軽減する方法自体は、ウェルズやモートンよりも、ずっと以前から研究されていた。
酒を飲ませたり、気絶させたり。
しかし、あまり役には立ってなかった。
笑気ガスの成功と失敗
ある種のガスが、痛みを和らげるのに使えるのではないか、というような指摘は、15世紀くらいにはもうあったようである。
ただし、それを外科手術の麻酔に使おう、という発想に至る者が、全然いなかった。
この事に関しては、亜酸化窒素や、クロロホルムや、エーテルといったようなガスは、基本的には、娯楽に使うものと考えられていた事が、大きいと言われる。
亜酸化窒素は、笑気ガスとも呼ばれていて、吸い込んだ者は笑いを堪えきれなくなったり、狂ったように踊ったりすることから、見世物などによく使われていた。
「化学反応の基礎」原子とは何か、分子量は何の量か
1844年12月のある日。
ウェルズがそうした笑気ガスの見世物を楽しんでいた時、笑気ガスを吸った一人の男が、足を怪我したにも関わらず、平気そうな顔をしていた。
痛くないかと聞いてみると、笑気ガスが効いている間は痛くない、と言う。
それで、ウェルズは閃いた。
患者に笑気ガスを吸わせれば、手術の痛みを失わせることができるのではないかと。
これは史上最大級の発見だ
ウェルズはちょうど、親知らずが痛いと考え始めていた頃合いであり、タイミングばっちりだった。
笑気ガスが、鎮痛剤として使えるのかどうか。
自らの体で試すには。
ウェルズは、笑気ガスの公開実験を行っていた化学者のコルトンと、友人の歯科医リグスを自身の診療所に招き、集めた証人達の前で、抜歯の公開ショーを行うことにした。
笑気ガスを吸って、感覚が麻痺してきたウェルズ。
リグズは、歯を、例によってねじり取った。
ガスの効き目が切れた頃に、リグズが抜いてくれた歯を見せられた時、ウェルズは言った。
「これは史上最大級の発見だ。まったく痛みを感じなかった」
亜酸化窒素は麻酔として使える。
この事実を特許として取得するように、友人達に勧められたウェルズは、楽しげに返したという。
「そんなこととんでもないさ。この素晴らしい発見は、空気と同じだ。全ての人が無料で使えるようにしようじゃないか」
悲劇の中毒
しかし、亜酸化窒素は、適量がわかりづらく、過剰摂取は危険であり、中毒性もあり、医療分野に用いる道具としては、あまりよいとは言えない。
ウェルズ自身、これの中毒者となり、 だんだんと精神を病むようにまでなってしまった。
また、ウェルズは、肝心の、医療関係者を集めた公開実験でも、タイミングを誤り、失敗してしまう。
ウェルズは最終的には、道行く人に硫酸をかけたために、牢獄に入れられ、そこで、自ら命を絶ったという。
エーテル麻酔の発明
かつての同僚であるウェルズが、精神をおかしくしつつある状況を見て、モートンは、別の手段を選んだ。
彼は、麻酔としてエーテルのガスが使えるのではないかと考えた。
エーテルとは、O(酸素元素)を真ん中に置いた、エーテル結合と呼ばれるような構造の、有機化合物の事である。
エーテルは、発火しやすく危険とされていたが、彼はいくらか実験して、火が近くになければ大丈夫だと結論した。
実際に、エーテルは発火しやすく、彼の管理は不十分であり、なればこそ彼はかなり幸運だったと考えられている。
まるでナマクラのメスでなぞられてるような感覚しかなかった
ウェルズ同様に、モートンも自分をモルモットとして使った。
そして彼は、ウェルズの失敗も生かして、公開実験の前に、より慎重に、必要なエーテルの量や、どの程度の時間、痛みが軽減されるのか
、というようなことを徹底して調べた。
そして、彼の考案したエーテル麻酔は、公開実験においても大成功を収めた。
抜歯でなく、腹をメスで切る手術にそれは使われ、患者は手術後に、「まるでナマクラのメスでなぞられてるような感覚しかなかった」と証言した。
金も名誉も得られなかった男
エーテル麻酔が大発見だったのは間違いない。
それの公開実験の後、エーテル麻酔は、数年も経たない内に、世界中に広まっていったからである。
モートンは、ウェルズほどのお人好しではなく、エーテル麻酔の特許をしっかり取ろうとしたが、特許どころか、エーテル麻酔の発見者としての名声すら、あまり広がらなかったとされている。
華岡青洲の通仙散
世界中どこでも、外科手術は、恐怖以外の何でもなかった。
そして鎖国していた江戸の世の日本にも、外科手術を痛みを消し去る事に成功した医師がいた。
その人は華岡青洲(1760~1835)という外科医であり、彼が全身麻酔を使った手術に初めて成功したのは1804年。
ウェルズの笑気ガスの成功よりも40年ほど前の事であった。
青洲は、ヨーロッパ流の外科技術を学んでいたとされるが、痛みのコントロールの研究には、漢方医学を基礎としていたようである。
そして青洲は、20年ほどかけて、動物実験を繰り返し、ついには、危険な副作用なしに痛みを軽減できる、植物エキスの調合に成功した、と考えた。
彼は、自信を持って、その調合エキスを妻に投与した。
すると妻は失明した。
取り返しのつかない大失敗を犯してしまった青洲は、しかし逃げなかったし、諦めなかった。
彼は、外科手術で救える人がどれだけいるのかも、それに苦しむ人達がどれほどいるのかもよく知っていた。
彼は研究を続け、やがてついに、鎮静剤と鎮痛剤と筋肉弛緩剤の成分を含む混合エキス「通仙散」を開発する。
青洲が初めて、通仙散による全身麻酔を使い、成功させたのは乳癌の切除だった。
乳癌というのは不治の病だった。
日本では、乳房は女性特有の臓器とされ、取り去る事は命を切り取る事に等しいとされていたのだ。
もちろん、それを切る時の痛みも麻酔なしでは尋常でない。
青洲は、ハイステルというドイツ人の本で、西欧では乳癌摘出の成功例があると知っていた。
また、青洲の妹のひとりは、この病気で亡くなっていたそうである。
最初の手術の成功後、青洲が救った乳癌患者の数は150を超えるとされている。