ヌーベル・フランスの時代
ノヴァ・ガリア
北アメリカの地域の植民地で、特に大きな勢力を持っていたのがイギリスとフランスであった。
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16世紀頃からしばらくは、後にカナダと呼ばれることになる地域の大部分は、フランスの植民地となっていた
1524年頃。
探検家ジオヴァンニ・ダ・ヴェラツアーノ(1485~1528)は、フランス王の命を受け、中国に至るルートを探す過程で、フロリダからニューファンドランドへと至る、北アメリカの東海岸沿いを航海した。
彼はその時に目の当たりにした広大な新大陸を「ノヴァ・ガリア(ヌーベルフランス。新フランス)」と呼んだという。
またヴェラツアーノは後に、オランダ人が植民地とするニューヨークを見つけている。
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彼はそこを、王が伯爵として所有していたアングレームという土地にちなんで、ヌーベル・アングレームと名付けている。
このヴェラツアーノが使った新フランス、「ヌーベルフランス」という言葉は、カナダの辺りにフランスが植民地を築いてから、18世紀にイギリスに敗北し、それをイギリスに明け渡す時までの時代区分の名称として使われるようになる。
ジャック・カルチエが立てた十字架
ヴェラツアーノの土産話は、フランス王に新大陸への興味を芽生えさせた。
そして 1536年頃。
後のアメリカとカナダの国境付近にある、スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖の「五大湖(Great Lakes)」と大西洋を結ぶ「セントローレンス川」を遡って、ジャック・カルティエ(1491~1557)が「モントリオール」へと到達する。
そのカルティエは1534年に、セントローレンスの河口(river mouth。川が、海などの別の水域に繋がる部分)の辺りの「ガスペ半島」に、十字架を立てる。
その十字架には、「フランス国王万歳」と刻まれていたという。
フランス植民地の中心となったケベック
ヌーベル・フランスの始まりは、カルティエが、ガスペ半島に十字架を立てた時と言われている。
そのカルティエがやってきて、「フランスの領土」と宣言していた範囲の中にケベックもある。
『ケベック』は北アメリカにおいて、フランスの植民地化運動の拠点となった街である。
1608年頃に、 それを創設したのは地理学者のサミュエル・ド・シャンプラン(1570?~1635)という人である。
先住民との関わり
新大陸に新しく定住するにあたり、フランス人たちはイギリス人ほどには、そこに暮らす先住民を邪魔な存在とは考えなかったとされる。
フランス人は、そこを何もかも自分たちなりに作り変えるというよりも、先住民たちに、そこでの生き方を学ぶ方法を選んだ。
また、先住民たちをキリスト教的な自分たちの生き方に馴染ませようとしたようだ。
先住民たちとフランス人の多くが、物々交換などを盛んに行い、単に貿易で互いに利を高め合うことを望んだとも言われる。
ただし、フランス人と先住民の最初期の接触者とされるカルチエは、新大陸は呪われた土地で、「そこに住んでいる者たちは恐ろしげで野蛮だ」としている。
新大陸は神がカインに与えた世界なのでないか、とまで彼は考えたようだ。
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(注釈)階級制度が人間を生んだ
白人が来て以来のアメリカ史を見た場合、大きな植民地を得たフランス、イギリス、スペインの三国の中で、先住民たちに対する残虐行為が最もひどかったのはイギリスとはよく言われる。
フランスとスペインからの移民にカトリックが多かったことと、イギリスからの移民にプロテスタントが多かったことは、何か関係しているだろうか。
「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
カトリックというのは階級制である。
神のしもべの中でも、教皇を一番偉いとして、いくつかの位が設定されている。
一方でプロテスタントは、神の愛の前では、誰もみな平等だと説く。
あんがい階級制というのが、ここでは幸いしたのかもしれない。
ヨーロッパ人たちが先住民たちを自分たちよりも劣った存在のように考えていたことは、ほぼ間違いない。
しかし階級制を基本とするカトリックの考え方としては、彼らを自分たちよりも下の存在と見ても、下の存在の人間として考えられた。
だがプロテスタントの場合、神の前にいる平等な人間たちより劣っている先住民たちを、人間よりも下の存在、ようするに獣として扱うような思考にいたった。
そういうわけなのでなかろうか。
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伝染病とアルコールがもたらした悲劇
結局のところ、ヨーロッパからの移民たちが、多くの先住民にとって死神であるのは間違いなかった。
「伝染病(Infectious disease)」である「天然痘(smallpox)」が蔓延し、それが先住民社会で最も流行った17世紀前半頃の被害は甚大であった。
また、もう一つ厄介なものを白人たちは持ってきた。
アルコールである。
酒を飲むという習慣がなかった先住民たちは、すぐさまその味の溺れてしまい、中毒者が続出してしまったのだった。
フレンチアンドインディアン戦争
ヌーベル・フランスの頃。
フランス人と関わりを持っていた主な先住民部族は、「ベオサック」、「アルゴンキン」、「イロコイ」などだった。
フランス人にとっては、宗教的に無知な先住民たちは、神の愛を知らぬ哀れな者たちではあるが、ちゃんと人間であった。
つまり新しく信仰を伝えるべき者たちであった。
1534年にパリで結成された、日本にもカトリックを伝えた修道士たちの組織「イエズス会」が、ここでもキリスト教を広める者たちの中心となったようだ。
そのイエズス会に特に強く繋がったのが、「ヒューロン族」であったとされる。
彼らはイロコイ系の言語を使う人たちで、オンタリオの辺りに村を持っていた。
ヨーロッパ人は、先住民との取引で得た毛皮をヨーロッパに送ることで利益を得ていたが、その各ヨーロッパのどこと結びついているかで、毛皮獲得競争が先住民同士の間でも激化していく。
ヒューロニア(ヒューロン人社会)は、5部族(後には6部族)のイロコイ連邦(イロコイ同盟)と対立し、その急襲により、実質的に崩壊。
そして17世紀中頃のその崩壊が、フランスの毛皮交易に強い負の影響を与える。
一方でイギリスは1670年に、ハドソン湾周辺の毛皮交易を独占する「ハドソン湾会社」を設立。
さらにイギリスはオランダ勢力も北アメリカから追い出し、ますますフランスに驚異を与えるようになっていく。
1754年にはついに「フレンチアンドインディアン戦争」と呼ばれる、フランスとイギリスの植民地戦争が勃発。
フレンチアンドインディアンと呼ばれるのは、先住民の多くがフランス側に味方したからのようである。
そして結果はイギリスの勝利だった。
1763年の、フランス、イギリス、スペインが結んだ「パリ条約」にて、フランスは 北アメリカ植民地イギリスに譲歩。
ヌーベル・フランスの時代は終わった。
イギリス的カナダ、フランス的カナダ
ケベック植民地と、ケベック法
イギリスは、フランスから手に入れた植民地を「ケベック植民地」と呼び、そこに北アメリカと同じような政治制度を導入しようとしたが、フランスの植民地であっただけあって、フランス系の住民が圧倒的に多いカナダにおいて、それは得策とは言えなかった。
また、プロテスタントが多いアメリカ側に比べ、カナダ側はカトリックが多いというのも問題であった。
そこで1774年に、フランス民法の存続や、カトリック信仰の自由 を認める「ケベック法」が制定された。
しかしこのケベック法は、アメリカ側のイギリス系には大変不評であり、 アメリカ独立の直接のきっかけの一つになったとも言われている。
アッパー・カナダ、ロワー・カナダ
アメリカ13州が、合衆国としてイギリスからの独立宣言をしたのは1776年。
フレンチアンドインディアン戦争終結から間もなくだった。
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そのアメリカで誰もが独立推進派だったわけではない。
イギリス側について、結果敗北する形となった反独立派の者たちは、アメリカ独立後には、その多くがカナダの方に流れ込んできた。
こうしてカナダには、イギリス系人口もかなり増えた。
そして今度は13植民地にいた時代に慣れ親しんだ制度と全く違うケベック法についていてなイギリス人たちの不満が イギリス本国に届く。
結果、1791年に、今度は「立憲条例(Constitutional ordinance。カナダ法)」というので、ケベック植民地は、セントローレンス川上流の『アッパー・カナダ』と、下流の『ロワー・カナダ』に分割された。
また、これらの名称は、地域を指す用語として、正式にカナダが使用された最初の例ともされる。
カナダという言葉自体の由来は、イロコイ族の言語における「カナタ(村)」のようである。
アッパー・カナダはイギリス向け、ロワー・カナダはケベック法がそのまま残るフランス向けの地域となった。
1841年には、フランス系同化政策として、二つのカナダ植民地は、法上は統合されたが、フランス系は自分たちのアイデンティティ(自己を自己とする要素)を簡単には捨てなかった。
1812年戦争。アメリカとカナダの戦い
「1812年戦争」、あるいは独立戦争を一次として、「第二次英米戦争」と呼ばれるアメリカとカナダの戦争の原因は、ヨーロッパで台頭したナポレオンのフランスに苦戦するイギリスが、中立国アメリカの海上貿易を規制したこととされている。
さらにイギリスは、アメリカ人の船員を「強制徴募(impressment)したために、強い反発を招いたのである。
アメリカはイギリスに宣戦布告し、隣接する植民地であるカナダを攻めた。
アメリカ軍が有利とされたが、カナダ兵たちは怯まず、アメリカの政策に反対する、テカムセ(1768~1813)という人が率いる先住民同盟も、カナダ側について戦った。
ナイアガラ辺りでの戦いで、アメリカ軍は撃退されるも、なかなか敗北は認めない。
しかしヨーロッパでナポレオン戦争が一段落してからは、本国からのイギリス兵助っ人が増えて、1814年8月には、首都ワシントンの大統領の邸宅に火をつけるのにも成功。
修繕されたその建物が白くなったために、それは「ホワイトハウス」と呼ばれるようになる。
戦争は、1814年12月に、イギリスアメリカ両国の代表が和平条約(ガン条約)に調印し、戦争は終結。
結局のところ、イギリス(カナダ)側は決定的な勝利を得ることこそできなかったが、自分たちの領土を守ることには成功した。
そしてこの戦争は大きな転機となった。
カナダのイギリス系は、基本的にアメリカから移住してきた者たちだったのだが、この頃から、アメリカ人ともイギリス人とも違う、カナダ人としての自覚が決定的になったとされている。
連邦の結成。カナダの誕生
1812年戦争はまた、北米大陸での軍事力的なアメリカ優位を決定的なものとしてしまったとも言われる。
カナダははっきり敗北したわけではないし、むしろ勝利したという話としてすらず伝わっている。
しかしその勝利は、勝利だったのだとしても、奇跡的なものであった。
イギリスが以降のアメリカとの外交に弱腰になる中で、 カナダ人たちの子国民意識は高まっていった。
そしてついに1867年7月1日。
カナダ植民地は統合、連邦が結成される運びとなった。
もっとも即座にカナダが独立したわけではない。
カナダがイギリスから外交権を獲得したのは1931年。
自国の憲法を持つに至った時期に関しては1982年である。