「独立以前のアメリカの歴史」多文化な先住民。移民と植民地。本当に浅いか

アメリカの自然

ヨーロッパ人にとっての新大陸

最初のアメリカ人は北からきた

 広大なアメリカ大陸を公式に発見した最初のヨーロッパ人とされるクリストファー・コロンブス(1451~1506)は、世を去るまでずっと、自分がたどり着いたのはインドと考えていたとされる(注釈)。

 実際、インド系かはともかくとして、紀元前2万5000年から紀元前1万2000年くらいの間に、東シベリアからアメリカ合衆国最北のアラスカへと移住してきた、「最初のアメリカ人(First American)」と呼ばれる人たちは、アジア系人種だったと考えられている。
彼らが、おそらくは何回か、アメリカに移住してきた時代には、東シベリアとアラスカの間の「ベーリング海峡」は、氷により現在よりも渡りやすかった。
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(注釈)新大陸は発見されたのか

 コロンブス以前にも、北欧のヴァイキングなどは、この大陸をすでに見つけてたりしたと今では考えられている。
例えばカナダのニューファンドランド島で、ヴァイキングのものと考えられる鉄釘てつくぎが発見されたりもしている。
「イヌイット」かつてエスキモーと呼ばれた、北の地域の先住民たち
 また、「新大陸を発見した」というのは、西洋を中心として考えた世界観での言い方である。

(コラム)世界が狭くなってからの流行

 コロンブスは15世紀の人。
この時代まで、旧大陸の人たちは、海を渡り、丸いらしい地球の反対に何かあるのかを実際に確かめなかった、あるいは確かめてもそれをちゃんと伝えられなかった。
そういう人がいても、その数は少なかった。

 (感覚的な話)地球上という世界はずいぶんと広かった。
今、その世界はずいぶんと狭くなった。
しかし我々の宇宙に関する知識が増えたことから、おそらく真の世界全体で見れば、今の方が昔よりも広くなっている。

 それが宇宙か、それより外かは知らないが、世界がどこかで有限だとしたら、いつかそれは狭いだけの箱庭みたいになるだろう。
手のひらサイズのスケールの宇宙模型が流行るかもしれない。 

 フィリップ・K.ディックの「世界をわが手に」が、より現実味を帯びてくる。

アメリカがもたらしたもの

 「アメリカ先住民(Native American)」たちが、北からこの大陸に入ってきたのは間違いないとされているが、15世紀頃にヨーロッパ人たちがこの大陸を訪れた時は、北米より、中南米の方が人口が多くなっていた。

 中米には「アステカ」、南米には「インカ」という高度な文明の国家もあったが、北米には、 そこまで大規模な 組織的集団は成立していなかった。
アステカ 「アステカ文明」帝国の首都、生贄文化、建国神話、社会の階層
 中南米で文明がより高度に発達した理由に関しては、アメリカ大陸において、農耕文化を最も支えたとされるトウモロコシの起源が、そちらにあるからだろうとされている。

 また「タバコ」の起源は南米らしい。
これは古くは嗜好品しこうひんとしてというより、宗教的な意味深い神聖な道具だったとも考えられている。
もちろん体に悪いということなど知られてはいなかった。

 トウモロコシ、タバコ以外にも、ピーナッツ、ココア、ジャガイモ、タピオカ、カボチャ、メロンなども、アメリカ大陸原産である。

多数の文明と衰退

 紀元前1000年くらい。
メキシコで「オルメカ文明」が始まった頃に、北米のあちこちでも農耕や土器の製作が始まったとされる。

 ミシシッピ川やその支流の辺りでは、墓などにマウンド(砂や石などを重ねた人工的な小さな山)を使う、まとめて『マウンド文化』と呼ばれるいくつかの文明が数百年単位で次々誕生した。
紀元前1000年くらいの「アデナ文化」、紀元前300年くらいの「ホープウェル文化」、 紀元後700年くらいの「ミシシッピ文化」
特に最後のミシシッピ文化のマウンドは神殿的で、メソアメリカ(中米)文明の影響を感じさせるという。

 当然ながら、地理的に近い南西部の方の文明は、もっと早くからメソアメリカの影響を受けている。
ニューメキシコ南部からメキシコ北部の山岳地帯の「モゴヨン文化」。
アリゾナ南部の砂漠の「ホホカム文化」。
ニューメキシコ、アリゾナ、コロラド、ユタにまたがる高原地帯の「アナサジ文化」など。
これらの文化では、土器などがカラフルであったり、灌漑かんがい(水路などを利用して畑などのための土地を用意する技術)のための設備なども発展していたという。
メキシコの遺跡 「メキシコの歴史」帝国、植民地、そして自由を求めた人々
 ヨーロッパ人が到来する以前にも北米には様々な文化が芽生えていたのは間違いないことである。
だが、なぜかそのほとんどは、ヨーロッパ人がやってきた時にはもう衰退してしまっていた。
だから、わりと長い間、北米では、ヨーロッパ人たちがやってくるまで、文明と言えるほどの共同体はなかったと考えられていたほどだ。

 最も、コンキスタドールの時代にあっても、広いアメリカのあちこちでは、様々な文化があったろう。
単純に征服者たちが、彼らの文化に対して興味を持たなかったというだけの話なのかもしれない。

先住民人口はどのくらいだったのか。そもそもなぜわかるのか

 コロンブスがアメリカに行ってきた1492年以前 つまりヨーロッパ人が本格的に新大陸への移住や、植民地化を始める以前。
先住民はどのくらいの数いたのであろうか。

 実はこの問題に関して本格的に研究が始まったのは20世紀に入ってからとされている。
あまりに遅いように思える。
もう500年ほど前のことだ。
よくヨーロッパ人がやってきた時のアメリカ先住民人口は~人だったと 当たり前の事実のように書いている本とかもあるが、いったいあの数値はどのようにして導き出しているのだろうか。

 以降は アメリカ大陸にヨーロッパ人がやってきた時点での先住民人工を「N」とする。

 1910年に民俗学者のジェームズ・ムーニー(1861~1921)は、Nは114万8000人ほどと推測した。
そしてムーニーの死後に、彼が残した資料などから、1928年にジョン・リード・スワントン(1873~1958)が、Nは115万2950人くらいと改めた。
二人が使った方法は「推測法」、と言うと、何か特殊な方法のようだが、実際には自身の知識と判断力を頼りに行う、文字通りの推測である。
彼らはヨーロッパ人の記録を調べて、その都度、接触していた先住民集団の数を推定し、それらを足し合わせ、全体の数値を出したのだ。

 1930年代には、文化人類学者のアルフレッド・ルイス・クローバー(1876~1960)が、やはり推定法で、Nは90万人くらいと発表。

 いずれにしても100万人程度だったのはほぼ間違いないだろうとしばらくの間は考えられることになった。

 ところが1966年に、ヘンリー・ファーマー・ドビンズ・ジュニア(1925~2009)が、ムーニーらは、 ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病で、先住民たちの人口が急激に減少したはずであるという事実を見落としているとした。
彼は伝染病の流行で先住民人口がどのくらい減ったかのデータを集めて、本来の人口に対する減少比率を割り出して、利用し、Nはおそらく1000万から1200万人ほどだったと推定した。

 ドビンズはまた、1983年にある地域が、自然環境的と、そこに暮らす人たちの技術水準的に、どのくらいの人を扶養できるかというの生態学的に推定する、「環境収容力理論(Carrying capacity theory)」というのを使って、Nは1800万人というさらに大きな数を出した。

 ドビンズの方法論は、それなりに支持を得ているが、さすが1800万は大げさだと考える人が多い。
しかし今や、最初の100万人説を支持する人はほとんどいない。
あるいはこれを最低値だとして、Nは100万~1800万の範囲というのが、妥当ではある。
かなり広すぎる範囲にも思えるが、まったく何もわかってないに比べたら、ずいぶんとわかっている方だろう。

イギリス植民地の時代

聖職者もいたが、無法者も多かった

 コロンブス以降、イギリス人、スペイン人を中心に、アメリカ大陸に移住してくるヨーロッパ人の数はどんどん増していった。

 ネイティブアメリカンたちは、白人が来る以前から、各部族同士が交易を結んだり、時には戦ったりもしていた。
だから彼らにとって、白人たちとの交易や戦いはそれまでの延長でしかなかったろうと思われる。
ヨーロッパ人たちがいくつかの地域で植民を始めた時も、慣れない土地に苦労する彼らを交易で助けたのは、彼らだった。

 一方で大陸に移住してくる者は、聖職者もいたが、無法者も多かった。
当時、新大陸にやってくるということは、人生を一から始めるというようなことにも等しかったのである。

 そして、神に仕えてようが、そうでなかろうが、未知の大陸でなんとか生きるために、先住民から略奪などしたりするのは、珍しい話ではなかったという。

ピルグリム・ファーザーズが持ってきたデモクラシー

 1620年くらい。
イギリス船メイフラワー号がアメリカへとやってきた。
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 ピューリタン(清教徒)というプロテスタントの派閥を、イギリス王ジェームズ(1566~1625)は嫌い、その迫害を逃れるために新大陸へ渡った人たちを「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)」と呼ぶ。
メイフラワー号の乗組員たちは、そのピルグリム・ファーザーズであり、自分たちを聖徒と称していたという。
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 しかし実際には、信仰とか関係なしに、ただ母国での貧乏生活を逃れようとしただけの者たちも多かったようだ。

 彼らは上陸前に、「自由な市民として、公平な法律に従い暮らす」と誓う契約書にサインしたとされ、これが「アメリカン・デモクラシー(民主主義)」の始まりだったとも言われる。

ハーバード大学

 ハーバード大学の創立が、1630年代と、かなり早い時期だったことは驚くべきとも言われる。

 1630年くらいに、ピューリタン移住者たちは、マサチューセッツに、自分たちなりの神の都を作ろうとした。
さっさと大学を作ろうとしたのは、知性の教育を重視していたからであろう。

 その大学の名前は、補助金を寄付した、ジョン・ハーバード牧師という人の名前に由来しているようだ。

 ハーバード大学は、1638年の秋に開校したが、初代監督者であるナサニエル・イートンは、やたら暴力的な男で、棍棒で生徒を殴るつけることが日常であったともされている。

ニューヨークの経緯

 北米はイギリス人に開拓されたというイメージが強いが、初期の植民地がすべてイギリス人が始めたというわけではない。

 1626年に、オランダの西インド会社が、マンハッタン島を先住民から買って、「ニューアムステルダム」という街を建設した。
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そこは40年ほどの間オランダ人たちの植民地の中心となったが、ヨーロッパでイギリスとの戦争が起きた時、その植民地にイギリスのフリゲート艦が現れ、町の人たちはすぐ降伏してしまった。

 イギリス艦隊は、イギリス王の弟ヨークの命令で派遣されてきた。
そこで、征服したニューアムステルダムを、彼らは「ニューヨーク」と改名して、自分たちのものとしたのである。
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 また、ニュージャージーやデラウェア周辺では、スウェーデン人やフィンランド人などの北欧系が多く、南の方はスペイン人もいたが、イギリス人の数が増えるにつれ、それらは大した脅威でもなくなり、呑み込まれていくことになった。

 しかしフランスの植民地はそれなりに脅威であったようだ。
セントローレンス川から、「スペリオル湖」、「ミシガン湖」、「ヒューロン湖」、「エリー湖」、「オンタリオ湖」の、いわゆる『五大湖(Great Lakes)』の辺り(アメリカとカナダの国境付近くらい)を中心にしていたフランス植民地と、イギリス植民地は、何度かにわたり戦ったとされるが、最終的にはイギリスが勝利を掴んだ。

ひとつの家族に10人以上の子供

 フランスを抜きにすれば、他の植民地よりもよっぽど先住民たちの抵抗の方が問題視されていたと考えられている。
銃や鉄器があるとはいえ、戦闘機や戦車などはないのだ。
アメリカ大陸にやってこれる人の数だって限られていた。

 しかし現地ヨーロッパ人の数はすぐに増えた。
先住民との戦いの戦力以上に、アメリカ大陸という未開拓の土地は広すぎた。
とにかく人手が足りなかったのだ。
だからたくさんの子供を産む母親が多かった。

 ひとつの家族に10人以上の子供というのは、わりと普通だったとされている。

独立戦争。自由か死か

 イギリスとフランスの最後の植民地戦争が終わったのは1763年だったとされる。
そして、アメリカという国として、イギリスに対する独立戦争が始まったのは1775年。
ほんの12年後のことなのである。

 勝利したとはいえ戦争というのは、経済を圧迫する。
当時のイギリスの全体の経済に植民地が与える影響も大きくなっていた。

 そこで貿易で金を増やす「重商主義じゅうしょうしゅぎ(mercantilism)」的な発想により、本国は植民地への増税や、移住権利の制限などをおこなった。

 しかし他の植民地と違い、現地人の多くがヨーロッパ人であったアメリカにおいては、自治体的な意識も強く、本国の命令への反発も強かった。

 植民地会議で、弁護士のパトリック・ヘンリー(1736~1799)が叫んだ「我々に自由を、さもなくば死を」という言葉は、後に世界の様々な革命のスローガンとなった。

本格的に独立戦争が始まってから少しの間。
実はイギリス側についた者もいたし、そもそも無関心であった者も結構いたという。
しかし1775年末に、イギリス王が植民地人たちの抵抗は反乱扱いとしたことで事態は一変。
反落は処刑ものの大罪。
この決定が逆に、植民地の人たちの戦う気を呼び起こし、団結を促したのであった。

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