ケルト・ガリアとギリシア・ローマ
紀元前5世紀ぐらいまでに、ケルト人たちはヨーロッパのあちこちで住み着いたが、 現在フランスと呼ばれている地域に定着した者たちもいた。
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ケルト人以前にその地域にいた先住民族については存在したのかもどうかも含めて謎とされる。
黒海のケルト人、バルト海のゲルマン人
ケルトのルーツはヨーロッパの東。
北側が黒海、東北部がジョージアとの国境となっている、トルコの「黒海地方(Black Sea Region)」という説がある。
ヨーロッパの北。
大陸とスカンディナビア半島に囲まれた海域である「バルト海(Baltic Sea)」の辺りのゲルマン人が(おそらくは環境的な問題で)南下した時。
その人たちの圧力から逃げるような形で、ケルトはあちこちに分散。
特に西に進んだ者たちが、ヨーロッパに広く定着するようになったのだという。
地中海のギリシアの植民地拡大
(後の)フランス地域には、ケルト人たちと同じくらいの時期に、ギリシア人たちもやってきているとされる。
フランスは、ヨーロッパとアフリカ大陸に囲まれた「地中海(Mediterranean)」の沿岸地域のひとつだが、ギリシアはその辺りの地域の植民地化に熱心だった。
地中海はまた、地図上において黒海のほぼ隣である。
ギリシア人にとってフランスの辺りは交易の拠点のひとつであり、ケルト人と積極的に戦ったりはしなかったともされる。
ガロ・ローマ文化。西の帝国の分裂
紀元後の時代が近づくにつれて、ギリシアは弱り、代わりにローマの勢力が強くなってきた。
フランスにも新たにローマ人たちがやってきたが、彼らはギリシアに比べるとかなり侵略的で、「ガリア人(Gallia)」と呼ばれたケルト人たちと激しい戦いを繰り広げることになった。
そして大陸のケルト地域はだんだんとローマの支配下におかれていく。
ローマは、 現在もフランスの都市として知られているリヨンを起点として、スイスからフランス、そして地中海にまで流れるローヌ川沿いにガリアへの支配を広めていったとも考えられている。
またやはり現在も都市として残るパリは、有名なガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100~紀元前44)の時代に侵略され、ローマ軍の前線基地になっていたとされる。
とにかく侵略と支配により、フランス(と周辺地域)では、ローマとガリア(ケルト)が混じりあった「ガロ・ローマ文化(Gallo Roma)」の時代に突入していく。
5世紀くらいまでとされるその時代は、基本的にはローマに支配されたガリア人たちの時代であったが、その期間には他の地域から様々な民族の移住もあったとされる。
異民族の中でも、特にゲルマン人はかなりの数だったという。
そして5世紀頃。
その頃すでに東と分裂し、西ローマとなっていた帝国が崩壊した時期に、フランス地域もいくらか含む、ゲルマン系が支配するいくつかの王国が誕生していた。
フランス南部からイベリア半島を支配した「西ゴート王国(Regnum Visigothorum)」。
イタリアの辺りを支配した「東ゴート王国(Ostrogothic Kingdom)」。
ローヌ川沿いを支配した「ブルグント王国(Kingdom of Burgundy)」
そしてフランスとイタリア北部にドイツ西部、他いくらかの広い範囲を支配した「フランク王国(Frankish Kingdom)」などである。
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メロヴィング朝。カロリング朝
フランクは、ヨーロッパの広い範囲を流れる「ライン川(Rhine river)」の中流域周辺のゲルマン人たちに対し、ローマ人たちがつけた名前で、実質的には特定の民族を指す名称ではない。
クローヴィス1世のフランク王国
フランク王国は、フランク人を率いたクローヴィス1世(466~511)により建設されたとされている。
彼の王朝はやがて、彼の祖父メロヴィクスの名から、「メロヴィング朝(Merovingian dynasty)」と呼ばれるようになる。
クローヴィスは496年に、ローマカトリックに改宗したとされているが、これは彼からしてみれば、自分こそローマ帝国の正当な後継者であるというアピールであったろうともされる。
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当時のヨーロッパは、基本的には明確な国土とか、国境線というような概念がなく、生まれた土地に関係なく、誰もが好きな人と主従関係を結ぶような「属人主義(principle of personal jurisdiction)」な社会であったとされる。
これに対して、個人の思想などより生まれた土地を重視する社会は「属地主義(principle of territorial jurisdiction)」と言われる。
属人主義の社会では、上に立つ者の権威は特に重要である。
フランク王国は建国時より、どんどん勢力を拡大していったとされるが、クローヴィスの改宗は、各土地の貴族に君主として認めてもらいやすくなる効果が確かにあったろうとされている。
ヨーロッパではすでにキリスト教が大きな影響力を持っていたようだから、王がキリスト教徒であるという事実は重要なはずであった。
フランク王国は西ゴート帝国との争いにも勝利し、南フランスの辺りを奪いもした。
また、クローヴィスは後にランスと呼ばれるようになる地域で改宗したとされる。
それをふまえ、816年のルイ1世(778~840)以降、フランス国王の多くが、ランスの大聖堂で戴冠式を行っているという。
アウストラシア、ネウストリア、ブルグント
メロヴィング朝の勢力拡大はクローヴィスの死後も続き、534年くらいにはブルグントも滅ぼして取り込んだ。
ガリアの地域は、一時期はほぼフランク王国のものになったとされている。
一方で、親からの相続は男兄弟全員に分配されるというフランク人の習慣により、クローヴィスの子供の時代からは複数の王が国を分割統治するようになる。
それは統治権を巡る内乱のきっかけにもなり、六世紀後半のフランク王国は実質、メスを中心とした「アウストラシア」、パリを中心とした「ネウストリア」、オルレアンを中心とした「ブルグント」の三王国であった。
三国、特にアウストラシアとネウストリアは、かなりよく争ったという。
権力を増してきた宮宰
内乱は王族の権威の弱体化を招いたが、代わりに「宮宰(Major Domus)」の力が大きくなっていく。
宮宰は王の側近的な官職であったが、公務での役割の拡大とともに、権力も王を越えるほどになっていったとされる。
そして716年頃にアウストラシアの宮宰となったカール・マルテル(686~741)は、ネウストリアとブルグントにまで手を伸ばし、三つの王国全ての支配権を得る。
それから732年。
イスラム系のウマイヤ朝の軍の侵略に対して、「トゥール・ポワティエ間の戦い(Bataille de Poitiers)」にて勝利し、退けたことで、マルテルの権威はさらに高まる。
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それでもマルテルの時代は、まだ国は王のものということになっていた。
だが結局751年に、彼の後を継いだ子のピピン3世(714~768)は、メロヴィングの王キルデリク3世(714~754)を廃して、自らが王となる。
ピピンの寄進。教皇との契約
そうして新たな統一フランク王国は、メロヴィング朝から「カロリング朝」へと切り替わったのだった。
カロリングとは「カールの」の意味とされる。
ピピン三世は、ローマ教皇ザカリアス(679~752)の後ろ盾を持っていたという説もある。
またピピンは次代の教皇ステファヌス2世(?~752)、あるいはさらに次のステファヌス3世(715~757)に塗油式の戴冠式をしてもらい、正式な王としての立場を強くした。
その後ピピンは返礼としてラヴェンナ地方を支配を教皇に譲っているが、このことは「ピピンの寄進(Donation of Pepin)」と呼ばれている。
塗油式は、脂を人や物に塗ることで、神の祝福を身にまとうというような理屈で、神聖さを高める儀式とされる。
教皇領という概念が明確になったのはピピンの寄進から、とする説もある。
シャルルマーニュ、あるいはカール大帝
ピピンの後を継ぐことになった、カール大帝の名でも知られるシャルルマーニュ(742~814)は、初期の時点では弟のカールマンと共同統治であった。
しかしカールマンが早死にしたため、彼は王国を再統一。
シャルルマーニュは、周辺諸国との戦いに次々勝利して、フランク王国の領土をさらに広めていった。
同時に、彼と強いつながりを持っていたローマカトリック教会も、そのヨーロッパという大陸における立場の重要度を増していく。
フランク王国の領土、そしてカトリックとの関係から、シャルルマーニュはフランスとドイツの両国の父であり、かつキリスト的ヨーロッパ大陸の父とも呼ばれている。
ヴェルダン条約、メルセン条約、リブモン条約
(シャルルマーニュの名声に関しては)この後の歴史の流れの影響も大きいかもしれない。
814年にシャルルマーニュは死んだが、その後フランク王国ではまたしても相続問題をきっかけとした内乱が勃発。
結局フランク王国は843年の「ヴェルダン条約(Treaty of Verdun)」によって再び三つの王国、「東フランク」、「中フランク」、「西フランク」に分裂し、 そして今度は再び統一されなかった。
三つの王国は、シャルルマーニュの三男ルイ1世(778~840)の三人の子がそれぞれ統治することとなる。
そうして長男ロタール1世(795~855)に中、次男ルイ2世(804~876)に東、末っ子のシャルル2世(823~877)に西が与えられた。
さらに王の死の度に領土権争いが発生し、870年には「メルセン条約」、880年には「リブモン条約」で、国土の区切りもそれなりに変わったという。
そして東フランクはドイツ、中フランクはイタリア、西フランクはフランスの原型となったのだった。
西フランクからフランスへ
ヴァイキングたちのノルマンディ公国
西フランク王国のシャルル2世の悩みといえば、イベリア半島からやってくるイスラムの勢力と、北方のスカンジナビア半島の方で勢力を増してきたゲルマン系の集団である「ヴァイキング」の侵略の脅威であった。
ヴァイキングは海からやってくるわけだから、最初は沿岸沿いの貴族たちの問題にすぎなかったともされている。
しかし、その被害が内陸部にまで及ぶようになってくると、他の者たちも関係ないとは言ってられなくなる。
結果、911年。
当時の西フランク王国の王シャルル3世(879~929)は和解の道を選ぶことになる。
彼は侵略を止めることと、キリスト教徒に改宗することを条件に、ヴァイキングの者たちのノルマンディ定住を許容。
そうして誕生したノルマンディ公国は、そこを起点にイングランドを征服し、ノルマン朝を始めてもいる。
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このノルマンディ公国の成立とイングランドへの侵略は、後の百年戦争などにつながるイギリスとフランスの確執の始まりともされる。
騎士と領邦。カロリングの終わり
内乱に侵略と、防衛のための戦いが絶え間なく起こったことによって、有力貴族たちの軍事力強化の動きが始まり、そうした中で「騎士(Knight)」という概念が生まれたのだとされる。
また、地方貴族の力の高まりは、「領邦(Territorium)」という半自立国家と呼ばれるような領域も増やしていく。
当時の騎士なる存在に関しては実はあまりはっきりしていないところがある。
ただ、少なくとも形式的には、仕える君主に忠義を誓い、保護してもらう代わりに、有事の際には命をかけて戦うというような役割だったらしい。
平時は、与えられた小領地の管理などもしていたようだ。
騎士を志す者は、長男でないために家の財産を告げなかった貴族の子や、出世を夢見る平民階級の人だったとされる。
特に貴族階級の下の子は、基本的には修道院に入るか、騎士になるかしないと、生活基盤がなかったという話もある。
領邦の増大はすなわち、中央の王家の弱体化も意味していた。
そして9世紀末くらいには、ついに教会が領邦君主たちの意見を聞きいれ、王の世襲を禁じた。
つまり選挙が行われるようになったのだった。
それでも基本的には、王はカロリング家の者から選ばれることが多かったが、987年に後継者のいない状態でルイ5世(967~987)が亡くなり、カロリング朝は終わった。
カペー朝の記録。レグヌムフランキア
ルイ5世の死後。
選挙により、新しい王はロベール家のユーグ・カペー(940~996)となり、「カペー朝」が始まった。
基本的に歴史家は、このカペー朝の始まりからがフランスという国の始まりであり、それまでが成立過程と考えている。
ユーグ・カペーはカロリング家でこそなかったが、王であったロベール1世(865~923)を祖父に持つ、なかなか由緒正しい血統であった。
ただ彼は、父ユーグ大公(898~956)から家を継いだ時は若く、王になった時には領地の大半を失っていたという。
カペー朝はわりと安定して長く続き、14世紀までその秩序を保った。
以前までのことを活かした方針がいくつかあったようである。
例えば王が生きてる間に、次代の王を決める皇太子制度は、フランスにおいては、この頃から本格的になったとされる。
まず間違いなく、以前の西フランク王国が後継者問題で何度も揉めた反省であろう。
西フランク王国がフランスになった明確な瞬間というものは、あったのかどうかもわからない。
とりあえずフランスという言葉が記録の中に現れるのは12世紀くらいからとされている。
王の統治に関する文章の中で「レグヌムフランキア(フランス王国)」という言葉がよく現れるのだという。
なぜフランクがフランスになったのかに関しては謎が多いが、とにかくフランス王国ということを強調し、王の威厳を高めるか、あるいは維持しようとしていたことは間違いないようである。
とにかく、フランスという国はカペー朝から始まったのだとされている。