「ケルト人」文化、民族の特徴。石の要塞都市。歴史からどのくらい消えたか

ケルト人とはどこの人たちか

 「ケルト人(Celtic)」という 名称が示す民族の範囲はかなり広い。
ケルト人とは名前の通り「ケルト文明(Celtic civilization)」に属する人たちのことを言うのであるが、基本的には、ヨーロッパで勢力を広げ、ケルト語とされる言語を話していた人たちすべてを指す総称でもある。

 ケルト人たちは、部族社会まではたくさん形成したが、統一国家を作ることはなかった。
その部族社会もヨーロッパ大陸内のかなり広くに分布していたから、文化や伝統にも個々の特色が強い。

 ケルト語は、 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族という大分類に属しているらしい。
そのケルト語を話す者たちがヨーロッパの中央部に現れたのは、紀元前800年くらいとされている。
彼らはすぐに、あるいは実はもっと以前から徐々にヨーロッパのあちこちに移住地を拡大して、紀元前600年ぐらいにはブリテン諸島(イギリスやアイルランド)にまで住み着いたという。
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 ケルト人の祖先については諸説あるが、 紀元前10世紀くらいのアジアで多くいた遊牧民族のどれかだろうとはされている。
紀元前9~3世紀くらいまで、西アジアで勢力を広げていたスキタイ人とは、神話に共通要素が多いとされているから、近しい時代に共通祖先がいたかもしれないと考えられている。

ローマ帝国とガリア

 ケルト人は紀元前200年くらいからのローマ帝国との強く対立し、栄光の時代は終焉へと向かっていく。
特にフランスあたりを中心に勢力を持ち、大陸側のケルト人たちの中核だったとされている「ガリア(Gallia)」の軍勢が、紀元前50年くらいに、ローマ軍に敗北したのは大きな転機のひとつであったとされる。

 ローマ帝国が台頭たいとうするまでケルト人たちが強かったのは、 青銅器文化ばかりだったヨーロッパで、鉄の武器を使っていたこと。
それに馬に引かせる2輪戦車「チャリオット(Chariot)」の活躍だったと考えられている。

 しかしローマに敗北し、風習などのいくらかは残ったものの、ガリアはローマ化され、彼らの完全に伝統的な文化は消滅してしまう。
ケルト人は文字を持たなかったから、残された記憶がほぼローマ側のものであることは、正確な歴史を知る上では、やや問題といえる。

ブリテン諸島のケルト

 ガリアのような大陸側のケルトを「大陸ケルト(Continental celtic)」、ブリテン諸島のケルトを「島ケルト(Island celtic)」とする分類はかなり古くからあるらしい。

 その島ケルトに関しては、なぜかローマ軍が上陸しなかったとされるアイルランド以外でも、ケルト的な伝統性が強く残ったとされている。

 さらにブリテンのケルト文化は、ケルトよりさらに古い先住民族の文化や、紀元後に現れたキリスト教も取り入れて、独自に発展していった。
そして9世紀くらいからの北欧ヴァイキングとの争いや、ブリテン内部のいざこざなども乗り越え、その地のケルト文化は、今もある程度生き残っているという。
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 ブリテン諸島、特にアイルランドに関しては、ケルト人の大規模な流入などがあったことはなく、どちらかというと地元の先住民族がケルト文化を取り入れて、自らをケルト化していったというような流れがあった、という説も有力だとされる。

酒好きで勇猛果敢

 初期のケルト人の記録を今に伝えているのは、基本的には彼らと敵対していたと思われる、ギリシアやローマの記録である。

 とにかく彼らは、ケルト人に関して、 その酒好きと、勇猛果敢さを語っている。

 ケルト人の見た目は、高い身長に盛り上がった筋肉、白い肌に金髪。
それに、あごひげる者と剃らない者がいたが、口ひげは必ず生やしている。

 あご髭を剃っていたのは身分の高い者という説がある。

 ケルトの戦士はおしゃれで、その武装服はなかなか色彩豊かだったとする話もある。
そして、動物の象がついてたり、動物を模した兜や鎧を着て、長い剣と槍と弓矢を使い、 敵を倒したものはその首を馬にくくりつけて、自身の武勲ぶくんの証としたという。

 しかし、ケルト人の誰も彼もが日頃から戦士だったというわけでなく、少なくともヨーロッパに定着してからのケルト人は大半が(あたり前と言えばあたり前だが)農民だったようだ。

 また、ケルト人たちは、パンと肉が主食で、飲み物はビールや蜂蜜から作った酒、それにワインばかりだったようだ。
特に彼らはワインを好んだとされている。

ドルイドの魂の不死性

 ケルト人たちは、戦に参加する戦士たちも含めた全員が、音楽とともに歌う詩人に従っていたという。
言葉を持たないケルト民族にとっては、知識を持った詩人は、新なる賢者であり、従うべき道標みちしるべであったのだ。

 特に「ドルイド(Druid)」と呼ばれる者たちは、神々と繋がる偉大な詩人たちであったとされる。
ドルイドたちはケルトたちの法も司っていた。

 ドルイドたちは、魂の不死性を説いていて、 広く信じられていたらしいその概念が、ケルト文化の核となる思想の一つだった。

 ケルト人たちは死後の世界で使うための物、時には家畜や奴隷でも、死者とともに焼いたり埋めたりしたとされる。
借金の支払いすら、死後の世界に持ち越されると考えられていたらしい。

 死が終わりではないという信念が、ケルト戦士たちの勇敢さの秘密だったのではないかともされる。

 また魂の不死性は、ピタゴラスの思想だったともされていて、ドルイドはもともとピタゴラスの弟子であった説も古くはあったようだ。
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ピタゴラスを抜きにしても、ギリシャ人たちは自分たちの様々な神話などからも、ケルト人たちの起源を見出していたそうだが、基本的には眉唾ものであろう。
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ハルシュタットとラ・テーヌ文化

 1848年。
考古学者ゲオルグ・ラムザウアー(1795~1874)がオーストリア西部の鉱山地帯ハルシュタットで大規模な遺跡を発見する。
そこには大量の遺骨に加え、武器や陶器とうき装身具そうしんぐなどがあった。

 その遺跡からは、ギリシアや、紀元前8~1世紀くらいにイタリア辺りで勢力を誇っていたエトルリアなどの美術品も発見されているという。
どうも紀元前8世紀以降くらいに、ハルシュタットの地で取れる塩の輸出で繁栄した文化があったらしい。

 塩は味付け以外にも食料の保存に使えるため、当時から非常に重宝ちょうほうされていた。

 そのハルシュタット文化の広がりはかなり広範囲に及び、よくケルトと(だけではないにしろ)関連付けられている。

 ハルシュタットには、A期(紀元前1200~1000年)、B期(紀元前1000~800)、C期(紀元前800~600)、D期(紀元前600~450)という時代区分が設定されているが、特にCとDの頃に、ケルト社会は大きく飛躍ひやくした時期である。

 ハルシュタットにおいて作られたものは、実用的なものにしろ、美術品にしろ、ギリシアやエトルリアの影響を受けていたようだが、次第に独特の物が増えていく。

 ハルシュタットD期の末くらいに、フランスのマルヌ川とドイツのラインラントの間でおこったラ・テーヌ文化の時代(紀元前450~50)は、ケルト文化の最盛期とされている。

 ラ・テーヌの名称もまた、最初に遺跡が発見されたスイスの地名かららしい。
ただ、ハルシュタットよりもさらに広範囲に影響を及ぼしていたとされるこの文化の中心がケルトであったかどうかは、見解がかなり割れているようだ。

 ラ・テーヌの衰退はローマの支配拡大と関係があるみたいで、ブリテンでは紀元1世紀くらいまで。
ローマの手が及ばなかったアイルランドに関しては、紀元5世紀ぐらいまで、この文化の影響が強く残っていたとされる。

ケルトの都市

要塞都市オッピドゥム

 ケルト社会の中に、国家と呼べるほどの規模の組織も出来上がってくると、彼らは「オッピドゥム(oppidum)」、あるいは複数形で「オッピダ」という都市型要塞を築くようになった。

 この要塞は丘の上など地形を生かした場所に作られ、単純に集落しゅうらくとしての役割や、戦時の一時避難場所。
一族の共同倉庫を防衛するための施設などといった、様々な用途ようとがあった。
時には高い身分の者の住居や、宗教的な聖地、交易の場などになったりしたらしい。

 小規模なものは(あるいは小規模なものも含めた名称として)「ヒルフォート(丘砦)」がある。
小規模というか、要塞とはちょっと言い難いようなものも、初期には特に結構あったという。

 用途や規模にかかわらず、元々周囲が斜面や岩場になっているところに作られるのが基本で、その形態はよく似ていた。

 初期の頃は、周囲に溝を掘って、その内側に土塁どるい(土の壁)や、木の柵を構えただけだったが、 だんだん溝や柵の数は増えて、出入り口も複雑化していったようだ。
そして紀元前2世紀くらいからは、内部で暮らすための生産的な設備なども整った、本格的に都市と呼べるようなものも登場し始めたという。

 かなり本格的なものだと、都市内部で使うための貨幣かへい(お金)の製作所とかもあったとされる。

頑丈なガリア壁

 城壁の作り方としても 色々な方法があった(というか試された)ようで、特にユリウス・カエサル(紀元前100~44)が「ガリア壁(Gallic wall)」と呼んだタイプはかなり強固だったとされる。

 ガリア壁の作りは、十字に交差させる形で木材を地面に固定し、 誤差部分を鉄の釘で止め隙間に岩などの瓦礫がれきを詰め込んでいく。
ようするに、骨組みを木材で作った石の壁と言えよう。
これは直接的な破壊攻撃だけでなく、火災などにも強い見事な防壁であった。

ケルトの家

家畜と同居していた木造りの家

 ケルト人の住居は基本的に木造だったらしい。
屋根はかやわらを素材とするカヤブキやムギワラブキであったとされる。

 岩資源の多い山岳さんがく地帯 などでは岩造りの家もあったという。

 家の形態は、大まかには円形と長方形の2種類の形があった。
多くの地域では長方形タイプが好まれたが、イベリア半島(スペインやポルトガル)やブリテン諸島のケルトは、ローマの支配が及ぶまで円形を主流としていたようだ。

 家は、ローマの歴史家たちの基準では大きめだったらしい。
通常はゆかに、動物の皮などで作られた敷物しきものかれていた。

 家は2階建ての場合があり、その場合はたいてい2階が女性と子供の部屋となり、1階が男性の部屋だった。
また2階は食料などの貯蔵室にもなり、1階の男性は家畜と同居していた。

人工島住居クラノーグ

 また、特に スコットランドやアイルランドのケルトは、みずうみなどの浅めの水域に「クラノーグ(crannog)」という人工島の住居を作っていた(あるいは先住民のものを利用していた)。

 クラノーグは、水から突き出るように、木の柱を用意していき、 その柱の構造に土や石をかぶせて土台とする。
さらにその土台の上に住居を築いたというもの。

 岸からクラノーグまでは移動用の小船が使われたが、木の橋が用意されている場合もあった。

 水域というのは防御に役立つ。
クラノーグには、要塞的な性格があったとする説が有力である。

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