ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」神なき世界の超人、永劫回帰

神は死んだ、とツァラトゥストラは言った

 『ツァラトゥストラかく語りき(Also sprach Zarathustra)』、または『ツァラトゥストラはこう言った』は、哲学者ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche。1844~1900)の代表作的な書。
ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』
かつて神を信じていたが、すでに「神は死んだ」ことも理解したツァラトゥストラという人物と、言うなれば生の旅の途中で出会った、色々な人たちとの会話(あるいは対話)や、その人たちに対しての彼の演説を描いた、小説のような文体。ただ、作中でツァラトゥストラが語る思想は、実際にこの書を書いた当時のニーチェの思想そのものが反映されているとも言われる。
作中、ツァラトゥストラが語る話は、例えば(おそらくニーチェ自身が生涯の中で親しんでたろう)キリスト教の世界観、教えについての失望を思わせる印象もある。実のところ、自分自身にも語らせていた内容だったのかもしれない。

 ちなみにツァラトゥストラとは、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ(Zaraθuštra‎。紀元前7世紀~没年不明)のドイツ語読み。ニーチェは、善悪、道徳に関しての専門家として彼を見いだしたとも。
ただ、彼の思想に、実際にゾロアスター教がどの程度影響を与えているかは微妙。
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そもそも、なぜ神は死んでしまったのか

〔……聖者は答えた「歌い、泣き、笑い、呻いて、わしは神を讃える。わしの神を。ところで、君はわれわれにはどんな贈り物をしてくれるのか」。
ツァラトゥストラは聖者に一礼して言った。「差し上げるものなど何かありましょうか……」
老人と男は別れた……
ツァラトゥストラは一人になって、おのれの心にこう言った。「こんなことがあっていいものか。あの老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いてはいないのだ。つまり、神は死んだ、ということを」〕

「神は死んだ(Gott ist tot)」という、少なくともその世界観における、ある種の事実。作中でツァラトゥストラは、何度もそのことに触れる。
そしてその部分だけは、ニーチェを読んだことがない人の間でも、かなり有名であろう。「神は死んだ」というシンプルな(しかし確かに印象深い)この表現は、時に、(少なくとも世界のある層において)物理的実体と思われる神なる存在が、具体的に死んでしまったことを示唆する場合に引用されることもある。
ただ、ツァラトゥストラが「神は死んだ」という時、その神は物理的実体の何かというより、ある人々のグループに共有されている世界観の神という印象が強いと思う。しかし、人々がそれぞれに知識を学び、賢くなった時代においては、神が存在する世界の(空想とも、妄想とも、精神構造とも、オカルト界とも言えるような)領域は、同じようなもの(基盤)を共有できず、結果的にあらゆる人々に共有できるような神は生きられない、というような。そして、そんな状態になってしまったことを「神は死んだ」と。

世界の向こう側とは天国であるか

 最初の理由は、誰かにそうだと教えられたことかもしれない。この世界が、神が創った世界であることを信じていたこと。だがツァラトゥストラは、物事を学んだ後にそれが信じられなくなった。

(世界のクリエイターとしての)神はまず、もしも存在するとしたら、いったいどこにいるのか。
この世界は神が創ったものだとして、その神が、この世界のどこかにいなければならない可能性は低いように思われる。神が自ら、自分という存在をこの世界に縛り付けていないのなら。
(普通に、素直に考えるなら)そもそも神がこの世界を創ったのだとしたら、その創った時まではこの世界は存在していなかったことになる。だが神は、この世界を創ったのだから、この世界が存在する前から存在していた何かだったはず。
神は、もともとこの世界ではなく、この世界の発生するさらに大きな領域、あるいは、この世界の存在しなかった世界に存在していたはずである。そうなると、この世界が作られた後に神がいるのは、この世界の外側ということになるだろうか。ニーチェが、そのように考えたことがあるのはほぼ間違いない。
ツァラトゥストラは、ある時には、神の場所として「この世界の向こう側」という表現をする。彼の言葉からは、例えばそのような神の存在している、向こう側の領域(実質的に、彼岸や天国と呼ばれる領域?)というのが、探求者にとってはかなり一般的な概念であるような印象も受ける。

 かつてはツァラトゥストラ自身、向こう側の神のいる世界観を信じていたという。ただし、それを信じていた頃でも、この世界も、この世界を創った神さえも、決して完全な存在でないと理解していたようであるが。
〔……世界は神の夢であり詩だと思われた。不満な神が目前にただよわせている多彩な煙だと。
……この世界は、永遠に不完全であり、永遠に矛盾しているものの反映であって、しかもまたその反映も不完全な反映にすぎないものであるが――みずからもまた不完全な創造主にとっては、陶醉的な楽しみだ――それが世界だと、わたしは思っていた〕
しかし、これは確かに、まだ生きた神が存在している世界観ではある。この世界が夢であろうと、創造主が不完全であろうと、確かにそれら全てが存在している。

 問題は、おそらく、その世界の向こう側がどのようなものかを具体的に考えようと試みた時に浮き彫りとなる。各々の知識によって、世界観全体とともに、その向こう側の模様も変わってしまうかもしれないこと。
そして、それだとまるで、神の領域もその存在も、人間の精神が造り出したもの。しかも、それだけでなく人間の精神が、その創作の参考にする知識の違いによって、内容にズレが生じてしまうかのような。
そうしてツァラトゥストラは、神は死んだと理解する訳である。

〔(かつて)わたしも人間の彼方へと妄想を馳せた、世界の向こうを説くすべての者たちのように。だが、本当に人間に彼岸はあるか。
ああ、わが兄弟たちよ。この神はわたしが創ったものであり、人間の作り上げたものであり、人間の錯乱の産物だった。すべての神々と同じように〕
 そう結論した彼は、その結論自体が悲劇として、悲しんでいるかのよう。
〔人間だったのだ、神は。しかも人間と自我のみじめな一かけらに過ぎなかった。わたし自身の灰と灼熱から、この幽霊はあらわれた。金輪際、彼岸から来たのではなかった……
今のわたしは、世界の向こうを説く者たちにこう言いたい。苦悩と無能、これらがあらゆる世界の向こう側をつくり出した。苦しみ抜いた者だけが知る、あのつかの間の幸福の錯乱こそ、世界の向こう側をつくった……〕

万物が永遠に巡る世界で、創造主は存在可能か

 しかし、変わる世界全体、向こう側と、向こう側でないこの世界。ニーチェのいくつかの表現から読み取れるその(世界の)意味は、まさに全ての概念を含むもの。善悪も快楽も苦痛も、そして創造神を妄想する精神さえも、自己の創造かのよう。
そこに見られるのは、ある種の連鎖みたいでもあるが、それはどこから始まっているものか。
多分、どこかから始まったわけではなくて、ただ永遠に続くか、あるいはループ構造(それも確かに1つの答としてありうるだろう)。
しかしニーチェが、ツァラトゥストラに、創造された世界を否定させた時、そこに実際に『永劫回帰(Ewig Wiederkehren)』、すなわち永遠に巡る世界があったとして(実際、彼の思想における世界観はそのようなものだったと推測されることが多い)、その永遠の中で、神が死んだと、彼は本当に考えてたろうか。どこかで神が死んだ瞬間があったのだろうか。そしてその瞬間まで巡るか、それは巡らないのか。
それともやはり全てただのメタファー(隠喩)で、実際には神が死んだのではなく、実は神が生きられない世界だった、ということか。ただしその場合でも、ニーチェ(あるいはツァラトゥストラ)の認識においては、確かに、神が死んだと言えなくもない、かもしれない。

〔「おお、ツァラトゥストラよ」と、そこで生き物たちは語った。「われわれ考える者たちにとっては、一切の事物そのものが踊っています。万物は来て、手を取り合い、笑って、逃げていく――そしてまた帰ってくるのです。
万物は行く、万物は帰る。存在の車輪は永遠にめぐっている。万物は死ぬ、万物はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっています。
万物は砕かれ、万物は新しく組みあげられる。同じ存在の家が永遠に建て直される。万物は別れ、万物はふたたび挨拶をかわしあう。存在の円環は、正確にそのままです。
一瞬ごとに存在は始まる。それぞれの「ここ」をめぐって、「かなた」の球が回っている。中心はいたるところにある。永遠の道は曲線をえがくのです」〕

 案外、これは興味深い問題であるかもしれない。まさしく未来永劫の世界には、そもそも創造神などいるはずがない。普通に考えればそうだろう。
だが、例えば永遠のループの中に、”存在しない”という段階を含むことはできないだろうか。そういう段階があるなら、創造(再創造?)の段階もループの中に含まれるかもしれない。
しかし存在しない段階への移行はどのように行われるか。世界の崩壊が存在するのか。しかしどこからか何もない状態になったとして、つまり再創造しなければ新しい世界が存在できない状態になったとして、その段階で終わってしまう、ということに絶対ならないループというものがありえるだろうか。
最も簡単に考えるなら、その崩壊し、再創造するこの世界というループが、もっと大きなスケールでのシステム上、例えば巨大コンピューターで走らされているループプログラムのようなものだと考えるシナリオパターンと思われる。そこで、そのプログラムによる繰り返しの中に、”存在しないと定義できる状態”があって、ただこの(我々が認識できる)世界が全て、そのようなループプログラムに含まれる程度の世界と。
「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性
もっとも、実際ここがそのような機械的世界でしかないのなら、神が存在するかどうか、というのはもはや我々には全然関係ない話となるだろう。それより何より、巨大コンピューターでも何でも、この世界が、よりスケールの大きい世界の一部であるというのなら、絶対的に永遠というのはなかなか信じがたい。例えば、全てがコンピュータープログラムなのだとして、そのコンピューター本体の異常の可能性を、どうすれば考えないでいれるか。

 それでも、原因はともかくとして、永劫回帰の世界で、システム自体も絶対的に永遠であるような世界を想定することはできるだろう。ニーチェも上記のように考えていたのかどうかは定かでないところであるが、結局、よく考えてみれば、何もない状態と創造という段階を含めた永遠(のはずの)ループは、そもそも、実際に永劫回帰なのか怪しくなるような気がする。

神が生きている世界で、死んだ神

 ところで、そもそもツァラトゥストラが、神が死んだと確信したきっかけのように書かれている、知識の獲得によって変化する世界観というのは、この件(この世界の、本当の世界観)を考える根拠として、それほど有力であろうか。

 別に、向こう側でも(彼岸でも、天国でも)いいが、とにかく、神の領域があって、神がこの世界を創ったのが事実とする。それで、この世界の者が、神の領域を自分の知識に合わせて想像することしかできないことは、絶対的な神そのものの否定に簡単に繋がるか。
確かに、その通りなら(我々がそもそも、神を想像できるような知性でないなら)、ツァラトゥストラ(我々)の神は死んでるも同じ。その世界観において神は死んでいる。実用的に、誰も神を認識できず、捉えられず、想像すらできないなら、いったいどうやって神を意識(あるいは信仰)するのか。
だが、我々の神が死んでいることが、この世界が永劫回帰であることを、直接示しているわけではない。

 ただ、もしもここが本当に永遠に巡る世界であるのなら、絶対的に(創造の)神は死んでいる(生きられない。存在不可能)。
本当にそうだろうか?

生物を学ぶ知的生物。人間の進歩主義

〔……ツァラトゥストラは群衆に向かってこう語った。わたしは諸君に超人を教える。人間は、克服されねばならない何かだ。君たちは人間を克服するために、何をしたか〕

 ツァラトゥストラがよく言う、「超人」というのは、人間を超えた人間。
神も含めた、神話的世界観の全てが、ただ人間の想像でしかなく、それにもかかわらず、それ(神という存在)に依存してしまうという状態は、まさしくただの1つの、人間という現象なのかもしれない。
だが、神が死んだ世界で、神に依存している状態は、健全と言えるかどうか。
ニーチェは、少なくとも、次に進むこと(神への依存を断ち切ること?)が可能であると希望を持っていたようだ。(さらに進めるはずという)そんな希望を見いだしたのは、彼の時代に、いくつか有力となった科学の仮説からかもしれない。
彼はツァラトゥストラに語らせる。
〔ありとあらゆるものは、今まで、みずからを超える何ものかを創り出してきた。君たちは、その大いなる満ち潮にさからって引き潮であろうとするのか。人間を克服するよりも、むしろ動物に帰ろうとするのか。人間にとって猿とは何か。物笑いの種か、痛みを感じるほどの恥辱である。ならば超人にとって人間はまさにこういうものであるはずだ……
君らは虫から人間への道を辿ってきた。そして諸君らのなかの多くはまだ虫だ。かつて君たちは猿だった。そして今でも人間は、いかなる猿よりも猿だ〕
ただ、進化論の影響というより、ここにはかなりはっきり進歩主義的なものが見える。
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 ただ、変化する生物系における変化に、絶対的(というより運命的な)方向性がないとしても、結果的にそのような流れが発生することが、この宇宙で普通であると想定することはそれほど難しくもないだろう。
まず、あらゆる環境において、生き残ろうとする生物でなければ、普通に考えて生き残らないだろう。(極端な話だが)例えば、とにかく何が何でも死にたがる生物がいるとして、いったいそんなのがどうやって生き残るというのか。
やがて様々な環境の中で、自分たちが過ごしやすい環境を、探すでなく造る種が現れたら、つまり環境を作り変えるテクノロジーを開発するような種が現れたら、それが生き残りレースでとても有利になるのも想像しやすいのでなかろうか。例えば人間のような知的とされる生物。
そして知的生物は、生物学も学ぶだろう。自分たちがどういう存在かを学ぶ。そうしたら、この世界が(自分たちの構造も含めて)物理的である限りは、おそらくさらに、(この世界で生きるにあたり)優れた何かへと自分たちを変化させることも可能かもしれない。
ニーチェは、テクノロジーによる物理的改変のことも想定していたろうか。または単に、精神構造の、精神的力による変化みたいなものを考えていただけか。いずれにしろ、進歩主義的な進化論世界においては、同じような話だろう。
SFでもよくあるアイデアだ。
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つまり、人間の段階の次に、人間による人間たちを超える開発、つまり超人の段階があるだろう。という思想。

神から離れた、その先の道

 実際、動物から人間、人間から超人という進歩の流れがあるとしよう。
人間はかつて猿であって、しかし人間が、猿を、人間に比べれば愚かな生物として軽蔑するように、超人は人間を軽蔑する。
だとして、超人はいったい、人間のどんな部分を愚かと考えるのか。
人間が猿を人間ほど賢くないと考えるのは、彼らが人間ほど言葉や文化といったものをうまく利用できず、テクノロジーを開発すること、学ぶこともできないからだろう。精神か、言葉のシステムか、原因はともかくとして、実際的に、猿に教育をして、まさに人間のような学びを与えられた、というような話は、今でも知られていないと思う。

 ニーチェは、死んだ神への依存をやめられないことが、まず愚かと考えてたろうか。ツァラトゥストラを、超人でないにせよ、超人に近しいか、または超人という存在をよく理解している人間として描いていたとするなら、そう解釈してもいいと思われる。そしてツァラトゥストラは、「多くの人間が今も猿同然」というように皮肉を語るのだから、まさにこれは、超人を知っていて、少なくても目指している誰かだろう。

 しかし、超人がどういうものにせよ、それが生物に行き着く先なのだろうか。それともそのような進歩の道は、どこまでも続いていくものなのか。
例えばSFであれば、今の段階(人間)にはどうしても理解できないような高次元に達した時点で、物語自体が終わることもよくあるが。

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