「ルクレティウスの唯物論」物の本質について。無神論者の、全てを原子で説明する試み。

ローマの哲学者の唯物論。ギリシア哲学の後

 ルクレティウス(Titus Lucretius Carus。紀元前99~紀元前55)は、徹底的な物論者的立場から、(例えば神々の存在のような)オカルト世界観を否定したことが有名な哲学者。
彼は基本的に、新しい世界観の創造者とかではなく、以前のギリシア哲学を参考に、おそらく彼自身が注目したものをまとめ(そして彼なりに解釈し)唯物論、つまり「万物は物質でしかないのだろう」という結論を出したのだろう。

 残された彼の著作「物の本質について(De rerum natura)」は、中世末頃、いわゆるルネサンスの時代に発見されて、西洋世界において、原子論研究の発展に大きな影響を与えたともされる。
ルクレティウス「物の本質について」
そこに書かれてるのは、確かに紛れもなく唯物論。というよりも、「全ては物質であるはずだ」という強い信念のもと、ほとんど説明不可能なことも含め、あくまでも全てを物理的に説明しようとした、偉大な試みの1つのようにも思う。
実験室 「原子の発見の歴史」見えないものを研究した人たち

神々なき世界における神々。友達への言葉

 前書き(というかむしろフレーバーテキスト)的に、神話の世界観を思わせる詩的な言い回しもある。ただ、もちろんルクレティウスという人は無神論者だったとされているので、それは普通、ただの慣例的なものだろうと考えられている。
「アェネーアースの子孫(ローマ人)の母、人間の、また神々の喜び、ものを生みふやす愛の神(ウエヌス)よ、あなたは天空の滑らかに流れる星の下に、舟の通う海にも、ゆたかに実る大地にも、生命をみなぎらして下さるし、ありとあらゆる生物の類が懐胎され、生れいで、太陽の光をあおぎ見るのは、これみなあなたのおかげ……
…万物の本性を支配するのは、あなた独りであるから、且つはまた、あなたがなかったならば、このうるわしい光の世界の中には、何一つとして生れ出て来るものはなく……
……世にあまねく知れわたる女神よ、ローマ人のために、安らかな平和の来るよう乞いたまえ……」

 そして、実際にそのような神話、少なくとも世界の神的な存在をすっかり信じていて、そのためにいろいろ(例えば罪の意識などに)悩んだりすることもあるかもしれない友達に対する言葉。
「……わたしから君への贈物だ……君のために天体に関し、また神々に関する最高の理論を、わたくしは始めようとし、万物を形成する原子を説きあかそうとしている。この原子でもって、自然は万物を作り、増加させ、成育させるのだということを。また死亡したものは、同じく自然が、これを再びこの原子に還元分解してしまうのだ……」

万物は、物質要素の組み合わせで本当に説明できるか

 ルクレティウスは、ただ論理的な思考により、神が必要な世界観を捨てただけではない。時には、残酷な戦いや支配を、正当化さえすることもある、つまりあの宗教という迷信そのものを、とても強く嫌っていた印象がある。
その圧力を、それが賢い人類の前に立ちはだかった敵のようにもとらえ、そしてその多くの人たちを悩ませた奇妙な嘘(ただしそれを伝えた人たちが、世界そのものを誤解していたために、実質的にそれが嘘でなかった可能性もあるような嘘)からの、脱却を測った初期の偉大な精神として、一部のギリシアの哲学者を尊敬していたようだ。
「……(哲学者は)次の点を明らかにしてくれた。即ち、何が出生しうるものであるか、何が出生しえざるものであるか。要するに、おのおのの物には、如何にしてその能力に一定の限度がもうけられているか、また深く根ざした限界があるか、の点を明らかにしてくれた。この(事実)のために、あの宗教の方こそが、今やふみにじられるようなものとなったのだ。勝利は我々を天と対等なものにしてくれた」
天、というのをどう解釈すべきか。あの空よりも先の領域で機能する、つまり各惑星群が神秘的な相互作用により永遠の回転の循環運動を続けるような星系システムのことか。それとも普通に天空の偉大な世界に住む神々というようなことか。
「天動説の宇宙」アナクシマンドロスの宇宙構造。プトレマイオスの理論 大地が浮かび上がる様子 「ギリシア神話の世界観」人々、海と大陸と天空、創造、ゼウスとタイタン
どう解釈するとしても、彼が特に言いたかったことは変わりないような気もする。つまり、この世界には、特別な領域も、特別な存在もない。ただ全ては、物質の組み合わせの違いでしかない。仮に特別な何かなんてのが存在するとして、それはせいぜい珍しい組み合わせの何か、とか。

迷信との戦いは永遠に繰り返すか

 しかし、ルクレティウスが正しいなら、つまりこの世界が全て、唯物論的に存在しているものなのだというなら、彼が「勝利」というのは、いったい何に対してだったか。それは明らかに、神にせよ、特別な天空の領域にせよ、つまりそのようなオカルト的世界観の要素、宗教の産物、ようするに無知な人たちが生み出した迷信というものに対して。
特別で、神秘的で、人間に対して超越的な領域も、人間自体と大して違わない。言ってしまえば、世界という同じハードウェアの中で機能するプログラムの違いにすぎない。
「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性
 ところで、ルクレティウス自身は、唯物論的世界観を確信していたとして、彼はその”事実”をどんなふうにか喜んだろうか。それとも実は、それほど喜べなかったろうか(だが1つの事実は、彼がそれを勝利と捉えた高い可能性)。
世界が全て物質の組み合わせにすぎないと考える時、確かに神秘的な要素なんてない。物質的世界を超越した神などいないのだから、神に選ばれし預言者もいなければ、善き者たちに降る神の恵みもない。世界には、ただ物質の組み合わせだけがある。
だが、明らかにこの世界で物事は変化するから、ある物質の組み合わせパターンが動的なものである可能性もかなり高いはず。結果この世界は、循環する物質要素の世界と思われる。しかし、本当に物質の組み合わせだけの世界であるなら、真の始まりというものを考えることは難しい。例えば物質が、我々が理解できるような(現在の宇宙の)”状態”になる前、全く未知の(例えば我々が世界観として理解することが決して不可能な)”不確定状態”があったのだとして、それが今の物質世界状態へと変化したのが、この宇宙の始まりというように考えれるだろうか。実際にはそれは、”この宇宙の始まり”ではあるかもしれないが、真の始まりではなく、ただの世界の変換だろう。
では、基盤の世界は永遠に存在するとして、その場合には無限の時間という要素が必要になるだろう。そう、無限の要素が必要。
パターンはどうか。物質のパターンに限界はあるだろうか。神秘的とされていたあの天空も含めて、物質のパターンだとするなら、地球だけを見るとき、それは局所的なパターンにすぎない。宇宙全体を見ると、もっと別のパターンがある。その真の組み合わせ数はどのくらいなのか。
組み合わせ数が有限なら、永遠の時間の世界観だと、永遠の中で何度も同じ世界が出現するはず。永遠の時間と有限のパターンがあるなら、同じことの繰り返しがどこかで必ずある。
例えば、ルクレティウスという人が、世界のそのような根本的システムを完全に理解し、迷信を打破したとして、そのようなイベント(出来事)自体が、1つの物質的組み合わせのパターン。結果的には、彼が、賢い人間がついに愚かな迷信に勝利したというふうに考えた瞬間も(それは何度も起きてきただろうし、これから何度も起こるだろう)一時のイベント。
それでも、そんな一時の喜びを彼は素直に喜んだろうか。どう考えてたろう?
そして、仮に神はいないのだとして、しかし神が存在するとしか思えないような世界体験ができるような世界観が、無限の時間の中のどこかのパターンにあるとするなら、その戦い(賢者と迷信との戦い?)も永遠に続くループとなってしまう。

 もっとも、ルクレティウス自身は、(本の最初の方で書いてるのを素直に解釈するなら)とにもかくにも、宗教とかに苦しめられる友達を、理論で助けることくらいは(この世界でも)できる、と考えて、その事実を喜んではいたろうと思う。それは無神論者のルクレティウスにとって、正しきこと(善)と定義できるような行動だったのかもしれない。
少なくともルクレティウスは、艦隊の順調な出帆のために神に生け贄が捧げられた昔話などを例にして、宗教こそが悪をなすのに使われてきたとも書いた。

神がいないと考えるのが、なぜそれほど難しいのか

 しかし時間に関して、実際に空間的なものだとしたらどうだろうか。つまり時空間というのは閉鎖されている系であり、そういう意味で、時間はただずっと回転(我々から見ると、各時代の永遠のループ)しているだけみたいな。だがその場合は、世界は有限ということになるだろうから、例えば最も大きな限界のスケールというものが存在しないのなら、その有限は、より大きな有限、あるいは無限内に置かれていることになる。そうでなくとも、置くことが可能と考えられるだろう。
実際、やはりどこかで無限の要素が存在すると考えるしかないのでなかろうか。そうでなければ、結局は有限のこの宇宙を超越した何かがあるということになってしまう。それがクリエイターかどうかはともかくとして、つまり我々が非物質的な神的存在と呼ぶような何かがあると考えるしかなくならないだろうか。
唯物論というのは、それほどに考えるのが難しい。

原子論。無限の過去が存在した世界観

「……自然の先ず第一の原理は、次の点からわれわれは始めることとしよう。即ち、何ものも神的な力によって無から生することは絶対にない……無よりは何ものも生じ得ず、ということをひとたび知るに至れば、われわれの追及する問題、即ち、物はそれぞれ如何なる元から造られ得るのかということも、またあらゆる物は神々の働きによることなしに如何にして生ずるか、という点もいっそう正しく認識するに至るであろう……」
ルクレティウスが(永遠のループとかはともかくとして)始まりの瞬間がなかった世界を想定してた可能性は高いだろう。神的な力によって無から生じることはないというのは、逆に言えば、無から何かが生じるなら、それには神的な力、(というか物質的にそれがありえない現象ならば)非物質的な何かを想定せざるをえない。

 しかし、なぜ無から何かが生じることがないと、自信を持てるのか。ルクレティウスは、そんな現象がはっきりと確認されたことがないことを指摘する。
「仮りに無から物が生ずるとしたならば、あらゆる物からあらゆる種類が生じ得るであろうし、種子を必要とするものなど、そもそも何もないであろう……海から人類、大地からウロコを持つ魚族が生じ得るかも知れない。天空からは鳥類が忽然として出現し得るかも知れない。牧畜その他の家畜や、野獣のあらゆる種類は、何処から生れたともわからず、耕地と荒野とを問わず、一面に充満するであろう。一定の木に、同一の果実がなる習性もおかしい、あらゆるものがあらゆる実を結ぶことも可能であろう……それぞれの種族を生む物質がなかったとしたならば、如何にして物の一定の母体が不易に存在し得ようか?」
 あらゆるものが、特定のものからしか生じないような、つまりあらゆる物には母体があるらしいという観察記録。その他にも、何かが発生するにあたって、その何かが発生しやすい時期とか、場所とか、また発生と成長の段階にも、ある程度の規則性がありそうなこと。これら全て、ルクレティウスは重要視して、全てが原子の組み合わせであるという自説の強い根拠になりうると考えていたようである。
「春にはバラ、夏には穀物、秋に葡萄が生ずるのは、われわれの見るところであるが、これは一体なぜか?……もし仮りにこれらのものが、無から生ずるとしたら、これらは不定の期間に、一年の他の違った季節に、忽然として生れ出るかも知れないだろう……そしてもしこれらの生物が無より成長し得ると仮定すれば、物が成長するためにも、また原子が結合するためにも、期間なんてもの不必要なはず。だが、小さい幼児から突如として青年が生じたり、また大地から木がいきなり飛び出しのびるなんてことは、いずれも現に起らないのは、明らか……」
言うなれば、観察されてきたあらゆる記録、現象はすべて、要素の組み合わせが違うだけの物質群と考えると、説明しやすいことが多い。
ただし、もちろん、今の時代に原子論を信じながら、(クリエイターとしての)神を信じる人のように、ただ、神が唯物論的世界を造ったと考えてもいいはず。例えば、神がその世界の中の者には決して、その有限の世界の外部を知覚できないような唯物論的世界を造ったとする。ここがそういう世界でないと証明する方法はずっと知られてないと思う。
だが実際のところ、この世界を神が造ったかどうかということに関しては、ルクレティウスの理論にも、あまり関係はないだろう。神がいるとしても、この造られた唯物論的世界観が、もはや神の手から完全に離れて、関わることがないようなものなら。その場合は、この世界の誰にとっても、神を信仰しようかしまいが、精神衛生関係、あるいは(もちろんそれには、信仰を持たない人にとっては恐ろしい行動なども含まれることがあろう)行動のモチベーション以外では無意味なことだろう。

恒久的な原子は、その循環も恒久的であるか

 始まりの瞬間がなかったとしたら、やはりこれまでにもすでに、無限の時間があったと想定しなければならないだろうか。ルクレティウスはそう考えていたと思われる。
「……時があらゆるものを時の経過によってうばい去り、原子をことごとく消耗せしめて、徹底的に絶滅してしまうのだとしたならば、愛の神は一体何処から、生命を持つ種族をそれぞれの種族に応じて、生命という光明の中へ再生するのであろうか? 湧き出る泉や、流れ込む河川は、一体何を基として海水を補給するか? 上空は、何を以て星のむれを養なうのか?
即ち、死滅すべき物質で出来ているのならば、万物は無限の過去の時代が経過した過去の時が、既にことごとく消耗しつくしてしまったろう」
 議論全体を通してもう1つ重要なことが「恒久的な原子」。仮に原子のようなものでなくても、様々な物体は破壊し、細かい粒子に分解することができる。このことから、確認されるあらゆる物体が、もっと細かい要素の集合体であることは、確かに明らかなこと。
だが単に、様々な要素が一塊になっているだけで、なぜそれぞれ集合状態で安定していられるのか。安定するための何かの要素がなければ、もっと物は簡単に分解されるはず。そこでルクレティウスは、基盤となる恒久的な原子、つまり特定の結合状態などを好むような、永遠に世界から消えることない原子が存在するはずだと考える。

「……如何なるものも無に帰することはなく、ただ万物は分解によって、原子に還元するにすぎないのだろう」
だからこそ地球上において、今もまだ流れる水があり、また天空でも星々の存在が安定している。
しかしここでの世界観は、やはり現代の人からすると、(神秘的要素が排除しているはずの世界でありながら)明らかに神秘的なファンタジー的で、興味深いかもしれない。
おそらくかなり素直な解釈だけで、彼が示唆している世界観からは、永遠に存在する地球とか、生物種族ごとの安定した再生サイクルなど、不思議な要素が読み取れる。

 ここでは例えば、神の手から離れているが、それは神にとっては計画的なもので、ある時期に再び手を戻すつもり(関われないではなく、関わっていないだけ)という可能性などは、全く取り除けない。
また仮に、ここは完全な唯物論的世界であったとしても、どこかで造られた瞬間があるのならどうか。あるいはここを構成する恒久的な原子群は、発生した後に決して消えることはないものの、発生しないと存在しない(そしてその上で、ある閉鎖世界系においては、その発生という現象を再び発生させることがないような)ものとするならどうか。造った瞬間があるなら、これまでに無限の時間があったとは言えない(もちろん無限の時間の未来はあるだろうか)。一度きりの発生があった場合も同様に、無限の時間は未来だけ。
それと、単に物質は消滅しないで、しかし発生はするものというのなら、この世界自体がすでに無限の空間とかでない限り、その無限に続く発生のための増加が、やがて世界を壊すことになるかもしれない。
ルクレティウス自身の世界観は、ただ恒久的に存在している物質要素が、(おそらく固定的なパターンとかではなくて)ただひたすらその時々の流れに任せて循環しているだけ、みたいな世界観の印象がある。彼がその世界観の強い根拠としているのは、明らかに様々な観察や研究の成果であるが、無限の時かはともかく、世界の全時間の中で、人類の生きてきた時間は本当にごくわずかだという可能性を、彼は失念していたろうか。

空虚の謎。本当に物質だけだなんてありえるか

 ルクレティウスが、神の存在しないこの世界で、重要視した要素の1つが物質を構成する原子。もう一つは「空虚」、つまりは、物質の存在しない状態。
「……物の内部には空虚が含まれている……もしこれがなかったとしたならば、物は動かされることが絶対に不可能となるであろう。何故ならば、物質の特性となっているところの、妨げること、邪魔すること、この作用があらゆる場合あらゆる物に発生するに違いないから……むしろ全然出現さえなかったろう。何故なら物質は四方八方凝結されて、不動のままでいたろうから」
ここでの考え方の背後にあるのは、まさしく完全に文字通りの唯物論と思う。

 例えばルクレティウスは、緊密と思われる物体であっても、明らかに完全にそうではないとして、例えば食物を食べた場合の生物の体内をあげる。
「……食物は生物の体内全般に散って行く。樹木が成長し、時期が来れば果実をむすぶのは、栄養が最下部の根元から幹を経て、枝を通じて、くまなく全体に行きわたるからである」
栄養分(エネルギー)が体全体の活力となるのは、それが体中に染み渡るからであり、そもそも体内にくまなくそれが染みることができるのは、生物の体という物質構造、またはその構造の各部分の原子集合構造が、やはり隙間だらけであるからだろう。この唯物論的世界観では。

情報を伝えるには運動が必要か

 ルクレティウスは音声に関しても、例えば間に壁がある場合でも伝わることを、空虚のおかげと考えている。
古代ギリシャにおいては、例えばアリストテレスは、音が空気を媒介にして伝わっていく波のようなものと、つまりは現代の音の理論に近い説を指摘していたらしいが、あくまでそういうのは仮説の1つにすぎなかったろう。
音というものを、ある種の物理的な固まりと考えても、振動(というかある種の運動現象が伝わっていった現象)と解釈するとしても、固まりが移動するための、あるいは運動するために空虚が必要なところは共通に思える。
だが、全てのことを伝えるのに運動がどうしても必要だろうか。

 現代においても、人間が確認できる全ての、何らかの情報を伝えるためのシステムは、運動がなければ成り立たない。つまり運動を可能にするための要素が、世界に必要。
それを空虚と呼ぶかはともかく、動作を可能とする要素が必要という点に関しては、(物質はエネルギーの変換されたある種の形態と考えたりする)現代でよく聞く物理世界観でも、あまりあまり変わらないと思う。明確な違いは、ルクレティウスが考えていたと思われるような物質だけがすべてと考えるよりは、いろいろ奇妙な物理現象を説明しやすくなっているということぐらいだろう。
時空の歪み 「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙 素粒子論 「物質構成の素粒子論」エネルギーと場、宇宙空間の簡単なイメージ
全てが物質と言う時、文字通りに物質だけがあって、例えば物質の有する力とか力場とかも、あくまで(単体ではそのようなものを有しない)物質素材のある組み合わせだけが原因であるとするなら、それはどういう世界か。
例えばルクレティウスが、磁石と磁気について考えていた話などが、1つの参考になるかもしれない。
「……(磁石が)鉄の塊を引きつけるのは如何なる原因か……磁石からは極めて多くの原子か、或いは原子の流波が流れ出ているに違いなく、これが(磁石と)鉄との間に在るすべての空気を打つのだろう。すると空気が押され、離れた場が空虚となり、この空虚が広まると、直ちに鉄の原子が押し出されて空虚へすべり込み、一団となって落ち込み、結果、物質環が続き、かくして全体として動いて行くと云うことになるのだろう……
時には鉄性のものが磁石から逃げ廻ったり、かと思うと今度は追いかけたりして、引退くこともある……青銅が介入すると、このような不調和が生ずるが、その理由は疑いもなく、青銅から出る(原子の)流波が先ず鉄の中の開いた通孔を先に占領してしまい、しかる後に磁石から出る(原子の)流波が来ると、鉄の中には既に充満していることを知り、以前のように(原子の)泳ぎ込む余地がなくなっているからである。従って、磁石は自身の波を以て鉄の組織全体を打ち、押すようにせざるを得なくなり、かくして磁石は鉄を自身から遠ざけ、青銅が(間に)なければ通常は吸いつけるところのものを、青銅を通すと追いたてることになる。
……磁石から出る流波が他の物をも同様に動かすことができないのは、その重量の為に、しっかりしていて動こうとしない物があるからだろう。また粗なる物質によって成り立つものは、原子の流波が抵抗を受けなさすぎて、つまりただ通過してしまうのであろう」

 ところで、テレパシー(精神感応)のような力が実在するとして、それも壁を超えるなら、精神が生み出す思念と言われるようなものもまた、物質的な塊と考える必要が出てくる。
サイキック 超能力の種類研究。一覧と考察「超感覚的知覚とサイコキネシス」
実際にはテレパシーのようなものが確認されたことはない。それでも、ある1人の人間が集合構造と考えるならば、1人の人間として1つの(少なくてもこの現象が幻想でないなら)想像とかを形成することを可能にする何かが必要だろう。
唯物論的世界観においては、そのような物理的実態の思念が集合体全体にわたって共有されるための何かが必要。
しかし、そんな思念とか想像とか意識とかいうものが、完全に物理的なものであるという説は、そのようなものを再現した機械でも造られない限り、それほど説得力あるものか微妙と思う。

空虚と空虚でない部分の無限と有限

 物質(原子)と空虚以外の要素、「第三質」などは存在しないとルクレティウスは言う。世界のすべては原子と空虚だけで説明できて、逆に原子と空虚なしにはあらゆる要素が定義できないとするならば、おそらくこれは(第三質が存在しないというのは)正しい。
「……空虚と物質以外に、第三質、如何なる時にも決してわれわれの感覚内に入って来ることもなく、また理性を以てしても、誰も把握することのできないような第三質が、物の総和(宇宙)の中に独立して存在することは不可能だろう……」

 しかし空虚、はまさに「何も存在していない場」として、では原子とは何なのか?
あるところでは、ルクレティウスは、それがまさに空虚の反対、つまり「空虚でない部分」として定義している。
「……われわれが空虚と称する空間になっている場には、物質は存在せず、また物質が占めている所には、絶対に空虚なる空間は存在しない。従って、原子とは強固にして、空虚を持たないものである。さらに被造物の体内には、空虚が含有されているが故に、その空虚の周囲を原子が、とりまいているに違いない」

 もちろん、この世界の存在のためには、そのような空虚と原子の存在比率が重要となる。
「……空間たる空虚が、仮にもしなかったとしたならば、宇宙は強固なるものとなっていたであろう。他面、これに反して、場(空間)を充たし、占めているところの一定の原子が、もしなかったとしたならば、現在の宇宙は空虚なる場、すなわち、空間のみとなっていたろう。ところが、宇宙は完全に充実してもいなければ、そうかといって、完全に空虚にもなっていない以上、原子と空虚とは交互に分界し合っているのだ、ということは疑いの余地がない」
しかしこの世界観の中である種の特殊な固定世界を作ることは不可能なのだろうか? 仮に原子を、世界の一部で空虚なく集合させることが可能だというのならば、その時、世界のそこだけを切り取ってみるなら、それはまさに(ルクレティウス言うところの物質現象が起こりえないはずの)完全に不動な世界でなかろうか?
もちろん、それを完全な意味で世界全体(ルクレティウスの言う物の総和)から切り離すことはできないだろう。いくら局所的に完全な空虚なしの世界を造ったとしても、(本来の世界に、物質と空虚しかないというなら)周囲から空虚が消えるわけないだろうから。世界全てにおいて、その世界のある部分のみが永遠に隙間ない塊となっているような状態を維持し続けるようなシステムを、完成させることなど、それこそ神的な技に思える。
しかしながら、それ(物の総和から見た場合に局所的な塊世界)がその内部に存在している誰かにとって、とてつもなく大きいものであるならどうか。世界全体の中では、ごくごく一部であるとしても、例えば我々が観察可能なこの宇宙と同じくらいの大きさだったとしたら。その内部の者たちが、そのような空虚なき状態から崩されるまでには、かなりの時間がかかる。
物質と物質を急に離した時、そこにはまさに空虚が生じるだろうが、しかしすぐに、空気と呼ばれる物質などが、その隙間を埋めるだろう。だが、一瞬でそんなことにはならないからこそ、まさにそこにはわずかな時間の空虚があるはず。というような言説が、空虚の存在を認めない者への反論として、ルクレティウス自身も出している。
逆に、局所的に完璧な空虚はどうだろうか。世界全体で、ごく一部から、原子全て取り除いたら、そこに巨大な空虚が現れないだろうか。
現れるはずだ。仮にこの宇宙全体は、物質と空虚の領域として、局所的に空虚を埋めれば物質のみ、局所的に物質を取り除けば空虚のみの小領域があるはず。

 では世界が、もしも無限であったらどうか。そうなると物質と空虚というのも無限になるだろうか。それとも、世界が無限という時、それは空虚(空間)が無限であるということか。
もし空虚も物質も無限(∞)なら、この宇宙の総和は∞+∞となるだろうか。それなら、無限を含む無限と考えられるような、その無限世界の内部にも、局所的な無限領域を作ることができるだろうか。
森の扉 「無限量」無限の大きさの証明、比較、カントールの集合論的方法
そうではない。無限なのが空虚だけであって、物質はあくまでもその中の有限量であるとしたらどうか。だがもしもそれを含む全空間が無限というのなら、物質のみの総和がどれほどに大きかろうと(それが有限である以上)無限よりははるかに小さな数となる。いかなる数でも、それが無限でない限りは、無限から引いたところで、無限が残る(通常、単純な計算ではそうなるとされる)。ただし、無限から有限の数を引くことが実質不可能であるというのは、数学のある形式、構造上の問題でしかないかもしれないが。しかし実際、無限から有限を引いても無限であるとすると、たとえ有限の物質領域があるとしても、この世界の無限の空虚は無限ということになるはず。だがそうなると世界全体で見た時、この物質の存在している領域は何だろうか。物質は集合構造で安定する性質があって、そして真の無限空間の中で、ここは局所的な小宇宙のようなものなのだろうか。
「宇宙構造」銀河集団、観測可能な宇宙。フィラメント、グレートウォール
では空虚も有限でなければどうだろうか。この場合に物質が無限であるとしたら、有限の空間は埋め尽くされる。そもそも空虚が有限であるとはどういうことか。それはその外側というものが、空虚でも物質でもなく存在していないということ。あるいは、例によってここは局所的な空虚(正確には空虚が含まれる物質群)なのだろうか。

 ようするに、それらが、無限だろうと有限であろうと、まさに空虚と物質だけの世界観というのは、実はなかなか考えるのが難しいかもしれない。

四元素のスケールの問題

「……もしかりに原子が如何なる工合にか制圧されて、変化をうける可能性があるとしたならば、如何なるものが生じうるか、如何なるものは生じえないか、それぞれの能力、深く根ざしている限度が、一体如何にして制限されて来ているかの点が曖昧になってしまうであろうし、種々の生物の代々の子孫がその種族に応じて親の性質を、習性を、生活を、活動を、かくも頻繁に繰り返すはずがない」

 ルクレティウスの語る原子論は、究極的には、たった1種の基本物質素材があって、それらの組み合わせが、様々な現象を生むというもの。それは、単体では、永遠に性質などが固定的で、たった1つでは決して変化することがないようなものと思われる。
そこで彼は、古代ギリシャで唱えられたいくつかのバリエーションの原子論(というか物質の基本素材論)も否定する。
つまり万物の根源が、火である説、水である説、空気である説、土である説、それらを組み合わせた説など。これはそれらが、すでに単体の物質であるが、ある種の性質を持って、しかし変化もするからと。
「ある物質があって、その物質は常に性質を不易に保ち、その物質の幾分かが離れ去ることにより、また(幾分かが)来たる(加わる)ことにより、またその物質の(配列の)順序を変えることによって、万物がそれぞれ性質を変えたり、物体が変化したりする、という或る物質がある。しかしこの物質が(例えば)火でないことは明らかだ。火の分子の幾らかが離れようが、去ろうが、幾らかが加えられようが、幾らかの(配列の)順序が変ろうが、すべて依然として火の性質を保持しているとすれば、火が原子であるという説は説得力を持つだろう」
これは別に、有名な四元素(これの提唱者としてよく知られるエンペドクレスを、ルクレティウスはかなり崇拝していたらしい)だけでなく、ある性質とか特徴とかを定義されている物質全てに当てはまることだろう。つまり、万物がそのような性質を保持していないとすれば、それが唯一の物質の素材であることなど考えにくいと。

 しかし、例えばここに見られるのは空虚(空間、時空間)に何の特徴もない世界観と思う。例えばこの世界において、火が万物の原子だとして、だが時空間(空間の全範囲と全ての時間)を構成する全ポイントの各々が、そこに置かれた火原子に、ある性質を与えるようなもの、と考えるのは、それほど奇妙なことだろうか。
実際に空虚を”物質でない部分”と考えるなら、空虚はただ”何もない”だけみたいな印象も受ける。しかし単に、別の類いのものとして区別できるだけと考えたなら、物質より空虚の方が特殊な性質を持っていて、物質をコントロールしているという世界観もありえないわけではなかろう。エピクロス派の世界観などは、実際に近かったかもしれない。例えば、物の原子がある原子(例えば火)である時、空虚の中でのある動作が、その原子の状態(パターン、感覚に捉えられる形態)を決定付ける領域を離れたなら、その素材自体が変化するというような、そういう解釈があるらしい。

 いずれにしろルクレティウスの見解は、「……私の思うに、真理はこうである。すなわち或る物質で、その結合、運動、順序、位置、形態如何によって火を造る物質(原子)はある。その物質の順序が変化をうけると、(その物質が構成する物の)性質が変化する……それは分子を発散してわれわれの感覚にうったえ、接触によってわれわれの触感が感ずるが可能なものとは異なるもの」
ルクレティウスは、世界に自由すぎる変化が見られないことも、原子論の根拠の1つと考えていたと思われる。その上で、基本原子の組み合わせが、我々のスケールでの物理現象の性質変化に関わっていると考えていた。とすると、原子自体は感覚で捉えることができるようなものではない、と言うのは、ちょっと興味深いかもしれない。
実際問題、この世界で原子は万能素材となれるのかどうか。おそらく自然的には万能的にはなりえず、必ず固定的なパターンにはまってしまう。だが機械的(人工的)にはどうだろうか。

永遠の時間の動作では、有限の物質は崩れてしまうのか

 宇宙の総和が無限であるかどうかの話は、先に触れているが、ルクレティウス自身は、宇宙が無限であるという説に傾いていたらしい。
「……仮に、存在の限りの空間を有限とし、誰かを究極の縁まで進ませ、極地に立って投げ槍を投げさたらどうなるか。槍は打ちはなたれた方向へ飛んで行くと思うか、それとも何ものかがこれを阻止しうるか。君はいずれか一方を認めねばならないはずだ。君に他の逃げ口上は許されない……いずれにしても投げ槍の投げられた地点は限界とはならない。私は何処までもあとを追って、どこへ君が限界を置こうが、私は聞くであろう「投げ槍は結局、どうなったのか?」と。すると、何処にも限界はあり得ないし、投げ槍の飛ぶ先はたえず延長して行けることになる」
ここで、物事が進む道筋のループ性を考えていないのは、明らかに世界を三次元空間的に見ているからだろう。

「自然は宇宙を維持するのに、宇宙に宇宙自身の限界をもうけ得ないようにしている。すなわち、自然は原子を空虚によって限らしめ、しかして一方空虚を原子によって限らしめ、かくの如く交互の錯列によって、宇宙を無限ならしめているからである。もしそうでなく、一方が他方を限らないとしたら、この両者のうちの一方が、依然単独で無限にひろがって行くであろう。ところが、私が先に説いたところであるが、空間(空虚)は無限にひろがっている。したがって、もし原子の総和(宇宙の物質部分)の方が有限であるとしたならば、海も陸も、かがやく天界も、人類も、神々の神聖なる体も、わずか一瞬たりとも、存在は不可能となるであろう。何故ならば、莫大なる原子は自身の結合から遊離して、広大なる空間の中へ溶解して行くであろうからである。ないしは、遊離した原子が集合することが不可能となるからには、原子が結合して、何ものかを構成することにならないから」
結局のところ、世界の全てが原子と空虚で構成されているとして、原子と空虚のどちらも等しく無限である、総体として無限の世界。
しかしそれぞれの存在を限りあるものにする何か特殊なシステムが、世界を総体的に見た時に無限にする、というように考えるのはだめだろうか。
ルクレティウスが、先に紹介したような『一方の二大要素の一方だけが無限であって、しかし2つの要素が混合する我々の領域が、無限の全体の中での局所的な有限』という可能性を想定していなかった(少なくとも大して気にしてなかった)らしいことは注目に値するかもしれない。
実際に、物質にどういう性質があろうとも、無限の時間をかけて、無限の空間の中で有限の物質が動作したら、いつか離れてしまって、今みたいな世界(物質集合構造)を作ることは不可能だろうか。ただ、「すでに無限の過去があった」というのは、ルクレティウスの推測の中でも、特に説得力が弱いようにも思えるが。

形か色か。原子自体にすでに備わっている性質の正体

 世界の物質全てが原子の集合というのなら、世界に見られる様々な物理現象、物理体の性質全てが、ある集合構造で実現できると考えなければならない。
全ての例を理解し(または理解したつもりで)、説明し尽くすなんて、1人の研究者には実質無理であろう。しかし、ルクレティウスは、一般的によく知られた現象に関しては、どうにか説明しようと試みている。
もちろん彼の目的(非物質的で神秘的な何かを信じてしまう友達を、唯物論に改宗させるような説得?)からすれば当然であろう。

 物質の大分類として有名なのは、やはり個体、液体、気体という三状態であろう。ルクレティウスもこの違いはよく意識していた。
「さて、我々にとって固く、緊密に見えるところのものは、より緊密に結ばれ、あたかも枝のように深く編み固められた原子によって成り立っているに違いない……
液体という形をとっている物は、より滑かな、より丸い原子から成り立っているに違いない。というのは、例えば芥子(ケシ)の種子を手に一杯掬ってみれば、丁度水のように流れ易く、下に流れ落ちてこぼれるが、これはその粒がそれぞれ互いに他の粒の妨げとならないからであろう。これと同様な理だ。
次に、例えば煙、雲、焰のように、すぐ飛散して行くものはすべて、たとえ全部が滑かな丸い原子から成ってはいないにしても、必ずや原子がからみ合って拘束されることがないに相違なく、その為に、(人間の)体を刺戟することも、岩石に浸透することも可能でありながら、原子同士は互いにもつれ合えないようになっているに違いない。であるから、感覚に(始めは鋭く感じても)和げられてしまうものはすべて、鋭くはあるが、もつれ合っていない原子から成り立っているのだと云うことが、容易に察せられよう」
ここでは、原子にはそれ自体にすでに形という特徴があるような印象を受けるが、そのような印象は、物事、現象の原因を原子の動作で説明する他のところでもよく見られる。例えば「原子には全く色がなく、ただ種々な形態を具えているだけだとすれば、あらゆる種類の変化に富んだ色彩を生ずるのは、この形態からだろう」
物質の素材としての原子の形を数学的思考を持って最初に考えたのはプラトンとされるが、ここではその影響もあったりするだろうか。実際ルクレティウスが、感覚を有するものが受ける様々な刺激などの影響を、原子の形と関連させて考える部分は、かなりプラトンと似ていると思う。
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 重要なのが原子の形であるというのも消去法であろう。(特に原子が単体では目に見えないほどに小さいのならば)、その集合体において、個々の元の形が、全体の大きさとして常に固定されるわけではないと思われるから。
だが、例えば色はどうだろう。
「仮に海を構成する原子が青い原子だとすると、それがどのような変化をしても青色のままのはずだが、実際はそうではない」とも語られるが、彼は形と色という性質に、どんな区別を置いていたのか(単体の原子における条件は同じはず。つまり視覚的に確認することが不可能なほど原子が小さいのならば、単体の色も形も我々にはわからない)。我々もそれを考える時に、同じような区別を置いてしまうだろうか。

古い熱力学と万有引力

 ルクレティウスは、「自身の重量のためか、他の原子から偶然加えられる打撃によるのか」は謎であるとしても、それはともかく、無限の空間の中での無限の原子は、決して運動をやめないだろう。と考えていたようである。
静止することなく、少なくとも”最小の要素である”という最も基本的な部分だけは間違いなく決して変えずに、大量の原子が様々に影響を与え合い、集合したり離れたりというイメージは、現代の物理学の一般的な世界観とおそらく最も近い。
「……素材なる原子はすべて跳ね飛ばされているのだ、ということを一層よく理解を深めてもらうのには、宇宙に底がないということ、従って、原子には休止する場処がない、ということを想起してほしい……原子には深い空間中にわたって、全く静止が許されていない。それどころか間断なき、かつ変化きわまりない運動に駆りたてられ、或るものは押され、打撃を受けて、飛び跳ねる」
また、「……原子は自身の有する重量により、空間を下方に向って一直線に進む」などの部分は、質量とエネルギーが関連すると考える現代的世界観に比べると古い印象がある。だが、ルクレティウスは組み合わせが性質を生むと考えていたはず。
仮に原子そのものに重量がないなら、世界には重量などないだろう。しかし、わずかな(互いに引っ張りあう性質はない)重量があるとすれば、その重量自体が原因でどこかの方向に引っ張られるものと考えなくても、単に、ぶつかりあった影響が、実質的に感覚に捉えられる世界において、(互いに引っ張りあう、というかつまり重力を発生させる)重量のようになると考えてもよくなかったろうか。
万有引力の定理の説を、ルクレティウスが知ったなら、重力というのが、単体の原子の不変の性質と考えたと思う。そして多分、以下のような原子の斜傾しゃけい運動の説(おそらくエピクロス派の説)を支持する必要もなかったかもしれない。
「(原子は)進む時に、全く不定な時に、不定な位置で、進路を少しそれ、運動に変化を来らす程度のそれ方をする……でないとしたらば、すべての原子は雨の水滴のように、(一直線に)深い空間の中を下方へ落下して行くばかりで、原子相互間に衝突は全然起ることなく、何らの打撃も(原子相互間に)生ずることがないであろうから」

 しかし、実際この(斜傾)運動の原因は空虚の性質であろうか? ルクレティウスは、空虚が無限であるならば、それ自体がある原子が進むのを邪魔することはないだろう、と推測してもいる。
それは「……あらゆる物はその重量が異なっていても、平安なる(抵抗のない)空間の中では、同一速度を以て進むはず」というように、斜傾運動ではなく各々の物質の重量の違いなどが、(相互作用の始まりの原因としての)速度の違いに繋がるのでないかという説を、否定する部分で振られていることだが。
何にせよ、ルクレティウスの文章から察するに、彼はその原子の進む方向の斜傾の(つまり斜めに傾く)原因を、空虚ではなく原子の方に備わった性質と考えていたようである。
おそらく空虚は、本当に何もない空間のはずだったんだろう。現在の我々は、アインシュタインのおかげで、曲がる構造というような空間(時空間)の考え方にかなり慣れているが、それでも何もない空間というのは、まさに空虚だろうか。

精神という物質が自由意志を有するのか

 おそらく唯物論というのが最初に考え出された時から、現代に至るまでずっと、この世界観の最も重要な問題の1つが、そのような世界観を考えることができる精神の存在を、唯物論的に考えることができるか。というものであろう。
それを賢いと言えるかどうかはともかくとして、人間が思考することのできる生物であることはほぼ間違いない。そして人間が開発してきた、機械というものの究極の目的の1つは、知的生物と同じように考えることができる、いわば知的機械ともされる。
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 ルクレティウスは、自由意志の原因としても、原子の斜傾運動をあげる。おそらく消去法であろう。
「すべての運動は常に関連し合っていて、新しい運動は不変の順序に従って、必ず古い運動から発生するのだとしたなら、また原子が進路をそれることにより、新たな運動の発生(因が因に続いて無限に発生する理由)を起すことがないとしたなら……運命なんかではない、我々(地上の生物)の心の導く方向へ運動を起すこの意志は一体何処に起因しているか?……運動はこの意志から発して四肢に波及するものであることは、疑いの余地がない。
……即ち、無からは何物も生じ得ないことは我々の知るところである以上、運動にも打撃と重量以外の別な原因があるはず。この原因から、我々のこの意志の力が生ずるのだろう。というのは、重量はいわば外的の力による打撃から万物が生れ出るのを禁ずることになるから。精神そのものが、あらゆる活動を起さざるを得ない必要性を自身の内に持たないように、又この必要性に圧倒されて、忍従を強いられることのないようにしているのは、原子の、不定な場処に於いて、不定な時に行われる僅少な斜傾の為であろう」

 ルクレティウスは(例えば馬が走る時のことなどを例にあげているが)ある生物がたくさんの素材(原子)の集合構造である以上、それらが一個として動くという行為をするならば、まずその構造体の素材全てに、その行動を起こすような命令を与える何かが必要であるはずと推測する。だから、実際に構造としての動物が動き出すよりも先に、意志が働いているはずと。
だが、唯物論的世界観で、まさに我々が自由意志と考えるような精神の動作が、単なる原子の斜めの傾きの動きによって、あるいはそれから始まるただの物質同士の相互作用によって発生するようなもの。と本当に考えることができるだろうか。

唯物論的世界観のテクノロジーが実用的である場合

「さて私の云うことは、精神と魂とは相互に連結し合って維持され、この両者は合して一つの性質を構成しているということであって、これがいわば頭部の如く、身体全体を支配している悟性で、我々が精神とか智とか称しているところのものである。そして、これは胸の中央に位置を占めている。何故ならば、驚愕とか恐怖、喜悦きえつもこの辺を中心として動くから」
また、「……魂は精神と連結しているということは誰にでも容易に認めることができるであろう。魂は精神の力に打たれた時、直ちに身体を前進させたり、動かしたりする。この理論は同じく又、精神と魂との本質は有形的なものであることを明らかにしてくれる。即ち、身体を前進せしめたり、肉体を睡眠から起したり、顔色を変えさせたり、人間を全的に支配し、指図すると見られる以上、またこれらの現象はいずれも接触がなければ起り得ないことであり、更に、接触は形体なくしては起り得ないことが明らかである以上、精神も魂もその本質は有形的であると認めざるを得ないだろう」
このように、精神も有形的(物質的)であると説明する部分は、推測に頼ってるとか以前に、ほぼ少数の経験則に頼っている印象。

 しかし、精神を物質、あるいは物質の相互作用によってのみ発生する現象と考えることが、本当にできるだろうか。少なくとも、これまでそれを具体的な推測として提案できた者さえおそらくいない。
もし、ある時に人工知能に精神が芽生えたとしても、それが人間の精神と同じようなものなら、唯物論的世界観における説明は相変わらず困難とも思われる。
唯物論的世界における精神の物質性について考える場合、我々に理解可能な範囲においては、逆に考えた方がいいかもしれない。つまり精神が物質的に説明できないとしたら、それはいったいどういうものか。そして、その可能性がどれくらいか。結局のところ、それが非物質的にも説明しにくいものだというのなら、唯物論的世界における不利な証拠とはならないだろうから。
そして我々にわかっているのは、精神が非物質的なものだとして、それが明確に機能している例が、(例えば人間のような)ある種の物質構造においてであること。それの安定した動作のためには、脳とか神経とか呼ばれる部分(構造)の安定が重要であること。
いずれにしろ、(本質が非物質的であったとしても)精神という現象に、物質的操作で影響を与えることができそうではある。仮にこの世界は唯物論的でなくても、唯物論世界観のテクノロジーが完璧に実用的ということもありうるだろうか。

世界のパターンの数の謎

 唯物論的世界観は、様々な世界パターンの中でも、それこそ局所的なものかもしれない。
我々は色々な世界を想像することができるだろうが、その中で全てを物質的に説明できる世界観というのは、様々な調整を必要としないだろうか。
ルクレティウスの、世界の構造の推測の多くも、”全てを物質的に説明する”という、自身に課した制約の上での、消去法のような印象が強い。

 あるスケール(というかパターンの複雑性)を超えると、全てを物質だけで説明することは難しくなる。だがあるスケールというのは、どこまでも、それこそ無限に大きくすることができるだろう。つまり世界はどこまでも複雑にできる。ルクレティウスが、唯物論的世界には必要だと考えた、時空の無限性が実在するものなら、まさにそのはず(パターンの複雑性は無限に増加可能なはず)。
だが最大スケールに限界がないとして、最小スケールにも限界がないということはないだろうか。結局のところ、あるスケール以下でしかありえない唯物論的世界観も、無限にパターンがあると考えられないだろうか。
だが物質の中での最小の存在を決めないと、唯物論的世界観はまた難しくなるはず(少なくともルクレティウスは、それは不可能だと考えていたろう)。
ようするに、完全に唯物論的にするために調整された世界観パターンの数は有限と思われる。少なくとも非唯物論的な世界観の数(こちらはおそらく無限であるが、有限であるとしても)よりは少なそうであろう。

 我々は、この世界の真の構造について、何を知っているだろうか。何か確信できていることが少しでもあるだろうか?
ルクレティウスは、たとえ自分が原子論というものを知らないとしても、おそらく普通に考えた上で、この世界を人間のために造った神など存在しないと結論していいだろうとも書いた。
「……もし私が物の原子の何であるかを知らないとしたところで、天空の運行そのものから見て、私はあえてこう断言しよう。またその他多くの事実から推して、こう解釈しよう。即ち、世界は断じて神々の力によって我々のために造られたものではない、と。世界には、実に多くの欠陥が具わっているではないか……」
これに同意するとしても、世界が別の目的に作られた可能性は残るし、神々のような何かが存在する可能性も残る。むしろこのような部分は、かつて有神論と人間至上主義が、どれほど深く結びついていたかの参考になるかもしれない。
この世界が不完全というのは、それが事実であるとして、この世界が”人間のために神が造った世界”という可能性すらも完全に潰すことはないだろう。すっかり潰されるのは、ここが”全ての人間の幸福のために作られた世界”とか、そういうパターンだけだろう。
それでも、これもまた今の時点で(ルクレティウスの時点でもそうだったろう)かなりはっきり言えることと思う。『例えば聖書のような、いかにも創作物語的な上に、(我々が理解することが可能でありそうな世界の部分のみに焦点を絞った場合さえも)普通に間違いだらけと思われる、神話や宗教書物の世界観が正しい可能性は、おそらくかなり低い。それに、そういうのを非唯物論、有神論などと、無理やり結びつける必要は別にない』。

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