「フランシス・ベーコン」学問の進歩、ノヴム・オルガヌム。自然科学としての哲学

知識は力なり。学ぶことはよき

 「知識は力なり(Ipsa scientia potestas est)」という格言が有名な哲学者、フランシス・ベーコン(Francis Bacon,1stViscount St Alban。1561~1626)。彼は、中世(5~15世紀くらい)のヨーロッパにおける、キリスト教的世界観に強い影響力を発揮していた、アリストテレス哲学に強い反発を示したことでも、よく知られる。
「アリストテレスの形而上学」第一原因を探求。哲学者の偉大なる挑戦
 有名な格言の通り、彼は、人間の有用な力として知識というものを重要視し、(宗教とか文化とか、理由はともかくとして)人々の教育を制限することは、あまりよくないことと考えていたようである。
『学問の進歩(The Advancement of Learning)』、『ノヴム・オルガヌム(Novum Organum)』といった、代表作として知られる彼の哲学書には何が書かれているか。

学問の進歩

 学問というもの、それを学ぶことがいかに大事かを知らしめたいのだと、彼は言う。様々な無知、そのために学者や政治家たちが持ってしまう嫉妬や尊大が厄介な問題と。学問というものが、あまりよくないもの、学びすぎても害があるというようなイメージを広める向きがあるが、それこそよくないことと。
ようするに、あらゆる知識というのは、本当にとても有益であるから、「みんなもっと学ぶべきである」と前書きに書いた上で、後は様々な知識と、著者によるそれらの考察がいろいろ書かれているのが本書。
『学問の進歩』

罪としての知識。第一原因から離れること

 知識の悪影響に関する仮説としては、例えば神学者(キリスト教徒、あるいは一神教徒)による、学ぶべき知識の過剰な制限の根拠。基本的に有心論を前提に置き、主に聖書(あるいは聖書に記録された神話)を参考にしたもの。「元々人類は無知が自然体(?)であって、悪いヘビに唆されることによって知恵を獲得してしまい、堕落が始まった」という創世記の物語とか。

 またベーコン自身は、異端者的な(というか無神論者も含めた、キリスト教徒から見てみるとはっきりと異端者な)学者たちが、学問の盛んな時代に現れがちなことは問題と感じていたようである。
ベーコンは普通に有神論者だったみたいだが、これは第一原因を否定する方法がどうしても見つけられなかったからと思われる(その点は、古今東西の多くの哲学者と同じ)。
しかし彼は、(人々を無神論に傾かせる強い原因となることはかなり確かだろう)第二原因(第一原因が直接的な原因でない、二次的な原因。例えば物理現象の原因としての物理法則)の考察に関して、決して否定的であるわけではないともする。

 そもそも、森羅万象についての純粋な知識そのものに関しては、それ自体も、それを学ぶことも罪などではないだろう、とベーコンは解釈していたようである。問題は知識を得ただけで、まだ愚かなままの人間たちの思い上がりであるのだろうと。
しかし、例えば〔……あのヘビの誘惑(そのための罪)となったのは、楽園にいた人間の前に、他の被造物が連れてこられた時に、それぞれの特性に従ってそれらの各々に名をつけたような知識ではなく、人間自身が自分の法をつくり、もはや神のおきてにはたよるまいとする思い上がった善悪の知識であったということに、(知識そのものが罪だと勘違いしている者たちは)気づきも思いいたりもしない〕とか彼は言うが、神のおきてに逆らうことが可能なのだとして、どういうことがそれにあたるのか。
この辺りから素直に読み取れるのは、神が創った(あるいはそのように定義可能な)この世界において、(まるでゲームの根本的な設定のようである)絶対的な善悪というようなものが存在するという前提。

 しかし過ちは、勝手に考え出した善悪だけだろうか。この世界が神が創ったものとして、神が定めているおきてとは何か。それらが物理的な法則だけでないことだけはかなり間違いない。もしもそのようなものだけならば、善悪というのもこの世界の法則ということになるだろうが、それだと(ベーコンの解釈が奇妙なメタファー(隠喩)でもない限りは)、物理法則は逆らったり改変したりできる文化とか法律みたいなものとなり、必然的にこの世界には驚くべき自由性がもたらされてしまうように思う。実はそうなのかもしれないが、そこまで自由性が高いというのなら、神のおきてに従う意味もかなりなくなるような(というか従うことが実質的に不可能な場合も出てくるような)気がしないだろうか。
それとも、やはり全てはお試しなのであろうか? つまり、自由性の高すぎるこの世界において、悪いことをすると、神にあらゆる幸福や不幸を定められた死後世界において、不幸な領域に入れられてしまう、と。ただそれだけとか。
だがそもそも死後に善き者たちのための幸福な世界を用意できるなら、なぜ最初からそこにみんな入れてくれないのか。なぜ試すのか。神は意地が悪い性格、とかでないのなら、それはつまり神が万能でない可能性を示唆しているかもしれない。あるいは、優れた芸術のような世界を作るためには、完全に自分の思い通りに創ってはいけないと考えたか。理由が何であれ、そのような世界の住民の方から見るとひどい話かもしれない。しかし、神が芸術性のために、あえてこの世界を自分の思い通りにならないようにした、と考えるのは、物語のアイデアとしては面白いか。
つまり、神が何を好んでいるのかわからなければ、救われる側になれない。全てを救ってくれるというのなら救われる側を目指す必要がない

 ところで、仮に神のおきてというのが、あるがままの自然の姿とかならば、環境を変化させるテクノロジーなどは危ういだろうか。
それと、自由性が高すぎる世界では、そもそも第一原因から離れる(これを神を殺す、と表現してもいいかもしれない)テクノロジーも可能かもしれない。そんなことありえないと思うだろうか? しかし(この世界が無限でないならば、第一原因は、普通に考えれば存在することになるはずだが)、そもそも第一原因がどのようなものかを理解するための手がかりが、あまりに少ない。
ただ、結局のところ、この世界とは別に、神の影響力がより強い死後の世界があるのなら、たとえこの(生者たちの)世界で神から離れても、死後には神のお膝元に帰ることになる。その時に、神から離れたことは恐るべき罪として扱われてしまうかもしれない。
では死後の世界すら逃れるため、テクノロジーで不死身になることはできないか? しかし第一原因が存在するということは、それはつまりこの宇宙が有限であることも示唆しているだろう。有限の世界の中の住民である以上は、滅びゆく(つまりいつか死ぬことを避けられない)ものであるはずだ。
この世界は、恐怖支配された王国だろうか?

魂、精神は容量無限か

 人間には、ある種の限界があって、知識の詰め込みすぎはその許容量を埋めてしまって、結果として悪影響になるのではないか、というような説。これに対する反論として〔知識は、どれほど大きな分量であっても、人間の精神をふくれさせるなどということはありえない〕、つまりは、知識の許容量に限界などないとしているのは興味深い。
ベーコンの文章から、彼が、人間が何かを理解しているこの精神とか意識とかいうものの原理に必要な要素として、魂というオカルト的要素を置いていたことは、かなり明らかである。
コネクトーム 「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で
 しかし魂なるものがあるかはともかく、意識という現象が、物理的、物質的なものである可能性が、ベーコンの時代よりは高いと言えるだろう現代においては、知識の許容量が無限であるという説も、説得力を弱くしているだろう。
例えば人間というのが、ただ物理的実体(物質)であるならば、明らかにあるサイズの人間が持てる情報量には(物理的世界とは別に、情報空間と呼べるようなものが存在し、そこの容量が無限だとしても、情報を物質世界で利用するためには、媒介となる物理現象が必要と思われるから)限界があるはず。もちろんただ物質という時、物質的(物理世界に非物質なしでありうるあらゆる現象)と呼ばれるもの自体が、どのようなものかによるだろうが。
例えば、全てが最小の物質要素、いわゆるアトム(真の原子。素粒子)の集合(組み合わせ)によって成り立っているものであるならば、世界全体の物質量が無限であるとしても、ある人間を構成する有限であるはずの物質量の組み合わせ自体にはパターンの限界があるだろう。記憶とか意識とかのシステムも、あくまで物質的なものであるというのなら、それら(記憶とか意識)にも(自身という人間が機能している時点で)それらのシステムのための原子の組み合わせパターンがまず必要となる。その上で、学んだ知識とかを保管していく部分である原子の組み合わせもあるはず。もちろん、いずれにも限界がある。有限の、ある人間というパターンの部分である以上は。
しかしながら、世界の全てが物質であるとしても、あるサイズの集合体の組み合わせのパターンが実は無限であればどうか。例えば我々の四次元の他に、重なり合っていたり、複雑に絡みあっていたり、ただ我々のような集合体の知覚では感知できないような高次元のスペース(空間。領域)があって、物理システムの集合体を構成する原子のありうる動作パターンを、その背景である多重、多層、多次元空間との関わりが無限にしているとか。
あるいは真の無限でなくても、実質的な無限でもいい。この世界そのものの構造、物質集合に関する法則、背景情報の変幻自在性(またはカオス性)、やはり存在する魂など、様々な要因が複雑に絡み、そのような実質無限を構成しているはずがないだなんて、誰が言えるか。

 ただ今でも、人間か生物か知的存在か、とにかくこの特殊な何かの根底に、魂と呼べるようなものが存在していると考えることは、別に難しくないだろう。しかし、実際に魂が、あるいは物理的でない精神というものがあるとして、そんなに簡単に、それを無限に知識を溜め込めるようなものと考えていいだろうか。
もし魂のような非物質的存在を、この宇宙すべてから取り除いたとする。この宇宙に残ったのは物質的なものだけ。さらに、仮に物質的なものがこの宇宙全体で無限であるとしても、有限であるとしても、とにかくそのごく一部を切り取ったとする。その切り取った一部の物質量を見る時、それはまだ無限であろうか。その量が有限なら、閉鎖系としての人間という集合体の物理的な動作パターンに、限りがあることにならないだろうか。
では、魂というものに、情報容量の限界がないとする。だが、どんな知識でも、それが意味あるのは、それが認識されるからだろう。そしてこの物理的世界での認識には、何らかの物理的動作が必要と思われる。例えば「ある少年が可愛い」という情報(知識)があるとして、そのことを何の動作もなしに、知的生物が共有することが可能だろうか。結果的に、動作パターンの限界性が、実質的な(魂と物理体の総体としての)人間の知識(情報共有量)の限界をということにならないのだろうか。
ただ、物事の動作というのは、その瞬間の形のことだけではない。ある時間における動き。この宇宙の時間が無限であるならば、例えばこの世界の無限に存在する全ての事象を、無限に名付けていくこともできるだろう。言葉はどこまでも長くすることができるだろうから。とすると、魂の情報容量が無限であるならば結局のところ、ある生物は無限に知識を持てるのかもしれない。
つまり集合体としての人間が閉鎖系であるという時、それは基本的には、三次元空間における閉鎖系であって、時間というものを(つまり四次元時空を)考慮するなら、まだ無限のパターンを作れる余地があると思われる。
とはいえ、結局のところ、非物質的精神が、なぜ無限に知識を得られると思うのか。

第一原因を忘れないように

 人間(要素の集合体である知的生物)の知覚を介して、この世界を見る場合、あらゆる現象の直接的な原因は第二原因。つまり世界そのものは第一原因がなければ発生しなかったものであるとしても、発生した後のこの世界においては、この世界に存在するいくつもの要素が、各々の現象の原因として機能する。結果的に、一次原因は、世界内の個別の現象に関しては間接的にしか関与しないとも言える。
全てが第一原因によって直接的に決定づけられているものならば、この世界は文字通り、真の運命論的世界ということになってしまうだろう。それだと我々の自由などはなく、例えば誰が善で、誰が悪だとか、そんなことも運命として決まっているから、実質的に善悪とか自体がないも同じだ。少なくともそのようなもの、善悪と言うか、そもそもあらゆる現象が、我々にとって実用的、あるいは意味あるものではなくなる。
ようするに、この世界で起きることの原因は、基本的にほとんど第二原因だけで説明できる。だからこそそれを考えていく場合に、第一原因を忘れてしまう、あるいは、それに対する信仰を失ってしまったりすることもあるのでないか、という不安。つまりあらゆる現象について考える哲学は、無神論への入り口になってしまうのではないかという懸念に対して、ベーコンは心配ないと言う。簡単な話で、哲学的な考えを深めていけば、結局のところ第一原因に再び行き着くからだろうからと。

 しかし、(ベーコンも、そこでの記述を参考にしまくっている)聖書が直接的な神の言葉ではないだろう、というのは、多分キリスト教徒にとっては厄介な問題でなかろうか。
仮に本当に聖書が、神から直接に霊感を授かった預言者によって書かれたものだとして、印刷機械のなかった時代を長く生き延びてきた書物であるから、元の内容が完全に残っているか疑問もある。

知識の大分類。大ネットワーク

〔人間の知識は、水のようなもので、上から降るものもあれば、下からわき出るものもある。一方の知識は、自然の光によって教えこまれ、もう一方の知識は、神の啓示によって吹きこまれるものだ〕
ベーコンは、この一方の(自然の光から、得られるという)知識を哲学、もう一方の(神の啓示らしい)知識を神学として、学問体系の根底の基本分類と考えていたらしい。
つまり我々には、神が与えてくれた知識の他に、自分たちが学べる知識がある。ベーコンは神が作ったと思われるこの世界において、我々がその偉大さを実感する2つのわかりやすいものは、聖書(神の言葉)と、我々が実際に観察できる自然世界(創造された作品としては驚くべきもの)とか書いてたりもするが、言いたいことは同じだろう。
そして重要なことは、実用的に、この自然世界を自分たちの意思で学ぶことは、普通に、この世界で生きていく上で有益と思われること。

 これに関しての理由はよくわからないが、ベーコンは物事の連鎖(いわゆる、”大いなる存在の連鎖”というものへの信仰かもしれない。第一原因から、全てのものが関わるネットワークが続いている、というような)を、この世界の基本的なシステムのように考えていた節がある。
〔……人間からすれば、自然哲学のはてと限界であるが、それにもかかわらず、自然という大陸においては、自然哲学の一部分にすぎない。そして一般に規則としなければならないことであるが、知識のあらゆる区画は、切断と分離としてよりも、むしろ線と脈として認められるべきであって、知識の連続性と全体性とは保存されねばならない。というのは、そうでないために、個々の学問は、共通の源から養分を与えられ、扶養されずに、実を結ばず、浅薄で、まちがいだらけなものとなってしまったからである〕
実際には、連続性とか全体性を無視して、個別に独立した学問体系とかを打ち立てるから、間違いが発生している、というような考え方があるように思える。
もちろん、そのような連続性から離れている学問というのは、全くのデタラメのものではなくて、世界の他のあらゆる事象と特に矛盾もしないというもの。
例えば、人間というのが魂で機能しているのだとして、しかし人間という現象のあらゆる要素が、その内部の物理構成の動作のみで(おそらく我々自身には観察が不可能なスケールでの物理動作の影響も想定すると)全て説明できるというのなら、それは間違いであるのに、特に、あらゆる知識と矛盾しない仮説ということになるだろう。だが、間違いだ。
ベーコンは、そのような世界の様々なことと矛盾はしないが、しかしそれはあくまでも連続性から離れている、空想の産物でしかないとした間違っている説の具体例として、コペルニクスの地動説を挙げている。
〔……現に、コペルニクスの地球の自転に関する説は、いかなる現象とも矛盾しないから、天文学自体はそれを是正し得ないが、しかし自然哲学はそれを是正しうるのであろう〕と。(太陽が宇宙の中心である地動説において、地球の公転速度を考えると、実は宇宙の一点で固定されている太陽が、地球のある場所から、毎日現れて消えての周期があるように見える理由は、地球の自転くらいしかないだろう)
太陽系 「地動説の証明」なぜコペルニクスか、天動説だったか。科学最大の勝利の歴史 「天動説の宇宙」アナクシマンドロスの宇宙構造。プトレマイオスの理論
ところで、(ベーコンがよく非難している)アリストテレスが、熱心な天動説の支持者だったらしいことを考えると、なかなか面白い話かもしれない。これに関しては、見事に意見があっている。
「古代ギリシアの物理学」万物の起源を探った哲学。遠い現象の原理

複雑な人間、単純な魂

 人間とは何かを考察する上で、全体を含むマクロコスモス(大宇宙)と、様々な要素の縮図的なミクロコスモス群という階層、というような、今では魔術師や錬金術師といった者たちの間でしか、ほとんど語られなくなったような神秘的世界観についての考察も少しある。
ベーコンの時代(16世紀)くらいの哲学書では、あまり珍しくもなさそうだが、世に錬金術師と呼ばれる者たちの代表的な人物としてパラケルスス(Paracelsus。1493~1541)の名も出される。
隠れ家 「パラケルスス」錬金術と魔術を用いた医師。賢者の石。四大精霊 錬金術 「錬金術」化学の裏側の魔術。ヘルメス思想と賢者の石
彼のような錬金術師は、マクロとミクロのコスモスの世界観を、空想的に飛躍させてしまったのだと、ベーコンは言う。
〔……それで、あたかも人間の身体には、この大世界に現存する、たとえば星や遊星や鉱物のような、あらゆる種類のものにぴったりの、ある種の対応と並行とが見出されるかのように主張された〕
だが、多くの物事が構成要素の完全な対応で結びつくことはない。〔自然がつくり出したあらゆる実体のうち、人間の身体がもっとも複雑であることだけはあきらかに真実である〕から。
つまりは〔われわれの知るとおり、花と木は土と水とによって養われ、獣類はたいてい草と果実とによって養われ、人間は獣と鳥と魚の肉と草と穀類と果実と水とによって、またそれらのものがそれぞれ食糧と栄養となるに先だってさまざまに加工され、調味され、料理されたものによって養われる。なおそのうえに、獣類のほうは、簡単な生活方式をもち、その身体にはたらきかける感情の変化は少ないのに反して、人間は、住居も睡眠も運動も情念も、無限の変化をもっているので、人間の身体がすべてのもののうちもっとも複雑なかたまりであることは否定できない〕とか。

 しかし、「人間こそ、全てのもので最も複雑」と言う時、全てのものの各々はどういうものであろうか。ある1つの、(定義可能な)物質と呼べるような集合構造? それとも、世界のある部分だけを見てみた時に、そのスケールにおける相対的な複雑さが最大となるような構造だろうか。
まず人間という存在の複雑さ。ベーコンは、人間が利用する栄養が、非常に雑多であること。それに感情のための様々な変化に注目していたようだ。
しかし、すぐに述べたように、ベーコンは、人間のような存在のシステムが機能するための要素として、魂を想定していた感じが強い。
興味深いことの1つは、人間という構造の複雑さが最大である一方で、魂に関しては〔魂はもろもろの実体のうちもっとも単純なもの〕というベーコンの見方であろう。

人間の精神という現象

 精神構造と物理構造の境界はどこであるのか。人間は変わりやすい組成であって、例えば〔調子の崩れやすい楽器のようだ〕とベーコンは言う。精神そのものも、それがある物理的構造から発生するようなものとしたら、例えば、たった1つの原子とかよりもはるかに不安定と思われるような、そういう構造を基盤としていることになる。実際ここまで完璧に唯物論的に考えていいのなら精神が理解したり定義したりするもの例えば世界に始まりがあるとしたら第一原因があるはずというような当たり前のように思える世界観もその絶対性がいくらか揺らいでしまうのでなかろうか。全ては、ある物質構造から生まれた妄想にすぎないとか、考える向きだってあるだろう。

 人間という現象そのものに、複雑な物質構造が関わっていることは間違いない。ベーコンは、それがこの世界における全構造の中で最大の複雑性を有するものと考えた。しかし別にそこまでいかずとも、これが単に同じスケールの領域に、適当に要素を詰め込んだ大半のものより複雑な構造であることは、ほとんど間違いない。なぜならそれは、不安定さを残しているとはいえ、それでもある程度のレベルで安定していると、ほとんど確実に言えるからだ(そうでないなら、なぜ我々のこれほど多くが、この地球の表面の環境で、たいてい普通に生きれるのか)。ただ物質が集合しただけではなく、その集合体が安定するシステムを構築しているという事実が、まさに複雑性を示唆しているだろう(だが、複雑性とは何だろう?)。

 精神を考察するにあたって、ベーコンも、それがどのくらいに物質的なのか、あるいは物質構造はそれにどのくらいの支配力を発揮できるのか、といった疑問を重要視している。
〔精神に関する人間の知識についていえば、それには二つの部門がある。その一つは魂あるいは精神の実体ないしは本性を研究する部門であり、もう一つはその能力ないしははたらきを研究する部門である。
最初の部門は、魂は生来のものかそれとも外来のものかという起源の考察、どこまでそれは物質の法則の拘束を免れているかという考察、それは不死であるかという考察など、そのほか多くの問題がある……〕
ベーコンは、その問題については、様々な説が入り乱れた迷路ができてしまっている、というように言うが、彼自身の推測はかなりシンプルである。魂はそもそも、神が創造の時に、その祝福によって発生したある種のかたまりに、神が直接に吹き込んだものである(だからこそ非物質的と言えるようなものなのだろう)から、そもそも哲学の研究対象となりうる天地のあらゆる法則との関連をはっきりさせること自体がおそらく不可能であるとか。
ようするに精神(魂)がどのようなものかという問題は、(ベーコン曰く)学問の最も基本的な2つの分類、哲学と神学における、後者の領域での問題なわけである。

不規則な世界、または規則的な世界の魔術

 精神能力としての魔術(主に占術)に関する考察も興味深いかもしれない(ベーコン自身は、オカルト現象にも、能力にも懐疑的な印象があるが)。
魂の特殊な影響により、物質構造の動作結果、例えば未来を認識し、物質構造に理解(直感)させるような、そういう能力(いわゆる霊感)があるとして、そのような物質構造の制約を無視する魂の機能が強く発揮されるのは、物質構造の機能が弱まっている時かもしれない。だからこそ霊感、睡眠時とか、ただ内面に集中している時とかに誘発されやすいという仮説。まさに古代の人たちが神がかりと呼んだような現象、つまり、魂は神から直接的にこの世界に与えられたものであって、その霊感を直接的に受けやすいとか(しかし、物質構造が活発に機能している平時はその物理的動作が妨げとなってしまうとか)。
音楽魔術 「現代魔術入門」科学時代の魔法の基礎
 まさにある(例えば人間のような)物質構造は、それだけに注目すれば、変化しやすいものなら、世界全体がそれだけだと、総体としても不規則になってしまうだろう。とすると、例えば奇妙とも感じれるような、何らかの複雑な集合体(システム)が、この世界にいくつもあっておかしくないのでなかろうか。(ただ、ある不規則な現象があっても、そのような現象が大量に集合した大現象には、その総体を個体的に考えた場合に、規則性が現れることもある。という説は結構古くからあるが)
一方でベーコンは、つまり魂のような、自然世界(物質世界)の背景システムに縛られることのない、より自由性が高い要素を想定した。
ただ、物質世界における自由性が高いとはいえ、それは神(第一原因)との繋がりが深いものであって、むしろ不規則な物質世界の影響によって同じように不規則にならないようなそういう要素。ベーコンはそういうふうに考えていた節がある。
〔……人間の霊というのが、均等で斉一な実体であるので、自然界にも、実際にある以上の大きな均等や斉一を想定してしまったりもする〕
そうして(本当は不規則な世界なのに、必ず全ては規則的であるはずだと思い込んでしまったために)でっち上げられた事例として、例えば天体の完全な円運動系、つまりまたしても天動説が持ち出される(コペルニクスの天動説は、惑星軌道が完全な円だったとされる)。

善とは何か。個体と世界のシステム

 生物というより、むしろこの世界の諸物質(物質構造)は、それぞれに特有の善がある。という考え方も説明されるが、コロナなかなか興味深いと思う。
ここで善というのは2種類あるのだという。1つが、この世界でその何か、誰か(独立した物質構造)にとって、最も自然的である動作。例えば水が上から下に流れるとか、鉄が磁石に引き付けられるとか、そういうものである。
この場合に、人間の善というのが、またとても(様々な感情などが絡むために)複雑であって、捉えがたいような印象がある。
しかしとにかく、この世界において最も(それぞれに)自然な状態という善がある。
ではそちらとは別の種類の、もう1つの善とは何か。それは、総体としての世界そのもののシステムのようだ。例えば、ある量の鉄は磁石に引きつけられるが、鉄の塊を構成する鉄原子の量が十分に多くなれば、重すぎて、磁石に引きつけられるよりも、むしろ大地に引きつけられる。もちろんベーコンの時代には、電磁気のも、重力に関しても、一般的な法則は知られてなかった。彼は〔(鉄が)一定の量をこすと、それは磁石への共感を捨て、善良な愛国者が同族の団体のいる土地におもむくように、どっしりした物体の存在する大地のほうに動くのである〕としている。鉄が磁石に向かうのは、ある種の好みの傾向のようなものであって、世界全体としては、鉄は大地と近しい関係のために、そちらに向かうシステムが機能しているというような。つまり量が多くなったりして、世界のシステムの影響が結果的に強まれば、個体の好みという善よりも、世界の掟という善が重要となる。
電気実験 「電気の発見の歴史」電磁気学を築いた人たち リンゴの木 「ニュートン」万有引力の発見。秘密主義の世紀の天才
 人間の場合でもそういうことがあるだろうか。ベーコンはあると考えていたようだ。彼は自己犠牲の精神に関する話をする。つまり人間は「生きれる限り生きる」という自己の善があるのだが、時に自分の命よりも大切なものができる場合があること。あるいは、より実用的な話として、平和な国家とかみたいな小世界を守ることは、個人の思想とかの犠牲より重要だろう、というような。

ノヴム・オルガヌム

 この本には、特に、ベーコンが提唱した概念として有名な、”イドラ(idola)”についての詳細な説明がある。
ノヴム・オルガヌム
イドラとは、ようするに、人間の精神が間違いを犯す原因と考えられる、偏見とか先入観と呼ばれるようなものらしい。

外来的なイドラ、生得的なイドラ

 ベーコンは、学問というものには、大きな二分類(哲学と神学)があると語ったが、イドラにも大きな分類として2つあるとした。すなわち、外来的なイドラと、生得的なイドラ。

 外来的なイドラは、〔哲学者たちの学説と学派から、あるいは証明のまちがった法則から人間の精神にはいってくる〕もので、一方で生得的なイドラは、〔知性そのものに固有のもの〕らしい。
後者(生得的なイドラ)は、まっさらの状態の知性(精神)が、まさに最初から持っている偏見とかではなく、勝手な独自解釈というもののようである。そもそも単に知性は、通常は直接的でなく、我々が見たり聞いたりするための感覚器官(目や耳)を介して、得られた情報を解釈する。しかしその解釈時、しばしば誤りにおちいりやすいという。〔(精神が)それ自身の概念を分離し混合するさいには、けっして忠実でない仕方で、事物の本性に自分の本性をはめこみまじえ加えてしまう〕とか。

 人間の知性に根を下ろしたイドラは、そこに心理が入ってこようとする時に邪魔になるし、さらには学問(知識)を革新(アップデート)しようという時にも、厄介なもの。だからこそベーコンは、この概念がどのようなものがあるのか、しっかり理解するべきと考えていたようだ。

種族、洞窟、市場、劇場

 先に挙げた大きな2つの分類は、精神への侵入経路の違い。他方、イドラそのものにも4つの種類があるという。
ベーコンは、それらを「種族のイドラ」、「洞窟のイドラ」、「市場のイドラ」、「劇場のイドラ」とした。

 種族のイドラは人間性のイドラ。これの説明に際し、「感覚器官が捉える情報そのものが、人間にとっての物事の尺度だ」という仮説が(あったらしいが)誤りだとしている。つまり、人間が何かを知覚するというのは、感覚器官から得られた情報を、さらに自分で独自解釈するから。〔人間の知性は、事物の光線をまともにうけいれないでこぼこのある鏡のようなもの〕と。

 洞窟のイドラは各個人のイドラ。これは、人間性一般に共通の誤りとは違い、個人ごとに固有の特殊なイドラ。つまりは、〔自然の光を弱める個人的な洞窟や穴のようなもの〕。単に固有の本性とか、物事に対する印象のズレ(感覚器官の物理的構造も関係しているかもしれない)、教育や、読んだ書物、尊敬する誰か、などからの影響によるもの。

 市場のイドラは、人々の交流によって生じるもの。話を交わす者たちそれぞれのネイティブ言語が違ってる場合はもちろん、理解力の違い(それにおそらく、他のイドラにより生じてるズレ)などから、間違えてしまう場面とかあるだろう、というもの。

 そして劇場のイドラは、哲学における間違った証明などからのイドラ。〔あるいは考え出された哲学などはいずれも、舞台にて演ぜられた脚木であり、それぞれ架空の芝居がかった世界をつくりあげたもの〕とも、ベーコンは推測する。

無限の時間の中で、無限に考えること

 原因は精神でも物理的構造でもいいが、とにかく、物を学ぶことに、容量的な制限がないのだとして、しかし世界そのものが無限であるならば、どこかで学ぶことが行き詰まってしまうことはないはず。我々の知識の旅は、どれだけ長く生きるとしても、永遠に続けられるだろう。
ベーコンは、〔世界に何か極限や限界があるということは考えられない〕とした。

 後世でカントール(Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor。1845~1918)が証明し、これまでずっと続いている、数学という分野の完全性に対する疑問とも関連する、無限の種類(ある無限よりも大きな、別の無限というよな)。
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 しかしベーコンは、無限はただ無限でしかないと考えていたようだ(そうでない誰かが、はたして当時に存在していたろうか)。
そして彼は、これまでにずっと続いてきたことはこれからもずっと続いていくだろう、ということで、つまり、人間が常に物事を考え続けることをやめられないことが、間違いに繋がってしまうかもしれないことも危惧する。
〔……あの一般に認められている区別、すなわち、「過去の側における無限と未来の側における無限」との区別(例えばトマス・アクィナス)はけっして存立することができないからであって、もしも両者を区別するとすると、一つの無限が他の無限よりも大きいことになり、無限が食いつくされてだんだん有限に近づいて行くことになるだろう……
同じような微に入り細にわたる論も、思推の停止することのできないことからおこるのである。この精神の停止することのできないことがもっと大きな災いをもたらすのは、原因の発見の場合であろう。すなわち自然界におけるもっとも普遍的なものは、それらが見出されるとおりに終極的なものであるべきであって、じっさいは、他の原因によっておこったものでないのに、しかし人間の知性は休むことを知らず、なおそれよりもいっそうよく知られたもの(自然の中でいっそうよく知られたもの、普遍的なもの)を求める。しかしそうするとき、人間の知性は、いっそう遠くにあるものに到達しようとしながら、いっそう近くにあるもの、すなわち目的因にたちかえることになる。この目的因は、あきらかに、宇宙の本性によるよりもむしろ人間の本性によるものであって、哲学を汚す……〕

 システム的な問題、あるいは技術的な問題とか言えると思う。
つまり感覚によって捉えて、それを(絶え間なく、止まることのない)思推(思考)が解釈したり定義したりするという知性のシステム。
ここには全く自然と、我々が理解している世界観は、その全てが、最終的に我々の感覚器官という構造が得た情報を神経系(あるいは精神でもいい)が解釈した、「おそらくそうである」世界観でしかない。しかし実際にこの世界そのものが単なる幻というわけではなく絶対的に存在している世界の構造というものがあるただそれを我々の能力ではすっかりそのまま認識することができないというだけという強い信仰が現れているように思う。
どの時代かに関わらず、あらゆる学者が抱いてきたものと思う、現実が存在するはずだという強い信仰。

 もちろん、ただ知性がどのように解釈するか以外にも、感覚器官が得ている情報自体がすでに、(おそらく絶対的に存在している)実在する世界とズレているかもしれないとも。
〔……人間の知性のもっとも大きな除害と錯誤は感官の愚鈍と無力と欺瞞からおこる。例えば感覚器官は、たとえより重要なものであっても、それを直接刺激しないものより、直接刺激してくるものを重んずる傾向がある〕
現代的な原子論にどのくらい近いかはわからないが、ベーコンは、諸物質の変化という現象が、巨大な物質の変形というよりも、それを構成している集合体としての微分子群の移動だと考えていた(例えばデモクリトス学派のそのような考え方を支持していた)節がある。それだから、実際的な動作である微分子群の移動を、巨大な1つの変化と解釈してしまうことが、人間の感覚器官の勘違いの例とされてたりする。
ただし、人間の知性が、物体を合成したり分離する機械的技術に注目しすぎて、事物の本性を間違える可能性に触れている別の箇所では、自然物体を構成する元素(おそらく四元素)というものが、単なる空想として、否定されてたりもする。

誤りの哲学。詭弁、経験主義、迷信

 フランシス・ベーコンという人は、アリストテレスを批判していたとよく聞く。実際にそうだったと思う。
「ノヴム・オルガヌム」によると、誤りの根源となっている、間違った哲学が3種類あるとされているが、アリストテレスはその1つ(詭弁的な哲学)の系譜における最も代表的な哲学者だとか。

 つまり間違った哲学とは、〔詭弁的なものと経験的なものと迷信的なものとの三通り〕らしい。
詭弁的な(つまり、実際は間違っている内容を、伝え方のテクニックを駆使して、あたかも正しいかのように見せかける)哲学は、〔多数のものからほんのわずかずつとる(多数の事実をざっと調べ、ほんのわずかな結論を引き出す。ありふれた様々な事例の個々をしっかり調べもせず、適当にまとめる)。あるいは少数のものから多くとること(少数の事実の精細な研究)〕で間違えるという。
経験的な哲学は、つまり〔わずかな実験に注意ぶかく熱心に努力し、それらだけから全ての哲学をひき出そうと企て、その他のものも、それらの実験に合うようにねじ曲げてしまう〕結果。
迷信的な哲学は、〔信仰と敬神の念から、神学と伝承を混入〕しすぎて、もはや学問というよりも、空想的な物語となってしまっているもの。

 先に述べたように詭弁的な哲学という誤りにおける、代表的な哲学者はアリストテレスらしい。曰く〔(詭弁的な?)論理によって自然哲学を台なしにしてしまった〕とか。
世界構造そのものを、自身の偏見と合うように、結果的には勝手に色々な空想を発明したのだという。例えば、物体の固有の運動はそれぞれに1つしかないとして、他の運動を見せた場合は必ず別の物質が関わっているとか。
また、〔かれはいつでも、事物の内的真理をつかむことよりも、どうしたらうまく答えおおせるか、また言語のうえではっきりさせられるかということに苦心していた〕。この辺りは、およそ言語で説明することが不可能であるような概念であっても、完璧に言葉で説明できるという偏見を持ってしまっていた、ということだろうか。
アリストテレスが実験と考えていたことに惑わされないように、ともベーコンは警告する。つまり彼は最初から〔結論を決めていた〕のだと(ただし実験というものは、ある仮説が正しいかどうかの検証に利用するものと考えることもできるだろう。ここでの批判は、アリストテレスが実験結果を恣意的に選んでいたかもしれない、ということだろうか)。

 経験学派は、詭弁学派より厄介とも。より奇形的な教義に繋がりやすいと。そのような教義の注目すべき例として、ベーコンは、錬金術を挙げている。

 そしてベーコンは、〔迷信と神学の混入による哲学の腐敗はまったく広い範囲にわたるもの〕と言う。
この種のものの代表例としては、例えばビタゴラスの、数というものに対する強い盲信が紹介されている。

顕微鏡の歴史の謎。ガリレオの望遠鏡の観察結果の意味

 視覚を補助するための技術に触れた部分は、単に歴史的に興味深いかもしれない。それには、小さなものの知覚(第一類)、遠距離にあるものの知覚(第二類)、単にいっそう精密に知覚(第三類)するための三通りがあるという。
ノヴム・オルガヌムという本の出版は1620年のこと。
オランダのメガネ職人であったヤンセン親子(Hans and Zacharias Janssen)が顕微鏡を開発した年とされているのが1590年。そして、高性能の顕微鏡を使い、微生物を発見したとされるレーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek。1632~1723)は、ノヴム・オルガヌム出版の年に、まだ生まれてもいなかった。
また、ハンス・リッペルハイ(Hans Lipperhey。1570~1619)が、おそらく初めて望遠鏡の特許申請を行ったのが1608年。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei。1564~1642)の、望遠鏡による月や、木星の衛星などの観察記録、新発見の報告である『星界の報告(Sidereus Nuncius)』が出版されたのが1610年。

〔……第一類のものは最近発明された。これは物体のひそんでみえない細部と、かくれた構造や運動を(映像の大きさを異常に増大させることにより)示してみせるものである。その力を用いると、ノミ、ハエ、シラミの身体の正確な輪郭や特徴が、そしてまた以前にはみえなかった色や運動が識別されて、大いにおどろく。なおまた、ペンまたは鉛筆でひかれた直線は、こういう顕微鏡によると、たいそう不揃いで歪んでいることがわかるといわれるのであって、それは、手の運動は(定規によって助けられてる場合でさえ)均等でなく、そしてまた、インキや他のつきぐあいもじっさいは均等でない。その不均等は、こういう道具の助けなしにはみわけることができないほど些少なものではあるが〕

 しかし、顕微鏡に関しては、特に非常に興味深いのは〔For themicroscope, the instrument I am speaking of, is only available for minute objects.(ここで、話題にしている顕微鏡の場合、微小な対象物にしか使用できない)〕といった部分もしれない。というのも、そもそも顕微鏡(microscope)のmicroscopeという名称は、ガリレオの友達が1625年に提案したという説があるから。
それはともかくとして、ベーコンは〔もしもデモクリトスがこの機器をみたなら、おそらくかれはとびあがって喜び、アトム(原子)をみる方法が発見されたと考えたろう。しかし、こういう顕微鏡は徴で細であるものに対してでなければ(あるいは、微で細であるものに対しても、それが大きい物体のなかにある場合には)無力であるとしたら、それの用途を減殺する。というのは、この発明がもっと大きい物体や、大きい物体の微分子にまで拡張されて、亜麻布の組織を網目のようにみることができ、また、宝石、液体、尿、血、傷その他多くの物体の目にみえない微分子と不均等を識別することができるなら、疑いもなくその発明から大きな利益をひき出すことができるであろうゆえ〕とか語っている。彼が原子論を支持していたとするなら、その背景には顕微鏡による研究もあったのかもしれない。

 ガリレオについては、第二類のものの話で、望遠鏡の発明に〔記憶すべき努力〕をした人として名が出てくる。
〔……これによると、銀河は、まったく別々で独立した小さな星から成る大群または集団であるということが知られる。このことについて古人のあいだでは推測があったが、逆に言えば推測しかできなかった〕
まず間違いなく、ガリレオの本を読んでいたのだろう。
しかし地動説の反対者であったともされているベーコンは、ガリレオが報告した、(星の運動には多くの中心があるということが推測の強い根拠でもある)木星のまわりで踊っているかのような小さい星々、月における明暗の不等の地理的分布、(宇宙の完全性に疑問を投げかけたとされる)太陽の黒点などの発見が、あくまで宇宙という総体のごくわずかな部分での発見にすぎず、普遍的な構造の証明と考えられるかは疑わしいとしている(別のところでも、ベーコンは何度か、地動説を前提としたガリレオの仮説を否定している)
ベーコンは、ガリレオの報告の信憑性を高めるためには、他の方法による観察が必要だろう、というようにも書いている。他の方法とはどのようなものか。
視覚的な観察で言うと、別のところでベーコンは、我々が利用している光とは別の種の光があるかもしれない、という可能性に言及している(例えば、夜にこそよく物を見ているような動物の存在が、その根拠だという)。現代の光学、物理の知識を参考にするなら、これはある程度正しい推測だったと言えると思う。
しかし別の種の光とはどういうものか、案外それは(単なる波長の違いとかではなくて)世界に重なっている別の次元、空間といった領域で機能するようなものであったのかもしれない。例えば、その別の種の光で宇宙を見た場合に見える光景が、全く別の世界であったかもしれないとか。とするとガリレオはあくまでも、人間の視覚が感知している光の領域という、まさしくいくつも重なっているような世界の層の中のたった1つでの観察結果を示しただけだったか。

 〔第三類のものは、測定棒、観測儀(アストロラーベ)などといったようなもの〕だという。ようするに計算機のことであろう。
つまり視覚的に観察した結果に錯覚があったりしても、正しい方法で計算すれば、間違いを正せる。そのために計算を行う機器

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