「マヤ文明」文化、宗教、言語、都市遺跡の研究。なぜ発展し、衰退したのか

メソアメリカとはどこか

 かつてマヤ文明やアステカ文明などが広い地域に影響力を持っていた地域を『メソアメリカ(Mesoamerica)』という。
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現在で言うなら、メキシコやホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカあたりを含む、中央アメリカ地域の大部分である。
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 ギリシャ語で中央アメリカを意味する、このメソアメリカという言葉を使い始めた(あるいは世間に広めたのは)、ドイツの民族学者ポール・キルヒホフ(Paul Kirchhoff。1900~1972)とされる。
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 このメソアメリカは、地域的な分類というよりも、文化的に深い繋がりがあると考えられる地域をまとめた名称であった。
キルヒホフも、メキシコ南部、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラスやニカラグアやコスタリカの一部を含む、地域内のさまざまな文化の間に、類似点が存在することを主張していた人らしい。
もちろんここでいう文明とは、コロンブス(Christopher Columbus。1451~1506)がアメリカ大陸を発見する以前のものである。
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 キルヒホフはメソアメリカを、数千年くらいに連続する、相互作用しあう文化の集合地域というふうに定義したらしいが、これは現在でも、かなり妥当なものだというのが一般的である。

 メソアメリカに対して、メキシコ北部からアメリカの西部の辺りを指すアリドアメリカ(Aridoamerica)やオアシスアメリカ(Oasisamerica)という名称もあるが、あまり普及していない。

 また、 メソアメリカは、メソポタミア(シュメール?)と中国(黄河?)とともに、他文明からの影響無しに、独自に文明を興した地域の有力候補でもある。
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独特の高度な文化

 メソアメリカの先住民たちが共有した、独特の文化とはどのようなものだったのであろうか。

 一般的には、イチジクの樹皮の書物に、象形文字。
独特の複雑な暦や、惑星天文学に関する深い知識。
ゴムのボールを使った球技。
よく発達した市場のシステム。
それに生きたまま心臓を取り出したりする残酷な生贄の儀式などは、 他の地域には見られない、メソアメリカ独特の文化であったという説が有力。

 アメリカ大陸において重要な食用植物といえば、(ヨーロッパ人の征服以前も以後も)トウモロコシ、トウガラシ、カボチャ、ジャガイモなどが有名である。
そしてメソアメリカ地域においては、トウモロコシの調理法がやや独特とされている。
特に、石炭混じりの水でゆがく「ニシュタマリゼーション(Nixtamalization)」などは、 トウモロコシにかけている必須アミノ酸をバランスよく補う、なかなか実用的な調理法として知られている。
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おそらく紀元前1500年くらいに形成された「オルメカ文明(Olmeca)」には、もうその調理法は知られていたとされていて、それの開発がなければ、メソアメリカに定住生活する集団はなかったかもしれないという説まである。

 オルメカ文明は、後のメソアメリカに共通した多くの文化を生み出した、その地における母なる文明の可能性もよく言われる。
しかし、特定の優れた文化が分散して広がっていったというより、オルメカのような文明が各地にまずそれぞれ興って、交流を長い時間続けるうちに、結局文化が似通っていったとするシナリオの方が、基本的には理にかなっているとされている。

メソアメリカの時代区分

 メソアメリカの時代区分は以下のように定義されることが多い。

 「古期(Archaic Era。紀元前3000~紀元前1800)」
「先古典期(Preclassic Era。 紀元前1800~紀元250)」
「古典期(Classic Period。 250~925)」
「後古典期(Postclassic Period。925~1521)」。

 先古典期はさらに「先古典期前期(Early Preclassic。紀元前1800~紀元前1000)」、「先古典期中期(Middle Preclassic。紀元前1000~紀元前300)」、「先古典期後期(Late Preclassic。紀元前300~紀元250)」。
古典期は「古典期前期(Early Classic。250~600)」、「古典期後期(Late Classic。600~800)」、「古典期終末期(Terminal Classic。800~925)」。
後古典期は「後古典期前期(Early Postclassic。925~1200)」、「後古典期後期(Late Postclassic。1200~1521)」に分けられる。

 古期以前の時代の、人はいた時代を「古代期(Paleo-Indian)」
アステカ帝国が滅ぼされたとされる1521年、300年ほどを「植民期(Colonial)」
それから後は「後植民期(Postcolonial)」とする場合もある。

マヤ人たちに関する基礎知識

広範囲に及ぶ繋がり

 マヤ人(マヤ族)という定義は、訛りなどはあっても共通する言語や、近しい文化を共有している者たちを意味している。
つまり、マヤという国(地域)があって、そこに住んでいた人たちというわけではない。

 ただし、マヤ系の言語ならマヤ語とされる。
実際には、いくつもの地域に別れたマヤ人たちは、ヨーロッパ人たちが来る頃には、独自のマヤ語を喋るようになっていて、別の地域に住んでいるマヤ人同士の意思疎通は、かなり難しかったようである。

 ペルーより北のアメリカ大陸において、最大の先住民集団とされるマヤ人たちは、集団単位で、メソアメリカの様々な地域に散らばっていた。
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 ただ、散らばっていたと言っても、集団単位同士の繋がりも、それほど遠かったというようなものではなく、文化の範囲的に切れ目があまりなかったともされている。

 しかしそのような広範囲の文化的つながりを保っていたマヤにおいて、例外的であったのが、ワステカ地方(Huasteca)のマヤ人である。
ここのマヤ人たちだけは、他から孤立気味で、だからこそか、少しばかり文化的に異色という見解もある。

 地域的に集合する傾向が強いのは、メソアメリカの多くの先住民族の中でも、マヤ族だけだったともされる。

地理的な特色の違い

 マヤ人は、南部、中部、北部と、はっきりその地域を分けることができるとされる。
南部は高地が多いが、中部と北部は低地が多く、南部を「マヤ高地」、中部と北部を「マヤ低地」と呼び分けする場合もある。

 単に地理的には、南部は、 エルサルバドルの西半分くらいに、グアテマラと、メキシコのチアバス州の山岳さんがく地帯くらい。
中部は、メキシコのタバスコ州、カンペチェ州南部、キンタナ・ロー州、ベリーズ、グアテマラのモタグア川流域地方の森林地帯に、ホンジュラスの西端くらい。
北部は、メキシコ、グアテマラ、ベリーズにまたがり、メキシコ湾とカリブ海の間に突き出たユカタン半島の北部とされる。
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 一般的にマヤ人の文化として取り上げられることが多いのは、マヤ低地の人たちのもので、マヤ高地はメキシコ地方の他文化の影響も強く、典型的なマヤ人の文化的特徴がいくらか欠落しているともされる。

 そもそもマヤ高地は、文化的には、マヤ地域として扱えるか微妙という意見もある。
マヤ語を喋る人たちがそこに暮らしていた時期があったことは確かであるようだが、そこに暮らし始めた時期が、先古典期の後期くらいからと、遅かったそうである。

 北部地域と中部地域は多くの点で共通している。
しかし北部地域は南部地域と同じようにメキシコからの影響や、人口がより局所的に固まる傾向にあったことなど、いくつか特色がある。
人が局所的に集まっていたことに関しては、ユカタンという地域における農業生産能力の低さなどが理由として考えられるという。
また、北部地域は雨があまり降らない地域であり、人々が集まるのは、「セノーテ(cenote)」と呼ばれる、地下水が石灰岩地帯の穴に溜まった天然井戸を水源として頼っていたから、というのもあるとされる。
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石灰岩、黒曜石。石の文化

 16世紀にメソアメリカを侵略したヨーロッパ人たちが強く求めていたのは黄金であるが、元々マヤ人たちにとっては、そのような金属はいくらの価値もないものだった。
マヤ人たちは古典期後期までは、そのような金属の存在すら知らなかった、という説もある。

 建築材などによく使われていたのは石灰岩(炭酸カルシウムを多く含んだ堆積岩)だった。
マヤ人はそれらを加工し、農業などに使うための石斧を作ったりしていた。
また、トウモロコシを調理する際などに使われていたという、マノ(石棒)やメタテ(石皿)は、火山の近くなどで取れる、より硬い石を使っていたようである。

 地域にもよるが、石材開発の技術は、先古典期にはすでにあったともされる。

 それと、ガラス質の火成岩である「黒曜石こくようせき(obsidian)」は、様々な道具や武器として加工されていて、現代で言えば鉄といえるくらいに重要だったらしい。
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ランダとユカタン事物記

 メソアメリカがスペイン人の侵略にさらされた時。
マヤ文明はすでにその地において過去の存在であったとされる。
マヤ語を喋る人たちはいたし、マヤの遺跡や書物もいくつも残っていたが、文明自体ははっきりと衰退していると言えた。
遺跡を見つけたヨーロッパ人の中には、それらがいつの時代に作られたものなのか興味を抱く者たちもいたが、もはや多くの先住民たちも、そのことを知らなかったそうである。

最初の、学術的なマヤ民俗誌

 1549年にユカタンに派遣されてきた、フランシスコ修道会のディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa、1524~1579)は、マヤに関するいくつもの書物を、迷信だとして燃やした。
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また、悪魔を崇拝する者たちとして、先住民たちをひどく扱い、異端審問にかけたとされる。
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その残虐行為があまりにも酷すぎて、他の司教などから告発されて、本国(スペイン)で裁判にかけられたほど(ただし潔白となったらしい)

 しかし彼は、数多くの貴重な書物を燃やし、非難される一方で、マヤの社会、文化や信仰などに関する優れた記録書物とされる『ユカタン事物記(Relación de las Cosas de Yucatán)』を著したりもしている。
これは最初期の、学術的なマヤ民俗誌と呼べる本であり、後のマヤ研究に不可欠な、最重要の資料とされることも多い。

恐ろしき異端審問

 1562年。
キリスト教としては異端的な偶像崇拝を続けるマヤの先住民たちに対し、ランダは、ユカタンのマニという地域で異端審問を開いた。
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 その異端審問は、恐ろしく残虐性に満ちたものだったとして伝えられている。

 多くの先住民たちは尋問にかけられたわけだが、尋問される者の手は縛られ、全身が吊り下げられた状態だったという。
さらには、尋問されながら、 体に付けられた石の重りは追加されていった。
そもそもこの尋問というより拷問的なやり方で、結構な数が死んだのではないか、と本国の裁判でも指摘されたようだが、ランダは、「この方法は殺すためのものではない」と弁明したらしい。
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 ランダが行ったのは、いわゆる「巻き上げ式(Strappado)」と呼ばれる拷問である。

 また、最終的に異端審問は、「オートダフェ(Auto-da-fé)」という死の式典へと繋がった。

 オートダフェは、15~19世紀くらいの時代のスペイン、ポルトガル(とその植民地)などで実施されていた、異端審問にかけられた異端者への、公的な罰の儀式。
何時間という時間をかけて、囚人たちの行列や、 罪の朗読や判決などの言い渡し、そしてムチ打ちやらの拷問の後、火あぶりにかけたりして処刑するというようなもの。
それが実際どこまで信じられていたことなのかはよくわからないが、どうも囚人の中に無実の者がいたとしたら、その過程のどこかで助かるらしい。
囚人以外の参加者たちは、最後に豪勢な食事会を楽しんだという、いろいろイカれた式典である。

 また1562年7月12日のオートダフェ中には、(おそらく)27冊のマヤの書物と、5000ほどのマヤの画が焼かれたという。

なぜそれほどに、ひどいことをしたのか

 ちょっと興味深いのは、ランダが熱狂的にとりつかれていたという妄想である。

 彼はどうも、先住民社会での聖職を追放された人々が率いる、巨大な背教はいきょうネットワークが地下にあったと考えていたらしい。
そしてそいつらは、人々を古い悪の宗教に一気に導く陰謀があると。
そういうわけでランダは、人々を悪の道から救うためには、先手を打つ必要があるのだと信じていたもされる。

 またロペス・デ・コゴルド(Lopez de Cogolludo。1613~1665)とかいう伝記作家は、ランダが先住民たちに対しての憎しみを持つに至った体験のひとつを記録している。

 ロペスによると、最初にランダがユカタンに来た時。
彼は、まだあまりスペイン人が足を踏み入れていない、辺境の村などに、キリスト教を伝えることが自分の使命と考えていたらしい。
そして彼は、少年を何かの生け贄にしようとしていた300人ほどの先住民たちと遭遇。
ランダは怒り、彼らを襲って、少年を解放した。
その後は、信仰されていた偶像を打ち砕き、熱心に説教を始めたのだという。

 ランダは少なくとも、愚かな生贄の儀式を続けようとする者たちを、一人残らず根絶やしにする必要があると感じていたらしい。
ただしそのために彼が行った拷問裁判を正当化するのは、今日の感覚からすると相当に難しいだろう。

貴重な資料として

 ユカタン事物記は1566年頃に書かれたとされる。
ランダはそれを書くにあたり、マヤの元王族の助けを借りたともされる。
元の原稿は失われているが、多くの写しが残っている。

 マヤの象形文字のカタログもその内容に含まれていて、それらはランダアルファベットと呼ばれることもあるという。
もちろん言語学者にはよく参考にされた。

マヤ研究小史

パレンケの調査

 アントニオ・デル・リオ(Antonio del Río。1745~1789)率いる調査隊は、メキシコのチアパス州にあるパレンケのマヤ遺跡の、最初の発掘調査を行った人たちだった。

 発掘期間とも合わせて、調査には1か月ほどかかり、調査隊にいたリカルド・アルメンダリズ(Ricardo Almendáriz)とかいう人は、30枚ほどの絵を描き、遺跡のレリーフ(浮き彫り)彫刻などをかなり正確に記録した。

 これらの発掘調査の結果は1822年に報告書としてまとめられ、ロンドンで刊行されたらしい。
そしてこれにより、ヨーロッパでも多くの人が、かつてメソアメリカに確かに存在したマヤ文明に、強い関心を抱くようになったのだという。

 そして間もなく。
1839年から1842年にかけて行われた、ジョン・ロイド・スティーヴンズ(John Lloyd Stephens。1805~1852)とフレデリック・キャザーウッド(Frederick Catherwood。1799~1854)の探検が、 近代マヤ研究の始まりとなったのだとされる。

スティーブンズとキャザーウッドの探検

 ランダ司教は、マヤの遺跡群を紛れもなく、その地にもともと住んでいた人たちが作った都市の跡なのだと考えていた。
しかし後の数多くのヨーロッパ人たちは、それらの遺跡が、自分たちと全く無関係の文明の中で成り立ったものと考えたがらなかった。

 キリスト教世界には「さまよえるユダヤ人」をはじめとする、いくつもの「さまよえる~人」伝説があるが、そういう者たちの内の誰かが、先にアメリカ大陸に至り、それらの都市を築いたのだとする説が、けっこう真剣に信じられていたらしい(コラム)

 スティーヴンズとキャザーウッドは、ランダと同じ見解を持っていた。
そして彼らは、コパン、キリグア、パレンケ、ウシュマルなど、様々なマヤ遺跡を訪れ、絵の記録を取り、それらを作ったのがどのような人たちだったのかを研究した。

 キャザーウッドのデッサンやリトグラフ(平版画)は、マヤ人たちが非常に芸術的かつ知的な作品の製作者であったことを明らかにした。
大規模な建造物。
石や石膏の彫刻。
フレスコ画。
木のレリーフなど、いずれも芸術としてかなり高いレベルにあると考えられた。

 そして探検を経て、スティーブンズとキャザーウッドは、ヨーロッパやアジアの文明とは関係のなかったマヤ人たちが、古代の中央アメリカにて、素晴らしい都市を建設したと、説得力ある主張をしたのだった。

(コラム)テンプル騎士団陰謀説

 このような考えをさらに飛躍して、さまよえる誰かさんたちが築いた文明を、さらに奪ったか、あるいは自分たちに取り込んだのが、テンプル騎士団と考える陰謀論も面白いかもしれない。
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言語学者的な年代研究

 スティーヴンズたちは、しかしマヤの遺跡群がいったい何時ごろに築かれたものなのかに関しては、全然わからなかった。
それは突き止めたのは、現地を旅する探検家ではなく、デスクワークの学者たちだった。

 ドイツの言語学者エルンスト・ヴィルヘルム・フェルステマン(Ernst Wilhelm Förstemann。1822~1906)が、「マヤ暦(Calendario maya)」を解読することで突破口を開く。
マヤ暦と西暦との対応研究は、現在においても、マヤの歴史、その年代を知る上で、非常に重要な役割を担っている。

 また、1950年代以降は、放射性炭素年代測定などの新しい技術の登場もあり、古代マヤ文明の年代研究も、かなり進んできている。

マヤ文明の変遷

 まだまだ諸説あるが、基本的に、13000年前くらいまでには、マヤ地域に、狩猟民族たちがある程度定住するようになってきたらしい。
それは高地も低地も同じである。

どんなふうに発展し、なぜ衰退したのか

 紀元前2000年くらいまでは、単純な農業や狩猟を営む時期が続いたが、それから古典期と呼ばれる時期の始まり(250年)くらいまでには、各地ではっきりとした村社会の形態が見られるようになる(注釈)

 古典期に入る前の、先古典期の時代にはすでに、都市とかピラミッドの建設や、石に刻まれた文字など、けっこう優れた文化が始まっていたともされる。
そこで、この時期をすでに古典期に含めるべきではないか、とする意見もあるようだ。

 一方でメキシコの方では有名なオルメカ文明を始めもっと古くから高度な文明が発達していたらしい。
むしろ元々マヤ地域は、メソアメリカ内において、文明の発達が遅れた地域であったと考えられている。

 しかし古典期の間は、マヤの都市は繁栄したが、おそらく8世紀後半から9世紀ぐらいにかけての間に、大変動がマヤ低地を襲った。
9世紀の末までには、古典期に築かれた都市のほとんどは放棄されている。

 大変動に関してだが、微生物の遺体が保有する酸素量の研究などから、800~1050年くらいまでをピークとする、大陥没の時期があったことが示唆されている。

 さらにその後、北部地域と南部地域は、メキシコ人(あるいはメキシコに取り込まれたマヤ人)たちの侵略にあい、それから後古典期が始まる。

 そして、後古典期に形成された、衰退しきった社会が、スペイン人たちが征服したマヤである。

(注釈)大陸同士の繋がりは少しでもあったか

 時期があまりにも謎に満ちている。
アメリカ大陸の文明は、現在ではユーラシア大陸の方の文明とは関係なく興ったものと考えられているが、それならもっと大きな時間的ズレがあってもいいのではなかろうか。
だが、人々がしっかりと文明社会というものを作るようになり始めた時期は、紀元前2000~3000年くらいからと、わりと共通している時期である。

 1万年くらい前だったらしい氷河期の終わりと関係があるのだろうか。
あるいは、ごくわずかにでも、やはり大陸間の交流があったのであろうか。
それとも本当にただの偶然か。

 国家という形態は、ほぼ間違いなくユーラシアの方が、数千年単位で早い。
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しかし数千年単位がなんだと言うのか、という話でもあるかもしれない。
サピエンスができて、どのくらいの時間が経ってきたかを考えればいい(少なくとも数十万年くらいはあると思われる)。
サピエンスのような生物がいて、文明社会ができる確率が、長い時間の中で1度だとするなら、そのタイミングが2つの大陸で、かなりの精度で一致していたというのは、どういうわけなのであろうか。

 4つの可能性が考えられよう。
(1)ただの偶然
(2) アメリカ大陸とユーラシア大陸の間の人々の道が閉ざされる前(多分1万年くらい前)から、すでに文明形成の段階は始まっていた(農業や家畜がもうあったのかもしれない)。
(3)実は従来考えられていたよりも、大陸間同士の交流があった。
(4)何らかの意思が働いている。
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