司馬遷の史記にも書かれた中国最初の王朝
かつては伝説とされていた、古代国家、『殷王朝』。
しかし、甲骨文字という、かなり決定的な証拠が発見されたために、それがどのような形であったかはともかく、殷という国家は存在したのだと考えるのが、今は普通である。
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そこで当然、殷の前の国家。
つまり、中国大陸における、最初の国家である『夏王朝』も、存在したのではないか、という意見が多くなった。
三つの古代国家、『夏殷周』にまで遡り、体系的にまとめた最古の歴史書は、司馬談と司馬遷による、『史記』とされている。
史記には、夏本記として、夏王朝の事がまとめられている。
夏王朝以前
黄河文明だけが最初であったか
中国の古代文明は、黄河流域にて発生した。
中国の古代国家の誕生に際し、二つの考え方がある。
一つは、黄河流域を中心に、ある人たちが、文化や文明を発達させたという一元的な考え方。
もう一つは、広大な中国の様々な地域の、多様な地域間が、互いに影響しあい、結びつき、多元的に社会が形成されたという考え方。
現在は、黄河文明が中国全土に広がっていったというのではなく、同じような時代に。様々な文明が、色々の地域で発生したという多元説の方が、有力なようである。
五帝と、夏を開いた禹
史記は、中国最古の国家とされる、夏王朝以前の時代を、『五帝本記』。
すなわち、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜の五人の王の時代として記録している。
史記の記録が正しいなら、治水の功により舜から王位を託された禹が開いた夏王朝は、 初めて王朝名を次代へと継がせていった国家という事になる。
五行説の影響
五帝の時代にも、彼らの国に反乱する者たちが、部族単位でいたようでもあるから、この頃には複数の文化が、中国大陸に存在していたのかもしれない。
五行説より、五という数字に意味があるとする説もある。
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五帝の、国号は違っていたが、これは実は、五帝が、別々の部族の長の事だからであった。
彼らは歴史記録において、夏王朝以前の五帝に設定されたが、おそらく別に彼らでもなくてもよかった。
とにかく五行説に合わせるために見つけられた、徳の高かったとされる五人の王。
また五帝の姓は「姫」であったとされ、周の王族と同じである。
これは繋がりというより、作為的だとされる。
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三皇。神々か
史記には、五帝よりさらに以前、『三皇』の時代について、『三皇本記』として記録されている。
だがそれは、司馬遷より後の時代の補筆とされている。
司馬遷は、確実な歴史と思われる事しか、記録として採用しない方針だったようだから、三皇神話はそれだけ、当時から伝説的すぎたということだろう。
三皇本記には、三皇は、伏義、女媧、神農の事であるという。
伏義と女媧は、蛇身人首。
新農は、人身牛首と、明らかに人間でなく、よく、神のような存在と解釈される。
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神農はまた、人々に医療と農耕を教えたという、炎帝であり、姓は「姜」なのだという。
太公望を始め、周代には、姜姓の優れた諸侯が多く、これもまた作為的に思われる。
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伏義と女媧。中国の洪水伝説
伏義と女媧は、漢代(紀元前2世紀〜紀元3世紀くらい)以降の時代では、壁画などによく描かれ、民間信仰のキャラクターとして 結構人気だったようである。
二神は、 地域によって夫婦であることもあれば、兄妹であることもあった。
中国西南地区のミャオ族やヤオ族には、古い時代の洪水伝説が伝わっている。
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伏義と女媧は、もともとは実の兄妹であった。
ある時、雷神の怒りのために起こされた大洪水で、人々の大半は息絶えた。
しかし伏義と女媧の兄妹だけは、大きなヒョウタンの中に隠れ、生き延びることができた。
それから二人は夫婦となり、後の全ての人類の祖先になったのだという。
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二里頭遺跡は、夏王朝のものか
夏王朝は、考古学的に認識される『二里文化』と同一とされる。
二里文化は、1959年に、河南省洛陽市の二里頭村で発掘された、『二里頭遺跡』を築いた文化である。
二里頭遺跡には、宮殿跡地が見つかっているが、 これが夏王朝のものであったかどうかについて確固たる証拠はない。
しかし、二里頭遺跡が築かれた年代は、紀元前1500〜紀元前1800年ぐらいとされていて、時代的には一致している。
夏王朝は国家であったか
史記によると、夏王朝を開いたのは、禹である。
彼は、伝説的な五帝最後の王である、舜から、治水の功により、王位を禅譲された(つまり親族ではないが、王位を譲ってもらった)。
禹や夏の記録は、かなり幅広く残っていて、おそらくそういう政治的なまとまりが、殷の時代以前に存在していたことは、ほぼ間違いないとされている。
ただそれが、本当に王朝、あるいは国家と呼べるようなほどの規模のものだったのかは、かなり疑わしいという意見が多い。
禹は、夏王朝の始祖か
夏王朝の始祖王、禹の父、鯀は、堯、舜の時代に、人々を悩ませてた大洪水の被害防止活動を始めた。
しかし鯀はなかなか成功できず、無念のうちに、死んでしまった。
父の後を継いだ禹は、治水事業に身を捧げ、見事に成果をあげる。
そしてその功績を認められ、王となり、夏王朝を開いた。
禹という王、あるいは人物が昔いた頃は春秋時代(紀元前770〜紀元前5世紀)には、青銅器などに記録されている。
だが、彼が夏王朝の始祖であるというふうに扱われ始めたのは、戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221)から。
治水神話も、最初はなかったようである。
宮殿、祭壇、城壁、道路、青銅器文化
文字の資料が全然残っていないが、夏王朝が、二里頭文化だとすれば、その発掘された遺跡から、いくつかの推測が得られる。
どうも夏王朝の時代、宮殿近くに祭壇と墓があった。
おそらく祭祀が、王の名のもとに、儀式を行ったのだ。
また、宮殿を囲む城壁や、道路が整備されていたようである。
宮殿を中心とした、城下町が気づかれていたのかもしれない。
夏王朝の時代に、青銅器は大量に作られるようになった。
斧や刀のような工具や武器。
それ以外にも、飾りや食器なども作られるように なった。
さらに、ある時期から、おそらくは酒を注ぐためであった、杯が重視され始めたという。