エリウ、ヒベルニア、アイレ。聖なる島
紀元前6世紀頃のギリシアの文献に、「インスーラ・サクラ(聖なる島)」と書かれた島がある。
ブリタニア(グレートブリテン)の西にある、その島は、ギリシア語では、「エリウ」、ラテン語では、「ヒベルニア」と呼ばれ、島の住人は「エレンの種族」と呼ばれていた。
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エリウ、ヒベルニア。
それらの名称が、後にゲール語で、「アイレ」となった。
今では、その島は、アイルランドと呼ばれている。
アイルランドの先住民族
ケルト人がアイルランドの地を初めて踏んだのは、初めて文献に記録されたのと同じ頃。
つまり紀元前6世紀頃とされている。
おそらくは、ケルト人の前から、アイルランドには、先住民がいたと考えられているが、それがどのような部族だったのかは謎に包まれている。
ケルト人達は、中央ヨーロッパから西ヨーロッパに現れた人達で、 、一時期はかなりの勢力を誇り、様々な地域を侵略したとされている。
アイルランドはほぼ間違いなく、そういう地域の一つであった。
そして侵略された他の地域と同じように、その地の先住民達の文化を取り込んだ事で、アイルランドにも、大陸とは異なる系統のケルト人が誕生することになったのだった。
アイルランドの元の先住民達に関してはほとんどわかっていないが、その言語の記録などから、おそらくはインド・ヨーロッパ語族ではないと考えられている。
巨石、円形古墳、金属の首飾り
アイルランドの各地には、人工的な要素を持つ、おそらくは死者を弔うための巨石が残されていて、それらの多くが、ケルト人渡来以前のものと考えられている。
アイルランドの先住民達は、中央に炉のある円形の家に住んでいたらしい事が、沼沢地周辺の老廃物などの調査により、明らかとなっている。
また、ミーズ州のニューグレンジの円形古墳は、 紀元前2500年頃に作られたと考えられている。
基本的に古代の廃墟には、長方形と円形のニ種類が発見されており、発掘された石器の種類などから、物々交換による交易も行われていたとも考えられている。
冶金術(金属精製や加工の技術)が、アイルランドに入ってきたのは、 紀元前2000年ぐらいとされていてる。
ウィックローの川床で採取された、砂金から作られた半月型の首飾りは、似たようなものが、ブリタニアやスカンジナビアの各地で発掘されているので、それらはアイルランドから輸出されたものでないかと考えられている。
太陽崇拝、死の女神
ニューグレンジの古墳は、冬至(一年で太陽が最も南に寄る日)の日に、玄室(古墳内部の、棺を納める空間)の奥に、太陽光が射し込むような設計となっている。
そこで、アイルランドの先住民の宗教は、太陽信仰だったという説がある。
また、古墳の石の表面に、よく刻まれた、渦巻きや、ギザギザの模様は、地中海沿岸で信仰されていた、死の女神を表現しているのではないか、という説もある。
同じような模様は、金属細工にも描かれたりしている。
エジプト製のネックレス
古墳からは、死者の副葬品ととして、聖堂と琥珀の玉で出来た、紀元前1500年頃のエジプト製のものと見られるネックレスが見つかっており、すでにその時代には、アイルランドと中東の間に交易があった可能性を示唆している。
しかし、鉄器を先に手に入れたのが、大陸側の部族であった事は、アイルランドの先住民達にとっては、おそらく不運だった。
勇猛果敢な部族であったケルト人が、ブリタニアやアイルランドにやって来たのは、紀元前6世紀から4世紀頃にかけてくらいとされている。
そして彼らは、紀元前150年頃くらいまでには、ブリテン諸島のほぼ全域を勢力下に収めたようである。
アイルランドの先住民達は、ケルト人たちに完全に吸収され、後には、古墳などの痕跡が断片的に残っただけ。
そうして、アイルランドはケルト人の国になったのだった。
ケルトの文化
ケルト人達は文字を持たなかった。
だから、古代ケルト人に関する、文字による記録は全て、彼らを敵としていたローマやギリシャの人達が書いた記録である。
そういう訳だから、文字記録では、この部族は野生的で野蛮な民族だったという記述も多い。
しかし、後世に発見された、鉄製の様々な武器(剣や槍や盾)や装身具(首飾りや腕輪)や実用品(食器など)は、彼らが実は、かなりの文化水準に達していた事を示しているとされる。
また、ケルト人は、背が高くて肌が白く、毛が赤かったという。
今日の、神話や伝承などのケルト人の典型的イメージは、彼らの勇猛さに感銘を受けたギリシャ人彫刻家が、その、戦うケルト人戦士の姿を銅像として残したものが由来なようである。
アグリコラが見ていたアイルランド
やがてヨーロッパでは、ローマ帝国が力を持ち、多くの地域が彼らに支配された。
ローマ軍の支配はブリタニアにまで及んだが、スコットランドの高地から、ヒベルニア(アイルランド)を見渡しながら、ブリタニア総督のグナエウス・ユリウス・アグリコラ(40〜93)は、なぜか侵略の手をそこに伸ばす事はしなかった。
妙な話だが、アイルランドの古代の記録が乏しいのは、ローマの侵略をなぜか受けなかったから、とも言われる。
キリストの時代
7世紀頃ぐらいのアイルランドには、150ほどの小国があり、それぞれの国が自分達の勢力を拡大しようと目論む、戦国の世であった。
フィネ(親族)とトゥア(部族)という、二つの社会的単位があった。
フィネが生活上、トゥアが政治上の繋がりで、土地を所有するのは個人でなくフィネであった。
フィネは、兄弟を含めた男子五世代という構成で、年長者が代表の家長となった。
フィネ内のメンバーの行動は全員の連帯責任とされ、誰か一人でも殺されれば、復讐はフィネとしての義務とされ、下手人が逃亡した場合は、代償を払うのは、下手人が所属していたフィネ。
女は土地を所有する事は出来なかったが、父が死んだ時に男兄弟がいなかった場合、父の所有していた土地からあがる利益を、終生にわたり受ける権利が、娘にはあった。
ドルイド教の神官
キリスト教が普及する前のアイルランドは、ドルイド教というのが広く信仰されていて、 その神官は、特定のトゥアに属さず各地を自由に移動できた。
多くの部族国家に分かれていたにも関わらず、アイルランドが文化的にはほとんど統一されていたのは、彼らの存在があったからと考えられている。
5世紀頃ぐらいからキリスト教が広まっていく訳だが、ドルイド教は姿を消していきながら、神官階級だった人達は、知識人として特権的地位を維持できた。
アイルランドにおいて、キリスト教会は、ドルイド教との対決をなるべく避けたので、詩人や学者となった元神官達は、自分達のケルト神話を、後の世に多く残すことができたと言われる。
「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
ドール・リアタ、オガム文字の発明
ローマ帝国が衰退すると、アイルランドのケルト人達は、今度は自分達がブリタニアへ侵攻した。
ブリタニアに、ケルト人植民地が多く建設され、特に、ドール・リアタという王朝は栄え、後の、スコットランド王朝の基礎となったと考えられている。
また、ブリタニアで、キリスト教を知り、ローマの影響を受けたケルト人達は、ラテン語を基礎としていると思われる、最初期のアイルランド文字、『オガム文字』を発明する。
聖パトリックの伝説
アイルランドの守護聖人とされる聖パトリックは、アイルランドから毒虫と蛇を追い払ったと言われる、伝説的な人物だが、5世紀頃に実在したとされている。
パトリックは、アイルランドにキリスト教を広めた宣教師、あるいは宣教師達の中で、最も有名な人物である。
パトリックは、ブリタニアの西部で生まれたが、16歳の時に、アイルランド人の侵攻勢力に拉致され、奴隷となった。
アイルランドに来てからは、北コノートの森で6年間、羊の番をしていたが、脱走し、異教徒の船でブリタニアへと帰った。
だが、奴隷であったとはいえ、6年も生きたアイルランドの事を忘れられず、後に宣教師となって、再びアイルランドに戻ってきたのだった。
社会の形成、王、聖職者、貴族、平民、異教徒の略奪者
アイルランドでは、修道院が力を握り、キルデアやコークといった多くの都市が、大修道院を中心に形成されていった。
王の住居は基本的に修道院そばにあり 桜の親族が 修道院長になることも 珍しくなかったようである。
王の住居地の周辺には、家臣達、騎士団や貴族や下僕や道化師や愛妾などが移り住んでいた。
修道院の聖職者達は、貴族の女子を妻とし、王の相談相手となって、権威をふるったようである。
だんだんと社会の階層化が進み、王を最上として、貴族、平民という感じになった。
聖職者はたいてい貴族出身の知識人であり、アイルランドという国の歴史記録を残したのは、ほとんど彼らだとされている。
貴族と平民の間にはあまり明確な区別がなく、単に裕福な者が貴族で、そうでない者が平民だったようである。
財を得て貴族になる平民よりは、財を失って平民になってしまう貴族の方が多かったという。
しかし裕福層の間では一夫多妻が普通だったので、貴族の子供達は多く、貴族の数が減ってくばかりという事はなかった。
また9世紀から11世紀くらいにかけて、アイルランドにやってきたヴァイキング達の影響を受け、 奴隷労働も普及したそうである。
異教徒の略奪者であるヴァイキング達の襲撃に、アイルランドは苦しめられたが、しかしそれは、アイルランドという国が一つにまとまる事になった、最初のきっかけともされている。
アイルランドがイギリスの植民地として支配された経緯「中世のアイレ」