「杉原千畝とユダヤの人たち」六千人の命を助けたビザの物語

去り行く列車

満州のハルピン学院へ

 杉原千畝(すぎはらちうね。1900〜1986)は、1900年1月1日に岐阜県の八百津で生まれたという。

 幼い頃は、英語の先生になりたいと考えていたが、父親には医者になるようにと言われていた。
それが嫌で、彼は家を飛び出し、東京まできて、バイトをしながら、大学に通い始めたのだった。
 大学を卒業し、しかしあまり仕事がなく、とうとう金も尽きてしまった頃。
外務省が留学生を募集しているという新聞広告を見て、試験を受けることにする。
霞が関 「中央省庁」一覧と役割。霞が関にて並び立つ行政機関
そして合格し、満州のハルピン学院に留学して、そこでロシア語を勉強したのだった。

外務省で働き始めて

 ハルピン学院を卒業後、杉原は外務省で、書記官として働き始めた。
やがてだんだんと外務省内での地位も上がってきたが、そのうちに、満州での日本人の中国人へのひどい態度が嫌になり、職を辞して日本へと帰国したのだという。

 杉原は1935年に結婚し、池袋の家に住むようになった。
そしてそれから2年後の、1937年の8月。
彼に、フィンランドの方で、外交官として働くよう、命令が下ってきた。
 そうして、杉原は家族とともにヨーロッパへと渡った。

 そしてフィンランドで働き始めてから2年ほど過ぎた1939年の11月。
杉原に、今度はリトアニアの領事代理になるよう、命令が来た。

 領事とは、 外国で自国民の保護や仕事の手助けをする役目。
杉原は代理とは言っても、リトアニアに赴任する外交官は彼一人なので、実質的には代理ではなかった。

リトアニア、カウナス。隣国でで起きていた恐怖

 日本領事館の置かれたリトアニアの首都カウナスは、古くさい雰囲気の街だった。
 杉原の主な仕事は、カウナスにて、ソ連関係の情報を集め、日本にそれを知らせることだった。

 この頃リトアニアの隣国であるポーランドは、ドイツとソ連の2国に侵略され、好き勝手されていた。
当時、恐ろしきカリスマ、ヒトラー率いるドイツは、強い軍事力を持って、ヨーロッパ、そして世界を侵略しようとしていたという。

 リトアニアにも、いつ戦火が及ぶかもしれない。
そんな状況だった。

命のビザの発行

逃げてきた人達

 1940年7月。
リトアニアは圧力を受けて、ソ連と合併することに決まった。

そしてこの頃からだった。
領事館の前にポーランドからやってきたユダヤ人難民達が押し寄せるようになったのは。

 ヒトラーは極端な民族主義であり、最も劣った民族であるユダヤ人に対し、ひどい迫害を加えていた。
ポーランドからやってきたユダヤ人達は、ナチス(ドイツ)に迫害されるのを恐れ、何とか外国へ逃げようと、日本を通る通過ビザを要求しに来たのだった。

 ポーランドのような、ドイツが侵略した地域では、恐ろしいユダヤ人狩りが行われていた。
とにかく、性別や年齢に関係なく、ユダヤ人は捕らえられ、連れ去られ、死ぬまで強制労働させられたのだという。

 領事館の前につめかけたユダヤ人達は、命からがら逃げてきた人達だった。

日本を通るルートで外国へ

 当時のドイツの勢いからすると、もはやヨーロッパのどこにでも、その手が及ぶ危険性があった。

 魔の手から、ユダヤ人が逃れるためには、アメリカなどの国へ渡るしかない。
そしてリトアニアにいたユダヤ人達がアメリカへ渡るためのルートはひとつ。
日本領事館から許可証(ビザ)をもらって、ソ連を東へと進む。
そしてシベリアから、船で日本に渡り、太平洋からアメリカ大陸へと向かうというルート。
 だから日本を通過する為のビザが、彼らにはどうしても必要だったのだ。

助ける事が許されない理由

 しかし、そう簡単に領事館の門を開け、彼らを受け入れるわけにはいかなかった。
当時、日本はドイツと同盟を結ぼうとしていた。
もし、ユダヤ人のためにビザを作ってやれば、ユダヤ人の迫害を続けるドイツに対する敵対行為にとられかねない。
それはつまり、自国である日本への反逆も同然。

 杉原は外務省へと電報を送った。
リトアニアの近況と、ユダヤ人がビザを求め、領事館の前に、毎日、大量に押し寄せてくる、ということを伝え、それに対する対応について、指示を仰ごうと考えたのだった。

 返事は予想通り。
ビザを発行する許可はおりなかった。

理由なんてシンプルだった

 ビザの発行は許されなかった。
杉原の権限でも、数人分程度のビザなら、勝手に書くこともできたが、 しかし領事館の前には、もうすでに何百人、何千人という人が押しかけていたのだ。

 彼はある時、妻、幸子(ゆきこ)に言った。
「もうソ連から、領事館を閉めてほしいという命令も来てる。領事館を閉めたら、後はリトアニアをさっさと出てしまえば、それでこの話は終わりだ」

 自分の家族のことを考えるなら、それは当然の選択だった。
今もしも、自国の政府にまで逆らって、ユダヤ人たちを助けたら、おそらく彼は、外交官としての職を失い、家族ともども路頭に迷うことになる。
それに、万が一、ナチスに捕まりでもしたら……。
 ほとんど見ず知らずの他人であるユダヤ人達を助けてしまったら、自分はともかく、家族まで辛い目にあうのだ。
 
 幸子はしかし、こう返した。
「あなたはそんなことできないでしょう。こんなにたくさんの人達が助けを求めてるのに、自分達だけ逃げるなんて」
杉原は、そこで笑みを見せたという。
「そうだね」
そして続けた。
「もしこの場に、100人の人がいても、危険を顧みず、ユダヤ人たちを助けようなんて考えないと思う。だけど私たちはやろうじゃないか」

不休で発行され続けた手書きビザ

 1940年7月31日。
領事館の前で集まるユダヤ人たちの前に、杉原は出てきた。
そして、鉄製の柵のそばに立ち、大きな声で告げた。
「皆さんに日本の通過ビザを発行することにしました」

 喜び抱き合うユダヤ人達。
杉原はその一人一人に、励ましの言葉とともに、手書きのビザを次々手渡していった。

 ほとんど寝もせず、食事の時間以外はひたすらにビザを書いた。
日本の外務省からは、領事館からの退去命令が出たが、そんなのは無視した。

 もともと領事館は、ソ連の情報を集める目的で作られた、ほとんど仮のものだったから、ビザの用紙もそんなにはない。
印刷された用紙が亡くなってからは、一枚一枚のビザを、何から何まで手書きで仕上げた。
 ドイツ系リトアニア人である、事務員のグッジェも、ユダヤ人を助けたいという気持ちを持って、紙を用意したり、印を押したりするのを、とにかく必死で手伝ってくれた。

 そのうちに、ちょっとでも時間を稼ぐために、ビザにつけていた番号を書くのはやめた。
外務省に、ビザの発行枚数を報告するのも、発行手数料を受け取るのもやめた。
とにかくひたすらにビザを書き続けた。

これからは、モスクワの日本大使館で

 ビザ発行開始してから1ヶ月ほど。
8月28日に、日本の外務省から、これが最後だとばかりに、カウナスの領事館を閉鎖し、ベルリン大使館へ行け、という命令が届いた。

 さすがにここまでだった。
杉原はついに、領事館を去ることを決意した。
 出発の準備をした後、モスクワの日本大使館にいた友人に、「ポーランドのユダヤ人たちが、日本のビザを求めてきたら、どうかビザを発行してあげてください」という手紙を書き、領事館には、「これからは、モスクワの日本大使館でビザをもらってください」という張り紙を残した。
この手紙と張り紙のおかげで、リトアニアではビザを手にできなかったが、モスクワでビザを手にできたユダヤ人もいたという。

あなたを忘れない。必ずまた、あなたとお会いします

 9月1日。
ベルリン行きの国際列車に乗り込む杉原とその家族を、たくさんのユダヤ人達が見送りに来た。
ゆっくりと動き出す列車。

 誰かが「ありがとうスギハラ」と叫んだ。
また誰かが「ニッポンバンザイ」と叫んだ。
 ある人はこう叫んだ。
「スギハラ、私たちはあなたを忘れない。必ずまた、あなたとお会いします」

 杉原のビザを持って、日本を通り、魔の手から逃れたユダヤ人達は、実に6000人以上とされている。

命のビザをありがとう

 戦争も終わってずいぶん経った1968年の8月のある日。
昼頃に、イスラエル大使館から、杉原家に突然電話がかかってきた。
杉原千畝に是非とも来てほしいのだという。
この時、68歳の彼は、ソ連との貿易の仕事をしていて、モスクワと東京を行き来していたが、この時はちょうど東京に帰っていた頃なので、すぐにイスラエル大使館に向かうことができた。

 イスラエル大使館で待っていたのは、ニシュリという参事官だった。
彼は杉原と会うや、一枚の紙切れを見せて、「これを覚えていますか?」と聞いてきた。
彼は杉原のビザで救われた、ユダヤ人の一人だった。

 あの時、助かったユダヤ人達はみんな、ずっと杉原の行方を探していたのだという。
しかし杉原はチウネという名前が外国人には発音しにくいと考え、センポと名乗っていたから、なかなか見つからなかったのだそうだ。

 杉原に恩のあるユダヤ人の中には、イスラエルに移住した人も大勢いた。
彼らは杉原をイスラエルに招待し、彼をヤド・バシェムという記念館に案内した。
そこはナチスに殺された大勢の人たちを追悼し、そしてユダヤ人達を救ってくれた外国人を称えるための記念館。
杉原はそこに招かれた最初の東洋人だった。

 ヤド・バシェムには、ある言葉が刻まれているという。
「記憶せよ、忘れるなかれ」

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