先スペイン時代
アメリカ大陸への人類移住と孤立
アメリカ大陸に人類が移住したのは2~4万年前の頃。
当時はまだ氷河期であり、水位が低かった太平洋北部のベーリング海峡を経由して、幾人かの放浪一族が、アジアからアラスカに渡ったのだろうとされている。
おそらくはより住みやすい環境を求め、人類はアメリカ大陸全土に広がっていく。
そうして、後にメキシコと呼ばれる事になる土地にも多くの人が住み着いた。
一方で、氷河期を終えて地球は暖かくなり、ベーリング海の氷の道は消え去り、アメリカとユーラシア大陸の繋がりは一時絶たれた。
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最初のメキシコ人
『メキシコ中央高原』に人が住み着いた時期は2万年ほど前だというのが定説である。
約2万2000年ほど前のものとされる石器が、『メキシコ州トラパコーヤ』や『プエブラ州カウラパン』で発見されている。
なので、少なくともそのくらいの時代にはメキシコ人が存在していた事になる。
(注釈)メキシコ中央高原
メキシコの中央部からアメリカとの国境までの高原。
アナクワ高原とも言う。
またアナクワ高原は、単に、高原南部のサカテカス山脈、サン・ルイス山脈より南を指す場合もある。
オルメカ文明
『メソアメリカ』とは、メキシコと中央アメリカ北西部の、マヤ、アステカなどの、関連がある程度深いと思われる文化が繁栄していた地域。
そのメソアメリカで主要な農作物となる『トウモロコシ』や『カボチャ』、『トウガラシ』などの栽培は、紀元前2000年くらいには始まっていたようである。
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農作の発展は、ある地域に定住する人を増加させる。
当然メキシコにも定住者が増え、紀元前1200頃には、ついにこの地にも文明が誕生した。
現在知られている最も古い、メキシコの文明である『オルメカ文明』は、現在の『ベラクルス州』南部から『タバスコ州』北部にかけた、『メキシコ湾岸』沿いの地域に暮らしていたオルメカ人たちが築いた文明である(注釈)
紀元前1200年には存在していたこの文明の歴史は、1000年くらい続いたとされている。
オルメカの地は熱帯で、雨が酷く、洪水がよく起きる地域。
つまり、よく土が肥え、災害対策に人が団結する必要がある、文明が芽生えやすい地域であった。
オルメカ人たちは神殿を中心とした都市を形成し、小島に築かれた大都市『ラ・ベンダ』は、全盛期には2万近くの人口を有していたという。
現在に残された、人の顔を模した石像が、どのような意味を持っていたか、よく議論される。
またジャガーの彫刻などが残されており、ジャガー信仰があったと推測されている。
絵文字や数字を刻んだ祭壇も見つかっており、そこから、すでに0の概念を持っていたらしい事がわかっている(コラム)
高度な計算術も有しており、歴も作っていたらしい。
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(注釈)メキシコ湾
アメリカのフロリダ、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスと、メキシコのタマウリパス、ベラクルス、タバスコ、カンペーチェ、ユカタン、キンタナ・ローと、キューバに接する湾。
アメリカとキューバの間のフロリダ海峡で大西洋と繋がり、メキシコとキューバの間にあるユカタン海峡でカリブ海と繋がっている。
(コラム)引き算できれば0は見つけれる
オルメカ人が本当に0を知っていたなら、インド人の発見より早い可能性が高い。
旧世界(ユーラシア大陸)の人たちは、0を発見し、受け入れるまで、バビロニアの算術、ギリシャの幾何学、インドの位取り記数法を通ってきた。
アメリカ大陸の人たちが、これらの文明と関わりがあったはずがない。
0を見つけるのに必要な数学知識の少なさを考えれば、関わる必要もない。
古代アメリカ人は、ユーラシアの人たちよりも合理主義精神が強かったのかもしれない。
もしメキシコ人が、ピタゴラスの定理より、素数より、取りつくし法よりも先に0を発見してたのだとしたら、我々はヨーロッパにでなく、アメリカに染まるべきだったかもしれない。
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一神教(ヤハウェ)、懐古主義(科学用語がギリシアとラテン語だらけ)、排他的傾向(たくさんの他文化を破壊してきた)、よくよく考えてみると、ヨーロッパ的世界はちょっと保守的すぎるように思えなくもない。
ピラミッド文化
オルメカは紀元前400年頃から急速に衰退したようだが、以降の多くのメソアメリカ文化に、その影響は残った。
先スペイン時代のメソアメリカ文化に多く見られる、「トウモロコシなどの栽培」、「0を含む数字概念と歴」、「多神教的な自然崇拝」、「神殿を中心とした都市作り」、「生け贄の風習」などは、オルメカの影響下のものとされる。
メソアメリカの先スペイン史において、オルメカが繁栄した時代から4世紀くらいまでは『先古典紀』と言われる。
4世紀から9世紀くらいまでが『古典紀』である。
オルメカ以降、紀元前の間に、『オアハカ地方』に『サポテカ文化』、中央高原に『テオティワカン文化』、そして『マヤ地域』に『マヤ文化』が誕生する。
紀元後に誕生したと見られるメキシコ湾岸地帯の『トトナカ文化』も合わせ、これらの文化は古典紀の全体にかけて、それぞれ大いに繁栄した。
特に、サポテカ族の『モンテ・アルバン』(紀元前6世紀から9世紀)。
テオティワカン族の『テオティワカン』(紀元前2世紀から7世紀)。
マヤ族の『ラマナイ』(紀元前4世紀から16世紀)、『ワシャクトゥン』(紀元前2世紀から9世紀)『ボナンパク』と『パレンケ』(どちらも4世紀から8世紀)、『ティカル』と『コパン』(4世紀から9世紀)、『ウシュマル』と『コバ』(6世紀から16世紀)、『サイール』(8世紀から10世紀)。
トトナカ族の『エル・タヒン』(6世紀から8世紀)。
これらの神殿都市で建設されたピラミッドは、現在でも残っている
。
また、基本的にいずれの文化も、かなり正確な歴を共有し、高い天文学的知識と数学知識を有していたという。
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テオティワカン
古典紀の時代、全盛期のテオティワカンは、メソアメリカ最大の都市だったようである。
テオティワカンは、4世紀頃には強力な政治機構や軍隊を備えた国家となり、他文化同士の交易の場にもなり、影響力の強い征服者にもなった。
6世紀末くらいには、その人口は20万に達していたとも言われる。
しかし650年頃から700年くらいまでにかけて、外部からの侵略によってテオティワカンは崩壊したとされている。
テオティワカン崩壊は、第二次世代文明群の終焉の序曲でもあった。
8世紀には、エル・タヒン。
9世紀にはモンテ・アルバン。
それにマヤ族の多くの都市。
とにかく、それまで栄えていた多くの文化が、次々に衰退していった。
しかし広大な地域に広がり、繁栄していたマヤ族まで、この9世紀頃という時期に衰退した事に関しては、実はわりと謎である。
疫病や戦争、農作物の不作など、いろいろ説はある。
トルテカ・マヤ時代
10世紀頃、砂漠地帯の狩猟民族であったトルテカ族が、メキシコ中央高原の侵略を開始。
10世紀末には、中央高原はすっかりトルテカ族の支配下となっていた。
ほぼ同時期、衰退していたマヤ族が勢力を再生。
この時代のマヤ族の中心地『チチェン・イツァー』の、建築物などには、トルテカの強い影響が伺えるという。
『後古典紀』、あるいは『トルテカ・マヤ時代』と呼ばれるこの時代は13世紀まで続く。
マヤやトルテカ以外にも、トトナカ族や、衰退したサポテカからモンテ・アルバンを継いだミシュテカ族など、多くの部族が新たな都市国家を築いた。
そういうわけで、北方の狩猟民族であったメシカ族、後にアステカ人と呼ばれる事になる部族が、13世紀に、メキシコ中部に広がる盆地、いわゆる『メキシコ盆地』に現れた時、すでにメキシコのあらゆる場所は、誰かが支配しているという状態であった。
アステカ帝国
1276年、メシカ族はまず、クルアカン族の支配下に従属した。
メシカ族の人たちが、後に帝国の首都『テノチティトラン』となる『テスココ湖』の小島に移り住んだのは、1325年だとされている。
15世紀に入ると、テノチティトランを中心とする『アステカ帝国』は、軍事侵攻によって、勢力を急速に拡大し、最終的にメキシコ中央高原のほとんど全てを支配するに至った。
ただしアステカの支配は緩く、侵略された国は独自の政治や宗教も許されていた。
いわば、アステカ帝国とは、アステカ人を中心とした、多部族の連合体であり、結局16世紀にスペイン人が、メキシコの地を訪れた時、その結束力の緩さが仇となった。
エルナン・コルテスのアステカ征服
スペイン人が、アステカ帝国に到来した時、アステカの人口は2500万人以上。
首都テノチティトランは、支配下の多部族から巻き上げた財や労働力によって、立派な宮殿や神殿がそびえ立てられた、巨大な水上都市であり、その人口は8万人ほどだったとされている。
帝国を侵略し、滅ぼしたのはエルナン・コルテス(Hernán Cortés。1485~1547)率いるスペイン軍だった。
アメリカにはなかった、鉄の武器や、大型の家畜を有していたものの、わずか数百程度の人数であったコルテス軍は、アステカに対し、数で圧倒的に不利であった。
しかしコルテスは、アステカに支配されるいくつかの多部族の協力も得て、帝国を打ち倒した。
テノチティトラン没落は1521年の事だったと考えられている。
そしてその没落後、スペイン人は、同盟を結んでいたはずの部族と勝利を分け合う事もなく、見つけられる限りの地域を侵略していった。
人身御供を行うアステカ文化を嫌悪していた上、蓄えられた黄金に目が眩んでいたスペイン人は、テノチティトランを初め、先住民文化を徹底的に破壊し、自分たちの新たな国『ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)』を築く事に決めた。
こうして、メキシコの地に新たに、スペイン的な国が建国される事になったのである。
植民地時代
エンコミエンダ制度
スペイン人はアメリカ大陸の植民地域に、新たに『エンコミエンダ制度』というのを導入していた。
これは一定地域の先住民を労働力として利用する権利と、キリスト教に改宗させる義務とを、征服者のスペイン人に与えるものである。
「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
征服者たちは、このエンコミエンダを大いに利用して、先住民を奴隷として酷使した。
アステカ帝国にも奴隷制度があったが、同じ言葉でくくるのを躊躇してしまうほどに、スペイン人の先住民への扱い方は残虐非道であったという。
新世界アメリカ大陸の文化の侵略は、一応キリスト教の普及が目的であった。
だが、海を越えた修道士たちが見たのは、野蛮な征服者による先住民への恐るべきほどの弾圧であった。
修道士たちの一部は、先住民を救済する事に努め、結果、1512年に、スペイン国王は、先住民の奴隷化を禁止。
たが遠く海を隔てたその勅令の効果は弱く、先住民への弾圧はひどくなるばかりだった。
スペイン人の数は少なく、先住民の数が多かった事がまた悲劇で、スペイン人にとって先住民は実に都合よい労働力であった。
良心的な少数派の努力
キリスト教は歴史的に恐ろしい悪のように言われる事がある。
しかし、そうではない。
歴史的に恐ろしいとされる行為をしてきたのは、単にキリスト教の知名度を利用した者たちであって、ちゃんとした信者ではない。
アメリカ大陸の先住民にとって不幸だった事は、この地に渡ってきた大半の者が、そのようなキリスト教を大義名分とする悪党たちだった事だ。
しかしもちろん、一部には、真面目なキリスト信者もいて、彼らは先住民を単に文化の異なる人間として扱い、時には先住民側について、残虐な征服者側と戦ったりすらした。
征服者の残虐行為と共に、決して忘れてはならないのは、先住民を救おうと尽力した少数のスペイン人たちの存在である。
例えばラス・カサス(Bartolomé de las Casas。1484~1566)という人は、エンコミエンダによって自分に与えられた先住民たちを解放し、キリスト教の普及活動と平行して、征服者の行いを徹底的に批判した。
1502年に『カリブ海』の『イスパニョーラ島』にやってきた彼が、新世界で40年にも渡って続けた努力は、『インディアス新法』という形で(少しは)実る事になった。
インディアス新法は、先住民の強制労働を禁止するもので、そこにはエンコミエンダ制度の廃止に関しても書かれていた。
先住民は、スペイン本国の王の民としての地位を与えられ、スペイン人と先住民の接触もある程度制限された。
結局の所、先住民の奴隷的扱いは続いたが、ラス・カサスのような人の行動は、先住民の正当な権利獲得への第一歩となった。
また、先住民の文化に関心を持ち、それを守ろうとしたスペイン人たちのおかけで、先住民たちの遺産のいくつかが守られたであろう事も紛れない事実だ。
グアダルーペの聖母
修道士たちの熱心な努力により、先住民にもキリスト教は普及した。
しかし先住民は土地に根付いた、元々の信仰も捨てられず、2つの宗教は時に融合した。
1531年12月9日。
褐色肌の聖母マリアが、先住民であるファン・ディエゴの前に現れたという。
マリアの出現場所は、メキシコ、『グアダルーペ』の『テペヤックの丘』だった。
このテペヤックの丘は、アステカの豊穣の女神トナンティンを祭った地だった。
この例は『グアダルーペの聖母』伝説として、キリスト教とメソアメリカ土地着の宗教の、融合例の典型として、よく語られる。
メキシコ市
テノチティトラン征服を果たしたコルテスは、水上都市ゆえの地盤の脆弱性にも関わらず、テノチティトランの破壊跡に、ヌエバ・エスパーニャの都市建設を決心する。
堤防や、水道などいくつかの都市機能は、アステカ時代のものが破壊されずにそのまま採用された。
スペイン人地区とインディオ(先住民)地区に分けられた市街地。
建設された新たなヨーロッパ的都市は、前にこの地を支配していたメシカ族の名より、『メキシコ市』と名付けられた。
用水路に囲まれた四角形のスペイン人地区には、教会や住宅、スペインから派遣されてきた新たな権力者である副王の宮殿などが立ち並んでいた。
先住民の報復に対する恐れから、壁に守られ、まるで要塞であったという。
真の権力者
武力による征服も一段落し、スペイン人移住者の数が増えてくると、メキシコ市以外にも新たな街が次々に建設されていった。
新たな対立も生まれていた。
それは自らの力で土地を先住民から奪い取った征服者と、スペイン本国からのより有力な権力者との対立である。
結局の所、ヌエバ・エスパーニャ、つまりメキシコは、スペインの植民地であり、多くの財がスペイン本国へと渡った。
また、先住民よりはマシだったとはいえ、『クリオーリョ(植民地生まれの白人)』も、多少差別され、スペイン本国からの移住者に比べると、あまり高い身分に就くのは難しかった。
メスティーソ
先住民の都市はたいてい破壊されたので、彼らの多くは農村の質素な暮らしに帰るしかなかった。
しかもスペイン国王に仕える民と認められたせいで、税を払う義務を持ってしまったのである。
法的にはスペイン人に次ぐ立場にあるはずなのに、都市にも住めず、その平均的な生活水準は、白人に連れてこられた黒人奴隷たちよりも、低かったとされている。
微妙な立場にいた『メスティーソ(先住民と白人の混血)』も、たいてい多くが、白人たちへと歩みよったので、先住民とスペイン人の仲介役にはならなかった。
メスティーソの数は増えていったが、その社会的地位はどんどんと下がっていった。
アステカが征服された頃くらいの時代は、新世界に来たスペイン人は男ばかりだったから、必然的にメスティーソはスペイン人の父と、先住民の母の子であった。
植民時代初期の頃は、メスティーソはたいていスペイン人の父の裕福な財産を継ぐ事は出来た。
しかし征服後の都市開発が進み、スペイン人女性の移住者が増えてくると、裕福層のスペイン人は、結婚相手を同じスペイン人にする場合が多くなった。
結果、メスティーソは、あまり裕福でない家庭の子という事が多くなり、肌も真っ白でない事がたいていだったので、その地位はどんどん下がっていったわけである。
ドローレスの叫び
18世紀。
クリオーリョ、メスティーソの話す言葉は、基本的にスペイン語だったが、先住民の言葉もずいぶん混ざっていた。
植民地メキシコの真の支配者であった、スペイン本国生まれのスペイン人は、そういう、先住民的な部分を嫌っていた。
なので、先住民の要素も持ったヌエバ・エスパーニャに愛着のあるクリオーリョ、メスティーソは、自分たちはあくまでメキシコ人だという意識を強めていた。
また同じ大陸にあった北アメリカのイギリスからの独立も、メキシコ人たちを刺激した。
「アメリカの独立」宣言書、13の州、先住民、戦争により自由を
19世紀に入ると、独立運動もはっきりと始まった。
例えば1810年9月16日の、バヒオ地域にて発生した、『ミゲル・イダルゴ神父率いる独立軍の武装蜂起』などは、その典型である。
クリオーリョであるイダルゴ神父(Miguel Hidalgo。1753~1811)が、『グアナフアト州ドローレス』の教会で、メスティーソと先住民含む同士たちに説いた武装蜂起への決意は、『ドローレスの叫び』と呼ばれ、現在では、『メキシコ独立革命』の本格的な始まりとされている。
独立国メキシコの時代
メキシコの独立と、先住民の立場
イダルゴ神父は結局、捕らえられ処刑されたが、彼が火をつけた、独立派の動きは止まなかった。
イダルゴ亡き後は、『ミチョアカン』出身で、彼の秘書役をひきうけていたロペス・ラヨン(Ignacio López Rayón。1773~1832)。
具体的に独立を見据え、実施される事はなかったが、242ヶ条から成り、身分制の廃止や三権分立、私有財産の保障などについて書かれていた『アパチンガン憲法』を発表していた、メスティーソの司祭ホセ・マリア・モレロス(José María Teclo Morelos。1765~1815)。
『サカテカス』出身のクリオーリョで、モレロスの側近としても活躍した、神学者のホセ・マリア・コス(José María de Cos。1770~1819)。
などが後を継いだ。
1815年12月にモレロスが処刑された後、独立派はいくつかの勢力に別れ、ゲリラ活動を続けた。
『イダルゴ州アパン』出身のホセ・フランシスコ・オソルノ(José Francisco Osorno。 1769~1824)率いる勢力。
ロペス・ラヨン率いる勢力。
『メキシコシティ(メキシコ市)』出身のマヌエル・ミエール・イ・テラン(Manuel Mier y Terán。1789~1832)率いる勢力。
そして、後に独立したメキシコの初代大統領となるグアダルーペ・ビクトリア(Guadalupe Victoria。1786~1843)率いる勢力。
メキシコの第2代大統領となったビセンテ・ゲレロ(Vicente Ramón Guerrero Saldaña。1782~1831)率いる勢力などである。
結局、1821年に、独立は達成されたが、新しい独立国メキシコは、イダルゴ神父が目指していたとされるようなものではなかった。
クリオーリョ、メスティーソ、先住民の平等化はなされず、メキシコ内の社会階層は、独立前のものがそのままに残されたのである。
先住民にとっては、大して変わりはなかった。
ただトップがスペイン本国のスペイン人から、メキシコのスペイン系に変わっただけだったのだ。
むしろ独立により、先住民の立場はさらに悪いものになったと考える向きもある。
なぜなら、もともと先住民は法的には権利をしっかり有し、スペイン国王の名の元に、ある意味では(贅沢な暮らしさえ望まずにいたなら)保護されていたとさえ言える。
だがメキシコが独立した事によって、先住民は国王の庇護を失ってしまった。
早くも1829年に、メキシコで奴隷制が完全に廃止された理由は、「そもそもメキシコには先住民という安く扱いやすい労働力があったから」とさえ言われる事が多い。
アメリカの驚異と6人の英雄少年
独立を達成したメキシコだが、その国土の広さゆえの、植民地時代のいくつかの地方の繋がりの弱さが、すぐに分裂の危機へと繋がる事になる。
1836年にテキサスが独立し、世論が予想していた通り、1845年3月にテキサスはアメリカに統合された。
アメリカという国は、メキシコにとっては、先にヨーロッパから独立した先駆者であり、独立後の最大の驚異でもあった。
独立すると見るや、アメリカがすぐにテキサスを取り込んだのは、ほとんどメキシコへの宣戦布告と言えた。
1846年から1848年にかけて続いた『メキシコ・アメリカ戦争』は、初めから勝敗の見えた戦いで、番狂わせもなくメキシコは敗北。
結局メキシコは、北側のかなりの領土をアメリカに明け渡す事になったのだった。
そしてこの戦争は、メキシコに新たな傷跡と、強い反米感情を残す結果となる。
また、チャプルテペックの丘での攻防戦にて、士官学校の生徒6名が、死ぬまで抵抗を続けた事件などは、『英雄少年』の話として、語り継がれている。
レフォルマ戦争と、初の先住民大統領
独立後も、メキシコは、真の平等を求める者と、そうでない保守派との間で揺れた。
そして1858年、対立はついに、『レフォルマ(改革)戦争』と呼ばれる内戦にまで発展する。
3年にも及ぶ戦いに勝利したのは自由派の勢力だった。
自由派勢力の指導者であったベニート・パブロ・フアレス・ガルシア(Benito Pablo Juárez García。1806~1872)は、先住民のサポテカ族であった。
彼はレフォルマ戦争の後、選挙にてメキシコ初の先住民大統領となった。
このフアレスという人物はなかなかに凄い人である。
オアハカ州サン・パブロ・ゲラタオの先住民の農家で生まれた彼は、両親をわずか3歳で失い、12歳までトウモロコシ畑の見張り番として働いた後、よりよい生活を求めてオアハカへと向かった。
オアハカに来たばかりの頃は、スペイン語すら話せなかったが、彼は熱心に勉強し、1834年に弁護士、1842年に裁判官、そして1847年にオアハカの知事となり、さらにアメリカへの亡命など、紆余曲折を経て、ついには大統領にまで上り詰めたのである。
レフォルマ戦争後、新生メキシコは、ナポレオン三世のフランス軍の(治安の悪かったメキシコでの外国人被害に対する賠償の遅延などが理由とされる)侵略を受け、1863年には首都メキシコシティを占領されてしまう。
しかしフアレス率いる新政府勢力は、ゲリラ戦を重ね、1867年にはメキシコシティ奪還に成功。
フアレスは大統領に再選して、(翌年に急逝したものの)治安の向上や、経済発展などに尽力。
偉大な建国の父として、その名を後世に残す事となった。
メキシコ革命とは何だったのか?
フアレスとその後の一代の後、大統領となったポルフィリオ・ディアス(José de la Cruz Porfirio Díaz Mori。1830~1915)は、1876年から1911年までの、実に35年間もの長期にわたって大統領を務めた人物である。
野心が強く、時に政敵の暗殺も辞さなかったらしい彼の、長きにわたる独裁政権の間に、メキシコは工業事業の拡大、鉄道などのインフラ整備など、近代化の道を歩んだ。
しかし一方で、格差社会の問題は続き、労働者の増加とともに、ストライキも相次いだ。
自由を求めたはずの国において、有無を言わさぬ独裁体制を築いたディアスの政府への反発も徐々に高まり、ついにそれは新たな革命へと繋がっていく事となる。
それは1910年から1940年までの『メキシコ革命』である。
しかし、政治や経済を混乱させた革命期の後に残されたメキシコは、あまり革命前と変わらぬ格差社会であり、「その革命に意味があったのか」どうかがよく議論されるほどである。
だが間違いなく意味はあった。
この労働階級の一大蜂起には、伝統的に社会的地位の低かった先住民や女性たちも多く参加していた。
いわばどさくさに紛れて、自分たちの地位向上に努めた人たちがいたのである。
当時のメキシコにおいて女性たちの社会的地位は低かったが、この革命期の間に、例えば女性側が望んだ場合の離婚などが許されるようになったのだ。
また、抑圧され続けてきた先住民も、ここにきてようやく国家レベルで認められる事となった。
メキシコは、その国家像に、先住民とその文化を、はっきりと組み込み、メキシコの大切な誇りとしたのである。