多くの論争を巻き起こしてきた理論
1972年に、スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould。1941~2002)とナイルズ・エルドリッジ(Niles Eldredge)が提唱した『断続平衡説(Punctuated equilibrium)』は、生物の進化に関する説の1つで、多くの論争の原因になったとされている。これはまた、個人的には、どのくらいに真実をついているのかもそれほど関係なく、少なくとも生物という現象がこの宇宙で、普通に考えられてるくらいにあるならば、非常に重要な理論であろうと思う。
化石記録の不完全さを素直に受け止める
断続平衡説は、簡単に言えば、生物はかつて考えられていたように徐々に様々な変化を遂げていくのではなく、定期的に急激な(そして重要度が高く、全体への影響力が強いような)変化を行うものかもしれないというもの。
これは、様々な化石が見つかる中で、ある生物と生物の中間種的なのがなかなか見つからないとか、ある程度近しいグループは地質学的な時間で言うとほとんど同時期に一斉に現れてるかのように思えるとか、従来は化石記録の不完全さのために見られるとされていたパターンを、より素直に説明できる理論である。
その種が存続していた期間が、その変異前後の(化石が見つかりやすい)生物に比べて、ごく短い期間だったとすれば、変化途中の生物種が珍しい理由は納得できる。
理由はともかくとして、大絶滅により多くの種が一斉に失われた後、ニッチ(生態系の空白地帯)がすぐに埋められるように思え、しかしその後の繁栄した生物たちの安定性の高さ(を感じさせるような、相対的に豊富な記録)も。
短い期間と書いたが、当然のことながらここでいう短い期間とは地質学的年代区分における短い期間である(地質学の領域では、1万年でもごく短い期間)。また大絶滅という現象自体に関しては、断続平衡理論の要素として取り入れることができるのかどうか、実際のところかなり微妙なものかもしれない。
重要なのは、そのような現象が進化の歴史の中で起きていること自体より、なぜそれが起きているのかである。あるいはそれが起きているようなデータは、どのようにして発生しているのかだ。
新種はなぜ突然出現するか。その後はな変化が少ないか
断続平衡説は、新種は地質学的な意味で「突然出現しているみたいに見えること、出現した種がその後はあまり変化を見せない(均衡状態が続く)事が、化石記録の不完全さのためでなく、そもそも進化理論から予想できる通りだとする。
ダーウィンは前提として、漸進的な変化というものを念頭においていたとされている。地球生物は、進化理論による変化、分岐によって、多様性を獲得してきたわけであるが、少しずつの変化が、世界中の様々な環境に適応した生物種を出現させてきた。そういうふうに考えると、多様性を獲得するために必ずあったはずの進化という現象と、実際に現在の動物をいくら観察しても、世代ごとの大きな変化なんてほとんど確認できない事実を両立できるから。
地球にとても長い時間があったなら、少しずつの変化でも、蓄積されて相当な多様性を生み出せるはずと。
しかしこの世界観では、変化のパターンが(少なくともよく見られるパターンとして)かなり連続的なものとして見られるはず。例えば近い隣同士の時代の、しかし同系統の別種同士を見比べた場合、ほとんど違いがわからないかもしれない。しかし十分な期間を空けてから、同じ系統の別種同士を見比べた場合は、不連続的な繋がりみたいに見ることもできる。化石記録の不完全さは、普通そういう長い期間を空白としているから、少しずつの連続的な変化が、そこそこ不連続的な変化みたいに見えるのだろう、というのが従来の進化論の考え方であった。
普通、断続平衡説を肯定的に論じる者は、(仮にこの世界に、ダーウィン的な漸進的進化理論が適用できるというなら)いくらなんでもこの化石記録の不完全さが異常ではないかと疑う。
グールドとエルドリッジが提唱した世界観においては、種分化そのものが、あらやる進化的変化の要となる。種分化の起こりかた自体、化石記録の状況、突然の出現と、長い静止的な期間の存在も予測する。
周辺部、片隅の小グループの領域
断続平衡説は、定期的な創造が行われているとかでなく、ダーウィンの自然淘汰の直接的な作用が基本的には漸進的であるということも否定しない。
実際、変異の蓄積(つまり進化)は直接的に見る場合は、もしかしたら常に、少しずつ進むしかないものなのかもしれない。
ただし、「少しずつの進化」というのは、小さな単細胞生物に対して、大きく複雑な生物に相対的に見られる速度の違いであるだけかもしれない。微生物の進化速度は目に見えるサイズの生物群に比べると早いという観察結果は多い。微生物とまでいかなくても、世代交代の早い虫などは、相対的にもっと大きな動物よりも進化速度が早いとされている。これは本質的には、世代交代の速さのためというよりも、全体の構造としての要素の少なさのためだろうと思われる。世代交代の度に少しずつどこかの要素に変化があるとして、大量の要素で構成されている生物ほど、当然のことながらその影響が表面上は少ないだろう。どのような観点から見るかということが重要かもしれないが、しかし少なくとも、動物から見たたいていの生物世界のパターンでは、やはり変化(進化)は少しずつゆっくりと進行している、と考えてよいのでないかと思う。
しかし少しずつ部分的な変化を続けるのだとして、それが環境の変化よりも十分ゆっくりであるのなら、そうした変化の中で特に有益と考えられるようなものが、個体群の中に定着するよりも先に、変化していく環境(言わば自然淘汰の圧力の方向が変化するために)ある変異の有効性は消されてしまうかもしれない。そういうことがよくあるなら、大きめな個体群における系統の中での変化は、実質的に珍しいということになっておかしくないだろう。
化石記録の中で、たくさんの要素のどれかが残りやすいだろう、大きな生物に関して、重要な変化が珍しいように見えるというのは、これで納得しやすいはず。
一方で、周辺部に散在する小グループ群というものを考える。そういう生物グループは、母体の系統から切り離され、限られた地理的分布にこそこそ生きてたりすると考えられる。しかしそのような限られた環境でしか生きれない生物が生息するような限られた環境というのは、普通は淘汰圧が強いものだろう。淘汰が弱めで比較的安定しているような地域を勝ち得た生物群は、そこで遠慮なく繁栄できるからこそ、数が多いとも考えられる。
当然、淘汰圧が強いところに住む、つまり限られた小グループは、有益な変異が広がりやすい。相対的に進化がとても早くなりがちと予想できる。
グールド自身、そのような、生態学的許容限界に近い環境の隔離集団は、言わば「進化的変化の実験室のようなもの」と語った。
基本的に重要な進化が、周辺部の隔離集団における種分化と想定できるなら、そして普通に、繁栄度の高さから化石の見つかりやすさを考慮するのなら、その時々の時代でよく発見される種は、比較的静止的であるはず。一方で、限られた環境で大きく変異してきた生物が、大絶滅などのために生じた隙をついて、安定環境にその手を伸ばしてきた時、まるで、それまでとはかなり異なっている生物群が(化石記録的には)一気に出現したかのように見られてもおかしくないはず。
地球は誕生から45億年くらいとされ、初期の生命体は、30億年以上前からすでに痕跡を残しているとされている。多細胞生物の誕生に関しても、もしかしたら20億年くらい前で、カンブリア紀(Cambrian period。5億4200万年前~4億8830万年前)には、もう普通に動物といえるような生物が地球の海に溢れかえっていたのは、有名な話である。
そして例えば、隔離集団が新種を生み、新種が形成される過程が数千年か数万年の時間スケールなのだとすると、それは1000万年以上あるとされる無脊椎動物の化石種の平均存続期間の1パーセントにも満たない。一般的な地質学的スケールでは、これはまさに断続的な模様を見せると考えられる。
断続平衡説は、もしかしたら修正がしやすいような理論かもしれないが、典型的パターンは、ここまで説明した感じと思う。
断続平衡説は漸進的進化論の亜種か
確かに普通、断続平衡説の論者でも、特に重要な要素である自然淘汰による変化は、結局は漸進的なものとして考える。
しかし還元論的な世界観を嫌って、複雑性を好んだグールドが、時にそういうふうに説明したように、システム全体を見て理解するということは、全体を見ることであって、バラバラにした要素をそれぞれ見ていくことではないのではなかろうか。だからこそ「定常状態(ステディ・ステート)にある複合系」というような言い方ができるわけである。
究極的に見れば、種にかかるような自然淘汰による漸進的な変化も、(おそらく我々の誰もまだ見つけられていないし、もしかしたらそんなもの無いと言えるのかもしれないけど)もっと細かな要素に分けた時、実は「結構突発的な要素ばかりの絡み合いによる結果」とか判明したりもするかもしれないだろう。断続平衡説は、進化論が適用される世界観そのものに見られる現象を扱っているような理論とも言えると思う。そういうふうに考えるなら、これが単純に「漸進的進化論の亜種にすぎない」みたいな言い方、少し難しくなるのでなかろうか。
創造論者がそれを引用する時
時に断続平衡説は、従来の進化論を完全に否定する根拠として反進化論者に持ち出されることがあるが、それは普通におかしい。
断続平衡説は、進化論の否定ではなく、それが適用された結果の世界観についての従来とは異なった説明である。従来の進化論的世界では、説明が難しい化石記録の問題に関して、「こう考えれば問題なくなるだろう」というような提案とも言えよう。
いずれにしても、進化論を否定するような理論ではない。自然淘汰という要素を個別に見た場合に、その漸進的な影響すらも普通は特に否定したりはしない。
この説を、反進化論の文脈で、進化論者たちの致命的な混乱として引用する創造論者は、大きく勘違いしている。
進化の方向性の問題
従来のダーウィン的世界観でも、断続平衡説を適用した世界観でも、個々を浮き彫りにした時に見れる進化そのものの方向性は無方向であるというのが、今は一般的とされている。
例えば、古くは生物というのは基本的に大型化していく傾向にあると考えられてきた(『コープの法則』と呼ばれている)。理由として、例えば生態系の中で食物を独占するには大型化が一番だとか、そういうことが考えられる。しかしそうした法則、錯覚である可能性がある。
グールドは『フルハウス 生命の全容』という本で、面白い例えを示している。
メジャーリーグにおいて、四割打者(野球において、1シーズンの打率が4割を超えている打者)はかつてに比べると減少傾向にある。それは一見すると、打率4割を超えることができるほど優れた選手がいなくなってしまったようにも思える。
しかし、打率4割を超える打者が毎年どれくらいいるかということばかりを考えていては、これに関する真の答えは出せない。メジャーリーグ全体を見れば、その理由が浮き彫りとなってくる。
ようするに、様々な戦略などが開発されて全体のレベルが上がり、かつてのような才能ある選手がいても、4割打率を超えることが難しくなってしまった。
上記のような例は、人間の能力に限界があるからこそ起こりうる。いい練習法などが確立されれば、多くの人のレベルが上がるだろう。そして練習などほとんど関係なしにものすごい才能ある人がいたとしても、人間の能力自体の壁があり、最高レベルは決まっているようなもの。
かつて、レベル100(最高)の選手は、レベル20ばっかしの人たちの中で大活躍できたが、平均レベルが70くらいになった今となっては、かつてほど大活躍はできなくなってしまったというような感じ。
人間の身体能力のような限界がある領域においては、全体のレベルの向上は、最高レベルの領域を地味にさせる傾向がある。
グールドは、生物の変異という領域はこれの逆なのかも知れないと説いた。時に生物は大型化するのに小型化しないということが指摘されることがある。だがそれは小型化に限度があるための現象にすぎない。
生物は様々に変異する。時々は大きくなる。そして我々はその大きくなった一部の連中の仲間であり、小さいものが見えていないためにそれが全てだと勘違いしてきたというわけだ。
複雑な生物は脆い
比率で言うなら、小さな生物の方が大きな生物よりも圧倒的に多いのが、この目に見える領域というのが、一部のニッチでしかないということを示唆している。
また、目に見える領域とは、多細胞生物の領域と考えても問題はないが、ごく一部この世界には目に見えるくらいの大きさの単細胞生物がいるらしいことは注意である。
爆弾などの武器を使うにせよ、何らかの自然災害を引き起こすにせよ、とにかく何かの悲劇があった場合、生き残る可能性は、常に複雑な生物よりも単純な生物の方が高そうである。この場合の生き残るというのは、例えば1匹の虫と人間とが同じ圧力を受けて、どちらが長く耐えられるかというような話ではない。地球に大異変を起きたとして、人類が絶滅するのが先か、細菌が絶滅するのが先か、というような話である。細菌が全て死滅するよりも、人間が先に絶滅しないと考えるためには、よほど特殊なシナリオが必要になると、普通は考えられている。
複雑な生物が死にやすい理由に関しては、やはり複雑な存在は、いくつもの要素が重なりあっている存在だから、と考えやすい。石ころひとつだけならばとても固いが、石ころを1000個くっつけたものなら、少しバランスを崩しただけでもあっさり崩れ去ることがある。
たいていの人は経験的にも知っているのではないか。複雑なものの方が、単純なものより簡単に壊せると。
具体的なシナリオ
生物は様々に変異するが、時には巨大化や、複雑化をする。それは、各生物の繁栄の比率から考えるに、いくつもある可能性の中の1つがランダムに起こった、ちょっとした結果にすぎない。しかし、そのように大きく複雑に変異した生物は何らかの大災害があった時にあっさりと滅ぶ。
そのような何らかの大災害、例えば隕石の衝突とか、火山活動の活性化とかがあった場合、一旦複雑な生物たちは数を大きく減らす。
「火山とは何か」噴火の仕組み。恐ろしき水蒸気爆発
そして大異変が落ち着いてくると、再び目に見える領域が安全となり、一部の生物が複雑化してくる。結果、我々が認識するような大きく複雑な生物ばかりに注目すると、やはり断続平衡説を示すようなデータが現れる。
一度形成されたニッチには、ある程度の保存性があるのかもしれない。そう考えると、一度複雑巨大な環境が形成された後からは、絶滅後にまたすぐそういう生物が現れてきたことの説明になる。
絶滅前にあった領域のニッチまでは、すぐにまた再現される。そこからランダムに、それよりもさらに上の段階へと進むこともある。我々が時代を進むごとに、どんどん複雑高度になっていくようなイメージを受けるのは、そのためであろう。
だが実際、大絶滅の時期に、一時的に大打撃を受けたニッチの保存性はどのように保たれているのか。それに関して、上手く説明することはどれくらい難しいだろうか。
しかし、もしも断続平衡説が正しく、かつ絶滅前に存在したニッチがまったく保存とかされていないなら、確かに複雑な生物は特別なのかもしれない。あるいは、複雑な生物が誕生する以前は、恐ろしく運が悪かったか。または、最初に複雑な生物が誕生して以来、幸運な時代が続いているのか。
大絶滅をどう説明できるか
今では、隕石衝突という原因とセットで、白亜紀(Cretaceous period。1億4500万年前~6600万年前)の末に大絶滅が起こったことはよく知られている。
どのような原因にせよ、もしも時々の大絶滅という現象が、長く続く生物世界には付き物なのだとすれば、生物進化システムと合わせて考えた時、断続平衡説の説得力を増やすかもしれない。
グールドは、白亜紀末の大量絶滅に関して、ルイス・アルヴァレズ(Luis Walter Alvarez。1911~1988)が隕石衝突説を唱えた初期の頃からの支持者らしい。
実のところ、アルヴァレズ以前、大絶滅という現象はあまり人気のあった説ではなく、地球外の要因による生き物絶滅という仮説は、ちょうどいいタイミングで提供された、断続平衡説に有利な事実だったようだ。
恐竜の絶滅に関しても、その時代の終わり頃に大量の種の消滅があったわけでなく、実際のところは、その時代の終焉に向かって、徐々に徐々にさまざまな種が絶滅していったのではないか、という考え方も、よくあったという。
シニョール・リップス効果
まず、伝統的なダーウィン的世界観は、種の絶滅と、その絶滅した種のニッチに新たな種が入ってくるというような(多様性の広がりというよりも、多様性の入れ替わりというような)現象に関しても、漸進的であることを基本的前提としていた。実際、アルヴァレズが隕石衝突による大規模な絶滅を提唱した時も、多くの古生物学者がなかなか受け入れなかったらしい。
例えば、地球のような惑星では時々、周囲の宇宙環境がもたらす影響が、多数の生物に致命的影響を与えるというのなら、それは、多くの種が時々、生態系から一斉に失われるということを意味している。
問題は、大絶滅の事実は、仮にそういうことが地球に何度もあったのだとしても、やはり不完全とされる化石記録からは読み取りにくいということ。
多種多様な種の、一部は数が多くて、化石として後世に残りやすい。一方で、数が少なかったり、あるいは化石化しやすい部位が少ないなどの要因で、化石になりにくい種もいる。
結果的に、化石が発見されやすい種は、数センチメートルごとに見つかるが、数メートルごとでもなかなか見つからないかもしれない。単純な確率的に、見つかりやすいある種と、見つかりにくいある種は、たとえそれらが同時期に絶滅したのであっても、発見された地層から読み取れる一番新しい時代が、十数メートルとかズレる可能性もある。すると実際には絶滅時期が同じであるにも関わらず、当然異なった時代に絶滅した種であるという予測がなりたってしまう。
化石記録の不完全さのために、実際には段階的な絶滅が、あたかも前進的であるかのように見えてしまう現象。これは、そうした現象について、数学的に検討した古生物学者フィリップ・シニョール(Philip W. Signor)とジェレ・リップス(Jere H Lipps)の名を取り『シニョール・リップス効果(Signor–Lipps effect)』と呼ばれたりする。
シニョール・リップス効果は、ある分類群の最も若い既知の化石のために絶滅時期が勘違いされている場合を説明する。一方、当然のことながら逆に考えて、ある分類群の最も古い既知の化石から、出現時期が勘違いされるという場合もありうる。そちらの場合に関しては、地層学研究に大きな貢献をしたバルダー・ジャヌソン(Valdar Jaanusson。1923~1999)にちなんで、『ジャヌソン効果(Jaanusson effect)』と呼ばれることもある。
ジャヌソン効果はまた、単にSignor-Lippsの綴りを逆にして、『スピル・ロンギス効果(Sppil-Rongis効果)』とも。
恐竜は徐々に数を減らしていたのか
アルヴァレズ仮説は、それまで誰にも気づかれなかった理由として、まさしくシニョール・リップス効果を示唆していた。
問題は、シニョール・リップス効果のための勘違いを、なんとか打開する方法。隕石衝突説の証拠が増えてくると、ますますそれが問題になってくる。
いろいろ巧妙な方法はあるだろうが、最も有効だろう方法は、深く考えるまでもなく明らかなことだった。ただそれはかなり面倒くさいものだった。
つまり、発見がまれなために、本来絶滅した時期よりも以前に絶滅したと勘違いされていると思われる種がいるなら、実際に大量絶滅、つまりは隕石衝突が起こった地層とか境界を徹底的に探せばいいだろう。しっかり探しても、件の種が見つからなかったなら、さらにあらたな問題となるかもしれないが、発見されたなら、やはりシニョール・リップス効果だったと納得できよう。
つまり、縦ばかりでなく、横にもっと探せということだ。(普通、科学的だとか、賢い方法とされている)干し草の山から1本の針を探す方法を求めてる暇があるなら(それが出来ずに勘違いしてたのだから)、干し草の山から1本の針を探せ、と。
実際、隕石衝突説に反対していた著名な古生物学者の中にも、もっとよく探すことで、実際にはある時期に絶滅していたと思っていた生物が、もっと後に他の大量の種と一緒に絶滅していることを発見し、衝突説に転向する人もわりといたようだ。
そもそも隕石衝突で絶滅したことが最も有名な、恐竜とかいう生物種も、アルヴァレズが説を提唱したばかりの頃には、反論の根拠として持ち出されていたという。隕石衝突の地層から最古の恐竜が見つかるのは、3メートル分も昔の地層であるからと。確かに、恐竜が隕石で絶滅したという仮説は、巨大な隕石が衝突したと思われる時代よりも以前に、すでに恐竜が絶滅したという事実があったのなら、お話にならない。
だが恐竜も、よく発展される海生生物に比べると化石の数は少ない。つまりここでも、シニョール・リップス効果が考えられる。
ではどうするかというと、やはり徹底的に探すしかなかった。
幸いにして、恐竜に関しては熱心なファンやアマチュア研究家が多くいるために、人海戦術が現実的であった。
ミルウォーキー市民博物館のピーター・シーハン(Peter Sheehan)などは、主に市民ボランティアで構成されたチームで、つまりは「恐竜をみんなで掘ろうプロジェクト」を実施。参加者の市民は、プロの発掘屋から指導を受けた後、(地層特定のために)地質学者を1人伴って、定期的なフィールド調査をチーム単位でそれぞれ行う。もちろん全員が、白亜紀の恐竜化石を探すという目的を共有する。
そして1991年の末に、シーハンは調査結果を発表。彼は、地層を三分割した上で、3つの時期それぞれに統計的に意味のある変化が存在しないことを示し、つまりは「恐竜という生物群が、白亜紀末に近づくにつれ、数を減らしていたとという仮説」を否定した。
その事実は、大絶滅という現象の重要な根拠にもなった。
偶然性、偶発性はどう関係しているか
進化が無方向的であると言う時、環境とか考慮しないで、ただ純粋に変異だけを見たなら、変異後何が変わったのか、その結果は完全にランダムなものと言えると思われる。
偶然、何を偶然と表現すべきか。それは変異を生む作用だけでなく、進化的変化の別の動因にもなっているのかもしれない。
外的要因のための大絶滅などを、理論説明に含む場合、断続平衡説としては、偶然性を重要に見なければならないかもしれない。
ただし、偶然性は進化的変化に関係してはいても、直接的な自然淘汰の影響下にある、つまり漸進的適応という原理領域には、結局あまり関係がない。
効率に優れた生物の特性や、生息環境に都合のよい形体などは、完全に偶然な結果とは、かなり言えない。得られた性質のおかげで生き延びることができる生物種は幸運と言えるかもしれないが、生き残る特定の生物種自体は、基本的には自然淘汰が決定したものと言える。
ランダム(無方向)の変異、次世代を決定する自然淘汰、そして定期的な大絶滅をもたらすのかもしれない外的要因。これらがいずれも、存在するにしても実は存在しないにしても、一緒くたにするのは誤解のもとである。それらの要素をすべて含んだ断続平衡説が、事実考えられるとして、自然淘汰に関しては偶然と表現するのは難しい。
大絶滅の原因は、生物の多様性の中で、あるいは複雑な宇宙の環境の中で、そして長い時間の中で、どうしてもどこかで起こる。ずっと安定しているものは、宇宙のシステム的にほぼありえないだろうから。というふうに考える時、例えば、しっかりと(もしかしあら賢くなるという)進化をする暇もない(地質学的には短い時間の)まま、テクノロジーを急速に発展させてしまい、強力な武器を作ってしまうことだって、例えば核兵器のようなものを作ってしまったことだって、大絶滅の原因になってしまうだろうか。
カンブリア紀の爆発とワンダフルライフ
グールドの一般向け書籍である『ワンダフルライフ』は、カンブリア紀という時代と、ハルキゲニア、オパビニア、アノマロカリスといった、その時代におけるいくつかの生物を、とても有名にした1冊とされている。
ただしそのカンブリア紀の生物に関する謎解きの歴史や紹介とともに、平行断続説と関連している、生物の歴史への偶発性の影響などというような視点も、よく紹介されていると思う。
普通、多様性の基準は2つ考えられる。
あるグループの中の異なる種の数という意味での多様性。もう1つが、解剖学的な設計のちがいの多様性。特に後者は、遺伝学的な研究が進んだために、むしろ重要になった感もある。遺伝学を基準にして生物群を分ける場合、例えば硬骨魚類(例えばシーラカンス)は、軟骨魚類(例えばサメ)よりも、哺乳類に近しい分類というように考えられるが、具体的な設計的にはどう考えられるか。
グールドは特に、カンブリア紀の生物を多く保存したバージェス頁岩の動物群の見直し研究が、当時の形体デザインの驚くべき多様性を示しているとした(ただしたいていの場合、彼の考えは大げさすぎだったたと、今は考えられている)
彼が「ワンダフルライフ」で発想している、やはり断続平衡的な世界観は、(結局のところ、たとえそれが的外れだったのだとしても)とても面白く魅力的である。
おそらく地球の歴史の中で、生物種の数という多様性は、ほとんど常に増大してきた。実際、種数を基準にするなら、バージェス動物群(カンブリア紀の動物群)の多様性は高くない。しかし、もしかしたら解剖学的設計の多様性に関しては、現代よりもカンブリア紀の方が高かったかもしれない。
だとするなら、非運的な多数死、つまりこれまでに起きた大絶滅は、デザインパターンの数を減らす現象と考えられるのかもしれない。種数は増えるのに、生物の解剖学的デザインは減少するものかもと。
そういう世界観を許容するには、現生生物の解剖学的な特徴について、設計プランの広い共有があると想定する必要があろう。現生種の記載されている動物種の8割近くが、そのいくらかの形体を共有する節足動物だという事実を、グールドは挙げているが。
門の一斉出現はどんなにかワンダフルだったか
ところで形体の複雑性というものをどう区別すべきか。
生物の分類階層の区別は、普通はより本質的な違いの度合いごとに、階層が用意されている。
つまりドメイン(domain。細胞構造レベルでの違いで、全ての多細胞生物、目に見える生物は、基本的に真核生物というドメイン)>界(regnum。古くは、植物と動物という違いだったが、微生物の多様性が判明してきた今日では、その数を増やしている。カンブリア紀の爆発は主に、動物の多様性の増加の謎である)>門(phylum。動物界においては、よく「~動物」とか記述される各自の分け方。カンブリア紀の爆発はこの階層と関連が深い)>綱(classis。爬虫類と哺乳類とか、そのくらいのレベルでの分け方)>目(ordo。(イヌ、ネコ、クマとか含む)食肉目とか、(カブトムシ他、節足動物門の中でもかなり多様性の高いことで知られている)コウチュウ目とか、そのくらいの階層)>科(familia。つまりここで(ライオンとかチーター含む、広義の意味での)ネコとかである)>属(genus。多様性はあまりないが例えば人間で言うなら、ホモ・サピエンスとか、ホモ・ネアンデルターレンシスとかの学名の「ホモ」の部分にあたる。この辺りから交配して(ちゃんと繁殖力のある)子を作れることも珍しくなくなる)>種(species)。
カンブリア紀の爆発という現象に関して、今日でも普通に謎なのが、それ以降の時代でも種の数はひたすら増えているみたいなのに、門以上の階層に関しては、少なくとも動物の領域においては全然新しく出現していないこと。現在知られている十数から二十数程度とされている門は、基本的にその時代に一斉に出現したかのように、化石記録は示しているわけである。
そしてこれまでに絶滅した門もいくつかはあるかもしれないと考えられている。ただグールドは、少し希望観測的に、話のスケールを大きくしすぎてしまっていたと考えられている。彼はこれまでに絶滅した門の数もとても多いかもしれないとした。カンブリア紀には今では絶滅してしまったものも含めて、もっとたくさんの門の分類、つまり現在はもう知られていない全く新しい門に分類できる生物があふれていたのかもしれないという、実際に少しの間、今以上の衝撃をもたらしていた(しかし大げさすぎたとわかった)研究成果を、完全に受けとめすぎていたわけである。
ただ、確かに今でもカンブリア紀の爆発は、例えグールドが夢想したほどには、生物世界は多様性的にワンダフルでなかったとしても、それでも、断続平衡説以外で説明することは難しい謎である。
本当に、化石記録のせいにできるのか
先カンブリア時代に生物の痕跡があまり見られない。つまり、すでに複雑な形体をした多くの生物が、カンブリア紀(でなくとも、ある時代)に一斉に現れたかのように見える化石記録という問題は、ダーウィンの時代にもあった。そこで創造論者はそれを、その時期に創造があった証拠なのだと考えた。
ダーウィンは、おそらくは現在の、普通のダーウィン進化論者が考える以上に、おそらくカンブリア紀の生物爆発(と例えられるような、豊富な化石記録の出現)は、完全な化石記録の不完全さのせいだと考えた。彼より後の時代、確かにカンブリア紀以前の化石も見つかるようになって、そういう意味ではダーウィンは正しかった。しかしカンブリア紀の生物群に続いているような、半端に複雑だったり、大きかったりする生物はなかなか珍しいから、そういう意味では彼の予想は間違っていたと言えよう。ダーウィンは、見つかっていないだけで実際は、生物には、その構造が複雑になる漸進的な進化が、カンブリア紀以前にも長い時間あったはずだと考えていたとされているから。だが(少なくとも見えるサイズの領域での)形体の複雑な構造は、確かに数億年前にかなり一気に生じたように、ダーウィンの時代よりはかなりマシになったろう、今の化石記録からも読み取れる。
普通この事実については、化石に残りやすい硬い構造が、その時代から見られた進化だったのかもしれないと、予想されがちである。
他の可能性としては、例えばこの時期、呼吸する生命体を繁栄させれるくらいの十分な酸素が大気中に集積した説。まだかなり熱かった地球が、冷却した説。海水の化学的性質の変化による影響説など、とにかくこの、カンブリア紀の爆発という問題に関しては、昔からいろいろな説が唱えられてきたとされる。
現在の生物、あるいはカンブリア紀以降の生物が、複雑な形態の生物なのだとして、それ以前には複雑構造が形成されたとしても、やはり「複雑な物ほど簡単に壊れやすい」という予想の通りに、すぐに失われていたのかもしれない。しかし数億年前に、複雑な生物群が維持されるような複雑なシステムが上手く機能するようになった。すると、複雑なものの変化が新たに別の複雑さを生む、というような連続によって、実際ひとつの時代で、多くの複雑な構造が発生したかのようになった。そういうふうにも考えられるかも。
エディアカラ生物の謎
グールドは「ワンダフルライフ」で、カンブリア爆発以前の化石記録における多細胞動物群として、エディアカラ生物群(Ediacara fauna)も紹介している。また、硬い殻をそなえた最古の動物群として、トモティ動物群(Tommotian fauna)も。
エディアカラ生物群は、もともとオーストラリアのエディアカラという丘で見つかったもので、現在でも、最古の多細胞生物候補とされている。
「ワンダフルライフ」では、エディアカラ動物群はかろうじて先カンブリア時代の生物群ではあるが、もしかしたら多細胞生物のあるグループが独立に行ったが、結局失敗した実験の痕跡かもしれないとしている。
さらにカンブリア紀の爆発は、単に硬い殻をもつ動物の出現のためにすぎないという説に関して、エディアカラ動物群がカンブリア爆発時の生物群に繋がる祖先ではないとしたら、完全な説明とはいえないとする。エディアカラ動物群はすべて軟体性な上に、局所的でもなく、世界中で発見されているからと。
だが、エディアカラ生物がカンブリア生物と繋がらない系統ならどう考えるべきか。
エディアカラ生物とカンブリア生物の関係についての議論は、今でもかなり熱いが、少なくとも仮に両生物群が異なる系統だとしたら、断続平衡説の典型的なシナリオ的にはそれは有利な事実となろう。硬い殻を持ったカンブリア生物の進化を起こした領域は、エディアカラの時代にはごく狭かったとしたら、そしてエディアカラ生物が滅んだ後、ついには局所的にすでに高い多様性、あるいは高い多様性の可能性を有していたカンブリア生物群が、幅広く空白になったニッチに流れ出てきたのが、カンブリア紀の爆発だとしたら。
微小硬骨格化石群(small shelly fossils。SSF)と呼ばれるトモティ動物群というのに関しては、大半がみずかき状とかキャップ状とかカップ状とかの小さな破片みたいな化石群で、多くが、カンブリア紀の生物の部分化石と考えられている。そしてこの生物群もまた、「ワンダフルライフ」では、失敗に終わった実験生物群だったのではないかと予想されている。
遺伝システムの変化
仮に「ワンダフルライフ」で提唱されているような世界、つまりは、生物の歴史という物語の中で、多様な形態の大規模実験がどこかで起こり、そしてそれ以降の時々の絶滅で区切られている安定した平衡状態での、ステレオタイプな(つまり門レベルでの)形体を共有する種の増加、というような流れを発生させるような、予測不可能みたいな何かがあるかもしれない世界観。そういうのが真実なのだとして、もう少しちゃんと検討できるような原因は想定できるだろうか。
「ワンダフルライフ」の中で示されているものの中では、個人的にはJ・W・ヴァレンタイン(J. W. Valentine)という人が、特に昔から考えてきたアイデアだという、あたかも「老化」する遺伝子システムが最も興味深いように思う。
生物の歴史を見た時に明らかなのは、様々な生物の形体とか、群の分布とか、とにかく様々な変化の速度やパターンは、とても一定とは言えないこと。そしてまた生物の変化、すなわち進化自体は、遺伝物質の伝達が要になっているとされている。
しかし普通、変化の変化は、自然淘汰の圧力に対する環境の抵抗性などが原因であって、遺伝システム自体は実質的に不変的なものとされる。でなくても、そういうこと(遺伝システムの不変性)を前提としてされるのが普通。
しかし、その普通を捨てて、遺伝システム自体が時とともに変化すると考えるのだとしたらどうであろうか。
例えば、カンブリア紀の生物の遺伝子構成(ゲノム)は、現生生物のものよりも単純で柔軟だったかもしれない。遺伝子から産物へのコード翻訳が現在より直接的だったりして、器官の交換や変更のプロセスも、あっさり構築されやすかったのかも。構造の複雑さは、設計変更の指令を伝えにくくしてしまうかもしれない。
宇宙に平穏はありえるか
この地球はどのような世界なのだろう。
グールドは「ライエル流の漸進主義は、地球に対して極めてぴったりと適合するが、近隣の惑星の歴史を記述することはできないと思う」と書いたことがある。
アポロの月面探査で採集された月の石について、W・イアン・リドレー(Willian Ian Ridley)が要約したデータは、月の歴史の要約。月の地殻は40億年以上前に硬化、39億年前までに隕石が激しい時期も終わった。そして38億年前から31億年前の間に放射性元素のための熱が玄武岩の溶岩を生み、地表をいろいろ溶かしたが、31億年前までに形成された厚い地殻が、玄武岩の上昇を許さなくなった。という話が正しいなら、月の活動は30億年前に終わってから、以降は現在まで、ほとんど停滞状態にあるといえる。
地球はどうだったろうか。初期の地球も、やはり隕石や溢れ出る溶岩ばかり目立つ時期があったかもしれない。だがそうだとすると、月のようにそうした初期の天変地異の痕跡が残っていないのはなぜか。地球にはそれらを消しさる2つのエネルギー機関があるからと推測するのは容易い。つまり表面の岩石帯(大陸)が動いたり、互いに教えあったり、沈み込んでいったりする『プレートテクトニクス』というシステム。それに、大気や海の侵食作用。
太陽系には、地球のような岩石惑星(火星、金星、水星)が他にもあるのに、地球だけが現在のようなエネルギー循環システムを安定(?)させられたのはなぜだろうか。その大きさが重要だったのではないかと見る向きもある。
宇宙空間の中である程度以上集まった質量分は、お互いに引き合う重力のために球体(でなくともそれに近い形)となるのが普通。実際、地球を含め、多くの惑星がそうであろう。球体の表面積は半径の2乗×ある数(4π)、体積は半径の3乗×ある数(3/4π)であり、ようするに球体が大きくなった時の増加速度は、体積の方が表面積より早い。
つまり地球の表面積と体積の比がちょうどよかったのかもしれない。地球は太陽系の他の3つの岩石惑星に比べると、少し大きめとされるが、それはつまり比率的に他より狭い表面積をもっていることを意味する。さらにはある程度大きな重力場をしっかり持っている。
惑星内部からの放射性元素の崩壊のための熱は、表面積が体積に比べ大きいと、外部への放出が多くなり、さっさと失われやすい。そうした内部の熱が、活動的な表面ももたらすかもしれない。
そして、ある程度大きな質量による重力は、大気を表面上に長く留められるだろう。
だが(少なくとも地球においては)大陸の移動も、大気や海水の浸食作用も、隕石の嵐とかと比べると、かなり漸進的なシステムである。これはどのくらい安定しているシステムなのだろう。
何事もバランスが肝心というのなら、変化に乏しいような世界ではだめだが、しかし天変地異がしょっちゅう起こるような世界でも、生命はやはり生まれない(生まれたとしてもすぐ滅ぶ)のかも。だから地球はちょうどいい感じだった可能性はある。
だが時々の激変は、必ずあるものだろうか。この宇宙の中で、隕石のような外的要因が確実に無いような惑星があったとする。それでも、生命がそこで繁栄した時、変化の中で、強力な武器を作るような賢い生物が生まれた時(実際に人間は核兵器を作れた)、それが大丈夫な絶滅(天変地異)を引き起こす可能性もあるとするなら……
断続平衡説は、どういう類の真実なのだろうか。