「クラウジウス」エントロピーを見つけた科学者の謎の生涯

熱力学の基礎を築いた一人

 熱力学という分野は、ニコラ・レオナール・サディ・カルノー(1796~1832)が1824年に出した、「火の動力、および、この動力を発生させるに適した機関についての考察(Réflexionssur la puissance motrice du feu et sur les propresàdevelopper cette puissance)」という論文で始まったとされている。
「カルノー」熱機関サイクルの研究。熱力学の最初の論文の行方  熱力学の基礎を築いた二人。
ウィリアム・トムソン(1824~1907)と、ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(1822~1888)は、その論文が世に出た、まさにその時期に生まれた。
夕暮れ時のケンブリッジ「ウィリアム・トムソン」ケルヴィン卿と呼ばれる、最後の大古典物理学者

クラウジウスの生涯

 クラウジウスは、別に学会から無視された科学者ではなかったろうに、なぜか全く記録に乏しく、彼自身の人柄はかなり謎とされている。
ただ同時代の科学者たちは、手紙などで彼のことを、ろくでもないとか、すぐ怒るなどと書いているようだから、かなり血の気の多い人だったのだろう。

大家族の家の子

 ルドルフ・クラウジウスは1822年、プロイセン王国ポンメルンのケスリーン(後のポーランド領コシャリン)で産声を上げた。
ドイツ「ドイツの成立過程」フランク王国、神聖ローマ帝国、叙任権闘争。文明開化 クラウジウス家は大家族で、ルドルフは6人目の息子(そして18番目の子供)だったという。

 彼の父は牧師で、「王立政府教育委員会(Royal Government School Board)」の評議員でもあった。
幼少時代のルドルフは、その父が校長をしている小さな私立学校で学んだとされる。

最初は歴史に興味を抱いていた

 父の学校を卒業し、その後ギムナジウム(中学校)も卒業したクラウジウスは、1840年にベルリン大学に入学した。

 大学に入学したばかりの頃。
彼の一番の興味は歴史であったらしいが、次第に物理学と数学の面白さにとりつかれるようになった。

 ベルリン大学は1844年に卒業した。
そして、1847年。
クラウジウスは反射光の問題に関する論文をハレ大学に提出し、 その研究が評価されて、1848年7月15日に博士号を授与された。

 そして1850年。
彼らは有名な熱力学に関する最初の論文を書き上げたのだった。

クラウジウスの熱力学論文

第一法則。カルノーの論文の改良

 1850年の論文でクラウジウスは、熱力学の第一法則に関して、かなり現在に近い形で定式化したとされている。
彼は、すでにそれについてを述べていたとされるカルノーの論文を、より数学的な記述を増やして紹介した、ブノワ・ポール・エミール・クラペイロン(1799~1864)の論文を引用したという。

 カルノーの論文から25年ほど経っていたクラウジウスの時代には、カルノーが使えなかった様々な概念ツールを利用できるようになっていた。

 カルノーは熱の特殊性を記述しながら、熱は熱であり、破壊も変換されないという「熱素理論(Heat element theory)」にまだ囚われていたとされる。
クラウジウスの同期であるトムソンですら最初はそうだったとされる。
しかし、クラウジウスは、そこから一歩先へ進んだ。

 ヒントはあった。
ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー(1814~1878)や、ジェームズ・プレスコット・ジュール(1818~1889)の、熱は仕事に変換されうるという発見である。
「ロベルト・マイヤー」熱とエネルギー保存の法則の、秘密の物語「ジュール」電流、熱、羽根車の巧妙な実験。金持ち素人学者の研究人生 トムソンは、これに関してはジュールらが何か間違っていると考えた。
クラウジウスは、どちらも間違っていないと考えたのだった。

 クラウジウスは、どのような熱機関でも、入力された熱の一部は仕事に変換されると過程。
そして変換されなかった熱が、カルノーのモデルにあるように、 高温から低温へと流れ(落下し)、熱機関を作動させる。

dQ=dU+1JPdV

 クラウジウスが導いたこの式を少し変えれば、後に一般的になる熱力学第一法則の式になるとされる。
これはある系において、dQは加えられた熱、Pは圧力で、dVは系の体積の増加量。
1/Jは、力学的単位を熱量単位に変換するための係数らしいが、今はそれらの単位は基本区別されないので、余計なものらしい。
dUは、クラウジウスは最初それが何か、解釈に困ったが 記号が違うだけのほぼ同じ数式に行き着いたトムソンが、それは固有エネルギー(内部エネルギー)だと解釈した。

 ちなみに現在の熱力学第一法則の数式は、ある閉ざされた系が持つ内部エネルギーの増減量をdU。
外部から系に加えられる熱量をdQ。
外部から系に対してされる仕事量をdWとし、

dU=dQ+dW

第二法則。低温から高温には伝わらない

 クラウジウスはまた1854年に、革新的な論文を発表する。

 前の論文と同じで彼は、熱の変換は、高温から低温へ移り変わる変換と、熱から仕事への変換の2パターンを想定。
そしてどっちにしても、ほっとくと勝手に変換されていく自然な方向への変換と、外部から何らかの力を加えなければ向かない不自然な方向への変換があるとした。

 例えば、仕事が熱に変換されるのは自然な方向への変換。
しかし、熱が仕事を勝手に生むことはほぼないから、それは熱機関などを使うことによってのみ発生しうる不自然な方向への変換と考えたわけである。

 クラウジウスは以下のように結論した。
基本的に熱は低温から高温には伝わらない。
熱は、それに関連する他の変化が同時に発生しない限りは、絶対に低温から高温へは移動しない。

 この結論は熱力学の第二法則だったが、一つ大きな謎だったのが それの数学的表現の中に現れる、U(内部エネルギー)に続く、謎の関数だった。
クラウジウスは後の1965年に書いた論文では、それにSの文字をあてている。

 Sが何を表すにせよ、重要だったのは、数式をいじくった末にクラウジウスがたどり着いた答だった。
理想的な可逆性の完全な環境という過程では、

dS=dQT

現実のような不可逆性な過程では、

dS>dQT

dSはSの増減量、dQは熱の増減量、Tは絶対温度(物理的に考える最低温度を0とする温度)。

宇宙とエントロピー

 クラウジウスはその関数Sに、「エントロピー(entropy)」という名前を付けた。
ギリシャ語の「trope(変換)」と、普通に「energy」を組み合わせた造語らしい。

 クラウジウスはさらに、この新しく発見された、エネルギーに関係する法則は工学のみならず、もっと遥かに大きなスケールで考えられることにも気づいていたという。

 この宇宙空間全体を孤立した系と見なした場合、外部から加わる熱dQと仕事dWは0。
そうすると第一法則より、dU、つまりエネルギーの変化量も0ということになる。
さらにこの宇宙が理想的な完全に可逆性のもの(というよりおそらく 全く何もかもがぴったりと停止した世界)でないなら、dSは必ず0より大きいということになる。

 クラウジウスは以下のように結論したとされる。
宇宙のエネルギーは一定。
宇宙のエントロピーは最大値(無限?)へ向かう。

 こうして、この宇宙がどのようでシステムで動いているのか。
我々の理解は大きく進んだのだった。

その後の研究生活。戦争の傷。最期

 クラウジウスは1855年に、チューリッヒ工科大学の数理物理学の議長となった。
チューリッヒでは、優れた数学者や物理学者の同僚たちに囲まれて、 科学研究を続けるにはとても良い環境であった。
1857年には結婚もした。
しかし、彼は故郷ドイツ(プロイセン)をいつも懐かしんでいたようで、1867年にはいよいよ帰国することになる。

 帰国後は2年間ヴュルツブルク大学に勤めたが、次にはボン大学に移る。

 愛国心が強いクラウジウスは、1970年に、プロイセンとフランスの間に起こった「普仏戦争ふふつせんそう(Deutsch-Französischer Krieg)」にて、非戦闘員として参加したらしい。
そしてその戦争により、足にひどい傷を負って、彼はかなり長く苦しんだようである。

 彼の最期の時は1888年。
死因は貧血症だったという。