「グローバル化」情報工学は、国家、階層、ジェンダーをどう変えていくか

急激に変わりつつある人類社会

 いいか悪いかはともかくとして、ごく近代、具体的にはここ数百年ぐらいに、人類の社会に急激な変革があった。あるいは今にまで継続中であることはかなり確かなことである。
『グローバル化(globalization)』というのは、その変化の重要な1つの要素。あるいは重大な、ある変化そのもの。

社会の変化を考える上での、スケールなどの問題

 まず、人間社会とはどのようなものなのであろう。それに変化があったと言う時、それだけが変化できたのだろうか。間接的に他に影響を与えることはなかったろうか。
例えば、人間社会の急激な変化は、地球生物の急激な変化を招かなかったのか。「リンク生態系社会学」だ。人間の社会の変化はどのくらいまで影響力を持つことができるのか。仮に将来、地球から飛び出した人類は、その社会の影響範囲を広めることで、宇宙自体に急激な変化をもたらすだろうか。

 スケールの大きな規模での類似現象、関連現象のことなどを考える時は、単純に距離的なものだけでなく、時間も問題になってくるだろう。とてつもなく広い領域での急激な変化とはどのくらいの時間での変化のことを言うか。
そしてそうなってくると、また別の疑問も出てくる。逆の場合だ。とても小さな領域での変化は、どのくらいの時間で急激な変化と言うか。例えば数百年での大きな変化は、人類のこれまでの全歴史の長さから、相対的に急激な変化とされている。しかし人類の世界が、これからもずっと続いていくとしたらどうなるか。もしも今現在、我々が経験しているめまぐるしい変化が、これからかなりの長期にわたって継続する社会の状態のごく始まりの方だとするならどうか。
例えば今の変化具合が1兆年続いたら、相対的にむしろ人類の歴史のうちの初めの時期が、変化に乏しい例外的な時期だったと考えられるようになるかもしれない。
もちろん、今我々が「急激」だと表現しているような社会の変化が、もっと未来にいくつも起こる、真に急激な変化に比べると全然大したものでなく、(当時の人。つまり我々がそう勘違いしていただけで)むしろ平均の範囲内とか(未来人たちに)思われるようになる場合もあるかもしれない。

伝統的国家はなぜ消滅したのか

 一般的な社会学における見解では、『伝統的国家(Traditional nation)』、あるいは『伝統的文明(Traditional civilization)』というのは、ほんの数百年前までは、社会の大きな範囲を支配する強大な力と同義のようなものであったが、現在は1つも存在していないとされている。
実際にそうだとして、伝統的国家とはどのようなものだったのか。そして、なぜそれは1つ残らず消えてしまったのか。

牧畜、農耕。そして文明、国家

 狩猟民や採集民の集団が、生きる手段として、家畜の飼育や、定まった地域での耕作に着手しだしたのは、2万年前ぐらいからとされている。
今は、家畜を重要視する社会を『牧畜社会(Herding society)』、作物の栽培を行う社会を『農耕社会(Agrarian society)』と言うが、多くの社会は、この牧畜と農耕が混在してきた。
ただその気なら、比率に注目して、だいたいの社会をどちらかに分類する指標などを定義することは容易と思われる。ここではどうでもいいことだが。
そして、おそらく紀元前6000年くらいの頃から、それまでは存在しなかった大スケールの社会が登場し始める。それは都市の発達を基盤としたもので、富と権力に関して(実質的に性別と年齢(ともしかしたら健康)くらいしか身分に関係する要素として機能していなかったような)それまでの社会よりも、ずっと不平等が目立ち、基本的には『権力者(person of power)』の統治という現象が、その中心にあった(もしくは想定されていた)。それは、科学と芸術の興隆こうりゅうをともなうのも普通で、そのために『文明(civilization)』と呼ばれる。

 初期の文明の多くは、肥沃な河川流域で興ったが、それは『灌漑かんがい(irrigation)』、つまり大規模な農地開発、維持に、外部から水を安定して供給するシステムが重要だったからであろう。

 そして文明と共に、または続いて国家が誕生した。伝統文明の多くは帝国で、他の地域を征服し、住民たちを取り込むことで規模を大きくしていった。歴史の中で語られる、強大な権力を持った王たちの中には、文字通りの意味で『世界帝国(World empire)』を真剣に考えた者もいたと思われる。しかしそんなものは結局夢でしかなかった。

機械テクノロジーに依存する工業化社会

 18世紀以前において、社会の多くの部分を支配してきた、伝統的国家という社会形態は、無生物の動力源を利用する機械制生産、つまりは『工業化(Industrialization)』によって崩壊させられたというのは、よくある見解である。

 その時代とか、規模とかに関係なく、伝統的国家というのは、その社会を構成する多くの人々が農業に従事していた。しかし工業化によって発生した、そして今や世界中に広がった工業社会というのは、多くの人が都市の工場とか、事務や店とかで働いている。
仕事から離れた生活も、かなり非人格的、あるいは匿名的となった。個人的に互いに知っている人より、見知らぬ他人を相手にする機会がかなり増えたのだ。
企業とか行政機関のような規模の大きな組織が、実質的に社会を構成するすべての人々の生活に影響を及ぼしもする。
政治システムも伝統的国家に比べるとかなり発達している。そしてそれゆえにより集権的となっている。人々の繋がりがより強い共同体となったために、政治的権威者が全体を動かしやすくなったわけである。
さらには、機械テクノロジーは、工業化社会の初期の頃から軍事目的にも利用されてきたとされる。結果として非工業文明をはるかに上回った兵器や、軍隊の組織形態が生み出され、優れた経済力と軍事力、政治的凝集が合わさって恐ろしい力となった。もはや伝統的国家は、工業化社会の脅威に対抗するためには、自分たちも工業化するしかないような状況が、この世界全体に広まってしまったのだ。

個人のカリスマ

 時に、カリスマ的な個人が、社会に重要な影響を及ぼす場合があるが、それでなくても少数の者たちが大きな規模の社会(共同体)を、ある程度ダイナミックに動かせるようなら、それはその社会の自由度を高めていると言えるかもしれない。
つまりは、共同体がそれほど強固なものでなく、政治組織が個人それぞれの自由をそれほど縛れないような(つまり伝統的国家のような)社会よりも、工業化された近現代国家は、ある変わり者の個人の思想がそのまま全体に反映されたりするような自由度を有するかもしれない。

 これは、プレイヤーという個人が、ひとつの社会を作るシュミレーションゲームの、(システム的な制約はないものとした)自由度を考えると、想像しやすいことだろう。

情報テクノロジーが1つにしていく世界

 グローバル化という現象が、『情報テクノロジー(Information technology)』の発達と深い関係にあるのは明らかであろう。『ラジオ(radio)』、『テレビ(TV)』、『電話(phone)』、『インターネット(Internet)』などは、世界中のあちこちで時間と空間を圧縮してきた。
グローバル化。この言葉は多くの場合において、経済現象として語られる。例えばある大企業の大規模な活動が、国境を越えた大範囲の、生産、労働の分布に影響を及ぼしたりする。これはバラバラに存在していたようないくつもの世界のつながりを強め、1つの大世界化を推進する。
さらに、『電子メディア(Electronic media)』は世界の『金融市場(Financial market)』を統合に向かわせ、世界の資本の流動量をかなり巨大にしたとも。

 グローバル化は、経済ばかりと関わっているわけでなく、その創出には、政治的要因、文化的要因、社会的要因なども関わっているとされる。例えば情報テクノロジーの発達は、多くの文化(カルチャー)の、世界中の人々での共有を可能にしてしまった。インターネットの動画サイトを待たずとも、今は見る人も少なくなってきているというテレビがすでに、例えば世界中のスポーツ好きがその世界大会をリアルタイムで同時に楽しむことを実現させた。
しかしテレビが一般家庭に置かれるようになったのは、20世紀半ばくらいからのことなのである。

共産主義の終焉。資本主義の広がり

 20世紀においては多くの国家政府が理想的としたものの、現在はもうどこにも残っていないとされる、真の『共産主義国家(communist nation)』、マルクス主義的国家は、グローバル化が滅ぼしたという見方もある。
資本を持つ者と、持つ者の下で働く労働者たちとの間の、ひどい不平等を生みやすいとされる『資本主義(capitalism)』の崩壊の後に来るだろうとされていた、財産を社会全体で管理共有するような社会形体。共産主義とはそういうものだが、グローバル化が引き起こしてきた、多くの個人が獲得した自由性などは、おそらくそういう社会に向かないのである。
よくも悪くも、グローバル化というのは、資本主義をますます拡大させてきた。ただし、現代社会における資本主義経済、資本主義社会は、マルクスが生きていた頃のものとは根本的に違っていると思われる。マルクスは社会階級に注目したが、現在の資本主義社会は、当時にはなかったか、あるいは大したことなかった遠距離コミュニケーションとコンピューターが、かなりの大部分で生産基盤となっている。しかし、財産格差がさらに広がったことだけは確かと思う。
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超国籍企業の台頭

 グローバル化は、テクノロジー開発によって勧められてきて、そして維持されているというのは、かなり一般的な見方であろう。だがそうだとすると、『超国籍企業(Supernational corporation)』などと呼ばれるグローバル化に寄与する大企業は、基本的にテクノロジーを社会に広める役割を果たしていることが多いから、それは実質的に社会そのものが、大企業への依存度を高めているのだとも言えるだろう。
グローバル化の流れはやがて、国家連合よりも遥かに強く世界を支配する、超企業の台頭を許すだろうと予測する人までいる。

 超国籍企業に関しては他に、『多国籍企業(Multi national company)』とか『超国家企業(Superstate company)』とか呼ばれる場合もある。

社会的マイノリティの団結

 グローバル化は社会的マイノリティ(少数派)だった人々にとっては、好機になっているかもしれない。やはり情報コミュニケーションの発達は、世界中の多くの小社会の中で少数派であった(あるいはそのような少数派の人々のことを知らなかった潜在的な擁護者などの)人々を結びつけて、結果的にそれなりの規模のコミュニティにまで変えてしまったりするだろう。
おそらく多くの人が経験的に知っているように、1人だけが何かを主張するよりも、100人が同じことを主張した方が、他人はしっかり耳を傾けてくれやすいから。

社会的責任、アイデンティティ

 グローバル化の高まりに寄与する要因として、情報ネットワークの発達は簡単に認めることができるだろう。遠距離コミュニケーションのためのインフラ整備によって、我々は地球のどこにいる相手ともリアルタイムの会話すらできるようになった。
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 グローバル化がもたらした重要な転換として、国境線をも容易に超える、『社会的責任(Social responsibility)』の適用範囲拡大があろう。国際社会は、自然災害や民族紛争などが引き起こす世界の一部地域の危機的状況に対して人道的な支援をするべきという風潮がとても高まった。
また、グローバル化された世界で生きる人々は、自らの『アイデンティティ(identity。自我同一性)』、つまりは自分が何者かを自分の国の外側に求めることも簡単になった。これは自らのアイデンティティを決める場合の選択肢が増えたとも言えよう。そしてそのようなアイデンティティの自由性は、グローバル化が生み出したというだけでなく、グローバル化をさらに推し進める推進剤にもなる。

パンデミックの影響

 普通、遠距離コミュニケーションというのは機械を介したものだ。
2020年に世界規模で感染病が流行った時、つまりパンデミックが起こった時には、『リモートワーク(remote work。遠隔作業)』の重要性がよく説かれた。

 パンデミックという現象がそれを推し進めたのは間違いないだろうが、我々が、実質的にそれが必要ないだろう状況にまで、機械を介したコミュニケーションを持ち込んみだしたこと。あるいは持ち込むのをよしとしているのはどういうことなのであろう。
工業化は、我々の社会の機械への依存度を高めたが、しかし機械が上手く機能している間は、それが維持する世界は、我々にとってあまりにも心地よく便利な世界にも思えるので(少なくともそう思う人が多いようで)、我々はそれをとてもよいものとして、ますます広めようとする。そしてますます機械への依存度を高めていっている。
それがどういうことかはともかくとして、何らかの原因で機械が駄目になってしまった時、この依存度の高さは世界があっさり崩壊する、または壊滅的なダメージを受けるリスクに繋がっているかもしれない。
実際問題そんなことはありえるだろうか。例えば機械そのものの機能を全て停止させるような電波妨害攻撃などが、かなり高いレベルで実現されてしまったら、それはどれほど恐ろしい威力となるか。

リアルタイム通信はどこまで可能か

 普通、現在の機械通信には電波、つまり光を使っている。これは、遠距離コミュニケーションがリアルタイムのようで、本当はリアルタイムじゃないことも意味している。
そして光速度というのは無限ではなく、同時にその速度は宇宙の限界速度という説も有力である。それは同時に、電波通信の速度の限界 とも関連しているだろう。
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 地球のような、光がすぐに周回できる程度の距離しかない場での社会ならば、それは感覚的にリアルタイムといえるようなコミュニケーションツールを提供できよう。だがもし将来、人類がその生きる場を他の惑星、他の星系などに広めていった場合はどうなるだろうか。
もし超光速通信がないままに、光速通信では役不足なくらいに広い領域を人類が征服してしまった場合、そんな時代での超光速通信の発明は、近代における光速通信と同じくらいのレベルで革命的だったりするのだろうか。

社会の階層システム

 社会の中で見いだされることのある成層システムについて考えてみる。ようするに上に立つ人間、下にいる人間というような階層構造のことである。それには主に、『奴隷制(Slavery)』、『カースト制(Caste system)』、『身分(Social status)』、『階級(Rank)』の4つの種類があるとされる。しかし社会における多くの成層システムが、単にこのどれかに当てはめれるというようなものではなく、これらのうちのいくつかを、ある面として持っているというような感じで考えたほうが、しっくりくる場合が多いと思う。
グローバル化という現象について考える時、これらのシステムのどのような側面が残ってきて、どのような側面が残らなかったのかが、実はけっこうなヒントになるのではないか、という説もある。

奴隷制。効率のいいシステムとは言えない

 奴隷制は、基本的には最も不平等な形態とされていて、ある人々が、別のいくらかの人々を自分の財産として所有しているというものである。
ただ、歴史の中の奴隷と呼ばれる階級の者たちが、実際にはどのような存在だったかについては、社会によってものすごく違いがある。文字通りの財産で、何の法的権利も与えられなかった奴隷もたくさんいたわけだが、社会によってはむしろ召使いに近い程度の位置づけだったことも多いし、(特定技能を身に付けることで)その社会の中で普通に活躍できた奴隷すらけっこういたとされる。ただ、奴隷にしてはという但し書きなく、それなりに恵まれていた奴隷というのはかなり少数派だったろうが。
歴史の中で、多くの世界で奴隷たちは、自らの状態をどうにかするために抵抗の意思を見せてきた。だから奴隷を労働力として使うシステムは、特にその奴隷の労働環境がひどい場合ほど不安定な社会と言えるかもしれない。
そもそも奴隷たちを使って生産性を生み出そうという場合、それを監視する役割も必ず必要だった。しかも監視はかなり厳しく、それに逆らう者のために十分に残忍な処罰を用意しておかないと、奴隷たちは奴隷という立場にいつまでも甘んじてはくれないだろう。
そして、強制された労働力よりも経済的動機を与える方が、つまり生活する資金を稼ぐために働くというような意思を人々に与える方が、効果的に社会の中に生産活動の場が生まれるということがはっきりしてくると(あるいはそういうふうに社会構造が変わってくると)、この奴隷制というシステムは(少なくとも大規模なものは)崩壊していった。
社会が発展するために経済環境がよくなることは必須であろう。それは社会を成長させる原動力となる。だが奴隷制というシステムは、どう考えても、経済的に効率のいいシステムとは言えない(か言えなくなってきた)。

 奴隷制が世界から消えていったのは18世紀くらいからともされ、道徳的にそれをよくないとする人々が英雄的に働いたために終わりに向かったというような捉え方が時にされるが、実際問題、道徳的に駄目なだけで崩壊するなら、もっと前にそれは崩壊していたと思われる。おそらく道徳的に大きな問題があると認識されるようなことであっても、社会の経済力をとても効率よく発展させられるシステムがあるなら、社会において採用されると思う。
グローバル化に関する考えも絡んでくるだろう。いくつかの社会が別々に生まれ競争する時、最も効率のよい経済システムを有する社会が大きくなるはず。そして、特にその勢いが他を大きく上回っていれば、グローバル化、つまりその社会が他の社会を取り込んでいくような動きにすら発展しかねない。というか、実際の歴史の動きを見る限り、それがありえないと考えることが難しい。
もし奴隷制というのが、とても効率のよいシステムであったなら、奴隷制を使った社会が1つの世界になっていたのかもしれない。なる方向へと向かっていたかもしれない。

カースト制。ヴァルナとジャーティ、アパルトヘイト

 カースト制は、個々人の社会的地位が生まれた時から死ぬまで変わることがない社会システムである。つまりカースト制の社会においては、それぞれの階層は閉じられているとも言える。生まれついての社会的地位というハンデを、覆すことが決して出来ないことがルールとして定められているものと考えてもよいか。

 カースト制はインド社会のものが有名だが、例えば国家社会の中の少数民族とかのように、実質的にカーストのように扱われる区分の人たちは世界に多く存在してきた。
カースト制においては、普通、別カーストの男女の関わりが非常に厳しく禁じられている。これは各カーストごとの純血性を守るためであろう。カーストAの人とカーストBの人の間に子供が産まれた場合、その子のカーストがどちらに属するのかという問題は面倒だろうから。
ようするにカースト制は、慣習や法律が、個々人の結婚相手を常に同カースト内に縛っておかなければ、通常は成立しないとされている。

 有名な、インドの伝統的なカーストは、ヒンドゥー教の宗教的信条が反映されているという。カーストは4つ存在し、上からバラモン(学者、宗教指導者)、クシャトリナ(武士、王族)、ヴァイシャ(商人、農民)、シュードラ(肉体労働者、職工)。しかし実際にはこのカーストのいずれにも含まれてない、実質的には最下層に存在しているという、アヴァルナとか、ダリットとか呼ばれることもある『不可触民ふかしょくみん』というカースト(というかカースト外)が存在する。
不可触民は、どのカーストからも不浄な存在とされていて、社会において許された仕事は、例えば人の排泄物の除去といった汚れ仕事ばかりとされた。不動な存在だからカーストに属するものが身体的な接触を不可触民と行った場合、浄化儀礼が必要とすらされた。
国家としてのインドは、1949年に、カーストに基づく差別を法律で禁止したはずなのだが、インド国民たちの間での(長く続いてきた)カーストの影響は根強く、今に至るまで差別問題は続いているという。
インドにおけるカーストは、正式には『ヴァルナとジャーティ(varna and jati。色と生まれ)』と言う。ヴァルナ(身分)とジャーティ(一族)みたいなものらしい。カーストとしての定義が細かいため、実際は単に4つあるというだけではなく、その中でもかなり細かい分類があるようである。そして所属するカーストによって、職業も決まる。

 (おそらく)宗教ともあまり関係なく、はなから普通に支配のためだけにカーストが利用されることもある。
1992年に撤廃するまで続いていた、南アフリカの『アパルトヘイト(Apartheid。隔離)』と呼ばれたカースト制は、完全に人種に基づいたものであった。つまり、黒人であるアフリカ人とアジア人、黒人と白人の混血であるカラード、そして白人たちがカーストとして分けられていたのだ。白人たちは全人口のうちの15パーセント程度の少数派だったが、ほとんどの土地を所有し、社会の様々な仕事を管理し、さらに(割合的には全人口の半分以上とされた)黒人に選挙権を与えないことで、政治的な権力も独占し続けたという。
多くの黒人たちが、隔離地区とされ、『ホームランド』とも呼ばれた『バントゥースタン(Bantoestan)』で貧しい生活を強要され、白人のための労働力となった。そしてこの広範囲の差別と抑圧(アパルトヘイト政策)が、結局は少数派であった白人の支配を終わらせることにもなった。白人たちを嫌う黒人、混血、アジア人たちは、暴力も含めた政策反対の闘争を続けて、最終的に勝利を収めたわけであった。
最も有力だった国連組織『アフリカ民族会議(ANC)』は、南アフリカ企業に対する世界規模のボイコット運動によって、白人指導者たちを経済的に追い詰めようとした。そうして、結果的にはアパルトヘイトは廃止されることとなった。1994年には、ついに選挙権も獲得した黒人たちの支持を得て、ANCの黒人指導者であったネルソン・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela。1918~2013)が大統領にもなった。

 地球全土を巻き込むグローバル化の波は、世界に残ったカースト制の存続に危機をもたらしている。例えばインドの現代資本主義的な経済状況は、職場や様々な公共の場で、カーストが異なる人たちを分けることを非常に困難にした。

身分。伝統的な封建

 身分制というのは、多くの伝統的文明においてよく見出される『封建制(Feudal system)』というものと関連が深いとされる。あるいはカーストといくらかの点で対照的ともされる。
例えば王族、貴族、平民のように、身分の階層分けが社会の中でなされているが、カーストとは違って異なる身分の者の結婚が絶対的に禁止というようなものではなく、身分を移動する者もいた。例えば何か優れた功績を押したけど平民はもうに寄って何らかの貴族身分を与えられたりとかそういうことがありうるのが、身分制度である。

 普通、身分制というのは、地方ごとの小社会との結びつきが強く、国家の中における各地方ごとに成層システムを形成していたようだ。一方で、中国とか日本のような、中央集権化が強力になされ、かなり広範囲、つまり国単位での身分制が定義しやすい伝統的国家もある。

階級。複雑化していく中で

 階級は、先に挙げた3つの成層システムに比べると、その区分がかなり弱く、実質的に同階級の者たちは、単に同じ経済的資源を共有する人々の大規模の集団というように定義できるともされる。経済的資源というのは、実質的に人々の暮らしの裕福さをほとんど決定付けるようなものだから。
そもそも階級というのは、法律とか宗教とかと関係なく生み出されるもので、境界が曖昧なだけでなく、各階級同士の関わりに関しても制約が弱い。そして社会の中に生きる人々は、階級を結構簡単に移動できる。

 階級を決定づけるのは、元々の資産力とかではなく、専門的技能とかが、どのくらい身に付いてるかに関係してる場合も多い。例えば会社の中での階級は、その会社にどれくらい役立つ能力を持っているかに関係していると思われる。雇用者は、そうした技能を身につけた被雇用者を、会社への貢献に応じた報酬を与えることで、忠誠心などを上手く管理しようとする、という見方もある。
いわば、いくつもの学的レベルで差別化されてるような高校とか大学も、(特に学歴社会においてはそういう印象が強いだろう)学業達成度に応じた、ある種の階級分けと言えるかもしれない。本当に文字通りの、つまり真の『学歴社会(Educational background society)』においては、むしろそれは生まれてから、どのレベルの受験をクリアできたかによって定められる、弱めのカーストとすら言えるかもしれない。しかし普通は学歴社会と呼ばれるような多くの社会においても、例えば職歴によって、または単に資産力や能力によって学歴をカバーできると思われる(例えばどこの会社に雇われないとしても、自分で会社を作って成功することは可能だろう)

 グローバル化されていく社会において、その世界全体の階級は、非常に複雑になっていることだろう。階級は社会の中にはじめから定義されているような成層ではなく、社会とともに変動していくようなものとも言えるだろうから、グローバル化によって社会が複雑化していくなら、同じく複雑化していくものなのかもしれない。
複雑化どころか、階級社会というもの自体が、すでに消滅しつつあるという説もある。しかしそのような階級消滅説は、単に階級という言葉の定義の曖昧さから生まれたものであるようにも思われる。

解剖学的性別とジェンダー

 『性(sex)』というのは、どんな基準で分けられているものだろうか。
普通、社会学の文脈では、単に性と言った場合は、生物学的ないし解剖学的差異によって定義づけられる2つの性別(オスとメス)のことである。一方で男女間の心理的、社会的、文化的差異を問題にした男性像、女性像というような作られた概念に基づき、分けられた性別の違いなどは、『ジェンダー(gender)』と呼ばれる。

男の子になるべき、女の子になるべきという圧力

 ジェンダーというのは、生まれ持ったものではなく、社会が与えるものだというのは、よく語られる仮説である。ただどのようなジェンダーが押し付けられるかの判断基準としては、生物学的な性がよく使われる。つまり、生理的に男と判断される子供は男の子に、生理的に女と判断される子供は女の子としての意識を持つように、圧力的にかかる教育が社会の中にあるように見えることは珍しくない。
例えば、親に玩具屋に連れてこられた子供たちの前には、すでに選択の段階から、男の子コーナー、女の子コーナーという圧力があり、それぞれのコーナーの玩具は明らかに異なっている。他にもそのような例は無数にあるだろう。女の子が好むとされてる遊びをする男の子がいたら変な目で見る人すら社会の中では多いが、まだ自分の性別についてはっきりと自覚もしていない小さな子からすると、それは凄く圧力と思われる。

ジェンダー差別

 ジェンダーが、それほど気軽に切り替えることができないような社会の中においては、それもある種のカーストと言えるかもしれない。解剖学的性別に基づいたカーストだ。

 一般的に、これまで存在した多くの社会においては、男性は女性に比べて優遇される傾向が強かったとされている。そうでないにしても、男性と女性で明らかな社会的区別を設けることは普通だった。例えば多くの社会において自らの性的資源(?)を男性に売る、いわゆる売春婦はだめな女みたいにされてきたが、売春婦という商売を成り立たせている多くの男性たちは「それは仕方がない」というように考えられることは珍しくなかった。だが、ここには明らかにジェンダーに基づく差別があるだろう。男が浮気をした場合は自らの欲望に負けてしまったと言われるのに対し、女が浮気をした場合その人自体が汚らわしいとされたり。

ジェンダーの多様化

 しかし、社会的圧力が我々にジェンダーを押し付けてるとするなら、それにも関わらず、なぜ社会が思う性別に対し、自分は逆の性別なのだと感じる人が存在したりするのだろうか。そういう人は実際に存在するし、もしかしたらそういう人が身近にいない人が思うよりも、ずっとありふれてるかもしれない。
確かなことは、社会の中でジェンダーの捉え方は変わってきたし、そうでなくとも捉え方いろいろだ。自分の解剖的な性がジェンダーと異なっていると考える者は、ファッションとかライフスタイルによって、その間違いをいくらか修正できるかのように考えられることもある。あるいは、自分ははっきりどちらのジェンダーというわけでなく、気軽にそれを切り替えれるというような考え方をする人もいる。

 ジェンダーの種類にもまた、多様性が生じているかのように思われる場合がある。例えば単に男性と女性というより、女性的男性とか、男性的女性みたいな。それは連続的なジェンダーの変化範囲のある領域ごとを区別しているようなものなのだろうか。そうだとして、その連続的な領域はどこからどこまであるとか、はっきり言えたりするだろうか。

第三の性別は本当にあるか

 しかし、ジェンダーが解剖学的な根拠を重視しないか、完全に関係ないとするなら、誰もが第三の性別になれるのかもしれない。
ようするにジェンダーの性別が解剖学的特徴に関係ない以上、おそらくは2つ以外にも性別を用意できる。それは社会の外から見たら完全に架空の性別といえるものだろうが、その社会の中では現に存在できると思う。社会の中で理由が作られて、設定される男と女というジェンダーと、第三の性別の違いは何かあるだろうか。そしてもしもそのようなものが設定できるとするなら、男が女のジェンダーを得たり、女が男のジェンダーを得られように、男だろうと女だろうと、その世界の中に用意された第三の性別になれることもあるかもしれない。
もちろんここでは第三の性別としたが、さらに第四の性別、第五の性別でもいい。とにかくそれが創出される過程からすると、ジェンダーがたった2種しか存在しないというのは、むしろ強引な考えかもしれない。

悲観的な見方の一例

 グローバル化には、たいていどの人にとっても良い面と悪い面があることはまず間違いない。良い面だけということはほぼありえないだろう。

 例えば、国家を脅かすような巨大な犯罪組織、テロ組織などもグローバル化と関連があると考える向きは多い。
ここで善悪というものが、おそらく社会の中で決まってきたものという可能性が示唆されよう。もしもそうだとすると、今恐ろしいテロ組織のようなものは悪とされているが、民主主義的にそれをよしとするものが多数派となってしまった場合、世界はどうなっていくのだろうか。
世界がもしもたった1つの巨大な世界に向かっているとすると、その巨大な世界が間違った道を歩むことになってしまったら、例えば昔なら悪いことをする大国家がいたとしてもそれに対抗する別の国家が存在することができた。だが唯一の大国家が1つだけの世界になってしまった時、間違った道を行く巨大な社会を、誰が止めることができるのだろう。

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