ダーウィン以来、ワンダフルライフ、人間の測りまちがい「グールド著作」

エッセイシリーズ

 専門家向けの論文、一般向け書籍のどちらにおいても、非常に大量の文章を書いたことで知られるグールド(Stephen Jay Gould。1941~2002)だが、 彼が20年以上、毎月欠かさずに連載を続けたエッセイの多くを収録している全10冊のシリーズ。
グールド博士という人の研究成果や思想の大半は、この10冊の中に収まっていると考えていい(つまり、他の多くの書において、普通に内容重複が結構見られたりもする)
グールドはよく、明確な数字として表現できるような実体のないものを無理やり数字にして、あたかもそこに実体があるかのように見せかけた詐欺的な科学研究(と彼が考えていたようなもの)について多くの批判を書いているが、ある人が書いた文章の中での内容の量というのは、少なくとも数字で表現できるという意味での実体があると思う。そんなふうに考えると(断っておくがこれはちゃんと計算した結果ではない。かなり適当である。しかし正直それほど間違ってないとも思う) 彼の生涯において、公式に出された文章にこめられた研究成果の7割くらいは、このエッセイ集に書かれてると思う(逆に言えば、彼のその膨大な研究成果のうちの多くの量が収められているのだから、それだけこのエッセイ集はすごい)

 グールドは、論争好きで斬新な理論を好むダーウィン主義者、科学から徹底的に目を背けた狂信的すぎる宗教家の敵など、科学者として多面的であったが、個人的には科学史家としての側面が、最も素晴らしかったのだと思う。後世にどのように語り継がれていようが、とにかく当時の生きていた人たちの目線になるべく立つことで、結局今も昔も本質的に変わらないと考えられる、好奇心旺盛な研究者たちの歴史を楽しく調べて、楽しく語った。
グールドのエッセイ集は、その内容の多くが、科学史家としての彼が熱心に調べて、書き綴った、知の歴史の記録でもあると思う。

ダーウィン以来

 これ自体が1冊の本として、グールドの代表作的な側面もあるが、本質的には、彼のライフワーク的なものだった、最終的には全10巻となったエッセイ集の第1作。
進化論そのものというより、進化論の成り立ち、ダーウィンがいかにそれ(自然淘汰を基盤としたダーウィン的な進化論)にたどり着き、発表するに至ったのかという研究史などへの興味も強い感じである。

 ペルム紀(Permian period。2億9900万年前~2億5100万年前)の絶滅に関して、プレートテクトニクスの影響の可能性に触れている。
ようするに、化石記録から考えて、絶滅した生物の大半は浅い水域に生息していた生物の可能性があり、そうだとすると、大陸プレートが1つの巨大なものになる時に、大陸間の浅い水域が消滅してしまうことで、多くの生物が絶滅したのではないかというもの。

 他には、SF映画でよくあるような、大きな生物が小型化した場合、小さな生物が大型化した場合に、実際にどんなことが起こるのかの考察とかも面白いと思う。

 現代人の視点から見れば笑ってしまうような昔の世界観とか、そういうものを茶化したりとかせず、ただ純粋に昔の人がその時に知り得た情報の中で、逃れることのできなかった偏見を前に、どんなふうに考えたのか。そういうことをしっかりと捉えようとする。そういう研究姿勢は、この時からすでに健在。
たとえば前成論者たちがなぜ間違ってしまったのか。彼らが考えていたとされるマトリョーシカ形式のような、例えばある女の子の中には、すでに次世代の子供を宿す次世代の子が宿っているとか、そんなふうに考える理論が、どれだけしっかりとした理論に基づいていたかとか。もしこのような説だけを(あまり知らない状態で)聞いて、バカバカしい説みたいな感じたなら、グールドの本は絶対にオススメと思う。

パンダの親指

 エッセイその2。

 個体より集団淘汰を重要視する理論に疑問を示しているところは共通しながら、遺伝子を重要視するドーキンスのような生物学者に対し批判的に書いていて、そのことに関して上からも下からも敵が現れたみたいに表現してるのがちょっと面白いと思う。
後にドーキンス自身から、「そこまでは勘違いではなかろうか」と返されたりもするのだが、遺伝子淘汰の理論は、西洋式の科学的思想に付きまとう悪習である原子論、還元主義、決定論のような願望的な物に根差しているのではないか、というように推測されている。
物理的なもの。例えばコップの水がどんな化学組成なのかとか、どのような化学反応で再現できるのかとか、そういうことは単純な還元主義で捉えられるとしても、もっとたくさんの要素がある複雑なシステムプログラムを見せている生物の世界などで、そんな考えを適用できるなどとは、それこそ非現実的と言えるのではないか。というような、後にも何度も触れられる考え方がここでも見れるか。
ある瞬間に存在している物質は単純なものだが、生物はもっと複雑である。というのは、古生物学者が持ちやすい視点というような説も聞いたことがあるが、グールドは典型的なそれかもしれない。彼自身が語っているわけだが、現在の地球生物は進化の効果が適用される歴史が作ってきたものである。この複雑な構成を、現在の世界を細かくしただけで理解できる(でなくともわかりやすく定義できる)というのはおかしな話ではないかと。そういう感じなのかも。
科学的なシステムとあまり関係ないかもしれないが、著書で時々「優れたSFはどうたら……」みたいに語るドーキンスに比べ、「あまりSFを熱心に読まない」とするグールドは、そういうところでもちょっと対照的なのか?

 長きにわたって多くの人々を騙してきたと言う偽物の古人類化石、ピルトダウン人にまつわるちょっと歴史ミステリー的な話もあって『ダーウィン以来』よりも楽しく読みやすいかもしれない。

 第五部は、グールド自身が、同僚のエルドリッジ(ナイルズ・エルドリッジ(Niles Eldredge)と共同で提唱した断続平衡説に関連する話が語られている。

 カークパトリックという人の「貨幣石圏」という、ようするに「この地球において生命の本質は岩石であった」というような仮説の話が、彼は本当に、トンデモ学者だったのかの考察と一緒に紹介されているが、以降のエッセイ本にも、こういう話は時々あって、結構楽しい。

ニワトリの歯

 グールドと意見の対立がある科学者も、この本には結構好意的というような話はよく聞く。ドーキンスも、「実に美しい本であり、全ての頁がナチュラリストの生命への愛によって輝いている」としている(ただし、少し過剰と思えるような擬人化説明への反対などは、微妙らしいが)

 人種とか性別とかの違い、知能の違いに関する怪しげな仮説に基づいた差別の話などがこれまでのエッセイにもあったが、特にもっと広い領域でのオスメスに関する話とかも目立つか。

 絶滅と偶発性というようなテーマは、この頃からよく取り上げるようになったのだろうか。

 歴史の話としては特にキュヴィエの話が印象的だった。
明確に示されている現実をねじ曲げてまで、聖書の記述を優先したというような昔の科学者の間違いに関して、少なくともそのいくつかはそれほどに的外れな中傷もないと。

 ピルトダウン事件考察の続編みたいなところもある。
ドーキンスは、「(グールドのエッセイは様々なテーマを扱うが)いいパターンの場合は、優れた生物の話をひたすらしてもらえる」みたいな感じのことを書いていたと思うが、個人的にはそれでなくても面白いと思う。

フラミンゴの微笑み

 グールドのエッセイを順に読んでいると、生物学においてその時々の最新理論というか、(少なくとも、ある1人の好奇心旺盛な古生物学者から見た)主流の考え方の変化というのが、結構実感できたりするのだが、恐竜絶滅の原因はいかにして、現代の主流である隕石衝突が関連しているという仮説になっていったのか、それが受けれれるようになったのか、というような知的ドラマがかなり垣間見れる。
グールド自身が、恐竜や恐竜の絶滅、そもそも大絶滅に強い関心を持っている人だからなおさらであろう。最初の方は、彼含む一部の少数の者だけが支持していた隕石衝突説が、段々と普通の説になってきて、はっきりそう書いてるわけじゃないけど、彼の「ほら言った通りだった」みたいな、勝利を楽しんでる感じが結構伝わってきたりする。

 体の一部がつながっている双子の話とか、場合によっては悲劇とされるような話とかを紹介しながら、哲学的な考察も増えている感じがする。
昔の(現代人からすると)トンデモ的な科学仮説が、唱えられた当時には、しっかりと考えられた見事な仮説であった。というような考察もよくしてきたグールドだが、この辺りから、宗教的な考え方も同じような感じで扱うことも増えてくる。
科学が完全でないと言えるのはなぜなのか。そういうことを主張する声も大きくなってきている感じか。

 コノドントと呼ばれる謎の動物の化石の話で、カンブリア紀の奇妙な生物ハルキゲニアが、たった1種で1つの大きな分類に含まれているというような存在として紹介されたりしている(ハルキゲニアは、現在では、とりあえずこれ1種しか発見されてない巨大分類ではないとされているが、その点に関しては後のエッセイでも触れられることになる)

がんばれカミナリ竜

 これまでの経験があって、どう書くかみたいなのが自分の中でしっかりあるし、それに今回はたくさんの選択肢からじっくり選んだから、「最高傑作と思う」と最初に書いている
これまで専門外の人々から受け取った手紙の中で、特に80代や90代の年配の人からの手紙につづられている「自然の豊かさを理解したい、生涯のあいだに知りえたことにさらに知識を加えたい」と願う気持ちが自分にも影響を与えているとしているのが印象的。

 文字通りに、生物学がほぼ全く関係ないような、野球(グールドが大の野球ファンなのは非常に有名)に関する話(つまりエッセイまるまる1つ)があったりして、エッセイストとしてかなり自由になってる感じもする。
動物磁気なるものを利用した治療(いわゆるメスメリズム)の研究など、科学がいかに迷信を暴くかというような話もある。

 マイナーだったはずのアパトサウルスという恐竜がなぜ有名になったのか、のきっかけに関しての秘密結社説が個人的にはとても面白かった。
恐竜好きな子供が、いろいろな恐竜のラテン語名をしっかりと覚えているという事実が、なんて素晴らしいことか。というような話もあるが、これはお気に入りの話題として、後々にも結構使われることになる。

 今回のトンデモ説(?)枠の1つである、動物のあらゆる体色の原因は、つまり全てはカウンターシェーディング、背景に溶け込めるような色を利用する迷彩が原因であるというのは、話題の独特さもあって、特に興味深いかも。

 進化理論を子供に教えることを法律で禁止しようとした、そういう点では悪者に扱われてばかりのウィリアム・ジェニングズ・ブライアンの話もまた、いろいろ考えさせられる。
彼は進化論を正しく理解していなかったの知れないけど、しかし大衆が、危険な思想を持つ者たちが、それをどのように利用できるかについては確かに、科学者たちよりもわかっていたのかもしれないと。

八匹の小豚

 序盤のテーマが絶滅のスケールであって、これまではあまり取り上げられなかった感じの、小集団とかの絶滅に関する考察が多め(大きな規模の絶滅に関しては、これまでのエッセイでもかなり取り上げられてきてる)
最も繁栄した生物としての微生物の話も目立っている。また、研究が進んできた遺伝子に関する話も。

 よく、おかしな話として紹介されてる気はするが、実際にどんなふうにその答が導き出されたのかがあまり触れられない印象もある、聖書の記述に基づいた世界の年齢の話が結構詳しい。

干し草の中の恐竜

 まず「(中世くらいの時代には)地球が平らだと信じられていたという神話」がなぜ信じられているのか、という話題。それは塾のようにして宗教と科学の対立という構図そのものが広く信じられているだけのフィクションということが語られている。
この辺りの話題は、後に書いた「科学と宗教」の本への繋がりも感じさせる。

 古生物学者が、化石を発見するのにどれほどの苦労をするのか、みたいな現場話もある。
そして、アルヴァレズの白亜紀末の隕石衝突説に関して、それがいったい古生物学者たちにどんな影響を与えたのかの話は、偏見というより、願望のための失敗みたいな側面が垣間見れて興味深い。

 断続平衡説の提唱者であるということから誤解されてはいるが、決して自分は、進化論における漸進主義的な考え方を完全に否定しているわけではないとしている。グールドがしっかりとこのことを語ることは少ないともされているが、そうだとしたら結構貴重?

 科学会から女性が締め出されていた時代、それでも知的好奇心の強い女性たちは、当時の一般向け科学書籍の書き手として成功する場合があった。そういう人の1人のことを調べ、そして当時女性がどのように自分の立場を受け入れようとしたのか、という考察話がある。のだが、余談的に紹介されている、その人が別の本で創造論を否定するような地質学的証拠を提出する男性学者たちを徹底的に批判している本が紹介されたりしている。そういう可能性は触れられてなかったと思うが、個人的には、そこにあるのはとてもシンプルな怒りだったのではないか、というような気がする。
つまりこういうこと。神が「そうしなさい」と言った、という話を信じて、だからそうしていたというのに、いきなり「神の話のいくつかは嘘かもしれません、すいませんでした」みたいなこと言われたら、それは怒るだろうみたいな。

 さすがに恐竜好きの古生物学者なだけあって、『ジュラシックパーク』(原作と映画両方)のレビュー的なエッセイは、ちょっと熱がこもってるように思う。

ダ・ヴィンチの二枚貝

 ダヴィンチは様々な先見的とされる研究をしたとされてきたが、そのうちの、地層と化石研究に関して、何のためだったかというエッセイがあるのだが、そこでダヴィンチが認識していたとされる世界観がどんなものだったか、という説明が面白い。のだが、それ以上に、それを理解するためにとても苦労した、という苦労話がちょっと笑ってしまう。
「大丈夫。とても苦労したが、しっかり理解したんだ。だから聞いてくれ」みたいな。

 水槽という発明が、人々が水中生物をどのように見るか、その視点の変化を探るエッセイなどは、特に、当たり前のようで、実は最近まではそうでなかった、という事実の衝撃が大きいかも。

 個人的には、リチャード・オーウェンと、彼が選択を迫られた時に、彼が選んだ、むしろその当時としては異例な、人種平等的な考え方の話が、特に興味深いものだった。オーウェンは、多くの科学史の中で、基本的には悪い人物だったとして語られがちで、ひどい場合は、「科学者としても大したことなかった」みたいな印象を読者に与えようとする作家すらも結構いるくらい、とにかく嫌われ者というイメージが強い。
もちろんグールドはいつもの通り、そんな世間のイメージが、あまりにも単純すぎる味方ということを証明するために、なるべく偏見を排除して、彼の功績を紹介したりする。

マラケシュの贋化石

 やはり切り口が見事。昔の偽物の化石騒動を通して、当時の古生物学者たちが、化石というものに、古代生物にどんな認識を頂いていたのか、ということを見事に考察する。
他に、かのガリレオ・ガリレイその人も、登場人物として出てくる、子宮石の話など、昔の化石研究がとにかく興味深い。

 全体の構成として、特定の時代の研究に焦点が当てられてる感じで、歴史エッセイ的な雰囲気が説くに強いかも。
その中でも特に注目すべきは、そのエッセイで初めて公表された情報も普通にあるという、ラマルクに関する話であろうか。時に神秘的な仮説と語られたりもする「獲得形質の遺伝」という考え方を、彼自身はどんなふうに捉えていたのか。そしてあまり注目されることのない晩年の彼の思想の変化。

 これまでに、あるようでなかったdinosaur(恐竜)という名称そのものに関するエッセイもある。

ぼくは上陸している

 最後のエッセイであり、普通に個人的な話が結構多い。そのためかむしろ、エッセイ集という感じは一番強いかもしれない。

 ここにきて、evolution(進化)という、進歩を思わせるような意味合いがはなからあったという単語が、今でもそういう意味で使われることがあるのかどうかといった話とかがある。

 なんとなく、『マラケシュの贋化石』とついになっている感じもする。ブルーメンバッハやティーデマンという、科学的に人種の平等を明らかにしようとした人たちの話など、自然を研究する人間というよりも、人間という生物を研究する人間というような話が少し多めな印象がある。

ワンダフルライフ

 おそらくグールドが書いたすべての書籍の中で最も有名なものではなかろうか。(この本が書かれた時点での)カンブリア紀の奇妙な生物たちの研究成果、それにその研究史が語られていて、そこから、自らが好む断続平衡的な世界観を熱心に説明している。
特にこの研究に直接関わったそれでなくても、その変遷を興味深く見ていた生物学者たちの関心と興味、それに何よりもセンスオブワンダーを知ってほしいと、予備知識として解剖学的研究の知識とかを書いたりしている。
ドーキンスはこの本に(ちょっと大げさで混乱を引き起こしかねないような本として)否定的ではあるのだが、普通ならとても退屈なはずの研究手法の話をそれなりに楽しく読ませる文章は、匠のそれであると述べている。

 個人的には、書かれてる科学的成果は古くなっても、研究史の本としては、やはりとても優れているのではないかと思う。

フルハウス

 野球の話題と、バクテリアの話題ばかりというような感じではある。全体的に、関連がないわけではないのだが、どちらの話も個々の話題として楽しめられると思う(逆に言えば、あまり興味がない方は読み飛ばし気味でも大丈夫かもしれない)

 エッセイシリーズでも度々語っている、進化というのは進歩という根強い誤解、それに対する反証がテーマというような感じもある。
ここでいう進歩とは、ダメなものから優れたものというよりも、何を優れていると考えるかというような、結構広い意味もあると思う。例えば、生物は巨大化していく傾向にあるというのは本当にそうなのか、仮にそれが幻想なのだとしたら、なぜそんな誤解が生まれるのだろうか、そういうことが熱心に語られている。

人間の測りまちがい

 知能の研究というよりも、知能をどのように測るか、その方法論の研究の歴史という感じの本。
脳の大きさと人種間の違いなどの研究から、知能指数(IQ)の定義や活用法の研究。数学的手法で、一般には難しいと考えられている因子分析(心理学において、心理的能力を測定するための手法だが、汎用性があるともされる)についての、幾何学的にとらえた説明もある。

 ただこのような、知能が遺伝するかどうか、遺伝すると考える人の差別があるか、みたいな話において、時に気になるのはやはり、知能テストがどのような基準で行われるのだとしても、それで低い結果だったら、つまりそれは絶対的に悪いことなのかということ「バカは社会で役に立たないから、なるべくならいらない」という考えがあったりするのだろうか。
ただただ実用的に考えるとしても、自然だろうが社会だろうが環境というものは変化していくものだ。集団を構成する個々に求められる能力も変化していくものであろう。そうなると、今の社会で役に立つ、優れていると考えられるものばかり残し、最終的にそればっかりになるというのは、どういうことになるのか。

神と科学は共存できるか

 科学と宗教はそれぞれ全く別のことを追求する方法であるという、「NOMA(Non-overlapping magisteria。重複しない教義)」なる概念を用意し、そうした考え方がどのようなものかをひたすら紹介しているというような本。
徹底的に宗教のことを(それが原因となってきた、なっている多くの悲劇を語りながら)批判し、なぜ神はいないと言えるのかをひたすらに説明したような、ドーキンスの著書『神は妄想である』と比較すると、両者の宗教への考え方が違いがよくわかる(ちなみにあちらはこちらを批判している。もしグールドがその時に生きていたなら、どのような反応をしたのかはちょっと気になる)。

 宗教というもの自体にあまり興味がないと、異色的に感じるかもしれない。解説されている歴史に関しては(他の本でもけっこうそうだけど、この本では特に)ほぼエッセイ集とかぶっていると思う。

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