「チキンラーメンとカップヌードルの歴史」伝説の開発者、安藤百福の人生

カップヌードル

「転んでもただでは起きるな。そこらへんの土でもつかんでこい」
「人生に遅すぎるということはない。何歳からであろうと、いつでも新しい出発はできる」
「素人の発想が正しいこともある。素人だからこそ、常識を超えた発想ができる」
「ぶち壊してしまえば必ず後から何かの芽が出る」
「明日になれば、今日の非常識は常識になっている」
by.安藤百福。

転んでもただでは起きるな

商売と数学が好き

 1910年3月5日。
日本が韓国を併合し、軍事大国として歩み始めていた時代に、安藤百福は生まれた。
この男こそ、後に、日清食品を立ち上げ、チキンラーメンやカップヌードルを開発した、その人であった。

 安藤は、日本が植民地としていた台湾で生まれた。
彼は幼い頃に両親を亡くし、二人の兄と一人の妹とともに、祖父母のもとで育てられた。
祖父は服屋さんで、店はよく繁盛していたらしく、商売に関心を持ったという。
また、そろばんが好きで、数学にも強い関心を持っていた。

最初の事業

 学校を卒業すると、安藤は祖父の仕事を手伝い始めた。
そして、お世話になった人からの誘いで、2年ほど図書館の司書として働いた後、自分でも商売を始めてみたいと考えるようになった。

 誰もやっていない新しいことをやりたいと考えていた彼は、メリヤス(編み物)の 会社を設立した。
この初の事業は、なかなか成功したと言う。

 やがてまた安藤は、人の勧めで、東京までやってきた。
チャーターした飛行機のパイロットが、操縦してみるか?と聞いてきたので、操縦してみたらしい。
それなりに楽しみ、しかし、なんと恐ろしいことをしたんだと、後で恐ろしくなったらしい。

ひどい不幸

 事業が軌道に乗ってくると、やはり学問をおさめていないと肩身が狭いと思うようになった安藤。
十数人の社員を抱えながら、彼は夜の時間に学校に通い、1934年3月2日に、一応は修了のはこびとなった。

 やがて、世界対戦の時代になって、 貿易の仕事がやりづらくなり、繊維の仕事に打ち込める状況でもなくなっていった。

 そしてそのうちに、軍用機の部品などを製造する会社の経営を、知人と共同で始めた。

 資材は国から支給される。
だがある日、資材担当の社員から、「数が合わない、もしかしたら横流ししている人間がいるかも」と伝えられる。
それはかなりまずい。
時代的に、殺されたって文句は言えない状況であった。

 警察には管轄じゃないと言われ、憲兵隊に出向いた安藤。
だがどういう訳か、疑われたのは安藤自身で、いくら「自分は被害者なんです」と訴えても、聞き入れてもらえなかった。
 ひどい拷問を受けた。
殴られ蹴られ、犯人であることを認める自白調書に、「判を押せ」と強要された。
だが安藤は抵抗した。
 嘘などついてない。
正義は自分の方にあるのだと信じていた。

人間は所詮、動物

 拷問される時以外は、小さな部屋に6、7人の男達と放り込まれ、ひどい環境だった。
支給されるのは、汚れて臭い食器に乗った麦飯と漬物だけ。
毎日、食事も辛い。
 しかしある日、突然気づいたという。
「所詮、人間は動物。飢えれば死ぬ、食べれば生きる、それだけだ」 人間にとって最も必要なのは食べ物じゃないか。

 しかし、拷問は続き、もう死ぬんじゃないかというような危機は、あっさり終わった。
彼の状況を知った、昔からの知り合いである陸軍の人が、あっさりと救出してくれたのである。

 後になって、資材の横流しをしていたのは共同経営者だということも判明した。
ただ、 2ヶ月ほどだった、このひどい経験は無駄ではなかった。
安藤百福は、転んでもただでは起きない男だった。
悲惨な状況に堕とされ、しかし彼は、一筋の光を掴んでいた。
食への気持ちだ。

一からまた、やり直そう

 1945年に世界大戦は終わった。
日本にとっては、敗北という形で。

 安藤が、事業の中心として使っていた事務所や工場などは、全部灰になってしまった。

 また安藤が、妻である仁子(まさこ)に出会ったのは、戦時中のことであった。

 瓦礫ばかりの戦後の街。
一からまた、やり直そうと考えた安藤の目に映ったのは、空腹で死んでしまう餓死者達の姿。
 安藤はこの時36歳。
この頃だった。
他のすべてをやめて、食の道に行こうと思ったのは。

中交総社。サンシー殖産

 安藤が本格的な食品事業を始めたのは、1948年9月のことだったとされる。
彼は、泉大津市に、加工食品を主として扱う、中交総社を設立した。
翌年には、サンシー殖産と、商号を変えて、大阪市北区の方に移転している。

 必要とされているのは、食だということは間違いなかった。
 そして、ある寒い冬の夜。
安藤が街を歩いていると、30mほどの長い行列ができているのを、彼は見かけた。
行列は、一件の屋台に続いていた。
 人々が寒さに震えながら待っていたのは、温かいラーメンだった。
「日本人は麺が好きなんだ」
この時、安藤は強く思ったという。

ほんとに全てを失って

 安藤は食品事業を本格的に始める前から、職のない若者たちを集め、 ほとんどボランティアのように、潮作りという仕事を与えてやっていた。
しかしある日突然、彼らへの給料に対する税金が納められていないとして、脱税の容疑をかけられてしまう。
 裁判は完全なデキレースで、言い分は一切聞いてもらえず、安藤は財産を差し押さえられ、工場も家も、とにかく安藤名義の不動産は全て没収された。

 安藤は弁護団を引き連れ、訴訟を起こした。
 また当時、アメリカにならったという、税の厳しい徴収に、国民の間では反対運動も起きていた。
税務当局としては、訴訟を起こした安藤が。反対運動を勢いづかせることになりかねないと思い、訴えを取り下げたなら釈放するという妥協条件を提案してきた。
 安藤はしかし、訴訟を継続しようとしたが、結局、家族の涙には勝てず、訴えを取り下げた。

 その後、1951年。
熱心に頼まれて、つい引き受けてしまった金融機関の経営にも失敗し、 安藤はいよいよ、ほぼ全ての資産を失ってしまった。
残っていたのは大阪府池田市の借家だけ。

チキンラーメン発明秘話

あったかいラーメン屋さんがみんな好きだった

 完全に無一文で、絶望的といえるような状況の中で、安藤はしかし、また立ち上がった。

 安藤の心にあったのは、身に覚えのない罪で投獄されてしまった時に、それでも生きるために食べた汚い飯。
辛い時代にあって、でも寒い夜に、行列を待ってまで、人々が楽しみにしていた、あったかいラーメンだった。

 昔馴染みの大工さんに頼み、庭に小さな小屋を作ってもらい、そこで研究を始めた。
誰かを雇う金などないので、もちろん一人で。

研究の日々。瞬間油熱乾燥法の開発

 中古の製麺機を手に入れ、大きな中華鍋を買い、ひたすらに研究に没頭した。

 朝早く起きて深夜までひたすらお家に閉じこもる日々が1年以上続いた。

 安藤には、自身が目指すべきものは見えていた。
消費者に作る手間を取らせない。
あらかじめ味の染み込ませた麺に、お湯を注ぐだけで作れるような ものだ。
 しかし、小麦粉の中にスープを練り込むと、完成した麺はボロボロとなった。
ある時、気づいたのは油を使う方法だった。
麺を油につけ、水分を外にはじき出し、乾燥した状態に変える。
さらに水分が抜けた後には、無数の隙間が出来るから、そこに熱湯を注ぐと、お湯は吸収され、スープは溶け、麺は柔らかい状態に戻る。

 こうして彼は、瞬間油熱乾燥法という、即席麺を作るための製法技術を開発し、特許登録したのだった。

 そして肝心の味付けには、チキンを選んだ。

お湯をかけてすぐに食べられる魔法のラーメン

 1958年の春 いよいよ即席麺は試作品を作る段階になっていた。
妻はもちろん、母や子供にまで手伝ってもらった、家族総出の調理。
 1日に作れた数は400ほど。
安藤はとにかく、あちこちの知人にその試作品を食べてもらった。
褒めてくれる人もいた。
貿易会社に務める知人もいたから、試しにサンプルをアメリカに送ると、すぐに「500ケースほど送ってくれ」という注文が来たという。

 6月。
大阪梅田の阪急百貨店で、いよいよ安藤は、試食販売を行った。
「お湯をかけてすぐに食べられるラーメンです」
なんて言っても、そんな商品はそれまでなかったから、誰もが半信半疑だった。

 だからこそ実際に、丼に入れて、お湯をかけるだけで出来上がる その様子を見て、人々は心底驚いてくれた。
みんな試食しては買ってくれた。
 そうして、用意した500食は、すぐさまなくなってしまった。

 お湯をかけるだけで食べれるラーメン。
誰かがこう例えたという。
「これはまさに魔法のラーメンだと」

 こうして安藤は、48年もの間、何度も何度も落ちぶれそうになりながら、しかししつこく起き上がり、チキンラーメンを開発したのだった。

どうせやるなら日本一のラーメン屋さんに

 安藤は借金をして、また工場を用意した。
安藤は妻に、
「ラーメンの仕事をやるぞ」
と告げた。
仁子は、
「どうせやるなら日本一のラーメン屋さんになってください」
と返したという。

 会社名は、また、サンシー殖産とした。

 ある日、チキンラーメンを入れた段ボール箱を運んでいた仁子に、友人が聞いてきた。
「ご主人は今何をされてるんですか?」
仁子は答えた。
「ラーメン屋さんです」
それで友人が驚いたことにムッとした仁子は、力説した。
「主人は、この事業が将来必ず、ビール会社のように大きくなると言ってます。何せ、ラーメンはビールと違って税金がかからないですから」

チキンラーメンの大成功

 安藤はチキンラーメンの営業を始めたが、どの店もあまり良い反応ではなかった。
しかしとにかく
「置くだけ置いてください。代金は売れた時で結構です」
と言って、なんとかそれを置いてもらう。

 チキンラーメンが、正規の販売商品として売り出されることになったのは、1958年8月25日のことだった。

 それから少しして、安藤のもとに、連続して、何度も電話がかかってきた。
こんなものが売れるのかと疑問視していた、色々な店からの注文の電話だった。
「現金前払いでいいから。できるだけたくさん回してくれ」
「トラックを出すから、とにかくいっぱい売ってくれ」

 チキンラーメンを求める消費者の声は、大津波のように押し寄せた。
そしてチキンラーメン発売から4ヶ月後。
1958年12月20日。
サンシー殖産は、日清食品と商号を改めた。

インスタントラーメンは体に悪い伝説の始まり

 チキンラーメンはあまりに売れすぎ、チキンラーメンという商品名と、即席麺の製法の特許を巡って、ラーメン業界に大きな戦争が勃発した。
みそラーメン「サッポロ一番の歴史」史上最高のインスタントラーメンはいかにして生まれたのか 何より最悪だったのが、チキンラーメンを名乗る粗悪品が多く出回り、即席麺という商品自体への世間の信用が大きく下がってしまったことであった。
インスタントラーメンは体に悪いという都市伝説は、この時代に誕生したのである。

カップヌードル開発秘話

丼もないし箸もない外国

 1966年になって 海外の人にチキンラーメンをお出しする機会があった だが欧米には丼というものがそもそもなかった 彼らはチキンラーメンを 二つに割って紙コップに入れてお湯を注いでフォークで食べた
これが新商品開発への、大きなヒントになった。

 欧米には、丼もないし箸もない。
もし世界で売れるような即席麺を作るなら、それはカップに入っていて、フォークでも食べれるようなもののはず。

発泡スチロール、フリーズドライ、カップヌードル

 試行錯誤の末、カップの素材は発泡スチロールに決めた。
しかし、お湯を注いでも大丈夫で、変な臭いもなく、まさに食品容器にふさわしい品質にまでするには、かなり苦労した。
結果的には、その容器の開発研究は、世界の食品容器に採用されるほどの、技術革新にまで繋がったという。
 
 具材の乾燥にはフリーズドライという製法を採用した。

 発泡スチロールにしても、フリーズドライに関しても、当時の日本の技術水準は世界的に低く、他社があてにならなかったので、安藤は、それぞれの技術専門の子会社を作り、自分たちの手で開発を進めた。

 この新しい商品に関して、安藤はアメリカの広告代理店にネーミングを依頼する。
当時、アメリカではラーメンという言葉は一般的でなかったので、世界に通用する名前ならヌードルの方が良いと提案された。
 そうして、後に全世界で知れ渡ることになる、カップヌードルという名称が誕生したのだった。
 

おいしいけど、これはちょっと

 1971年5月。
日清は東京で、カップヌードルの発表会を開いた。
 しかし、期待とは裏腹に、そんなに反応は良くなかった。
 マスコミからも、店からもそんなに高い評価はなかった。
そもそも日本には、昔から家族で食卓を囲み、みんなで食べる習慣があるのに、立ったまま食べるのを推奨するようなこの商品は、そんなに良くないのではないか、というような意見まであった。

 そんなだから、チキンラーメンの実績があったにも関わらず。カップヌードルの販売ルートは閉ざされていた。

良い商品なら、必ず世の中は気づいてくれる

 安藤は、若手の営業社員達に、通常の食品ルート以外への販売を指示した。
 販売地域は東京都内。
車に商品とお湯のポットを積み、彼らは、百貨店、遊園地、鉄道、官公庁、警察、消防署、自衛隊、旅館などを巡った。

 ちゃんとした販売ルートも確保できないなんて、この商品は危ないかもしれない、という声が社内に高まった。
安藤は社員を、自信を持って励ましたという。
「良い商品なら、必ず世の中は気づいてくれる、だからそれまでの辛抱だ」

 安藤はアメリカで、フライドチキンやハンバーガーなどを食べながら歩く人々を見ていた。
日本でも必ずそういう食べ方が受け入れられる時がくる。
その時、日本人は何を食べるか。
日本人は麺が好きなんだから、必ずカップヌードルは、日本のファストフードになるはず。
そういうふうに考えていた。

 最初にカップヌードルを買ってくれた人達は、埼玉県の陸上自衛隊の人達だったという。

試食販売の大成功

 1971年11月。
安藤は銀座で、カップヌードルの試食販売をした。
街を歩く若者達は、最初の誰かが食べ出すと、たちまち人だかりを作り、その場でお湯を入れてもらって、歩きながら美味しそうに食べてくれた。

 歩きながら食べるようなカップヌードルなんて良くない。
新しい世代の人達は、そんなふうに思ってなかった。
カップヌードルは、1日だけで2万食も売れた。

運命の時。浅間山荘事件

 しかし、あいかわらずスーパーなどでは取り扱ってくれなかったので、安藤は、給油設備を備えた自動販売機を作ろうと考えた。
このお湯の出る自販機というのは、当時それ自体が画期的なものでもあった。
この、自販機のカップヌードルは大好評で、やがて通常の食品店も、カップヌードルは売れると認識するようになっていった。

 そして 1972年2月。
長野県の浅間山荘に、テロ組織が人質をとって立てこもるという、いわゆる浅間山荘事件が起きた。

 緊迫した現場中継。
それにより、テレビに何度も映ったのだった。
雪の中、寒さに震える機動隊員達が、あったかいカップヌードルを食べている姿が。

 当時、カップヌードルが納入されていたのは警視庁の機動隊のみだったから、他の県警や報道陣の人達から、すぐさま自分達にも送ってほしい、という電話が日清本社に殺到したという。
 視聴率的には、日本人10人に8人がその時、この中継を見ていたらしい。
そして、まだ世間にあまり知られていなかった、その美味しそうなカップのラーメンを見た人々は、口々にこう言った。
「あの食べ物は何なんだ?」

たった一人で奇跡を起こしたミスターヌードルに感謝

 2007年1月5日。
安藤百福は、ほとんど一世紀にも及ぶ、その生涯に幕を下ろした。

 ニューヨークタイムズ紙は、「ミスターヌードルに感謝」という記事を掲載した。
 記事は、戦後の日本が生んできた様々な多くの独創的な発明品。
例えば、ホンダの車や、ソニーの音楽プレイヤーは、たいてい会社や組織というようなチームが生み出した奇跡。
だが、インスタントラーメンは、安藤百福というたった一人の男が、紛れもなく独力で作り上げた、労働者階級のための安くて美味しい最高の発明品だと称賛したものだった。
 「人に魚を釣る方法を教えてやれば、その人は一生食べていけるだろう。だが、人に即席麺を与えたなら、もうその人には何も教える必要がない」

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