「中華の四大料理」個々の特徴、いくつか代表的料理の話

レストランの中華料理

北京料理、上海料理、広東料理、四川料理

 中華料理の四大と言えば、北京料理(ぺきんりょうり)、上海料理(しゃんはいりょうり)、広東料理(かんとんりょうり)、四川料理(しせんりょうり)である。

 北京料理は、山東料理(さんとうりょうり)とも言い、モンゴル族や、イスラムなど他民族の影響を強く受けているという。

 上海料理は、蘇州や杭州やその周辺地域の、様々な料理をひとまとめにした呼び方。

 広東料理は、亜熱帯地方の、豊富な食材と、新鮮な海産物がうりの料理。

 四川料理は、内陸部の乾燥した地域の、唐辛子や香辛料を豊富に使った料理。

 広東、四川以外をより細かく、山東(さんとう)、江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)、安徽(あんき)、福建(ふっけん)、湖南(こなん)に分けた、八大料理という分類もあり、こちらの方が中国国内では一般的だという。

孔子と儒教の影響。小さな店の人達。北京、山東料理

炒め物、鴨の丸焼き、焼肉

 北京料理はもともと山東省から移民としてやってきた人達の料理が始まりにあるとされる。
山東省は、儒教の開祖である孔子の出身地であり、古くから料理の盛んな地域であった。

 明(みん。1368~1644)の末から、清(しん。1644~1912)の初期くらいに北平(北京)に移住してきた、山東の人達は、それぞれは小さな店を、開き、営んだ。

 炒め物を売る店は「盒子鋪(ほーすぷー)」。
鴨の丸焼きを売る店は「鴨子鋪(やーすぷー)」。
焼肉を売る店は「肘子鋪(ぢようずぷー)」と呼ばれた。

 鋪というのは、簡素で小さな店のことで、大規模な店は堂(たん)という字がついた。
古い中華料理「中華料理。古代から中世までの歴史」本当に浅いのか

さっくり軽くて柔らかい

 北方地方の料理が、北京料理と呼ばれるようになったのは、実は中華人民共和国が成立した1949年以降のこととされている。

 1928年、欒鯉庭(らんりてい)という人が開いた、豊沢園飯庄(ほうたくえんはんしょう)という店は、それまでは脂ぎっていた北方料理を、あっさりした薄味に変えた。
 欒鯉庭の山東の珍味を用いた創作料理は、人気となり、北京のあちこちで、彼を真似た料理店が生まれた。

 そんな訳で、欒鯉庭以降の北京料理の信条は、清鮮脆嫩(チンシェンツィネン)。
つまり、清(さっぱり)、鮮(持ち味を生かした)、脆(さっくり軽い)、嫩(しっとり柔らかい)、と言われている。
 だがその清鮮脆嫩な北京料理は、実は一軒の料理店が1930年代くらいから始めた、かなり特色的なものだったのである。

中国の水餃子。日本の焼き餃子

 単に餃子と言えば、本来は茹でるものである水餃子の事を指していた。
焼き餃子は、「鍋貼(グオテイエ)」と言う。
この焼き餃子は本来、労働者達が屋台などで食べる安っぽいものだった。

 ところが1970年代くらいから日中の国交が回復し、日本の餃子を食べたいという人が増えだした。
そこで、北京の料理店のいくつかが、日本の客のために、日本式、つまり焼き餃子を作り始め、中国の料理店でも、それが食えるようになった。

ごちゃ混ぜが美味い。上海料理

屋台のお手軽料理。持ち込まれた様々な郷土料理

 上海料理は いくつかの地域の料理のまとめた呼び方なので、当然のごとく、その内容は幅広くなっている。

 もともと上海料理と言われていたようなのは、屋台などで提供される、「豆腐血湯(ドウフーシエタン。豆腐と豚の血のスープ)」や、「紅焼草魚(ホンシヤオツアオユイ。草魚の醤油煮)」といった、シンプルな料理だったという。
 安価で手間がかからず、かつそれなりに栄養がある料理。
上海港には、農村から出稼ぎ労働者としてやってきた、船乗り達が多く、彼らが求めてた食こそ、そういうお手軽な上海料理だった。

 世界大戦以前の上海は、魔都と呼ばれ、 貧富の差が激しく、成金と貧乏人と、多くの外国人達が共存する地域だった。
 また、近隣地域からの移民労働者も多く、彼らが持ち込んだ郷土料理が、ごちゃごちゃに混ざり合うことで、シンプルだった上海料理は、ずいぶん多彩となったという。

八宝菜を広めた政治家

 八宝菜(はっぽうさい)は、清の末頃くらいまで生きた、李鴻章(りこうしょう)という政治家が、広めたとされている。 

 ある時、友人宅で出された、友人の妻の、ありあわせ野菜煮料理が、美味しかったから、周りに広めまくったのだとされる。
 他にもいろいろ説があるが、とにかく、案外美味かった、ごった煮の野菜料理が、八宝菜なのだという。

ゲテモノ料理の源流。広東料理

飛ぶものは飛行機以外、四足は机と椅子以外、全て食べる

 南宋(なんそう。1127〜1279)の時代に、「不問鳥獣虫蛇、無不食之( 鳥肝の虫蛇問わず、食さぬものなし)」という言い回しがあったらしい。
そして、後の時代には、「広東料理は、飛ぶものは飛行機以外、四足は机と椅子以外、全て食べる」と言われるようになった。

 広東料理こそ、東洋が誇る、ゲテモノ料理文化とされている。
少なくとも、古くから、 もっともなんでも食べてきた文化とされる。

 広東は、高温多雨な亜熱帯地域であり、 穀物や野菜はよく育ち、野生動物も多くいる。
温度「気温の原因」温室効果の仕組み。空はなぜ青いのか。地球寒冷化。地球温暖化 様々な新鮮な食材が溢れた、この地域の人達は、「死んだ魚は食べない」という。
広東料理は、単に懐広いばかりでなく、新鮮さを信条としている訳である。

 そして、 新鮮さを売りとする広東料理は、もちろん食材の本来の味を生かす、あっさり仕上げとなる。
過熱時間も短いのが基本。
清鮮嫩爽滑香(ちんしぇんねんしゅあんつあしあん)。
爽(さっぱり)、滑(なめらか)、香(香りよい)である。
 ただ、中華料理の中でも、広東料理は、調味料が非常に多く使われるのも特徴。
料理と共に用意される、様々な合わせ調味料は、各自の好みに合わせて使うのだという。

フカヒレスープ。真のフカヒレ

 中華料理の高級珍味と言えば、フカヒレであろう。

 フカヒレスープと、真のフカヒレは違うと言われる。
真のフカヒレを味わうなら、やはり姿煮だろう、というものらしい。
 サメのヒレから取られるフカヒレは、新月が半月状の形をしていて、たいていの場合、幅は広いところで5〜6cmぐらい。
それが肝心な部分で、姿煮に使われるのは、その部分なのだという。
 そして、その肝以外の切れ端群が、フカヒレスープに使われるのだという。

 フカヒレが食用に使われる出したのは、16世紀くらいからとされる。
最初は沿岸部の人達にしか知られてもなかった。
 李時珍の「本草綱目(ほんぞうこうもく)」には、「いろいろ種類は多いが、どれも非常においしい」と記述されている。

 また諸々の記録から、現在に近い形のフカヒレ料理が完成したのは、18世紀末か19世紀初頭くらいの頃とされている。

激辛、ピリ辛、大量の唐辛子。四川料理

きゅうり、胡椒、大豆、にんにくの輸入

 高い山々に囲まれ、西にチベット高原、東に四川盆地が広がる四川省も、 古くから料理文化が育まれてきた地域である。
 四川省は「天府(てんぷ。天然の倉)の国」と呼ばれるほどに天然資源が豊富で、蒸発した海水が残した岩塩が、この地の料理文化の黎明期において、重要だったろうとされている。

 漢(紀元前206〜紀元220)の時代。
漢の仏教「漢王朝」前漢と後漢。歴史学の始まり、司馬遷が史記を書いた頃 四川省にはすでに、西から、きゅうり、胡椒、大豆、にんにくなどの食材が、輸入されていた。
 それが、三国(184~280)は蜀(221~263)の国にて、四川料理は、大きく開花したのだという。

辛く、痺れて、香ばしく、煮崩れはしない

 麻辣咸酸苦香(まーらーしえんすあんくーしあん)。
そして酥鮮嫩(すーしえんねん)。
麻(痺れる)、辣(唐辛子の辛さ)、咸(塩辛さ)、酸(すっぱい)、苦(苦い)、香(こうばしい)、酥(さくさく)である。
 四川料理は、唐辛子や胡椒を使い、それらの特色を生み出している。

 また、「煮崩れない」のも四川料理の特徴で、 長時間煮込む料理であっても、基本的に四川料理は、原型を留めるようになっている。

麻婆豆腐。アバタ面のおかみの豆腐料理

 麻はアバタ面、婆はおかみさん、で豆腐。
つまり麻婆豆腐は「アバタ面のおかみの豆腐料理」という意味なのである。

 麻婆豆腐生誕の地は四川省の古都、成都。
清(1644~1912)の時代も、かなり終末に近い頃。
おそらくは1870年代くらい。
麻婆豆腐は、小さな豆腐料理店の女主人、陣(ちん)が発明したとされている。
彼女の顔にはアバタがたくさんあって、常連客たちから、麻婆(アバタおかみさん)と呼ばれていた。

 麻婆は、安い食材を使って美味しいものを作る達人だった。
そんな彼女が創作した、唐辛子、ごま油、にんにく、胡椒、山椒をたっぷり豆腐と合わせた、彼女の激辛豆腐料理は、名前もない、単に常連客のための特別メニューだったとも言われる。

 しかし、この麻婆の豆腐は、あまりに美味かったので、他の店も真似をするようになり、だんだんと、四川中に広まっていき、そのうちに定着したのだった。
麻婆豆腐「おいしい麻婆豆腐の為に」レシピ本。豆板醤他、中華調味料の超おすすめ

鶏とカシューナッツ炒め

 日本では、「鶏とカシューナッツ炒め」として知られる宮保鶏丁(ごんばおじーでいん)は、誕生した頃は、カシューナッツでなく、ピーナッツを用いていたとされる。

 清代末期。
四川省総督になった丁宝楨(ていほうてい)は、 鶏肉料理が大好物だった。
 四川に赴任したばかりの頃。
彼は、鶏肉をピーマンと一緒に塩で炒めていたが、そのさっぱりした味付けが、どうも四川省の暑い夏にも、寒い冬にも馴染まない。
 そこで彼は、唐辛子、胡椒、それにピーナッツを合わせて鶏肉を炒めてみた。
それが、宮保鶏丁の、最初の品だった。

 ピーナッツがカシューナッツに取って代わられた時期は謎だが、 元々は貴重品とされていたピーナッツが、だんだんと庶民の味となってしまい、 高級感を取り戻すために、輸入品のカシューナッツが使われるようになったのではないか、という説がある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA