「公儀隠密」御庭番、目付け、伊賀者たち。江戸時代の忍者

隠密

江戸時代の将軍に仕えた忍者たち

 戦国時代を終えた後。
徳川が天下を取った江戸時代は、それなりに平和な時代だったと言われている。

 乱世の世では、各大名によく利用されていた、忍者たちであるが、江戸時代には多くがその役目を終えた。
 しかし忍者という役職が全くなくなったわけではなかったようだ。
彼らは時に、世界で初の諜報組織と言われることもあるが、江戸時代、将軍に仕えた彼らはまさしくそうだった。
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 幕府は、各はん、つまりは、将軍の下の立場ではあるが、一定の権力を持つ諸侯たちが支配する領域に忍者を送りつけ、不正などがないかを探らせたりしていたのだ。

公儀隠密の仕事。恐るべきだった薩摩藩

 藩の者たちは、 実際にやましいことをしている場合はもちろん、潔白だとしても、言いがかりをつけられはしまいかと、自分たちに探りを入れてくる忍者たちを、『公儀隠密こうぎおんみつ』と呼んで恐れていた。
 公儀隠密とは、そのまま、公儀(幕府)の隠密(忍者)である。
この言葉は公式のものではなかったようだ。

 また、 幕府に報告をされたらまずいことを抱える藩が、公儀隠密の抹殺を企てるということもあったらしい。
藩は、いつ来るかわからない公儀隠密に対する対策を常にしていたとも言われる。
 薩摩藩さつまはん(鹿児島県)などは凄くて、隠密側からも、「あそこに調査に行った者は帰ってこれない」と恐れられていたという。

隠密同心の伊賀者

 公儀隠密は、藩側が勝手に使っていた呼び名だが、江戸を通じて、彼らもいくらか変化していっている。

 成り立ったばかりの頃の幕府が抱えていた忍者は基本的に伊賀者であったとされる。
彼らは隠密同心と呼ばれていたそうである。
しかし伊賀忍者の多くは、第3代将軍家光いえみつの時代に、単に下級武士として生きるようになっていった。

 それまでの忍者に代わって、監察任務を行うようになったのが、『大目付おおめつけ』と「御目付おめつけ」という幕府内組織である。
大目付は、大名などの地位の高い人物の監視。
お目付けは、その他様々な裏の事情の調査を行っていた。
その役割からお目付けは「横目」とも呼ばれていたという。

 また、8代将軍吉宗よしむねの時代には、将軍直属の隠密部隊と言われる『御庭番おにわばん』が登場した。

 他には、幕府の者たちではないが、有名な時代劇である「忠臣蔵ちゅうしんぐら」の物語で活躍する「赤穂浪士あこうろうし」たちは、敵を探るために各地で散らばった同志たちが隠密活動をしていたとされる。
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忍者の衰退

忍者でなくなることを拒んだ者たち

 甲賀、伊賀に関わらず、戦国時代に凄腕でならした忍者たちも、戦国最後の戦いと言われる、大阪の陣の頃には、もう忍び独特の技というものの必要性はかなり薄くなっていた。
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 豊臣、徳川のどちらも、その火薬の知識のためか、忍者を鉄砲隊として雇った。
しかし、例えば甲賀忍者300人が、徳川からの参戦依頼を断ったという話が残っている。
忍者は、自分が特別な技を持つ忍者であることを誇りを持っていたようである。
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大奥で屈辱を堪える

 新しい江戸の時代となって、幕府に仕える事になったかつての忍者たちは、大奥や大名屋敷の警備任務などが主な仕事となった。

 大奥においては、「男の影は最小限に」という決まりからいつも女たちに背を向けていた彼らは雪合戦の日に雪玉を投げられたりといたずらされることも多かったようだが、そんな屈辱にも黙って耐えるしかなかった。

島原の乱における活躍

 そして寛永かんえい14、15年(1637~1638)。
肥前ひぜん(長崎と佐賀県の辺り)の唐津からつ島原しまばらを中心に起きた、「島原の乱」と呼ばれるキリシタンたちの反乱の時。
幕府の派遣した軍の道中に、甲賀に残っていた忍者100人くらいが姿を現した。
彼らは、金を稼ぐすべもなく、ここに至ってついに幕府入りを志願したのである。
 100人のうち10人ほどがすぐさま軍に加わったようだが、敵の立てこもる本拠地から米を盗み出すなど、なかなか活躍したようである。

 島原の乱は、忍者が戦争の道具として活躍した、最後の戦いだったと言われている。

大目付、御目付、隠れ目付

 忍者は本格的に、ただ鉄砲が得意な下級武士に変わってしまった。
ただし、一部の者には隠密としての役割が残った。
なぜだか、隠密に選ばれたのは伊賀者だけだったという話もある。

 しかし徳川政権が安定し、大名の反乱の心配が減ってからは、伊賀者も隠密任務から外された。
そして監視任務を行うのは、公的な組織「大目付」と「御目付」に変わる。
 また、監視任務を行う者としては他に、大名などの不正不備調査のために、定期的に各大名に派遣されていた巡見使じゅんけんし
大名の跡取りが幼少な場合に、その後見役の人物を調べるために派遣された国目付くにめつけなどがいた。

 目付と呼ばれる組織自体は、元和2年(1616)くらいに発足したようである。
 その後、寛永9年(1632)に大目付が発足。
大目付はまた、将軍でなく、将軍直属である老中ろうじゅうの直属であり、最初は「総目付」と名乗っていた。
 さらに老中の次位にあり、同じく将軍直属である若年寄わかどしよりに直属する目付(御目付)は、下級武士などの監視を幅広く担当することになった。

 目付の定員は数十人程度だったようだが、下には数百人ほどの「小目付」などと呼ばれる配下たちがいて、実際に各地の大名のもとに派遣されていたのは、「隠し目付」とか「忍び目付」などと呼ばれていた彼らだったようだ。

将軍直属の諜報機関、御庭番

 御庭番は、成り上がり将軍として知られる徳川吉宗が組織したとされる、将軍直属の諜報機関である。
御庭番という名称が付けられたのは享保きょうほう11年(1726)だったようだが、 その前身となる組織はすでに、吉宗が一介の藩主であった頃から存在していたようだ。

 吉宗が、将軍となってからかつての部下たちを再び集め、 独自の諜報機関を作った理由に関しては、三代目徳川家光より続いていた、直系ではない自分が、飾り物の将軍にならないための策略だったという説が有力である。
老中たちの操り人形で終わらないように、何よりも自分が先に周囲の情報を探る必要があったわけだ。

 お庭番は基本的に世襲制であったようだが、特別な任務につく者は、ある程度のテストをクリアした上でだったと言われている。

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