「フランツ・シューベルト」魔王的想像力と、ひたむきな音楽への愛

ウィーン

シューベルト一家

 フランツ・ペーター・シューベルト(1797~1828)は、1797年1月31日、この世に生を受けた。
場所はオーストリア、ウィーンの北郊ほっこうの方。
馬車 「オーストリア」アルプス、温泉、カフェ、辻馬車。音楽が習慣な貴族
父であるフランツ・テオドール・シューベルト(1763~1830)は、学校の教師。
母、マリー・エリーザベト・フィーツとテオドールの間には 14人もの子供がいたが そのうち成人するまで生きれることができたのは5人だけであった。
ペーター以外には三人の兄、イグナツ(1785~1844)、フェルディナント(1794~1859)、カール、それに妹のマリア・テレージア。

 シューベルト一家はもともとウィーンの家系ではなく、テオドールは移住者だったようである。

類稀なる音楽の芸術家としての才能

 シューベルトは、類稀なる音楽の芸術家。
そして、彼のように、歴史に認められるほどの才能を持っていたわけではなかったが、フェルディナントは音楽教師をしながら自身も作曲をし、カールは風景画家になったりと、根っからの芸術家一族だったようだ。

 幼い頃のペーターは、兄妹たちとともに、教師である父から、音楽を含む様々な教育を受けた。
別にそれほど特別なレッスンならというわけでもなかったと考えられているが、父は得意のバイオリンを子供たちに教え、時にはみんなで一緒に音楽を奏でたりしたようだ。

 またシューベルト一家の暮らす地域においては、音楽教育自体は、教会オルガニストのミヒャエル・ホルツァーが受け持つことになっており、ペーターも彼から、ヴォオラやオルガン、それに歌を習った。

 そして彼はその才能を存分に育て、11歳の頃には、すでに独唱どくしょう(ソロでの歌)を任されたりするほどの歌唱力も有していたという。
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 シューベルトの幼少期の作品というのは あまり伝わっていないようだが、「小さな指に和声学を持っていた」というホルツァーの言葉も伝わっている。
これは、和音(ハーモニー。複数の音を同じメロディで奏でたりすることで、音に深みを持たせる手法)をいかに使うのかを、彼が生まれつきのように知っていたということを示唆しているのではないかと考える向きもある。

曲を作るために生まれてきたような

 シューベルトが31歳という若さで死んだ時、彼はそれほど大きな名声を持っているというわけでもなかったようだ。

 彼はビジネスが苦手だったけど説もある。
根っからの芸術家で、自身の作品がどこでどのように演奏されるかということなどにあまり興味を持たず、ただひたすらにいい曲を作ることに努めた。

 彼自身も、「今のままでいいよ。僕は曲を作るために生まれてきたんだ」という手紙も残されているという。

不安定な心。明るさを隠し、内気だった少年時代

 シューベルトは11歳の頃、児童合唱団の選抜試験に合格したことで、「コンヴィクト」という国立の寄宿制神学校きしゅくせいしんがっこうに入学することになった。

 コンヴィクトで暮らした五年の期間の中で、シューベルトは、宮廷オルガン奏者ルチツカや、作曲家のアントーニオ・サリエーリ(1750~1825)から、対位法たいいほう(異なるメロディなどをうまく調和させる手法)などの教えを受けたとされる。

 この時代から、彼は明らかに創作活動にも意欲的となり、勉学の傍らで、少なくとも90曲以上の作品を書いている。

交響曲への思い入れ、歌曲への取り組み

 シューベルトは優れた芸術家であったが、そういう人にありがちな、人付き合いの苦手な変人ではなかった。
コンヴィクトで出会い、シューベルトの生涯の友人となったヨーゼフ・フォン・シュパウン(1788~1865)は、後に回想録で、彼との思い出をつづっている。

 シューベルトは基本的に生真面目で、近寄りがたい感じもあるが、音楽の才に優れ、また音楽を愛してもいたのだという。
普段は口数が少ない彼が、奏でられる「交響曲こうきょうきょく(シンフォニー)」に対しては、とても楽しそうに反応を示したのだという。

 彼は、ハイドンやモーツァルト。
そして何よりもベートーベンに夢中になった。
彼はまたシュパウンに、「交響曲に関して、ベートーベンの仕事の後で何ができるだろうか」と悩みを打ち明けてもいたようだ。
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 だが彼は結局、1813年の10月、コンヴィクトを離れる直前に、自分の「交響曲第一番二長調」を完成させた。
それは、ハイドン的な明るく生き生きとしたリズムで、元気な少年らしいと言われる。

 一方でコンヴィクト時代に書かれた、「歌曲(リート)」の多くは、死や嘆きなどをテーマとしているような、暗い雰囲気のもので、後に代名詞のようになる「魔王」への流れを思わせるともいう。

 残された最初期の作品「ハガールの嘆き」は、旧約聖書に端を発する、我が子の死を嘆く母をテーマとしている。
この歌が書かれたのは1811年とされていて、その次の年に、シューベルトの母はこの世を去った。
現実は歌とは逆になった。

夢と現実、憧れと恋

 シューベルトは、在学延長を可能にする奨学金の目処がついていたにもかかわらず、1813年の秋に、コンヴィクトを去った。
そしてこの時の彼の中には、もう作曲家として生きていく考えがあったとされている。

 だが彼は、伝統的な音楽一族の生まれでもなく、裕福な家の生まれてもない。
そこで現実的な問題として、生きていくために、父が望んだ通り教師になるための勉強を始める。

 そして1814年の秋。
ザンクト・アンナ師範学校で教職課程を終えた彼は、父の学校で助教授じょきょうじゅとなった。

 だが彼が音楽と離れることは決してなかった。
助教授を始めた頃くらいの彼は、特に歌曲の創作に熱心で、名曲とされる「糸を紡ぐグレートヒェン」や「羊飼いの嘆きの歌」などは、この頃の作品とされる。
どちらも、詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)に大きな影響を受けている作品である。

 またシューベルトは、自身のミサ曲が教会で歌われることになった時、同年代の娘であるテレーゼ・グロープにソプラノ独唱を任せたが、彼はそのテレーゼに恋をしていたとも考えられている。

詩人と作曲家

 魔王という曲は、やはりゲーテの詩に曲をつけた作品であり、シューベルトがそれを作ったのは18歳の時とされている。

 後にシュパウンが、シューベルトが作ったゲーテの詩の曲をいくらか選び、手紙とともにゲーテその人に送ったが、返事はなかったようだ。

 また、若いシューベルトは、大詩人ばかりでなく、周囲の友人の詩人のために曲を作ることもあった。
特にシュパウンを通じて知り合ったヨーハン・マイヤーホーファー(1787~1836)とは、意気投合したらしく、その詩にもシューベルトは刺激を受けたという。
「双子の星によせる方舟」、「歌の終わり」、「ポンズに寄せて」などは、マイヤーホーファーの詩であった。

 マイヤーホーファーはシューベルトの曲をとても気に入っていて、「彼が作曲してくれて、初めて私の詩は生きるんだ」などと言っていたことを、シュパウンは回想している。

 シューベルトは他には、ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)や、フリードリヒ・フォン・シュレーゲル(1772~1829)なども好きだったようで、多く曲を残している。

ハンガリーの貴族一家での暮らし

 シューベルトが教育者としての職を捨てて、完全に作曲家となったのは1817年、つまり20歳の時だったとされる。
まだ世間的には無名で、前年に家を出ることができたのは、援助してくれたフランツ・フォン・ショーバー(1796~1882)のおかげでもあった。

 共同生活などをしていく中で、ショーバーやシュパウンをはじめ、 友人たちの詩に曲をつけるということも、ますます多くなったという。

 そして、年末頃に父に呼び戻され、再びしばし助教授として働いたが、1818年の夏以降は、もう教員生活に戻ろうとはしなかった。
この年の夏休み、ハンガリーにて、貴族ヨハン・カール・エステルハージ伯爵の、二人の娘、当時16歳のマリーと13歳のカロリーネに音楽を教える機会があり、そこで貴族社会特有の、芸術的に自由な雰囲気に触発されたのかもしれないとも言われている。

 伯爵の城での暮らしはかなり楽しかったようだ。
「城はあまり大きくないけど可愛いよ。部屋はとても綺麗で、僕自身は執事の部屋に暮らしている。普段は静かだけれど、時々数十匹のアヒルがガーガー鳴いて、誰の声も聞こえなくなるんだ。みんなとてもいい人たちで、令嬢たちもいい子たちだ。今までのところは、焼いて食われたりする気配はないよ」
というような内容の手紙を、シューベルトは友人に送っていた。

 そして、この優雅な世界での楽しい暮らしの中で、後に出版もされる「ポロネーズ」、「ソナタ変ロ調」、「フランスの歌による変奏曲」は作られた。
特に、フランスの歌による変奏曲は、尊敬するベートーベンのために書かれた曲であり、一説によるとシューベルト自身が、後にこの曲の楽譜を手に持って、ベートーベン自身に会いに行ったのだが、彼は留守で会えなかったのだという。

 しかし、エステルハージの娘カロリーネと恋に落ちていたという噂がある一方で、シューベルトは、充実した孤独についてのマイヤーホーファーの詩「孤独に」につけた曲こそ、これまでの自分の最高傑作だと、手紙に書いたりしている。

物質的生活と、それでも消えることない音楽への愛

 シュパウン繋がりで知り合った中でも、シューベルトの曲を気に入ってくれた宮廷オペラ歌手ヨーハン・ミヒャエル・フォーグル(1768~1840)は、特に影響力の大きい人物であった。

 フォーグルは自ら、シューベルトの曲を歌うことで、それらを世に広めただけでなく、劇場音楽に関係する仕事などを斡旋あっせんしてくれたりもしたようだ。

 それに、様々な音楽愛好者たちを、フォーグルは紹介してくれた。
1819年くらい。
シュタイヤーの弁護士の家に滞在していた期間にシューベルトは、「八人も娘さんがいて、美人ばかりだし、とても楽しい」という俗的な手紙を書いたりもしているが、これはそのまま、若者らしい精神生活の充実を示しているとも言えるかもしれない。
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魔王の成功

 オペラ曲の作曲は、当時のドイツで作曲家として自立するためならば通らなければならない道であった。
しかしシューベルトの曲は好評を博しても、運に恵まれず、大きな劇場などで演奏される機会はなかなか得られなかった。

 一方で1821年。
24歳のシューベルトは歌曲で成功を納めた。
友人たちの協力で出版された、「(作品1)魔王」が、ウィーンで 大人気となったのだ。
友人達の好意に甘んじてるうちに溜まっていた借金の一部も、これで返済できたとされている。

 さらに、糸を紡ぐグレートフェン、野バラ、羊飼の嘆きの歌が、 続々発表されるや、いずれも好評で、シューベルトの名もさらに広まっていった。

歌曲に描かれる想像の素敵な物語

 シューベルトは26歳の時に、最も重要な作品の一つとも言われる歌曲集「美しい水車小屋の娘」を書いた。
これは、1827年の「冬の旅」、自身の死後に友人たちにまとめられた「白鳥の歌」とともに、シューベルトの歌の柱と称されることもある。

 美しい水車小屋の娘や冬の旅は、歌のそれぞれが独立した世界観を持ちながら、密接に繋がってもいるという形式が、画期的であったともされる。

 十代の頃から、暗い孤独を表現してきたシューベルトは、 美しい水車小屋の娘においては、純粋なる愛を描いたとも言われる。

苦しみから生まれる芸術、想像力という魔法

 美しい水車小屋の娘を完成させた翌年。
27歳のシューベルトがノートに以下のようなメモを書き残している。

「他人の苦しみを理解し、他人の喜びを理解する者など誰もいない。人は互いに求め合いながら、実は互いにすれ違っている。この事を思い知った者は悩む。僕の作品は僕自身の音楽の能力か、僕の苦しみかから生まれてきたものだ。だが苦しみから生まれてきた作品の方が、世の中を喜ばせることはあまりない」

「想像力よ、人類最高の魔法の杖よ、芸術家も学者もそこから学ぶ 底のない泉よ。願わくば我らとともにありたまえ。たとえあなたの存在を喜ぶ人の数がわずかなのだとしても、我らを守ってほしい。啓蒙思想けいもうしそうから我らを守ってほしい」

 シューベルトはやはり芸術家であったのだろう。
啓蒙思想とは、18世紀くらいに主流となった、合理主義的な思想で、ようするに「根拠のない宗教や迷信などに騙されず、明確な意識を持って生きよう」というようなものだ。
シューベルトは、自分が現実に生み出す音楽が、想像の世界という、合理主義的には、現実に存在していないはずの世界から来ていることを、よく理解していたのだろう。

偉大なベートーベンから、わずか一年半後の最期

 1827年3月。
最も尊敬するベートーベンが生涯を終え、その葬式にシューベルトも参列した。
10月に完成した、冬の旅。
年末頃に書かれた、ヴァイオリンのための大曲とされる「幻想曲」など、 この年の作品には暗い影が落とされているとも言われる。
そしてその影はまた、シューベルト自身に迫る運命まで暗示していたのかもしれない。

 シューベルトが世を去ったのは1828年の11月。
冬の旅からほぼ一年後であった。
だが冬の旅に取りかかっていた頃には、まだ死の前兆はなかったとも言われる。
彼自身の命を奪った病(おそらく腸チフス)にかかったのは、最期の年の秋と、まさしく死の寸前であったという。

 ただし死因に関しては諸説あり、別の病気のための治療のために 投与した、水銀によるものだったとか。
興味深いものとして、食事や寝る間も惜しんで曲作りに没頭し続けたためによる過労死だったという説もある。

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