ベートーヴェンの家系
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの誕生日
18世紀前半頃に、宮殿都市として栄えた、ドイツのボンにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)は生まれた。
教会に記録された、誕生から最初の洗礼の日は1770年12月17日であるから、おそらく彼の誕生日は12月16日だと推察されている。
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ルートヴィヒは、男5人、女2人の兄弟の次男。
彼以外に無事、成人できた兄弟は三男のカスパール・アントン・カールと四男のニコラウス・ヨーハンだけ。
知られている限り、ベートーヴェンの家系で、最初に音楽を稼業としたのは、ルートヴィヒと、同じ名前の祖父(1712〜1773)であった。
同じ名前の祖父ルートヴィヒ
祖父の方のルートヴィヒは、フランドル地方メヘレンの、パン屋の息子だった。
1732年に、彼はリエージュの、聖ランベール協会のバス歌手となった。
そして1733年には、ケルン選帝侯クレーメンス・アウグストの宮廷楽団に所属し、ボンの城に迎えられた。
彼はまたこの年に、マリア・ヨゼファ・ポール(1714〜1775)という女性と結婚している。
ルートヴィヒは、優れた音楽家であったようで、1761年には、宮廷楽長に任命されている。
宮廷楽師の父。宮廷楽長の祖父
ルートヴィヒとマリアの間には、3人の子供が生まれたが、成人するまで生きたのは、後のルートヴィヒたちの父となったヨーハン(1740〜1792)だけであった。
ヨーハンは父譲りの美声で、12歳頃から宮廷楽団で歌手を務めたという。
また彼はバイオリン弾きでもあり、 16歳の頃には正規の宮廷楽師になったとされる。
ヨーハンは、27歳の時に、マリア・マグダレーナ・ケフェリヒ(1746〜1787)と結婚したが、この頃にはもう彼は、宮廷楽団の若手や、貴族の子供を指導する立場にまでなっていたとされる。
ルートヴィヒは、宮廷楽師の息子であり、宮廷楽長の孫として生を受けたわけである。
少年時代のベートーヴェン
六歳での初舞台
ベートーヴェンは幼児期から、父から音楽の教育を受けた。
彼は、鍵盤楽器クラヴィコードを教わり、すぐにその優れた才を垣間見せたとされる。
1778年3月26日。
ヨーハンは、ケルンで行った公開演奏会に息子を出演させた。
まだこの時ベートーヴェンはわずか7歳たが、父は彼を6歳として人々に紹介した。
これは、1歳だけでも年齢を偽って、より話題性を高めるためであったとされる。
天才少年は、「クラヴィーア協奏曲とトリオを数曲演奏」 したそうである。
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天才少年の先生たち
1778年以後、ベートーヴェンにしっかりとクラヴィーア奏法を教えてくれた師は、祖父の同僚である宮廷オルガニスト、ヴァン・デン・エーデンだったとされるか、根拠は薄いとも言われる。
1779年夏に、ボンにやってきたグロスマン劇団の歌手、T・F・ファイファーからも教えを受けたようだが、こちらの方が確かとされる。
また、クラヴィーアと並行して、ベートーヴェンは、宮廷楽師のF・G・ロヴァンティー二から、バイオリンとヴィオラを習っていた。
ミュンスター教会のオルガニスト、ツェンゼンにも、オルガン奏法を学んだ。
ツェンゼンは、「十歳のこの少年の方が、二十歳の同門生よりも勝っている」と記録している。
作曲の師、ネーフェ
ベートーヴェンの、ボン時代における最大の師とされる、クリスチャン・ゴットローブ・ネーフェ(1748〜1798)の指導が始まったのは、1781年の2月頃からとされている。
宮廷オルガニストであったネーフェの指導は、クラヴィーアとオルガンの両方であり、その上達ぶりは凄まじかったようである。
ネーフェは多忙であったが、ベートーヴェンは弟子でありながら、 彼の公演の代理を務めるぐらいに、信頼もされていた。
またネーフェは、ベートーヴェンに作曲の方法も教え、彼に自信を与えてやる意も込めて、その自作曲を自らのコネで出版させてやった。
モーツァルトとの出会い
1787年3月下旬。
ベートーヴェンは初めて、ウィーンの地を踏んだ。
この短い小旅行の間に、彼はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)と出会い、教えを受けたという説もある。
「彼を見守りたまえ。今に彼は世の話題となるだろうから」
モーツァルトは、そう語ったというが、信憑性は薄いようである。
しかしベートーヴェンがこの頃に、モーツァルトのピアノ演奏を聞いたのは、ほぼ確実だとされる。
後に彼自身が、弟子のチェルニーに、「モーツァルトの演奏は見事だったが、ポツポツ音を刻むようで、レガート(なめらかな演奏)ではなかった」と、少し批判的に述べているという。
母の死。初恋の人エレオノーレ
ウィーン旅行が短く終わってしまったのは、母重体の知らせを受けたからである。
結局1787年7月17日。
母マリアは他界。
愛する妻を失い、 酒浸りとなってしまった父。
ベートーヴェンは、一家の柱となるために、ボンの宮廷オルガニストをしながら、 貴族の子の音楽教育の仕事も行うようになった。
そして、そうして、ピアノを教えていた弟子のひとり、ブロイニング家のエレオノーレに、ベートーヴェンは恋をした。
エレオノーレの母、ブロイニング未亡人は、ベートーヴェンをかわいがってくれ、この家で、ベートーヴェンは、文学やラテン語を学んだ。
エレオノーレとは結ばれる事はなかったが、ベートーヴェンと彼女との友情は長く続いた。
輝かしい日々
シラー。歓喜によす
1789年5月。
ベートーヴェンは、宮廷楽団の親友であったアントン・ライヒャと共に、ボン大学に入学した。
1792年。
イエナ大学からボン大学に招かれた、シラーの友、B・L・フィッシェニヒによる、シラーの講義をベートーヴェンは聞いたとされる。
フィッシェニヒは、 1793年1月26日付けで、シラー夫人シャルロッテに宛てた手紙に、ベートーヴェンの事を書いている。
「彼は、シラーの歓喜(フロイデ)の全節を、作曲しようと計画しているらしい」
ベートーヴェンは、このボン大学で、後に最も偉大な音楽となる、「交響曲第九」の終楽章に使われるシラーの詩「アン・デイー・フロイデ(歓喜によす)」と出会ったのである。
ハイドン。ウィーン。弟たち
1792年7月。
ボンに立ち寄ったフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)に、ベートーヴェンは弟子入りしている。
これがきっかけとなり、彼はウィーンに留学する事になった。
彼のピアニストとしての実力はたちまち、上流階級の貴族たちの間で話題となり、ハイドンは才能ある弟子に、作曲技術を惜しみなく伝授した。
彼はウィーンで、 ピアニストとしても作曲家としても成功を収め、その仕事によって収益も得て、 経済的に安定すると、ウィーンの弟たちも自分のもとに呼んだ。
カールは、兄の紹介で、貴族の子のピアノ教師となり、ヨーハンは、ボン時代に研修を受けていた、薬剤師としての職を決めた。
交響曲第一
1799年。
ベートーヴェンは、六つの弦楽四重奏曲を中心として、第一交響曲の作曲を始めた。
試行錯誤を繰り返し、六曲の弦楽四十奏曲が完成したのは1800年になってからだった。
交響曲を書こうという考えは、以前からあったが、実際に完成させたのはこの時が初めてとなる。
それは大きな挑戦であった。
彼が作ろうとしていたのは、ただ伝統に忠実な、素晴らしい交響曲ではない。
それまでなかったような、しかしそれでいて、何より良きもの。
そういうものを彼は目指した。
オーケストラの管楽器編成の拡大。
下層調の属七和音によって開始するアダージョ序奏部の設定。
メヌエット楽章の、スケルツォ楽章への置き換え。
1800年に完成した第一交響曲は、すでに革新的な要素に溢れていたとされる。
悲劇をこえて。耳が聞こえない音楽家
ハイリゲンシュタットの遺書
ベートーヴェンが、音楽家としてあまりに致命的な、耳の病気を決定的に患うようになったのは、交響曲第ニを完成させた頃とされる。
彼はハイリゲンシュタットにひきこもり、弟たちに手紙を書いた。
「ハイリゲンシュタットの遺書」という名で知られる、1802年10月6日と10日の日付の、2通の手紙。
そこには、「私は喜びをもって死に向かって急ぐ」、「遺産相続は公平に分配し、仲良くしなさい」など、 自殺をほのめかすような ことが書かれている。
一方で、「人が歌う声が聞こえなくて、自殺しようとしたことだってある。しかし、自分の芸術はそうした思いを消してくれた」というような事も書いているという。
英雄交響曲
ハイリゲンシュタットの遺書が、文字通り遺書であったのだとしても、結局、彼は自殺などしなかった。
それを書いてからまもなく、ベートーヴェンはウィーンに戻って、スケッチ帳に新しい作品を書いていった。
1803年から1804年にかけて、ベートーヴェンは第三、英雄交響曲を書いた。
彼がこの有名な曲を書いた動機については、記録に残っていない。
だが、その創作劇的な作風は、過酷な運命を乗り越えた自分自身の体験に基づいていたものではないか、という説もある。
また、ベートーヴェン自身、この作品が非常に気に入っていたようである。
運命と田園の完成と、演奏会の失敗
1808年には、交響曲五番、交響曲六番、つまり、運命交響曲と田園交響曲が完成する。
このふたつの交響曲は、並行して作られたとされている。
運命は、管楽部に、ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンを加えた初の交響曲。
とにかく様々な面において異彩を放つもので曲であり、何もかも新しいような作品であった。
田園は、五楽章という時点で、すでにかなり画期的であった。
この曲には、五つの楽章全てに、田舎の生活の思い出の描写が、盛り込まれているという。
それらは絵画というよりも、むしろ感情の表現だと、ベートーヴェン自身が述べている。
だが、これらふたつの、壮大な新交響曲の初演は、見事な失敗であったという。
オーボエの出番で、クラリネットが間違えて加わってしまい、ベートーヴェンは叫んだとされる。
「やめろ、これじゃ駄目だ。もう一回、もう一回」
とにかく、この演奏会は失敗が続いたと、これに関わった多くの人たちが証言している。
エルデディ夫人
1808年末頃の、大失敗した演奏会は、ベートーヴェンに、ウィーンを離れる ことを決意させた。
しかし、ベートーヴェンに家を貸していたエルデディ夫人を中心とした、彼をよく理解する音楽愛好家たちは、彼を引き止めるために話し合い、結果、3人の有力貴族が、大金を援助することになった。
そうしてベートーヴェンは、 結局ウィーンにとどまった。
ゲーテとの出会い
1812年。
ベートーヴェンは、しばらく滞在していたテープリッツで、詩人ゲーテと出会ったとされる。
以前から書簡では交流のあった二人の芸術家は、ともに出かけたり、芸術論を話し合ったり、なかなか楽しんだようである。
ゲーテは妻への手紙に、「あれほど独立的で、創造力に富み、しかも誠実な芸術家には、これまで出会ったことがない」などと書いている。
交響曲第九
第九交響曲が完成したのは、1824年のことであった。
人類史上最高の音楽と称されることも多いこの曲だが、ベートーヴェン自身は、並行して制作し、前年の1823年に完成させたミサ・ソレムニスの方が、自信作だったようである。
この第九を指揮し、大成功したというリースという人が、ベートーヴェン宛てに書いた手紙には、「例えベートーヴェンが作曲したのが、この一曲だけだったとしても、これだけでその名は永遠に残るであろう」というふうに書いているという。
1826年末に、彼は肺炎を患い、病気に倒れながらも10番目の交響曲に彼は着手する。
しかしそれは未完成のまま、ベートーヴェンは、1827年3月26日、この世を去った。