「フレデリック・ショパン」謎のエピソード、誕生日、革命、演奏と作曲

ポーランド

ショパンの家族

 フレデリック・フランソワ・ショパン(1810?~1849)の父方の家系はフランス系であるという。
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父ニコラ(1771~1844)は、フランス東部ヴォージュのマランヴィルに住む農民一家の生まれであり、フレデリックの祖父にあたるフランソワは、車大工くるまだいく(車輪職人)で、葡萄栽培ぶどうさいばいに携わったりもしていたようである。

 ニコラは1789年に家族と別れ、ポーランドに移住してきたが、そうなった経緯については謎。
ただ本人は、徴兵令ちょうへいれい、つまり軍に入隊させられるの嫌ったから、と述べていたらしい。

 ほぼ確かなことは、ニコラは生涯、フランスに帰ろうとしなかったこと。

 とにかく、ポーランドに来てから、最初はワルシャワのタバコ工場で働いたニコラは、紆余曲折の末に、フランス語教師として生計を立てていくようになった。
そして家庭教師として住み込んだスカルベク伯爵という貴族の家で、伯爵夫人の小間使いをしていたユスティナ・クシジャノフスカ(1782~1861)と恋仲となる。
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 二人は結婚し、ユスティナは三人娘と、一人の息子を生んだ。
その一人息子がショパンである。
そういうわけで、ショパンにはルドヴィガ(1807~1855)という姉と、イザベラ(1811~1881)、エミリア(1812~1827)という二人の妹がいた。

誕生日はいつなのか

 18世紀以降ぐらいの名だたる大作曲家たちの中でも、ショパンに特に謎が多い人物と言われている。
実はその誕生日からしてはっきりしていない。

 ショパンの生まれは1810年3月1日とされることが多いが、1809年3月1日、あるいは日付も3月1日なのでなく、2月22日なのではないかという説があるのだ。

 とりあえず3月1日という日付は、ショパン家の人が、毎年彼の誕生日をその日に祝っていたという事実を根拠としているようだ。

 ショパンは子供の頃の作品には、作曲の日付と自分の年齢を書いていたようだのだが、1809年というのは、その年齢を参考にしているらしい。

 しかし19世紀末に、ジェラゾヴァ・ヴォラの教会で、1810年2月22日を出生日としたショパンの洗礼簿せんれいぼが見つかったので、いったいどれが真実か、ますますわからなくなったのだという。

 当時の誕生日の登録というのはいい加減なものだから、おそらく2月22日というのはかなり適当な日付。
しかし年代まで間違うとは考えにくい。
そこで、1810年3月1日が定説となったわけである。

 かなり確かなこととして、ショパンが生まれた場所自体はジェラゾヴァ・ヴォラという村である。
しかし一家は1810年10月にはワルシャワに移ったから、もしショパンが1810年の生まれならば、彼がそこに住んでいた時期はかなり短いことになる。
だがショパンは、この地にかなり愛着を覚えていたようで、自身がポーランドを去るまでは、よく訪れていたようだ。

音楽の天才少年ショパン

哀れな立場の最初の師匠

 幼い頃からショパンは、言ってしまえば勉強のよくできる子だったらしい。
読書好きで、学校の成績は優秀。
教師である父の生徒たちが、寄宿生として家に泊まり込んできた時にも、いろいろ話をして、それが彼の性格を育てたのかもしれない。

 母はピアノが得意で、彼女が好んで奏でるポーランド民謡を、最初は怖がって泣いてしまったとも伝えられている。
しかしすぐにその音色になじむようになり、自分でも即興でピアノを弾くようになった。

 その音楽の才能は、幼い頃から周囲の期待をかった。
母と姉からピアノの手ほどきを受けていたショパンだが、1816年からはヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴヌィ(1756~1842)という人が先生役となる。

 しかしなんとも哀れなことに、ジヴヌィ自身は、別に優れた音楽家というわけでも、先生というわけでもなく、一般的にショパンはほぼ独学の人と言われている。
彼の功績を称える人もいるが、それはあくまでも、バッハやモーツァルトのような古典音楽の大物たちを、幼いショパンに紹介したということに関してらしい。
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漫画、芝居、そして音楽の才

 現存する、ショパンが作曲した最初の曲の楽譜は、ジヴヌィが書き写したもので、1817年作らしいその曲は、ショパン8歳の時の作品と記録されているという。

 さらに、同じ1817年に作られた別の行進曲は、ワルシャワの軍楽隊に演奏されたりするなど、天才少年の名をほしいままにしていたようだ。

 だが天才少年の父であるニコラは、息子を別に特別扱いすることはなく、1823年には自らが教えている学校に入学させ、まったく普通の少年のように学ばせたという。

 しかし別に才能を腐らせたりもさせず、音楽の学習は続けられた。
二流のジヴヌィに代わり、ワルシャワ音楽院長のユセフ・エルスナー(1769~1854)がショパンを指導するようになり、ショパンは1025年になるころにはすでに、ポーランドの優れたピアニストとして知られるようになっていた。
この年の春。
彼はワルシャワに滞在していたロシア皇帝アレクサンドル1世の前で 演奏し、ダイヤモンドの指輪を与えられたとされている。

 作曲に精力的になり始めたのも、このくらい(1820年代半ばくらい)の時期からだったようだ。

 そしてショパンは1826年7月に普通学校を卒業し、数ヶ月ほどしてから高等音楽学校に入学した。

 また、少年時代のショパンの興味は、音楽以外に、漫画や芝居などにも向いていたらしい。
彼は自宅の寄宿生たちを、即興の劇で楽しませたりしたことがあり、 実際に俳優であったピサルスキという人が、「彼には素質がある」と誉めたという話も伝わっている。

ポーランド民族的な個性の確立

 幼い頃からすでに天才作曲家としての名をせていたショパンは、その才能のためか、天狗になっていたのか、とりあえず課題を教科書通りにこなしたりは決してしなかった。
教師たちも彼の扱いに困ったようだが、彼の才能を強く認めていたエルスナーのおかげで、基本的にはよい扱いをされたらしい。

 ただしショパンの音楽は、新時代の中の古典と言われるぐらいに、 流行りや、古い音楽家たちの伝統に則った作風が多かったとも言われる。

 また、音楽学校時代の彼は、オペラに強い関心を持っていたようだが、彼自身が作る曲は、いつでもピアノ曲が中心であった。

 正統派的と彼を見る場合、1826年の「マズルカ風ロンド」は、重要な作品の一つと言われる。
マズルカ(ポーランドの民族舞踊)風とあるように、 この曲は民族的な性格が大きく 強調された曲であり、時に「ショパンの個性を初めて明らかにしたもの」と称されることすらある。

 ショパン自身もこの曲はかなり自信作だったようで、友人への手紙に、「これは他のマズルカよりも先に出版される権利があるだろう」などと書いているという。

諸君、帽子を取ろう、天才が現れた

 1827年には妹エミリアの死という不幸もあった。
死因は、後にショパンの死因にもなった結核けっかくであったとされている。

 そしてこの年にショパンは、「ノクターン(夜想曲)」を書いている。
後に何曲も作られるノクターンであるが、この頃のそれが恐らく最初期のものとされている。
この初期ノクターンは、生前には公表されずに終わった。

 また音楽学校で、オーケストラの授業が始まった影響か、おそらく初となるオーケストラ付きの曲「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲」も作曲されている。

 この変奏曲は1830年に出版されたが、ロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810~1856)がそれに対して、「諸君、天才が現れた。帽子を取りたまえ」とユーモア混じりに大絶賛したことは、ショパンの名をさらに広めるだけでなく、批評家としてのシューマンの先見性も示す結果となった。

パリでの日々と恋愛

革命と出国

 ショパンが音楽学校を卒業した1829年のポーランドには、革命の雰囲気がすでにあったろうか。

 当時のポーランドは、その大部分をロシアに支配されていた。
そして、1930年から1931年にかけて、そのロシアに対するポーランド人たちの大規模な反乱が起こったのだ。
「11月蜂起」、または「カデット・レボリューション」と呼ばれているその反乱に、20歳になって間もなかったはずのショパンは、直接は参加しなかった。
彼はその反乱が勃発するほんの一ヶ月くらい前に、ショパンはポーランドを去った。

 外国にはすでに前年から旅行してたりはしたが、彼はポーランドを嫌いというわけでもなかった。
とにかく、はっきりとした理由は不明だとされているが、いくつかの手紙の内容などから、ショパン自身、祖国を離れると二度と戻ってこれないだろうと考えていたのは確からしい。

 ショパンは革命に積極的に参加した者たちとそれなりに交流があったようなので、彼の出発が、その革命の始まりの直前というのは、調整されたものでないかと考える向きもある。

フランスに対する失望

 ショパンは最初、オーストリアのウィーンに来たが、結局馴染めずに、フランスのパリに渡ることになる。

 父は、オーストリアが駄目ならイタリアと考えていたようだが、ショパンはかなり以前から、友人には「パリに行きたい」と告げていたとされる。

 フランスは当時、革命を成功させた国として、ポーランド国民からは憧れであり、もしポーランド独立に力を貸してくれる国があるなら、まずフランスであろうと考えられてもいたようだ。
しかし実際には、フランスは、最終的にはロシアに敗れたポーランドに一切干渉しようとせず、ショパンも、かなり失望したようで、恨み言をノートに書いたりもしたという。

演奏家でなく、作曲家として

 パリでの最初の演奏会には、同世代のフェーリクス・メンデルスゾーン(1809~1847)や、フランツ・リスト(1811~1886)も顔を見せ、彼らはショパンをすぐに優れた同志とみなし、親しくなった。

 しかし、あまり大音量にはせず、洗練された旋律が得意であったショパンの演奏は、パリの大ホールでのコンサートには向いておらず、一般の聴衆の心はなかなか捉えられなかった。

 本人もそういう、自分の弱点は自覚していたのか、ショパンは演奏活動からは距離を起き、作曲家としての自分をより強く確立していくようになる。

 また、移住からしばらくは経済的に苦労したが、一旦上流社会で名声を得ると、貴族の子の音楽教師の仕事で、安定した収入を得られるようにもなった。

何も言わなかった初恋

 ショパンは初恋は、音楽院の声楽科の学生であり、卒業後にオペラ歌手となったコンスタンツヤ・グワトコフスカへの片思いだったとされている。
ショパンは劇場で歌う彼女に見惚れ、その気持ちからインスピレーションを得た曲もいくつか作ったが、結局思いを告げることなくポーランドを去った。

 また、1835年にドイツで両親と再会したすぐ後、別に再会したヴォジンスキ家のマリアと恋に落ち、求婚するにまで至ったのだが、結局破綻する。
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マリアの両親は、ショパンの健康状態の不安定さを理由とした。

ジョルジュ・サンド

 ジョルジュ・サンド(1804~1876)にショパンが出会ったのは、ちょうどマリアとの恋に夢中になっていた1836年の秋頃だったとされる。
二人が、リストが(正確にはリストの方が)愛人の貴族婦人と開いたホームパーティで出会ったというのは、ほぼ確かなようだ。
最初、ショパンの彼女に対する評価は、「感じが悪すぎる。なんだ、あいつは」と友人に愚痴ぐちを言うくらい、かなり悪かった。

 しかし、1837年の後半くらいから、二人の仲は急速に進んだらしい。
サンドの方は最初からショパンを気に入っていたようだから、マリアとの恋に敗れ、傷心中だった彼に、彼女の方からアプローチした のだろうと考えられている。

 サンドもまた著名な文学作家であり、ショパンとの恋も話題になったようだ。
彼女は恋多き人だったようで、男たらしの悪女というように考える人も多いが、自らの心に忠実に生きた女らしい女ということで好感を抱く人もいる。(エッセー)

(エッセー)男女観に関する物語の影響

 男女観なんてのは、生物学的なものでなく、文化的な要素が大きいと思う。

 昔のヨーロッパでは、基本的に不特定多数の異性と付き合う場合に関して、女の方が男よりも酷く見られていたし、そういう文化は多い。

 男らしさとか女らしさとかいうのもそうだろう。
おそらくありとあらゆる歴史の話や、文学作品、周囲の人の話などで、人間のたいていの文化における男女観というものが、我々の心に植え付けられてきた。

 物語はあくまで自分の外に置き、自分の思想は、自分で決めることが大切。

ショパンを支えたのは愛だったか

 ショパンとサンドの二人は、世間の好奇の目から逃れるために、スペインのマヨルカ島に渡ったが、結局、ショパンが持病の結核に見舞われたために、サンドの所有する、パリから300キロほどのノアンという村の邸宅ていたくにすぐ戻った。

 ショパンはサンドと10年ほど付き合った末に別れることになったが、それまでの期間は、夏をノアン、冬はパリで過ごすという生活を繰り返した。

 サンドは病気に苦しむ恋人をよく世話し、ノアンでは特に、ショパンは創作活動に集中することができた。

姉が看取ったその最期

 年齢を重ね、音楽以外にはあまり情熱を持たなくなってきたショパンと、すでに他に愛人を作っていたサンドの破局は、当然といえば当然の成り行きであった。

 1848年。
フランスで二月革命が起きたこの年に、ショパンはイギリスにわたった。
弟子の一人であった、スコットランド人女性のジェーン・スターリングに招かれてのことだった。

 彼は革命を逃れロンドンに来ていたベルリオーズ(1803~1869)や、カルクブレンナー(1785~1849)などの同業者にも会い、演奏会もそれなりにこなした。
しかし、体調は悪くなる一方で、48年の末にはパリに戻った。

 そして1849年10月17日に、ショパンは帰らぬ人となった。
後に多くの人が、その最後を見舞ったと主張したのだが、そのほとんどがおそらく嘘らしい。
確かなことは、その最後の場に姉のルドヴィカはいたこと。

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