「 ピョートル・チャイコフスキー」いくつかの謎について。出世より音楽。

モスクワ

ガラスのような子

 幼い頃のピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~1893)は、異常と言えるくらいに感じやすい子供だったという。
勉強やピアノを習った後は、いつも強く興奮していた。

 チャイコフスキー家では、父親が音楽好きだったことから、よく身内内での演奏会があったが、ピョートルはそのような演奏会後によく、「ああ、音楽が、音楽が離れてくれない」と机を叩いたりしていたという。

 チャイコフスキー家で家庭教師をしていたファンニ・デュルバッハ(1822~1895)は、神経質なピョートルを「ガラスのような子」と呼んでいた。

鉱山町での幼少時代

チャイコフスキー一家

 モスクワから東に約700キロほど。
ウラル山脈の西側に沿い、北から南にカーマ川は流れている。
チャイコフスキーが生まれたのは、そのカーマ川沿いに散在さんざいする製鉄所の中心地であるヴォトキンスクという鉱山町。

 チャイコフスキーの父であるイリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキーが、ヴォトキンスクに赴任してきたのは1837年。
イリヤは一応は貴族であったが、大層な土地を所有していたりはしなかった。
しかし、農奴のうど(奴隷と農民の中間と考えられてた人たち)のコックを雇うくらいはできたようだ。
また、ヴォトキンスクでは、裁判の権利などを有する、それなりに偉い立場だった。

 イリヤは演劇、音楽好きで、フルートをよくたしなんだという。
それに、当時流行っていた、自動演奏装置オルケストリアンを所有し、家族の誰かが旅行に出かける機会があると、その旅行先の都市などで、オルケストリアン用の円盤を買ってくるというのが通例であった。

 イリヤは三度結婚しているが、チャイコフスキーは二人目の妻であるアレクサンドラ・アンドレーエヴナとの間の子の一人。

ファンニ・デュルバッハとの思い出

 1844年。
ヴォトキンスクに、ファンニ・デュルバッハというフランス人の女性がやってきて、チャイコフスキー家の家庭教師となった。

 ファンニは、ピョートルはじめ、チャイコフスキー一家に愛され、 一家が1848年にヴォトキンスクを去った後も、文通など、交流を維持していくことになる。

 彼女は、とても信心深いプロテスタントの人で、その優しい人柄は幼いチャイコフスキーの人格形成に大きく影響を与えたとも言われている。
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またチャイコフスキーという人物の幼少時代の話の多くが、彼女が大切に保存していた、様々なやりとりの記録が一次資料となっているようだ。

 チャイコフスキー自身も、その生涯の終わりも近い1892年の末に、彼女が暮らしていたモンベリアールという町を訪れ、彼女と再会し、思い出話に花を咲かせたという。

音楽家を目指していたわけではなかった

 チャイコフスキーは、ヴォトキンスクにいた頃から、ピアノを習ったりはしていたが、音楽家になろうという気持ちはそんなになかったようだ。

 彼は法律学校に入り、エリート街道を歩もうとしていた。
実際、アントン・ルビンシテイン(1829~1894)がいなければ、そうなっていたろうとも言われている。

 チャイコフスキーは、ロシアという国で、特に音楽という文化が盛り上がった時代の生まれ。

 ルビンシテインという作曲家は、大公妃エレーナ・パーヴロヴナのお抱えという立場を利用し、ロシア音楽協会を設立した人物。
さらに彼は、協会内に音楽教室も設け、1862年にはその教室を、「ペテルブルク音楽院」として昇格させた。
チャイコフスキーはその音楽院の第一回生であったという。

音楽家になるために音楽院へ

 1859年 チャイコフスキーは法律学校を卒業し、翌60年には、 法務省にて課長補佐となっている。
典型的なエリートコースであり、1862年頃には、音楽への熱中度がひたすら高まっている彼に対し「音楽のために法務省の仕事を捨てないようにな」と忠告する手紙を、兄が書いたという記録もある。

 彼は旅行が好きだったが、毎年どこかへ旅行する習慣も、この頃くらいから始まったとされる。

 1862年の兄に対し、「いつか兄さんにも、僕を誇りに思う日が来るだろう」と返したというのは、真偽がかなり怪しいようだが、 1861年の妹への手紙で、「音楽理論を習っていて、自分には才能があるとも思う」と書いているらしいから、その頃にはすでに音楽の道で生きていくことを完全に決意していたはずである。
ただしチャイコフスキーは、妹への手紙の中で「自分の怠け癖に勝てないことを恐れてはいます。しかしそれさえなければ、僕は自分が何者かになれるはずだと確信しているのです」とも書いている。

勤勉な模範生として

 チャイコフスキーが、ルビンシテインの設立した音楽院に入ったのは、1862年の9月であった。

 自分でも心配していた怠け癖は、入学して間もなく捨てることになった。
彼はとても勤勉な模範生として知られていく。

 ある時、友人となったゲルマン・ラロシ(1845~1904)は、「君の勤勉さに正直驚いてるよ」と伝えてみた。
チャイコフスキーはそこで、教師であったニコライ・ザレンバ(1821~1879)に「お前は怠けすぎだ」と叱られた時に、「お前には才能があるんだ」とも言われたことに対する感謝が、自分を変えたと白状したのだった。

 実際にチャイコフスキーは、その優れた才能を存分に発揮し、優れた自作曲で教師たちを驚かせることも多かったようだ。

教師たちの怒りを招いた雷雨

 チャイコフスキーは自分の音楽に個性を求めていた。
そこで実験的なことを試してみることも多く、時にはそれが教師の怒りを招いたこともあった。

 1864年に出された課題にて、彼は「雷雨」という曲を作る。
それは、チューバ、イングリッシュホルン、ハープ、バイオリン、大太鼓、シンバルの、かなり風変わりなオーケストラであったが、ルビンシテインからかなりの不評であった。

 ただ、どうも当時、ぞんぶんに怒られたのは、曲を作ったチャイコフスキーでなく、病気で床に伏せていた彼の代わりに、課題の作品を提出したラロシだったらしい。
そして、彼をさんざん怒ったことで落ち着いたのか、当の本人であるチャイコフスキーには、少し小言をいうだけですませたという。

最初の交響曲とオペラ曲

 チャイコフスキーがペテルブルグ音楽院を最優秀の成績で卒業したのは1865年。
彼はモスクワに移り、アントン・ルビンシテインの弟ニコライに面倒を見てもらえることになった。

 ニコライは兄よりも自由な気質だったようで、雷雨をはじめ、 チャイコフスキーの風変わりの作風も気に入り、よく援助してくれた。
おかげでチャイコフスキーは、作曲に存分に集中できたとされている。

 モスクワに来て、少し。
1866年に、チャイコフスキーは自身の最初の交響曲を制作した。
しかし彼は、それの作曲には相当苦労したようだ。
よく交響曲の第1楽章や最終楽章で使われる、「ソナタ式」と呼ばれる形式が、自分は苦手なのだと彼は考えていた。
そして曲作りのために徹夜することもいとわなかった彼だが、そのせいでいくらか神経に異常をきたしてしまい、物理的にもかなり苦しんだという。
そんなことがあったためか、以降、彼は生涯において、夜に曲作りをすることはなかったとも言われる。

 そんなに苦労して完成させた交響曲第1番だったが、かつての恩師であるアントンやザレンバからは、かなり酷評されてしまったようである。

 1867年にはオペラ曲の制作に取り掛かり、翌年68年の夏にそれは完成した。
しかし、その初のオペラ曲「地方長官」は、チャイコフスキー自身が駄作と評することになった。

安アパートと、召使いの兄弟

 チャイコフスキーは1871年の夏に、ニコライの家を出て、アパートに移り住んだ。
狭い安アパートだったが、作曲に集中するのには十分な場所であったという。

 また彼は、ミハイル・ソフローノフと、その弟のアレクセイの田舎者兄弟を召使いに雇った。
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ミハイルはチャイコフスキーより8歳若く、アレクセイはその兄よりもさらに11歳若かったらしい。
彼らの仕事は基本的に食事作りだったようだが、ほとんど同じようなシチューやソバしか作らなかったとされる。
しかしチャイコフスキーは食事に無頓着むとんちゃくだったため、それで十分だったようだ。

 そして1876年からは、アレクセイの方だけが召使いとして残り、チャイコフスキーが死ぬまで仕えた。
二人の間には、同性愛が噂されるほどに強い絆が芽生えていたこともあり、チャイコフスキーは遺産の多くをアレクセイに残している。

 また、アレクセイに限らず、チャイコフスキーが同性愛者だったという説はかなり根強いようだが、はっきりとした根拠はないらしい。

謎に包まれた結婚騒動

 彼が同性愛者だったかはわからないが、1877年にチャイコフスキーはアントニーナ・イヴァノヴナ・ミリューコヴァ(1848~1917)という女性と結婚している。
ただしこの結婚は長続きしなかった。

 正確には離婚はしていないのだが、6週間ほどで別居状態となり、それから二人がよりを戻すことはなかった。
こうなった原因については諸説あるが、アントニーナ側に原因があった可能性が高いようだ。

大パトロンのメック夫人

 メック・ナデージダ・フィラレートヴナ・フォン(1831~1894)は、一度もチャイコフスキーと直接は会ったことがないとされているが、一度だけ会ったという説もある。
彼女は貧乏な家の生まれであったが、鉄道技師として成功した夫のおかげで資産家になれた人。
音楽が好きだったのか、若いロシアの音楽家たちを援助し、特にお気に入りだったのがチャイコフスキーだった。

 音楽家とパトロンという関係での、二人の交際が始まったのは、チャイコフスキーが結婚する前年である1876年の末頃からだったようだ。
もうこの頃にはすでに、チャイコフスキーの曲はいたるところで演奏されるようになり、その名声もかなり高まっていた。
しかし彼は旅行好きかつ、浪費癖があったために、金の問題をだいたい解決してくれるパトロンの存在は、とてもありがたかったはずだ。

 彼女は本当によく援助してくれたから、1890年に、援助を打ち切る知らせを突然に受けたチャイコフスキーはひどくショックを受けたという。
本当に突然だったようで、チャイコフスキーは最初、彼女が破産したのではないかと心配したほどだったらしい。

 メック夫人の援助打ち切りの理由に関しては、子供が死の病にかかったことで、作曲家ばかり気にして、子供をおろそかにする自分を反省したからではないか、などと推測されている。

作曲家としては常に前進

 いまいち謎が残る、結婚からの電光石火の別居があった1877から1878年にかけてだが、作曲家としてはとても成功した時期でもあった。

 メック夫人に「私たちの交響曲」として捧げたとされる、交響曲第四番、オペラ曲として最も成功したと自分でも考えたとされる「エフゲニ・オネーギン」、有名な「ヴァイオリン協奏曲」などは、この頃の作品である。

田舎村で家を構え、自信も得た頃

 1885年2月。
チャイコフスキーはモスクワ郊外の、マイダノヴォ村の別荘に移り住む。
開発が遅れ、まだまだ豊かな大自然が残る村だった。

 マイダノヴォを拠点にするようになった彼は、鉄道により、モスクワだけでなく、ペテルブルグとも繋がり、活躍するようになった。

 40代も半ばを迎えて、自他共に認める人嫌いの性格も多少は変わったのか、作曲以外に、音楽院の試験官などの仕事も引き受けるようになった。
1887年には、オペラ「チェレヴィチキ」で、指揮者としての姿を見せた。

 チャイコフスキーは、多くの自作曲を駄作としたり、自己評価の低い人であったことはほぼ間違いないとされる。
しかし、借り物でなく自分の家をちゃんと持って、国外にまで名前が知られるようになっていた彼は、 それでようやく大きな自信を持ったのではないかとされている。

晩年の創作活動と、唐突な悲劇

眠りの森の美女と、くるみ割り人形

 有名なバレエ音楽「眠りの森の美女」の制作に取りかかったのは1888年の末頃。
その初演は1890年1月に、ペテルブルグのマリインスキイ劇場で行われた。

 眠りの森の美女の評判自体は賛否両論だったようだが、この作品を計画した劇場監督のフセヴォロシスキイは、これをとても気に入り、続く作品を注文した。
そうして続いて作られたのが、「くるみ割り人形」であった。

 そして上記二つの曲にさらに、1876年に完成された白鳥の湖を合わせて、「チャイコフスキー三大バレエ」と称されている。

 また、1890年に、オペラ「スペードの女王」が成功するなど、最後が迫っているとは思えないほどに、チャイコフスキーは創作活動に熱心であった。
その1890年にはメック夫人からの別れがあり、さらに1891年には、最愛の妹アレクサンドラとの死別と、悲しいこともあった。

最後の交響曲と、死の謎

 その最後の年となった1893年にも、彼は全然元気であり、前兆などは全然ない唐突な最期であったという。
最後の大仕事であったとも言われる、交響曲第六番も、 かなりの自信作だったようで、「この作品に誇りを感じ、とても喜ばしいと思う」と無名の頃からの援助者の一人であったピョートル・イヴァノヴィチ・ユルゲンソン(1836~1904)への手紙に書いている。

 一般的にチャイコフスキーは、不衛生な生水を飲んでしまったことで、恐ろしい伝染病のコレラにかかって世を去ったと伝えられている。
実際はどうだったのだろう。
普通、伝染病で死んだとなると、その遺体は厳重に管理されるだろうに、チャイコフスキーの場合は、家にしばらく安置され、彼の死を惜しむ多くの人たちがやってきては、その遺体に触れたり口づけたりしたという。
だが、そうした人の中でコレラにかかった者はいなかったらしい。

 彼が自殺したと考えている者は多い。
だがなぜ、彼が自ら自分の命を絶ったのかは、おそらく永遠の謎である。

 最後の交響曲六番に付けられていたタイトルは「悲愴ひそう
まるで作曲者の運命と重なっているような、その悲しみから悲しみへと移り進んでいく大曲は、まさしく悲しい知らせとともに、世界中にすぐ広がっていった。
チャイコフスキーの死は、その初演のわずか9日後のことであったという。

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