「アリストテレスの形而上学」第一原因を探求。哲学者の偉大なる挑戦

第一原因の哲学。形而上学とはどのような学問か

 『形而上学けいじじょうがく(Metaphysics)』は、この世界の実在性というものを、我々が感覚的に理解できるような領域に限定しないで、 知恵による理論的な考察で、それに関する真なる答を得ようとする試み。そのような学問である。

 物質である我々を含めた、あらゆる事象は、所詮は物質でしかなく、物質自体の存在原因を求める必要は、この物質世界のシステムを考える上では必要ないだろう。というような立場ともされる『唯物論ゆいぶつろん(materialism)』は、形而上学と対立すると考える人もいる。

アリストテレスの重要な論文集

 世界が存在する根本の原理、万物の根本の理由などを特に重要視する、その形而上学というものを、明確に確立したとされる古典こそアリストテレスの、今はそのまま「形而上学」と呼ばれる、論文集的な書である。

 物事の原因を考える時。
例えば宇宙は時空間の広がりの中に諸々の物質が配置されたことで誕生した。ならば、それらの物質はどのようにして配置されたというのか。小さな特異点から広がったことで時空間全体の状態に大きな変動が生じ、それにより様々な原子や分子が構成されることになった。ならばその時空間の変動と、物質の変動の関連の原因は何か、あるいはそもそもはじまりの特異点がどのようにして生まれたのか。というように、物事の原因はいくらでも、その以前を疑問として用意することができる。
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だが、以前などない真の始めのものがあるのか、あるいはこのような原理を考えられるような何らかのシステムが存在するのか。そういうことを考えるのが、形而上学なのだと、アリストテレスのこの書を読めばよくわかる。
彼は何度も何度も、自分よりも前の多くの哲学者たちが、その哲学者たちが最初のものとしていることの原因を、結局考えないでいるので、それはおかしいだろうと指摘している。

 「形而上学」は古く、しかも元はばらばらの文をまとめたという成立過程の本なので、かなり読みにくい本ではある。
ここでは個人的に重要だったことを、いくつか紹介する。

この世界を知って、理解しようとすること

人間と動物の感覚、意識、知恵の秘密

 まず、「全ての人間は生まれつき知ることを欲している」という説が述べられる。
そして、感覚知覚への愛好が、その証拠とされている。

 感覚はその効用を抜きにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえに愛好されるもの。そして、その中でもっとも愛好されているのが目による知覚(視覚)ともされる。我々は行動しようとしていない時にまで、何かをとにかく見たがる。そして、そうした視覚的情報は、最も我々に物事をよく認知させると。
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 動物というのは「生まれつき、自然的に感覚を有するもの」だろうとされる。
そしてある動物には、この感覚から記憶するという能力が生じ、そうした動物は、記憶しない動物よりも利口。またさらに、記憶する動物の中で、音の聞ける動物は、多くのことを学ぶのに適しているとも。

 感覚知覚は、我々に何かを教えるものではないともしている。例えば「火が熱い」ということを知覚したとしても、なぜ熱いのかという理由はわからないというように。
現代的に言うなら、知覚はデータ収集機で、それによってメモリー(記憶)に集められたデータの積み重ねが、経験になるのであろうか。

技術の理論。賢き者とは、どのような存在か

 多くの動物は、 心の中に抱くイメージである『表象(ファンタジア)』や記憶で生きているが、『経験 (エンペイリア)』を有する者は極めてまれ。そして人間という動物はさらに、芸術や推理力で生きている。
人間において経験が生じるのは記憶から、同じ事柄に関しての多くの記憶がひとつの経験たる力をもたらすとする。そしてその経験を介して、人間にはさらに『学問(エピステーネー)』や『技術(テクネー)』がもたらされるという説も語られる。

 技術は経験が与える様々な同様の事柄についての心象(表象)から1つの普遍的な判断が作られた時に発生するのだという。
ある人が病気にかかった場合に、どういう処方が効いたのか。そして他の人の場合ではどうであったか、というような経験が、それをもたらす。つまり、ある型の体質の人々が、ある病気にかかった場合、その患者に対してある処方が効くだろう、というような判断が、技術のする仕事なのだと。
そして、技術はある程度広くに適用される普遍的なもので、経験は狭い範囲の個々や、特殊に対する場合もあるだろうので、結果的に経験の方が上手く働く場合もある。

 ここでいう技術は、実際的には理論である。
そしてアリストテレスは、理論家は例えその場合場合において、経験者よりも上手くできない場合があるとしても、基本的に物事の根本に近い答えを持っているのは理論家であり、そちらの方が『知恵(ソフィア)』を有している、つまり『賢き者(ソフォス)』と判断してよいとする。

原子説の否定

原理、質料、始まり、善

 形而上学においては、この世界について考える場合に、最も始源的な原因を重要視する。我々がある物事を知っていると言えるのは、その物事の第一の原因を認識しているからこそ、そういうことだと信じているからこそだと。
そして原因というものに関して、アリストテレスは4通りの意味を提示する。

(1)ある「実体(ウーンア)」の本質が説明される時に、最も最初にあるようなもの、『原理(アルケー)』。
(2)『質料(ヒレー)』、あるいは『基体(ヒポケイメノン)』
(3)物事の動きの『始まり(アルケー)』
(4)始まりとしてのアルケーとは、反対の端にあるという、物事がそれのためであるそれ、すなわち『善(タガトン)』

 善と いうのは、物事の生成や運動のすべてが目指すところのおわり、すなわち目的とされている。

 また、アリストテレスは、例えば「肉と骨と様々な臓器や心をくっつけまくって人間を作ったら、それは人間の生成」というような感じで、生成という言葉を使っている。
消失という言葉も、単にその反対である。人間がバラバラになって、人間でなくなるのも消失。
生成→消失→生成→消失のようなサイクルは、物事を定義する時に、その瞬間その状態のものを個として定めた場合、常にすべての時間で発生しているようにも思えてしまう。
アリストテレスは、上記のように考えたヘラクレイトスは、「二度と同じ川に足を踏み入れることはできない」というパラドックスに対し疑問を持った。つまり彼自身は、そもそも川に入ることができないと考えていたからだとする。
ただそれは極端すぎるともしている。消失するものは消失すべき何かがまだそこにあるから、生成されるものも生成しつつある何かがすでに存在しているからと。
常に変化するからといって、その変化している何かが、いつでもそこに存在していないとは言えないということか。

 精子を人の種として、それが母体の中に入った後に、胎児へと転化するというような感じの解釈も、なかなか興味深いか。
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少なくとも、最初の物質にも、それ自体の原因があるはず

 過去の優れた哲学者たちが探究してきた、(たいていはそれに反論するために)第一原因もいろいろ紹介される。初期の哲学者たちの多くは、質料の意味で、それのみを全ての物事のある原因とするものを考察してきたと。
つまり、全ての存在がソレから生成し、そしてソレに終わるはずの何かである。
そしてソレこそ存在の『構成要素(ストイケイオン)』。

 根本的構成要素としての元素が、万物の源であるとともに、基本原理でもあるとするのが、質料のみを物事の原因とする考え方。
タレスは『水(ヒドール)』を、アナクシメネスやディオゲネスは『空気(アエール)』を、(メタポンティオンの)ヒッパソスや(エフェソスの)ヘラクレイトスは『火(ピル)』を、元素としたとも紹介される。
エンペドクレスが、上記3つに加えて、さらに『土(ゲー)』を加え、その単純物体4つすべてを元素と考えた思想が、つまり『四大元素』と呼ばれるものである。

 過去に土を単純元素としたものが、少なくともあまり知られていないのはなぜなのか? ということも、少し言及されたりもしている。

 さらに、クラゾメナイのアナクサラゴスの、「実際的には原理は無限に多くある」という主張が紹介される。
万物はそれぞれに生成や絶滅をしない。常にそれぞれが、ただ結合したりとか、分離したりとかの意味で、擬似的に生成したり絶滅したりするだけのものという主張。

 根本の原因を、構成要素の単純物体としての元素のみに定めるという考え方を、アリストテレスは古いとしている。
実際には、ある物体が別の物体に(その原理はどうあれ)変わったり、一緒くたになったりとかする場合、そういう現象を引き起こしたはずの原因が必ず必要だろうと。

数学と天文学について

 数学に関していくつも興味深い記述があり、ほとんどピタゴラス教団関連のように思われる。
「数こそ全ての始まり」だと説明する彼らの主張に関して、それが妥当なものかを検討したりする感じ。
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 アリストテレスは、ピタゴラスの徒こそ、数学の研究に従事した最初の人々と述べていて、そして彼らはそうして数学の中で育った人たちなので、数学の原理をさらにあらゆる存在の原理であると考えたのだ、としている。

0もマイナスもなかった時代

 数字に関して、1が全ての始まりなのかを考察しているのは興味深いだろう。
1が2になる時、それはすでに1と1が合わさることで発生する数という意味で2という存在はそこにあるはず、だから1が最初の数字という訳ではない。また、1と2の間に数字はないとかの発想は、現代的な数学に慣れてる人からすると、ちょっと違和感を感じるかもしれない。

 しかし数字というものが基本的に現実に適用されるものでしかなかったと想定すると、ここでの考えはよくわかる。
例えば1個のリンゴはありえるが、1.5のリンゴというのは(多少の強引な解釈をしなければ)存在しえないだろう。
そして、0個やマイナス個のリンゴという考え方自体は、おそらく意味の無いものと考えられていたのだろう。

無限は実体としてありうるか

 また、有限のものが、同じ類の無限のものに出会ってしまったら、有限は消されてしまうというような、無限についての考察もある。
さらには直線の部分は点だというような発想、平面や立体などの概念もしっかりあるようなのに、『積分』という方法に、この時代の人たちが至らなかったというのはやはり興味深いか。
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 無限に関して、現実の認識できる実態には、無限のものというのが存在しないことが明らかな理由を、それが何かの部分に属するなら、その全体も無限になるだろうから、さらには無限のものから何の部分を取ってみてもやはりそれも無限だろうから、つまり無限の実体は部分なきものになってしまう。みたいな、よくわからないような考察もある。
最も、実体としてはなくても、無限は属性としてはありうるとされる。原理ではありえないが、物事の属性として、例えば偶数とかには無限性が想定できるというように。

天界の物理学

 哲学に最も近い数学は、すなわち天文学。そして算数学と幾何学は、いかなる実体をも研究しないとしている。

 天文学は数学扱い。そしてやはり、太陽や月や他の惑星などが動いている空の世界、すなわち天界と、地上との原理は明らかに分けて考えられている。
地球上のどのような現象であれ、例え何があろうと、月や太陽や他の惑星は(もちろん見かけ上や量の話ではなく、まったくそのまま文字通りの意味で)何の影響も受けないというのは、今となるとファンタジー的とすら思えるが、当時は、それが当たり前の知識だったのだと思うと、やはり興味深い。
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永久に動くシステムのこと

 永続性は必然性のものかのようにも考えられ、なればこそ、そうした必然的に存在する物事は、可能態にはないだろうともされる。そういうところにある様々な実体は、何かの動きをすると何らかの疲労を伴うわけであるが、永久に動く物体に関しては、その永遠の動きのための疲労が存在していない。ある種、それが閉ざされた系かのように考えられている感じも受ける。
例えば、永続的な運動があるとすれば、それはただ「どこからどこへ」があるかだけ。他のいかなる可能性にも従わないはず。だからこそ、その永続性があるかのように考える。
例として、太陽や星や天界全体の活動が挙げられてるのだが、特に面白いのは、それらを永遠の運動として、自然学者たちが恐れているような「いつか静止するかもしれない」という心配などはしなくてよいと述べていることだろう。

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