「ニュートン」万有引力の発見。秘密主義の世紀の天才

リンゴの木

少年時代

 1642年12月25日、クリスマスの日に、アイザック・ニュートンは生まれた。
サンタ 「サンタクロース」実在する協会と各国の伝説。本当のクリスマス
彼は未熟児で、あまり長くは生きれないだろうとも言われたとされる。

 ニュートンが生まれる数ヵ月前に父は亡くなり、2年後に再婚した母は隣村へと引っ越し、幼い彼はウールスソープで、祖母により育てられた。

 ウールスソープは、イングランド中東部、リンカンシャー州の集落。

 再婚相手もまた亡くなり、母が3人の子とウールスソープに
戻ってきたのは、ニュートンが14歳の時の事。
母は、ニュートンを学校から呼び戻し、農業をやらせようとしたが、彼は野良仕事になど興味なかった。
 ニュートンは手先が器用で、下の子達の為に、人形の家や、
玩具の風車や、水時計を作ってあげたという。
そして暇はいつでも、本を読む事で、潰した。

 母は、息子には農業の才はないと判断し、結局、彼は学校に戻る事になる。
彼女が息子の道を無理やり決めなかったのは、後の全ての数学者、物理学者、化学者、むしろアマチュアも含め、科学に魅せられた全ての人達にとって、大きな幸運であった。

驚異の年(アヌス・ミラビリス)

 1661年、18歳のニュートンは、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。

 そして1665年6月、恐ろしい伝染病であるペストの流行により、ケンブリッジ大学は封鎖され、学士号を得たばかりのニュートンも、一時、故郷ウールスソープに帰省。
そこで彼は18ヶ月間もの休暇の日々を過ごす事になる。

 そしてそれは、人類史において、最も重要な休暇となる。
歴史家は、この僅か18ヶ月間の事を、このように言う。
まさに「驚異の年」だと。

決定的実験。白い光の正体

 色として表現するなら白い太陽光線を、プリズムに通すと、そこに様々な色が授与される事は、ニュートンが生まれる前から知られていた事実である。

 この時代においても、古代とあまり変わらぬほどに威厳のあったアリストテレス(紀元前384~紀元前322)は、光は白く、弱まると他の色が生じるとしていた。
つまりプリズムを通る事で光は弱まる為に色を帯びると、当時は考えられていたのである。

 1666年の始め頃に、ニュートンはガラスのプリズムを入手。
太陽光線を通し、壁に映される鮮やかな人工虹を楽しんだ。
 しかしその内に、ニュートンは、壁に映った光は色ごとに、幅が異なっている事に、違和感を感じ始めた。

 そしていろいろ試した後に、ニュートンは、プリズムから出てきた青い光だけを第二のプリズムに当てるという実験を行った。
後にニュートン自身が、『決定的実験(crucial experiment)』と名付けた世紀の実験である。

 結果は、ニュートンが考えついていた通りになった。
第二のプリズムは、青い光を通し、青い光のみを放出したのである。
 それからニュートンは逆に、色付きの光を混ぜて、白い光を作る事にも成功。
 まさしく決定的であった。

 太陽光のような白い光は、様々な色が混ざったものであり、プリズムなどは、個々の光を屈折させ、分散させていたのだ。
白い光が弱まって色が付いていたのではなく、たくさんの色が混ざって白になっていた訳である。

リンゴと月のエピソード

 あまりにも有名なリンゴの話は作り物だと言われるが、実際のところ、嘘か本当かわからない話であり、ある程度真実が含まれている可能性もある。

 ウールスソープの自宅の庭の木から、リンゴが落ちてきたのを見た時、ニュートンの目にはリンゴばかりでなく、遥か頭上の月も見えていた。
 リンゴに限らず、支えてないと物は落ちてくるものだ。
ではあの月はなぜ落ちてこない?
 とりあえずあれは天使が放つ光などではなく、物である。
それは既に、偉大なる先人のガリレオ(1564~1642)が、望遠鏡によって直に確認している。
 ガリレオの研究や発見ならもちろん知っていた。
何せ、ガリレオの著書『天文対話(Dialogue of the Two Chief World Systems)』は、ニュートンの愛読書のひとつだったのだから。

 で、なぜ月は落ちてこない?
違う。

 彼は閃いた。
そう、月は落ちているのだ。
月は地球に落ちてきているが、しかし横方向へ動いている速度が拮抗し、結果的に地球の周囲を回るのだ。
そもそもそうでないと、横に動く月は、地球からどんどん離れてくはず。

 そう考えると、月だけでない。
太陽を回る惑星。
惑星を回る他の衛星。
 これらの動きは全て説明できるのではないだろうか。
リンゴが木から落ちるのと同じ原理で。

 ニュートンはそう考えたという。

微積分法

 地球とリンゴの距離、それと地球と月までの距離が、地球がそれらを引き付ける力と、どのように関係しているのか。
 少なくともいずれの落下速度も、地球に近づく度に加速するように思えた。

 地球へ落下してくる物の速度は刻一刻と加速、変化する。
問題は異なる速度の、速度を変化する物体を比べる場合、それぞれどの瞬間の速度を基準にすればよいのかが、全然わからないという事。
 当時は存在しなかった、ある瞬間の速度を計る普遍的な法則が必要だった。

 瞬間ごとに速度を変化させる物の動きを、グラフにすると曲線になる。
ある瞬間の速度を計るには、ある瞬間の曲線グラフの変化率を計るに等しい。
 この曲線の変化率の問題に関しては、ケンブリッジのニュートンの師であるアイザック・バロー(1630~1677)も取り組んでいたが、ニュートンは、それをより実用的に発展させたのである。

 そうして『微分法(differentiation )』は考え出された。
それは瞬間瞬間を数学的に切り取る方法である。
 さらにニュートン、バローらは、それが積分という方法の逆である事にも気づき、現在の『微積分法(differential and integral)』は生まれたという。
関数グラフ 「微積分とはどのような方法か?」瞬間を切り取る 微積分とe 「微分積分の関係」なぜ逆か。基本公式いくつか。指数対数関数とネイピア数

万有引力の定理

 そして微分法を用いて、地球への様々な物体の落下速度を比べる事で、ニュートンは『万有引力の定理(law of universal gravitation)』を導いた訳である。

 「2つの物体の間には引力が存在し、その強さは、物体同士の質量の積が大きいほど強くなるが、物体間の距離が離れるほどに、その距離の二乗分、弱くなっていく」
 つまり質量Mの物体と質量mの物体間の距離がrとすると、引力の強さFは、
万有引力の公式
となる。
Gは万有引力定数と呼ばれる比例定数である。

 光の決定的実験、微積分、そして万有引力の定理。
ニュートンの3大業績と称されるそれらは、全て驚異の年の成果なのだ。
だから「驚異の」と言われるのである。

暗雲

秘密にされた世紀の発見

 何が驚くべきか、ニュートンは、その業績を認められ、ケンブリッジに席を置く事になったのだが、その認められた業績とは数学に関するものだった。
 では当時、光学に関する発見と、万有引力の定理は評価されなかったのかと言うと、そうではない。
誰も知らなかったのだ。
当初、ニュートンはその2つの大発見に関して誰にも言わなかった。
 実のところ、微積分法に関しても、彼はすぐには公表しなかった。
彼はそれでも優れた数学者で、それで十分だった。

 発見を隠した理由はいろいろ推測されているが、結局のところ、ニュートンは討論を好むタイプではなかった事が第一とされている。
革新的な仮説というのは、必ず多くの批判を生む。
ニュートンの前任者のように言われるガリレオや、生まれ変わりのように言われるアインシュタインとは違う。
おそらく内気なニュートンは、愚か者の罵声を恐れたのである。

 ただ、万有引力は全く秘密にされていたが、光学に関しては、学生への講義などで話題にされる事もあったという。

ニュートン式望遠鏡

 驚異の年を越えて、ニュートンは優れた数学者として、名を広め始めた。
そんな彼の知名度をさらに巨大にした第二の業績は、望遠鏡であった。

 望遠鏡とは、対象からの光をレンズなどで一点集中させる事で、その投影像を大きくする道具。
 ガリレオの時代に使われていた望遠鏡は、屈折レンズを使っていたが、ニュートンは、それでは全ての光を上手い具合に集中させられないと知っていた。(注釈1)

 そこで、ニュートンは、鏡を使い、光を集中させるグレゴリー式望遠鏡を改良し、独自のものを開発する。

 とりあえず当時の望遠鏡の中で、ニュートン式が特に優れていたのは、そのサイズであった。
ニュートン式望遠鏡は性能がかなり高いのはもちろん、小さく、非常に扱いやすかったのだ。
そしてニュートン式望遠鏡はその性能と手軽さがヨーロッパ中で人気となり、名声を高めたニュートンは、1672年1月11日に、イギリスが誇る科学学会『王立協会(Royal Society)』の会員となった。
 そしてその翌月、1672年2月の事だった。
ニュートンがついに、光学に関する自身の発見を公表したのは。

注釈1

レンズ

 現在は、複数の屈折レンズを使い、効率よく光を集中させる技術がある。
レンズの技術に関してはカメラの記事も参照
カメラ 「カメラの仕組み」歴史。進化。種類。初心者の為の基礎知識

もう何も言わない

 しかし、光学に関するニュートンの発見は、彼の恐れを現実にした。
 もともと、当時、光が波であるか、粒子であるか、という議論があったのだが、ニュートンの発見は、この議論に対して、まさしく火に油だったのだ。

 協会内で、議論は加熱し、そこに渦巻く憎しみにニュートンは心底呆れた。

 そして、彼は決意したのである。
「もう何ひとつも公表などしない」

ニュートンとライプニッツ

 ニュートンは、世界をよくしようとかいった意識は低かったろうし、無益な討論は好んでなかったかもしれない。
 しかし一方で、プライドが高かったのか、それとも信者がうるさかったのか、1971年に公表した微積分法に関して、より早くに発表していたライプニッツ(1646~1716)より、「自分は先に発見していた」と主張。
 ふたりはそれから、なんと25年もの期間、微積分法の発見の栄誉を巡り、法廷で争う事になった。

 ただ現在、微積分に使われる記号などは、ライプニッツ考案のものである。
ニュートンのはわかりづらいと言われるのは、多分、彼の微積分法は、彼自身の為以外ではなかったからであろう。
そういう意味で、この数学的手法に関しては、ニュートンよりライプニッツの方が、我々への恩恵は大きいと言える。

宇宙を説明しつくした最初の理論

エドモント・ハレー

 エドモント・ハレー(1656~1742)はニュートンより14歳年下の天文学者。
彼は半分ヒキコモリみたいなニュートンとは対照的に、明るく、社交的な人物だった。

 万有引力の定理。
この人類史上最大クラスの大発見を成し遂げたのはニュートンであるが、それが世に出たのはハレーのおかげである。

 エドモント・ハレー。
彼こそ、気難しいニュートンが、生涯で最も信頼を向けた友人であった。

彗星

 定理として一般化する事こそ出来なかったが、万有引力のようなものを考える者はいた。
 ただし、(それが真実だとして)リンゴをヒントにしたとされるのはニュートンだけである。
大半の者は彗星からインスピレーションを受けたという。
ハレーもそのひとりだった。
 
 しかしハレーを含む誰もが、万有引力に関する普遍的な数式を見つけられなかったのだ。
唯一、見つけていたが誰にも言ってなかったニュートンに、ハレーが相談を持ちかけたのは、星の起動が、基本的に曲線を描く事を考えれば当然の事と言える。
 微積分を考えだしたニュートンこそ、まさしく曲線のエキスパート中のエキスパートだったのだから。

 1684年8月、ハレーはケンブリッジのニュートンを訪ねた。
 

決心

 結局、ふたりの間にどのようなやりとりがあったのかは謎が多い。
しかしただひとつ言える事は、そこには確かに友情が生まれ、ニュートンはついにハレーの説得に折れたという事。
 それに公表するタイミングとしては、これはまさしくベストだった。
ハレーを始め、証明こそ出来なくとも万有引力に気づき始めた人達がいる。
このままでは微積分の二の舞になる可能性もある。
 
 さらにニュートンは、万有引力の定理を隠してはいたが、腐らせていた訳では決してない。
彼はハレーが訪ねて来た時、既に発見されていた太陽系を巡る惑星の軌道まで完全に計算を終えて、推論は完璧に確信となっていた。

プリンキピア

 そしてニュートンは、1686年、全3編の科学書『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理。Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica)』を書いた。
この本は、それまでのニュートンの全研究の集大成のような内容で、内容は、基本的な力学、振り子や空気抵抗、流体や振動の伝搬、そして万有引力と、かなり多岐にわたっている。

 この本に関して、出版費用、印刷所との契約、校正などのチェック作業と、内容以外の全ては、ハレーが担当した。
彼はそれだけ確信していたのだ。
ニュートンがどれほど凄い人かを、誰よりも知っていた。

勝利

 出版されるや、プリンキピアはかなり売れた。
ただ当時、その数式だらけの難解な内容を真に理解できる者は少なかった。

 しかしこの本に、何か凄いことが書かれている事は、一般大衆にもわかっていた。
 ハレーを始め、その内容を理解できた、高名な科学者達の誰もが、ニュートンの成果を大絶賛したからである。

 それに万有引力は、統一理論、つまり世界というものを説明できる最初の理論であったのだ。

 なんで海は高低を変えるのか。
なんで星は球体なのか。
なんで星は星の周りを回るのか。
なんでリンゴは木から落ちるのか。
万有引力の定理は、全てを説明したのである。
 それはまさに、知性の勝利であった。

ニュートンのオカルト趣味

 ニュートンが、錬金術に非常に強い興味を持っていた事は、今となってはよく知られた事実である。
錬金術 「錬金術」化学の裏側の魔術。ヘルメス思想と賢者の石
 それにニュートンは数学者であると同時に、信仰心あつい神学者でもあったという。

 神学に関しては師であるバローの影響もあるのかも知れない。
バローはニュートンに、自らの後任を任せた後は、数学でなく、の研究に生涯を捧げたという。

 錬金術に関心が芽生えたのは、数学や哲学の後であったとされる。
彼は非常に熱心に錬金術の本を読みあさっていた。
 そういう訳で、彼の事を、科学者であり魔術師でもある最後の人物とする意見もある。

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