太公望と儒教思想
太公望の本名?
紀元前11世紀頃の中国で起きた殷周革命。
暴君、紂王が支配した「殷」王朝に打倒し、これを打ち破った、「周」の戦い。
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この時の、周の軍師であったとされるのが、太公望である。
太公望というの本名ではない。
彼の姓は姜、氏(家系名)は呂、字(実ではない固有の名前)は子牙とされている。
彼を主役とした、古典小説の封神演義においては、一貫して姜子牙と呼ばれているので、その、呼び名も有名。
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姜子牙は本名だという説もある。
太公望の諱(本名)ははっきりしない。
主に、呂尚としている記録と、姜子牙とする記録があり、どちらが本名かは不明。
もちろん、どちらも本名でない可能性もある。
ちなみに、中国の民間伝承に登場する彼は、太公望とはあまり呼ばれないという。
たいてい、太公か子牙らしい。
殷周革命。天子、王朝とは何であったか
殷という王朝は、紀元前17世紀頃から600年ほど栄えたとされる国家である。
殷の前には、より伝説の国家である「夏」という国があったとされている。
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しかしそれに関しては、夏のものとされる記録が、殷とかぶっていたりする事から、おそらくは架空の存在ではないかとされている。
夏が実際には存在しなかったとすれば、おそらく殷は、中国で誕生した最初の国家である。
当時の中国の国の形式は、各地の諸侯が、中央の王朝に仕えるというものだった。
その各地のひとつにすぎなかった周が、 殷王朝を打ち破り、自分たちの周王朝を立ち上げた背景には、神々の意思が見え隠れしていたとされる。
地上で頂点に立つ王は、まさしく天子である。
しかし暴君となりはて、ただただ民衆を苦しめる王は、もはやただの人間であり、新たな天子の候補に、打ち破られ、取って代わられるわけである。
紂王は本当に暴君であったか。武王は善王であったか
殷の最後の天子、紂王は、幼少の頃より優れた才を発揮したが、 慈悲の心に欠け、妲己という美女に溺れたとされる。
紂王は美女の言いなりとなり、国を私物化。
民に重税を課す一方で、自分は毎日、大宴会を開いて楽しんだとされる。
紂王は、中国の歴史上において、典型的すぎる悪の王として描き出されることも多いが、それが真実のことであったのかどうかは、歴史学者の間でも、意見が割れている。
そもそも紂王を悪とし、2代にわたり、彼に打倒した周の文王、武王を理想の善王とするのは、後の儒教学者たちのプロパガンダだったのではないかという説もある。
孔子(紀元前552〜紀元前479)を始祖とする儒教という思想は、 殷周革命後に成立したばかりの周王朝こそ、道徳的で完全無欠な政治を行った理想の国家とする立場をとる。
その対比として、紂王を悪しき存在として描き出したわけである。
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一方、実は夏も、その最後の王は暴君だったと伝えられているのだが、そちらの記録がかなり曖昧なのに対し、殷の紂王への告発は、かなりはっきりと記録に残されている。
だからこの件に関しては、真実の可能性が高いとする見方もある。
渭水のほとりで釣りをしていた太公望。文王との出会い
儒教は、殷周革命前後の周を理想国家としてきた。
そして、その周の王朝の成立に大きく貢献した、軍師、太公望もまた、儒教思想の上で、特別視されてる感があるという。
例えば、太公望に関する有名なエピソードのひとつ。
ある日、黄河の支流のひとつ渭水のほとりにて、餌もつけずに、釣り糸を垂らす太公望に、後に文王となる西伯の姫昌が声をかけたとするエピソード。
「釣れましたか?」と問う姫昌。
「大物が釣れました」と太公望は返す。
そして太公望の才をたちまちに見抜いた文王は、彼を王朝の大臣として迎えたという。
このエピソードこそ、まさに儒教の理想を表現している。
一介の貧相な釣り人も、才あれば、偉大なる賢者に発見されるというもの。
釣り人、太公望
太公望の意味。なぜそう呼ばれたのか
太公望が西伯と渭水で出会ったという記録の最も古い記述は、司馬遷(紀元前145or135〜紀元前86年?)の『史記』のものとされる。
それによると、太公望の先祖は。古代の王に仕えていた人であったが、夏と殷の時代を通して、子孫のある者は庶民となった。
彼は貧乏生活を老年に至るまで続けていたが、ある日、猟に出ていた西伯と渭水の岸辺で出会った。
そして、語り合い、西伯は喜び、告げたという。
「我が大公(祖父)の頃より、聖人があって、周に来るだろう。周はその人を得て、栄えるだろうと伝えられている。あなたこそ、まさにその人に違いない」
そこで、大公が待ち望んだ者、太公望と彼は呼ばれるようになったのだった。
西伯は、猟に出る前から、この出会いをすでに察知していたもされる。
猟に出る前に、彼は占いをしたのだが、「獲物は竜でも虎でもなく、覇王たる者の補佐に出会うであろう」という結果が出ていたのだった。
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魚釣りを楽しむ賢者
実際のところ、太公望に関しては、出身地も、死んだ場所すらもわかっていないところがある。
何通りもある彼の伝説の中で、唯一、ほぼ完全に共通していると言える点が、渭水のほとりで釣りをしていたところで、西伯と出会ったという伝説なのだ。
だかなぜ釣りなのか。
古来中国では、魚が神聖な生物だと考えられていたようで、王が集めた大量の魚を、臣下たちに配るという、魚祭も盛んに行われていたとされる。
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また 魚釣りを密かに楽しむ、隠れた賢者というイメージは、やはり孔子が発端という話もある。
だがなぜ釣り人なのかは、いまいち謎である。
食肉解体業者の太公望
太公望は、ただ毎日毎日釣りをしていただけの、おじいさんではなかった。という話もある。
いくつか記録によっては、太公望は食肉の解体を仕事としていた人だったと書かれているのである。
しかし、 食肉解体業者とは、今日の我々が抱きがちな、のんきな釣り人の太公望というイメージとは、随分かけ離れているようにも思える。
だが現に、紀元前5世紀〜3世紀頃ぐらいまでの、中国の戦国時代においては、食肉解体業者としての太公望は、かなり普通のイメージだったようである。
また孔子は、「呂望、五十歳にして、食を売る」などと述べたという。
とにかく太公望は、食に関わる仕事についていた人だった可能性が高い。
結局彼は釣り人か
太公望は、時代が後になるにつれて、神格化が進み、俗世と関わっていた痕跡を抹消されていったのだと思われる。
文王と出会う前の仕事など、まさにそのような、消されるべき情報だった。
俗物から離れ、隠れた賢者というイメージが強まるにつれ、次第に彼は、釣り人、太公望となったわけである。
伝説的な太公望
本当に庶民であったか
渭水での太公望と文王の会合が、真実の話だとして、しかしどういう事情にせよ、全くの庶民が、いきなり少し話をしただけで大臣に抜擢されるなど、かなりおかしな話ではある。
司馬遷が、太公望の祖先を、古代の王の従者としたのは、ある意味当然とも考えられる。
また太公望の経歴に関しては、やはり単なる庶民ではなかったという記録もあるという。
曰く、太公望は博学なる人物で、もとは殷の紂王に仕えていた。
しかし無道なる暴君の政治にうんざりした彼は、他の諸侯の中で、最も偉大なる人物に鞍替えしようと考えたのだという。
あるいは、彼ははやり生来の隠者であったが、その知恵は類まれなると評判であったという。
ある時、西伯が謂れのない罪で、紂王に捕らえられた時、西伯の忠臣の散宜生と閎夭が、太公望に助けを求めた。
太公望は、「文王は賢君であり、老人をよく敬ってくれると聞くから、協力してもよい」と告げた。
そして太公望は、美女と珍品を紂王に贈るという策略で、文王を逃してやり、以降は彼に仕えたとされる。
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封神演義の太公望。太上老君の影
封神演義において、太公望は崑崙山で修行を積んだ道士として描かれている。
封神演義の影響力は非常に大きく、この小説が書かれたとされる明(1368〜1644)より後の時代では、太公望といえば子牙というふうにされたほどである。
だが実は、この子牙という名に関しては、由来などが全然わかっていない。
民衆の間に伝わる太公望像は、とにかく封神演義の影響が強く、神秘的にされがち。
例えば太公望には、母親がいなかったそうである。
ある時、道教の最も偉い神である太上老君が、川を渡っていた。
すると、橋の下から、何か影が動くのが見え、太上老君はその影に何かを感じた。
そして、橋の上に立ち、呼びかけた。
「影よ、あがりたければ、あがってこい」
すると影は、橋の上にあがってきた。
その影の正体こそ、太公望だったという。
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周の軍師となったきっかけ
太公望は小麦を売る商人だったとも伝えられる。
ある日、周の将軍、黄飛虎の乗った馬が、突然暴れだし、太公望の店に突っ込み、小麦の倉庫をメチャクチャにしてしまった。
それで太公望は小麦商人を続けられなくなってしまった。
その後、彼は易を用いた占い師を始めたが、全然人気はなかった。
ところがある日、突然、美しい女が、太公望に占いを頼んだ。
太公望は、その女が、妖怪変化の類だということを、即座に見抜いた。
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そして木を燃やし、女を火で炙った。
すると、たちまち女は正体を晒して逃げ去ったのだという。
この話が人づてに、周の文王の元に届き、それがきっかけで、太公望は文王の下で働くことになったのだという。
ろくでなし太公望と馬氏
太公望の結婚と離縁
太公望には、馬氏という妻がいたらしい。
結局、ふたりは別れたのだが、そのエピソードは、いずれも太公望は若い頃は出来損ないだったという事を、よく伝えている。
太公望は若い頃、色々な仕事をして、しかし失敗ばかりしていた。
ある時、女房をもらったが、彼は変わらず働きもしないで、毎日読書ばかり。
女房が、あなたでも羊ぐらいなら買えるだろうと、太公望に羊番をさせたが、太公望は羊の見張りも読書しながら行い、それに夢中になりすぎて、気づけば羊は逃げ去ってしまっていた。
どんな仕事もうまくいかない夫に、呆れ果てた女房は、悪人の弟たちにたぶらかされ、夜逃げしてしまった。
妻に見捨てられた太公望は、その後、本を読みながら釣りを始め、「こんなろくでなしだが、釣られたい奴は、どうぞかかるがいい」と呟いた。
そして後に、文王が釣られたのだという。
結局、文王を釣る
太公望のろくでなしエピソードは、他にも様々なバリエーションがあるという。
太公望は若い頃、あまりに失敗ばかりなので、何もかも諦めて、天を仰いで、ため息をついた。
すると、ちょうど鳥が糞を落としてきて、それが太公望の口の中に入ってしまった。
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太公望は思わずそれを口から吐き出したが、その糞の中にはサソリが入っていて、そいつは怒って、太公望を刺してしまった。
それから彼は、急に魚を釣り始めたが、女房がそれを見て、そんなまっすぐ伸びた針で魚は釣れるはずがないと、その針の先を曲げた。
すると魚はたちまち釣れるようになったが、釣られた魚がかわいそうに思えてきた太公望は、妻に内緒で、釣った魚をみんな逃してやった。
しかし、結局それが女房にバレて、彼女は怒って去ってしまった。
それから、太公望は文王が釣れたその日まで、ひたすらに釣れない釣りを続けたのだという。
「覆水盆に返らず」の由来、語源
馬氏とは、周の軍師として成功を収めてから、再会したという話も伝わっている。
有名になった夫に再会した彼女は、「自分が悪かった、もういちど夫婦としてやりなおしたい」と嘆願した。
太公望は、部下に水の入った盆を持って来させ、それを自らひっくり返して、水を全て地面にこぼした。
「お前が、このこぼれた水を全て、盆に返せるというのなら、我々はもう一度やりなおそうではないか」
だがそんな事は出来るはずもなかった。
「覆水、盆に返らず」
この有名なことわざを、最初に使ったのは太公望とされる。
ちなみに覆水とは入れ物がひっくり返ることでこぼれた水のことである。
斉の王としての太公望
周に仕えるようになってから、あるいは周王朝が成立した後、太公望は、斉の国(現在の山東省)を治める事になったとされる。
少し奇妙なのが、斉は、当時としてはかなり辺境の地だったらしいことである。
太公望といえば、周の軍師として、革命の成功に大きな役割を果たしていたはずなのに、なぜそんな辺境の地に封じられてしまったのか。
これに関しては、周の内部でも、やはり何らかの政治的駆け引きがあったのだろうと考えられる事もある。
何にしても、太公望は政治家としても優れた手腕を発揮し、斉の国を豊かにしてくれたのだという。