ゲームとは何か。定義と分類。カイヨワ「遊びと人間」より

ゲーム中

ゲームの定義

 万人が納得するようなゲームの定義はおそらく存在していない。
しかし誰もがゲームだと理解できる例が、この世界にはいくつもある。

 位置を示すマスが備わった盤の上に、兵士などを模したコマを置く。
コマを動かすタイミングを限定し、どのように動かせるのかも決めて、後はそこに選択の余地があれば、それはゲームとなる。
(チェスや将棋)
チェス 「チェスのルールと基本」コマの動き、ポーンの価値、チェックと引き分け 将棋のルール 「将棋のルール」駒の種類と動き。指す、打つ、成る、王手、千日手とは何か
 あるいは数字などをふった厚紙を適当に何枚か持つ。
数字ひとつひとつが持つ効力を決めて、それの発動を決意したら、それもまたゲームとなろう。
(トランプなどのカードゲーム)

ルール

 ルールがなければゲームではない。
ルールとは、決められたある範囲とも言える。

 例えば簡単な卵料理はゲームではない。
卵料理の作り方にルールはない。
だが、コンピューターで、卵料理を作るシミュレーションを作ったなら、それはゲームかもしれない。
なぜなら、そこには、プログラムで設定された作り方のみという、作り方の範囲制限が生まれているからだ。
コンピュータの操作 「コンピューターの構成の基礎知識」1と0の極限を目指す機械
 人形遊びや、ごっこ遊びはどうだろうか?
あれらはゲームだろうか?
だとしたらルールは、あると思う。

 人形遊びやごっこ遊びの真髄は、役を演じる楽しみにある。
だが、役名という制限がある。
そのような役を想定し演じるというゲームでは、例えばケーキ屋を演じる者が「魔物と戦ったり、世界を征服したりも出来る」
だがどんな奇抜な行動や設定を追加しても、ケーキ屋ごっこなら、彼、あるいは彼女はケーキ屋のはずだ。
演じる舞台を想像上の空間に任せた、ある意味で自由度最大ごっこ遊びとも言えるTRPGにおいても、それは同じ事であろう。
TRPGではゲーム内で役割を変更する事も、追加する事も可能な事があるが、その場合においても、プレイヤーはその時々の役割を演じなければならない。
選択 「ゲイリー・ガイギャックス」D&Dの歴史の始まり、最初のRPG誕生の物語

選択の自由

 ルールの範囲内で選択の余地がなくても、おそらくゲームとは言えない。

 ルールの範囲内では、というのは重要な部分である。
ルール外の選択までありにしてしまうと、この世の何もかもゲームになってしまう。
あるいはそうかもしれないが。

 コンピューターゲームの(選択肢が一切ないタイプの)一本道のサウンドノベルはどうか。
サウンドノベルは、ゲーム内で、音量や文字表示速度などの設定を変えたり出来る。
セーブやロードもあるので、(選択肢がなくても)サウンドノベルにまったく選択性がないわけではない。

 選択肢が全くないと言えばジェットコースターのような遊具もそうだが、ああいうのはゲームだろうか?。
微妙だが、あれにもしっかり選択性質があるように思う。
許される限り体を動かし、例えば手をあげるとか、縮こまるとかして、スリルを調整出来るだろう。
ジェットコースターに乗りながら許される動きこそ、選択の自由性に他ならないのではないだろうか?

ゲームがゲームでなくなる時

 結果がわかりきっているのも、ゲームとは言えない要素だ。
チェスで追い詰められ、どう動かさそうとも、残り数手で負けるのが明らかな場合、そこでゲームは終わる。
諦めないで残り数手を動かすのもよいが、逆転の目がないなら、もはやそれは単なる作業でゲームではない。

 そうだとすると、ゲームがゲームでなくなる事もあるという事だ。
途中でゲームでなくなるケースが少ないゲームの方が、そうでないのより優れているのは、まあ間違いない。

 例によって一本道サウンドノベルや遊具などはどうか?
初プレイ時は、どんなストーリーか、どんなスリルがあるかわからず、それは結果がわからないという事になる。
だが何度も楽しんでいる内に、どちらも作業的になってくる。

 面白いのが、上記の考えを適用するなら、サウンドノベルというのはネタバレを食らう事でゲーム性が薄れる。

時間を浪費して何もえないもの

 ゲームは非生産的だと言われる。
ゲームは何かを得るために行うのではない。
ゲームで何かを得られる事はない。
だが、ゲームで(時間を除いて)失うものはなにもない。

 賭博ゲームはどうだろう。
勝利者は金を得て、敗北者は金を失う。
また優れたゲームテクニックは、よい見せ物になり、それを商売にしてる人すらいる。
にも関わらずゲーム自体は何も産み出してはいないと言える。

 賭博や、あるいは賞金のあるゲームなどは、単に誰が金を得るかをゲームで決めてるだけだ。
テクニックパフォーマンスは、単に尊敬され、貢がれているだけだ。

 たったひとりで、どこかの部屋でゲームをしてみれば実感できるだろう。
ゲームをプレイする事自体は何も産み出していない。

才能の無駄遣い

 株で金を稼ぐというシミュレーションゲームで百兆円を稼いでも、現実の世界で大金持ちにはならない。
また、シミュレーションの地球で戦争をなくしても、現実の世界が平和になる事はない。
それらの例は、経済的才能や政治的才能の浪費と言えなくもない。

 ゲーム内では、様々な事を行える。
だがゲーム内で何を成し遂げようと、それが現実に影響を与える事はない。
しかし実はこれは、ゲームの優れた点と関係している。
なぜなら現実には物理的に制限があるために、努力が報われない事も多い。
そんなのはまだマシで、酷い環境に生まれたら、努力する事すら許されない。
しかしゲーム内なら、あらゆるプレイヤーは平等な立場で、努力は報われる。

 リアルが貧乏なプレイヤーが、レベル上げが出来ない事はない。
リアルが裕福なプレイヤーでも、だらだらしてるだけでは、何も得ない。
導き手の大人たちは、子供たちを平等に相手してくれる。
凄いのが、現実には決して出来ないだろう、「誰もが大金持ち」という状況を実現できる。
誰が金を稼いだか勝負するようなゲームで、全体の金の総量に制限があるようなものを除けば。

ゲームに強制力はない

 誰もが平等であるというのは、スポーツなどには当てはまらないだろう。
スポーツはゲームだろうか?
目的によるだろう。

 楽しいから友人同士でサッカーやテニスをするなら、それはゲームと言える。
しかしプロスポーツ選手が、名誉や金のために必死で努力するならば、それはゲームではなくなってくる。
それは仕事である。
ゲームとは別の目的の為に、強制される仕事である。

 ただし、あるスポーツが楽しくてやってるだけで、プロになってしまい、いつの間にか成功していた、という人がいるならば、その人にとっては、そのスポーツはゲームと言えると思われる。

 ルール外の強制が介入すると、ゲームはたちまち崩壊する。
例えばチェスで、ある手を打たれたたら負けるからと、「その手は打つな」と脅し、相手がそれに屈服してしまったら、それはゲームではない。
学校の体育で、やりたくもない野球や水泳をやらされたとしたら、やらされてる人にとってはそれはゲームでない。

 ゲーム自体に強制力はない。
プレイする人は、飽きたならいつでも辞める事が出来るのがゲームである。

 目上の者が、相手を鍛えるため、ミスを指摘してやったり、少し前の展開に戻したり、あえて決定的な選択をしないのは、強制ではない。
そのようなゲームは、ハンデ戦と呼ばれる。
ゲーム内の実力が異なる者が対等に戦うための工夫である。
ハンデは、またスポーツにおいても平等を実現できる。

 ジェットコースターなどはどうか。
一度乗ると、止まるまでは降りられない。
だが乗る人は、乗る前からそれを承知している。
ジェットコースターが止まるまで降りれないのは、ルール内の強制である。
ゲームを壊すのはルール外の強制だ。

カイヨワによる4つの分類

 ゲームには種類がある。
諸説あるが、有名なカイヨワによる分類は、わかりやすく、かつ納得しやすい。

 彼によるとゲームの種類は主に4つ。 
アゴン(サッカーやチェスなどの競技、対戦ゲーム)
アレア(ルーレットやくじ引きなどの、運に結果をまかせるゲーム)
ミミクリ(ごっこ遊びのような、演じるゲーム)
イリンクス(ジェットコースターなどの急速な移動などの刺激を楽しむ行為)
  
 いろいろなゲームが上記の複合でもある。
例えばたいていのTRPGがアゴン、アレア、ミミクリの複合である。

 4つ全ての要素を含む場合は考えにくい。
例えば規則的なルールを伴うのが普通のアゴンと、混乱を楽しむようなイリンクスは交わりにくい。
強引に混ぜる事が出来るとしても、どちらかの要素は非常に弱くなるだろう。

 もし4つの分類の要素全てを含み、かつ強烈に発揮されてるゲームがあるとするなら、それはおそらく究極のゲームである。

カイヨワの本


 この本で、著者のカイヨワは遊びについていろいろ述べて、4つの分類も書いている。
遊びとゲーム(遊戯)の違いだが、筆者はあまり区別してない。
筆者の書く文章において、ゲームとは遊びの事である。

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