「チェスの歴史」将棋の起源、ルールの変化、戦争ゲームの研究物語

チェス

チェスも将棋も起源は同じ

 チェスは、ヨーロッパのゲームというイメージが強い。
アラブ地域やアメリカのイメージも強い。
実際のところ、それらの地域ではチェスは単なるゲームではなく、スポーツとか、芸術とか、ひとつの偉大な文化のように考えられてたりもするという。

 日本では、将棋の方がずっと人気である。
今は一般的に、チェスも将棋も起源は同じと考えられているが、確かにそれら二つのゲームの発想はよく似ている。
将棋の盤面「将棋の歴史」複雑化する戦い。極限の面白さへの渇望 どちらも盤上で、決められた動きをするコマ(駒)を使い、相手のキング(王)を狙うゲームである。
 しかし日本では将棋の方が人気でも、世界的に見たら明らかにチェスの方が人気なのは、ビジュアル面の問題もあるのかもしれない。
チェスがコマを形で識別するのに対し、将棋の場合はコマに書かれた漢字で識別する。
どちらがよりインターナショナル的かは、かなり明らかであろう。

ヨーロッパにおけるチェスの歴史研究の始まり

起源は、いつのどこなのか

 それに使用されていたと考えられるコマが見つかっていることから、少なくとも10世紀頃には、ヨーロッパにてチェスは存在していたと言われる。
ただし、その頃にはまだかなりマイナーな遊びだったと考えられているという。

 時代が進むにつれ、このゲームはだんだんとヨーロッパに普及していったが、それと合わせて人々の興味も増大していった。
いったいこのゲームの原点が、いつの時代の、どこの世界にあるか、という興味である。

 中世と呼ばれる時代には、「元々チェスはイスラム圏のゲームであり、十字軍によってヨーロッパに伝えられた」とする説が、特に有力とされていた。
エルサレム「十字軍遠征」エルサレムを巡る戦い。国家の目的。世界史への影響 しかし、16世紀になる頃には、チェスの起源は古代ギリシアという説が、大多数の人の間でかなり広まっていたようだ。

シャトランジ。東方世界の古典より

 イギリスのトーマス・ハイド(1636~1703)は、アラビア語、ヘブライ語に詳しく、アラブ地域のチェス文献にも精通していた。
そして彼は、東方世界の古典に注目した、最初期のヨーロッパ人歴史学者でもあり、「チェスの起源がイスラム園よりもさらに東にある」という可能性をヨーロッパにもたらした最初の人ともされている。

 ハイドが1694年頃に発表した『Mandragorias, seu Historia Shahiludii(マンドラゴラ、あるいはシャヒルディ(シャトランジ?)の歴史)』などは、チェス史研究において、かなり重要な書である。
彼は、チェスが6世紀くらいに西方世界に伝わったと述べた。

 ハイドは、アラビア語の「シャトランジ(شطرنج。チェス)」は、幻覚作用のある有毒植物(マンドラゴラ?)のペルシア語名「シャトラング」に由来しているではないかと、考えていて、アラブ地方には、かなり古くからチェスが存在していることを示唆する。
 ギリシア・ローマ以外かつ、イスラム以前の時代のアラビアに、チェスの起源を想定したのはかなり画期的であった。

象棋。ユダヤ人のチェス。インド起源説

 ハイドは、中国の象棋シャンチーについても調べて、その駒の名称やルールなどもヨーロッパに紹介する。
彼は、象棋は擬似的な戦争ゲームであり、インドが起源であるとした。

 ハイドはさらに、 アラビア語のチェスに関する文献を読みとき、チェスはインドの西部では、6~7世紀くらいにはもう遊ばれていたことを指摘。
 それに、ヘブライ語の詩などから、ユダヤ人の間でもチェスが古くから遊ばれていたことを示唆した。
ユダヤの寺院「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?  ハイドの研究は非常に優れたものであり、後のチェス史研究に大きな影響を残した。
彼はアラビアのシャトランジに気づき、インドの記録に近づいたのだ。
ヨーロッパのチェス史研究において、チェスのインド起源説も、おそらく最初に唱えたのは彼である。

最も古い型のチェス、チャトランガ

ウィリアム・ジョーンズ

 ニンフのカイサは、戦いの神マーズにつれなかった。
大地が浮かび上がる様子「ギリシア神話の世界観」人々、海と大陸と天空、創造、ゼウスとタイタン そこでマーズはカイサに対し、ゲームで自分に負けたら振り向いてくれるように約束させ、チェスの創造神の力も借りて、勝利する。
 カイサは負けはしたが、この話以降、彼女はチェスの女神として広く知れ渡るようになった。

 言語学者であり東方学者のウィリアム・ジョーンズ(1746~1794)は、17歳の頃に、上記のような、神話にチェスの起源を求める物語を創作するほどに、このゲームに強い興味を抱いていたらしい
 ちなみにジョーンズは、カイサの話に関して、マルコ・ジロラモ・ビダという人の1527年発表の詩集を参考にしたそうである。
 また、神が女の愛を獲得するために、チェスを作ったゲームの神の協力を借りるという話自体は、より古くから伝わっている伝説らしい。

チャトランガ。インドゲームのチェスについて

 ジョーンズは、1790年に『インドゲームのチェスについて(On the Indian Game of Chess)』という論文を発表。
彼はサンスクリット語の文献から、アラブのシャトランジよりもさらに古い、インドの『チャトランガ(四つ組)』を紹介。
 チャトランガは、チャトルラージャとも言い、「四人の王」と直訳できる。
そこでこのゲームは、おそらく四人のプレイヤーが対戦するゲームと推測できる。

 ジョーンズの紹介によると、チャトランガのコマの種類は王、象、馬、船、歩兵があり、プレイヤーごとに色分けされて区別される。
このカードが戦争を模したゲームであることは確かだそうである。

サイコロを使っていた?

 四人制チャトランガに関して特に注目すべきは、動かせるコマを、サイコロの目によって決めていたことであろう。
 例えばサイコロを振って、5の目が出た時には王か歩兵を動かせる。
4が出ると象を動かせる
3で馬を動かせて、2の時は船を動かせるというような感じ。
 サイコロの目が2~5であることから、おそらくは1~4までの目のサイコロを二つ使っていたのだと推測できる。

 もしもこのチャトランガが、チェスや将棋の起源ならば、これらのゲームは運の要素を排除するような形で進化してきたことになる。

 また、ゲームの勝敗条件であるが、王を取ったら勝ちなのではなく、ゲーム中取り合ったコマに応じて、獲得した得点の高さを競い合うゲームだったようだ。

アントニウス・ヴァン・デア・リンデ

 19世紀には、チェスの起源はインドのチャトランガであるという説がわりと一般的になっていった。
チャトランガ起源説は、現在においても最も有力な仮説である。

 チェス、それにチャトランガ研究を大きく前進させた人物として、オランダのアントニウス・ヴァン・デア・リンデ(1833~1897)がよく知られている。
彼は神学や哲学研究に情熱を注ぎながら、オランダのヘルダーラント州ナイメーヘンのチェスクラブに所属し、チェスの研究にも尽力したという。

チェスの歴史の出典研究

 ドイツにて、リンデがチェス史に関して書いた三冊。
1874年の『16世紀のチェス(The Schachspiel des 16. Jahrhunderts)』、『 チェスの歴史と文学(Geschichte und Litteratur des Schachspiels)』。
1881年の『チェスの歴史の出典研究(Quellenstudium zur Geschichte des Schachspiels)』
以上の三冊は、チェス史研究の書として非常に優れていると評価されている。

 特に「チェスの歴史の出典研究」は、それまでのチェスに関する多くの文献の内容の集大成的な大作で、言うなれば、チェス研究史における「原論」のような書であるようである。
幾何学なぜ数学を学ぶのか?「エウクレイデスと原論の謎」 チェスの変種を紹介するくだりでは、中国や日本の象棋(将棋)も説明されているという。

チャトランガは原始的か、派生的か

 リンデは、四人制かつ、サイコロを用いるゲームであるチャトランガは、原始的なものではなく、派生的なものであると推測している。
ようするにインドのチャトランガも、元のチェスの変種としているわけである。

 しかしながら19世紀後半には、すでにチャトランガが最も古い型のチェスでないかという考えは幅広く受け入れられていた。

チェス学の確立

競争ゲーム、狩猟ゲーム、戦争ゲーム

 「チェスの歴史の出典研究」がチェス史研究の原論とすると、ハロルド・ジェームス・ラスベン・マレー(1868~1955)の1913年出版の『チェスの歴史(A History of Chess)』は、聖書と言えよう。

 後に(なんと900ページを越えるらしい)「チェス以外のゲームの歴史(A History of Board Games other than Chess)」という 本を発表するほどに チェス以外のボードゲームにも通じていた彼は、チェスというゲームがそもそも、それ単体で誕生したものではないとした。
 チェスはおそらく、古代エジプトから脈々と続くボードゲームの系譜の中で生じた、それ自体が一つの派生のゲームであった。
そして、そのボードゲームの派生であるチェスの、最も古い形こそインドのチャトランガであるのだろうと、彼は述べている。

 マレー曰く、ボードゲームは、主に「競争ゲーム」、「狩猟ゲーム」、「戦争ゲーム」に分類できるとし、チェスや将棋は戦争ゲームであるとしたのだ。
そして歴史上最初に現れた戦争ゲームが、チャトランガというわけである(注釈)。

TCGは戦争ゲーム。D&Dは冒険ゲーム

 マレーの分類を深く考えるとなかなか興味深い事実が明らかとなる。
例えば、TCG(トレーディングカードゲーム)はおそらく戦争ゲームの類、つまりチェスの系譜である。
TCGというジャンルを世に広めた「マジックザギャザリング」からして、魔法使いの戦いという設定だ。

 D&D(TRPG)はどこに含まれるであろうか。
おそらくこれは、かなり久々に登場した、全く新しい分類、つまり「冒険ゲーム」である。

史上最初のチェス学者

 マレーの書が重要視されるのは、世界中のさまざまな地方のチェスのコマの美術的価値を評価したり、文芸作品におけるチェスの描写なども考察しているためというのもあろう。

 言うなれば彼は、明確にチェスを、芸術としても論じたのである。
そういう思想はもっと古くからあるのかもしれないが、世に広く浸透させたのは彼である。

 そこで彼は『チェス学』を確立した人物とも、 史上最初のチェス学者とも言われている。

20世紀以降のチェス研究

チェスの歴史研究で何が重要か

 今ではチャトランガ説が有力といっても、確定しているわけではない。
古代ペルシア説
古代ギリシア説。
それに、より古いエジプト説もなかなか人気である。

 今のチェス史研究において、特に以下のことが重視されている。
「そもそもチェスというのはどのようなゲームなのか」
「それはチェスという単体の発明であるのか、あるいはボードゲームというさらに大きな系譜の中にがっしりと収まっている程度のものなのか」
「最初のチェスは、四人制だったのか、二人制だったのか」
「最初のチェスには、サイコロを使っていたのか、使っていなかったのか」
「戦争がモチーフとなったのはいつどこでか」
「王をはじめ、今あるコマが考え出されたのはいつどこでか」

 さらに1981年には、チェスの研究や、チェスに関するさまざまなイベントを指導する『チェス・コレクターズ・インターナショナル(CCI)』なる組織も発足。
 ゲームとしてのチェス、芸術や文化としてのチェス、 両方の面からその歴史研究の波は、世界中に広がっている。

アラブの新しいコマ。マハーバーラタの記述

 新しい事実は次々見つかっている。

 一桁の世紀の頃のアラブ世界のコマは、 シンプルで抽象的な形をしているものが多く、それが古いことの根拠とされていた。
 ところが、ウズベキスタンのサマルカンド近くのアフラシヤブ遺跡で発掘された8世紀頃と思われる七個のコマは、 おそらくはライオンに乗っている大臣や、盾と武器を持った騎士など、かなり具体的なデザインであった。
 アフラシヤブのコマは、アラブのコマに二つの系統があったことを示していて、おそらく抽象的な方は、偶像崇拝を嫌ったイスラムの者の手によるものと考えられている。

 また、マハーバーラタのような、インドの古典におけるチャトランガを書いているとされていた多くの記述が、実は本当の戦争の話を書いているだけという推測が増えてきて、それらを根拠としていた四人制チャトランガ起源説がやや怪しくなってきている。

レナーテ・ザイエット

 古代インドのゲームとチェスの関係性の研究をしているレナーテ・ザイエット教授は、「四人制チャトランガに関する、確実的な文献の記述の最初のものは11世紀頃」、「古代ペルシアに伝わったチェスはすでに二人用だった」などと述べている。

 四人制起源説に関しては、有力な証拠とされていた、インドのバルフート遺跡の(おそらくは紀元前3世紀ぐらいの)レリーフが、 単にサイコロを用いたゲームであり、チャトランガとの関連が薄いという指摘も、今は多いという。
サイコロ「サイコロの歴史」起源と文化との関わり。占いとゲーム道具  ザイエットはまた、 それこそ古代文献の戦争戦術の記述がそれだと勘違いされるくらいに、チャトランガはまさしく戦争のシミュレーションそのものであり、軍事作戦の研究がゲーム化したものと推測している。
 そして、サイコロを使うようになって、運の要素が高められた四人制は、やはり気晴らしの賭博用として派生したものだろうと彼女は示唆している。

インド以外の起源説

 古代エジプトは、 ボードゲームというものが開発された場所候補であるが、 すでにこの時代にチェスの原型があったかは、ほとんどわからないのが現状である。

 古代ギリシアには、例えばプラトンによる、二人用サイコロゲームの記述などが残っているという。
四人制チャトランガ起源説においては、アレキサンダー王の侵略を受けた時に、ギリシアゲームの影響で、二人制が誕生したのではないか、という考えもある。

 古代ペルシア説は、マニジェ・アブカイカバリという人の研究報告以降、注目され始めたようだ。
どうも、ペルシア(イラン)に(おそらく6世紀くらいに)インドから伝えられたチェス(とされているゲーム)は、コマが単に形の異なる石だったらしい。
 一方で、同じ時代くらいの記録にはっきりと、着色され、形のあるコマを使うチェスらしき記述があり、これはもともとペルシアにあった、まさしくチェスの原型であるゲームであり、インドから入ってきたゲームとは別なのではないか、という仮説である。

 一般的には荒唐無稽とされているが、紀元前1000年頃の中国説。
周の武王が開発したという伝説も興味深い。
西の城「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録

チェスの開発者は誰か

 チェスには、いくつもの起源伝説があり、開発者とされる者も大勢伝わっている。

 ギリシア神話においては、アレス(マーズ)が森のニンフ、カイサへ贈った愛のプレゼントこそ、このチェスというゲームで、製作者はエフロンという神とされる。

 ペルシャでは、古代の王クセルクセス1世(紀元前5世紀くらいの人)によって発明されたという話もある。

 他にも、ギリシア神話に登場するパラメデス、アガメムノン、オデュッセウスなども、開発者候補として、かつては人気であったようだ。

シャー・ナーメの記述

 インド起源説、ペルシャ起源説のどちらにおいても最重要文献の一つされているのが、ペルシャ詩人のフェルドウスィー(934~1020)によって書かれた、叙事詩りょじし『シャー・ナーメ(王の書)』である。

 シャー・ナーメ内では、チェスの起源や開発者についていくつかの伝説が語られているという。

 まずシサ・イブン・ダヒルという人の話。
彼は、インド王のためにチェスを発明したらしい。
王は彼の知性を非常に誉め称えていたようである。

 開発者に関しては別の物語もあり、実は異なるゲームの話などの説もある。
 かつてインドの女王に、二人の息子、タルハンドとガヴがいた。
王位継承権の関係で彼らは仲が悪く、ある時タルハンドが戦死した時、母はガヴがタルハンドを殺したのではと疑った。
ガヴ、あるいは彼に使える賢者は、彼の無実を証明するために、戦争を再現するためのゲーム、すなわちチェスを開発し、タルハンドがいかにして死んだかを女王に説明したというのである。
 このエピソードにおける「シャーマット(王は死んだ)」という表現が、「チェックメイト」という言葉の起源という説もある。

 シャー・ナーメには、インドの使者からペルシャ王にチェスが送られた伝説の記述もある。
ペルシャ王は見返りに、「ナード」というゲームをインド側に送ったそうである。
 ナードは「バックギャモン」というゲームの前身とされている一方で、実はこれこそがチェスだった、という説もある。
 ナードに関しては、6世紀頃のカヴァド一世とホスロー一世に仕えた大臣ブズルグミフルの発明という伝説がある。

アラビア、イスラム世界のチェス

シャトランジのコマの色

 四年制、二人制、どちらが起源だったにせよ。
アラブ世界に伝わり、8世紀くらいから、ほぼ確実に広く遊ばれていたチェスは二人制であり、サイコロも使われてはなかった。

 イスラム教がチェスを公然と容認していたかは不明である。
ただ一般的には、イスラム教は賭博を嫌ったが、戦術性の高いチェスは教養高い遊びと認識され、受け入れられていたのだろうとされている。
イスラム「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束  おそらくチャトランガが、シャトランジと呼ばれるようになったのは、サンスクリット語のChに相当する発音が、ペルシア語やアラビア語に存在しなかったから。

 初期のコマの色分けは白黒でなく赤黒だったようで、特に色に関して意味はなく、塗料が入手しやすかったからだろうと考えられている。

王、大臣、司令官、騎兵、指揮官、歩兵

 アラブで遊ばれていたチェスのコマは、「シャー(王)」、「フィルツァーン(大臣)」、「フィル(司令官)」、「ファラス(騎兵)」、「ルクク(指揮官)」、「バイダック(歩兵)」
 これらがさらにヨーロッパに伝わり、シャーが「キング」、バイダックが「ポーン」、ファラスが「ナイト(騎士)」、ルククが「ルーク(城)」。
そしてフィルが「ビショップ(僧侶)」、フィルツァーンが「クイーン(女王)」となっていったわけである。

 ファラス(ナイト)とルクク(ルーク)は、すでにシャトランジの時点で、 現在のチェスと同じ動きだったようである。

 「バイダック(ポーン)」は、基本は現在のチェスと同じだが、初期移動時に2マス動かせなかった。
敵陣の最終列のマスに到達すると変化はしたようだが、成るのはフィルツァーンに固定だったらしい。
このルールは最終列マスに進んだバイダックが全く意味のなくなることを考えると、当然のものであろう。

チェスとは何か?

 世界中のどの立場のチェスの歴史研究者にも共通してる認識の一つが、このチェスというゲームを、初めて研究の対象としてみたのは、アラブ人たちであるということ。
古代における、チェスの歴史の手がかりとされている文献の多くも、アラブ人のものである。

 また、イスラム教のカリフ(指導者)たちの中にも、 このゲームに魅了されたものは多く、達人と称された人もいる。

 例えば、千夜一夜物語において偉大な王として描かれる、アッバース朝第五代カリフのハールーン・アッ=ラシード(763~809)は、このゲームの達人でもあったらしい。
彼はある時、尋ねられたという。
「チェスとは結局何なのですか?」
彼は即座に返した。
「逆に聞こう。人生とは何だ?」

定石、フェアリーチェスの始まり

 イスラム時代のアラブで最も偉大とされるチェスプレイヤーは二人。
詩人であり歴史家でもあるアル・スーリと、彼の弟子であるアル・ラージである。

 特にアル・スーリはほとんど伝説的な人物で、かつてはチェスが非常に強い人のことを「アル・スーリのようだ」と称えるほどだったらしい。

 またアル・スーリらは、 彼ら自身が書いたチェスの指南書において、コマの強さからその価値を決めて、コマを取り合う場合の損得などを論じている。
そういう考え方は、現在でもチェス系統のゲーム全てにおける基本である。

 いわゆる「定石」という考えが誕生したのも、おそらくはアラブにおいてである。
それと様々な、特別ルールが適用された、いわゆる「フェアリーチェス」の概念も、アラブにて広まったらしい

女の戦い

 アラブにチェスが普及するにつれ、 それを教える専門学校も多く作られたようである。
 おそらくそのような場では、希望するなら女性も学ぶことができた。
カリフの大臣ムルワルディの伝説などは、そのことを示唆していると言われる。

 ムルワルディは、チェスが下手くそだが、賭けチェスを止められず、 財産を次々と失い、他に何もなくなったところで、ついには自分の妻と娘を賭け金扱いとしてしまう。
 しかし、ムルワルディが形成不利とみてとった、聡明な娘は、愚か者の父にそっとアドバイスした。
「塔(ルーク)を犠牲にしなさい」
 そしてそのアドバイスのおかげで、妻と娘は救われたそうだ。

ヨーロッパのチェスとクイーン

 イスラム教の征服したどの地域にもチェスは伝わり、その中には、例えばヨーロッパのスペインなどがあった。
 また、交易などを通し、ロシアにも早くからチェスは伝わったようである。
 そうして、 おそらくは10世紀くらいに、チェスはヨーロッパに伝わったのだった。

コーデックス・アルフォンソ

 1280年頃のスペインの文書「イン・エクステンソ」には、すでにクイーンというコマに関する記述があるという。

 また、この時代(13世紀)に、カスティーリャ、コルドバ、セビリャをキリスト教徒たちが奪還した時のカスティーリャ王アルフォンソ10世は、遊戯(遊び)の保存者としても知られている。
スペインの山「スペインの成立」イスラム王国の支配とキリスト教の抵抗の歴史 そのアルフォンソ10世が後の世に残した『コーデックス・アルフォンソ(アルフォンソ写本)』という遊戯書のチェスの項目にも、クイーンにコマに関する言及があるという。
それは明らかにシャトランジにおけるファルツァーンのコマに対して使っている名前であり、「女王は、斜め3マスに、 他の駒を越えても移動できる」と現在とは異なる性能を紹介している。

 アルフォンソ10世のクイーンに関する記述において、もうひとつ興味深いのは、「歩兵は、自分の女王がない時のみ、最奥に行くと、女王になれる」というルール説明であろう。
最初に盤上に置かれているコマ以外は使わないでおこう、という工夫だろうか。

チェスの革命。クイーンとビショップの強化

 ヨーロッパの15世紀末から、16世紀ぐらいに、ハロルド・ジェームス・ラスベン・マレーが「チェスの革命」と称する、大きな変化が起きた。
 その革命がいったいヨーロッパのどこで起きたのかは明らかになっていないが、おそらくはスペイン、イタリア、フランスのいずれかだったろうと言われている。

 確かなことは、15世紀末くらいから様々なチェスの模擬戦を書いた文献において、クイーンとビショップがそれまでと比べて、大げさな動きをするようになったことである。
また、ポーンが最初のみ2マス動けるというルールや、王が他のコマ(現在のチェスではルーク)と入れ替わる「キャスリング」も、この頃までには開発されていたようだ。

 それらの新しいルールは、最初はローカルルールにすぎなかったが、だんだんと広く受け入れられるようになり、基本ルールとなっていく。

 ルイス・ラミレス・デ・ルセナ(1465~1530)という人の、「チェスへの愛と芸術を繰り返す(Repetición de amores y arte de ajedrez)」という論文は、 新しいチェスが広まる大きなきっかけとなったとされている。
 ルセナは、ヨーロッパ各地で生まれていた様々なローカルルールを統一し、さらにはその新しいルールにおける基本戦術をいくつか提案した。

 さらにルセナ以降、チェスの序盤の定跡に関する書物が、次々と書かれるようになったという。
これは、コマの動きが大きく変わったことによって、序盤の戦術も変化を求められたからでないか、と考えられている。

 15世紀という時代に、コマの動きが大きくしようという試みが始まったことについて、大航海時代が始まったことが影響しているのではないかという推測もある。
つまり、より広い世界を、という考えがゲームの領域にも入り込んできた結果だというわけである。

狂った貴婦人のゲーム

 クイーンとビショップが強化されたことで、序盤からの奇襲戦法が実用的になり、よりゲームの戦術性は増した。
ポーンも、最初に2マス進めるようになったのみならず、場合によっては強力なクイーンに変われるということで、終盤における切り札にもなりうる重要なコマとなった。

 新しいテンポの早いゲームは、フランスにおいては、「狂った貴婦人のゲーム」と呼ばれたそうである。

 こうして現在のチェス。
ヨーロッパのチェスが誕生したのであった。

ルール統一に貢献したチェスプレイヤー

 17世紀には、クイーンとビショップの動きに関しては、ほぼヨーロッパ全域で共通の認識となっていたようだ。
しかし、キャスリングや、ポーンの特殊行動である「アンパッサン」、ポーンの変身先や、肝心のキングの動きなど、多くのルールが、地方ごとにまだまだバラバラだったらしい。

 ルールの決定的な統一が徐々にでも始まったのは、18世紀の頃とされている。
その大きな原動力となったのが、国をまたぐチェスプレイヤーたちだった。

 例えば、音楽家のダンカン・フィリドール(1726~1795)は、目隠し状態で同時に3人と対局して全て勝てた、という逸話があるほどのチェスの天才プレイヤーでもあった。
 そのフィリドールは、パリとロンドンの両方で、チェスの指導を行っていたそうである。
彼が教えていたのは、主にフランスの方のルールであったが、影響は大きかったようで、そのルールはイギリスでも標準となった。

チェスクラブの始まり。そして芸術と文化へ

 フィリドールはまた1772年くらいに、ロンドンにて、おそらくは史上初であった『チェスクラブ』を設立した。
定員は100名であり、会員になることは、とても優れたプレーヤーの証であり、名誉なことだったようである。

 そしてフィリドール以降、 ヨーロッパ各地でチェスクラブは、作られるようになり、ルールの統一化の流れ加速させていく。
それともうひとつ、チェスクラブは大きな変化をもたらしたとされる。

 かつてチェスといえば、その多くが金を賭けたチェスだった。
 あまり裕福な家の生まれてなく、かつ金持ちの援助も受けていないチェスプレーヤーの、生活費を稼ぐための賭けチェスというのは、18世紀までには普通のことだったのである。
 チェスクラブは、会員同士の対戦で優れた成績を持つ者に、入会金や年会費の一部を賞金として与えるという制度を始めた。
さらに、会員を実力によってランク分けし、より競技としての側面を強くしていった。

 チェスは、模擬戦争から賭博ゲームになり、そして賭博ゲームからスポーツとなった。
そして20世紀には芸術とも呼ばれ、文化とも呼ばれるようになったのである。

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