胎児の頃の行事
懐胎の祝。妊娠五ヶ月目の儀式
人生における、最も早い行事は、『懐胎の祝』なのはほぼ間違いない。
これは妊娠5ヶ月目の妊婦に、服帯を巻くという儀式である。
お母さんのおなかの中で、ようやく流産の心配がなくなった頃くらいに行われるもので、保温などの、実用的な面もある。
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誕生蟇目。風切り音鳴らし、魔を退散させる
矢の先につけて、射たときに、音が鳴るように仕掛けた卵形の装置を鏑と言う。
鏑をつけた矢は鏑矢と呼ばれ、例えば戦場における合図などに、よく使われたという。
木を挽いて削った鏑を、蟇目鏑と言う。
その名前は、形状がヒキガエルに似ているからだという説もある。
蟇目鏑をつけた矢を、射手が的に放つ『誕生蟇目』も、胎児の健康な成長を祈るための儀式。
矢によって風を切り、蟇目によって音を鳴らして、それにより魔の気を消しさるのである。
畳の裏が、魔障の巣とされているから、それを裏返し、立てて、的にする。
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出産を行う産屋。厄災を払うための天児、宿直犬
出産を家々で 行うのが普通であった時代。
子をとりあげる女性を『座婆』と言った。
産の時、妊婦の腰を抱く、『腰抱』という役割もある。
出産を行う部屋を『産屋』と言う。
産屋は、非常に神聖な場所とされ、親が用意してくれた守り刀や守り袋。
厄災を祓うための天児という人形や、宿直犬や御伽犬と呼ばれる犬を模した紙の置物を用意した。
また、産棚という、白木造りの三重の棚を用意。
そこに、瓶子(上部が膨らんだ壺)や土器などを置いた。
出産の祝いとして、それらの器に、米などをいれて、棚に供したのだという。
子供時代のしきたり
母代わりの乳母
実の母に代わり、子に乳をやる女性を『乳母』、あるいは俗に『御乳』とか、『御乳人』と言う。
貴族の家などでは特に、子育て自体を代理母が行うことが多かったので、乳母は、そういう者たちも含めた呼び名でもある。
大事に箱に入れられたへその尾
無事に出産を終えると、母親の胎盤と胎児のへそを繋いでいた、「へその緒」は、乾燥させてから、箱などに入れて、母親が大切に保管する。
へその緒を入れた箱には、子供の姓名、生年月日、両親名などを書いて、神棚に供えた。
大事に箱に保管されたへその緒は、子供が成人するまでは守り神として効き、男ならば戦争などに出かける時、女ならばお嫁に行くときなどに、本人に手渡された。
また、子が大病を患った時には、へその緒は、薬の材料にもされた。
三日目の神への捧げもの
生まれて三日目の夜に、出産を司る生まれ産神と、荒神様と土地神様に、餅を供する風習があるという。
3柱の神はそれぞれ、鏡として用意され、産神の鏡前には、餅を2つ左へ、荒神の鏡前には、餅を3つ右へ置く。
土地神の鏡には、小さな餅を36個真ん中に置く。
七夜の祝
生まれた7日の間は、色々避けるべきだとする風習がある。
生まれてから、七夜のうちは、何事も産屋の中で行うべきなのだという。
七夜の間は、毎日、塩水を笹の葉で打ち、室内を清める。
さらにこの七夜という期間は、赤子の顔を、誰かに見せることを忌む風習もある。
生後七日目の夜に、赤子に服を着せて、産屋の外に出す儀式を『七夜の祝』と言う。
お宮参り。破魔弓。羽子板
生誕後、男子は30(または32)日目、女子は31(または33)日目に、土地神の宮へお参りすることを『お宮参り』、あるいは『忌明の祝』ともいう。
お宮参りは、出生後、母子が共に初めて外出するというもので、男子は鳥居の左より入り右から出て、女子の場合は鳥居の右から入り左から出る。
また、男子には破魔弓、女子には羽子板を献上するとされる。
お宮参りの日は、地域によって7日目から100日目まで差があるという。
百日目のお食い初め。箸始め
生まれてから100日目に行われる、『お食い初め』という儀式は、子が立派に成長し、生涯にわたって食べ物に困らないように、という思いに基づいたものとされる。
茶碗と箸がこのために用意され、握り飯や焼き魚などの食べ物が用意される。
ただ実際に食べてもらうわけじゃなく、食べさせるふりをして、用意したものは大人が食べるのが普通。
しかしふりだろうが何だろうが、生まれて初めて、箸を使って食べ物を与えられるから、この儀式は、『箸始め』や『箸祝い』とも呼ばれる。
また100日目に行うということで、百日とも言う。
髪置の祝の儀式
3歳になった年の、11月15日に、『髪置の祝』は行われる。
それまでの髪の毛を切り落とし、新たにこれから髪を伸ばし始めるという儀式。
髪を切り落とすのは、『髪置の親』と呼ばれる人で、 通常は、子が多くいたり、長生きしているような、めでたい人に依頼する。
七五三。七歳までは神のうち
11月15日に、3歳になった子供、5歳になった男の子、7歳になった女の子の成長を祝い、晴れ着を着せ、神社に赴き、お祓いしてもらう行事が『七五三』である。
地域により、男女の年齢の区別はされないこともある。
元々、適当な吉日や、誕生日などに行われていたようだが、江戸時代に徳川綱吉の子供、徳松君が、この祝いを11月15日に行ったことから、この日がスタンダードになったようである。
昔は、「七歳までは神のうち」と言われてたように、子の死亡率は高かった。
7歳まで生きるということは、それだけで、すごく嬉しいことだったのだ。
大人になってからの儀式
元服。成人の儀
男子が成人として認められるようになるための通過儀礼であった、『元服』は、髪型を変えたり、服装変えたり、特別な冠をかぶったりする儀式であった。
年齢は、地域や個人によっても様々であったようだが、江戸くらいまでは基本的には、男子は15歳、女子は13歳で、成人として認められたようである。
また男子は、元服により、成人としての新しい名前を与えられたとされる。
還暦祝い。生まれ直しの祝い
平均寿命が40歳くらいだった頃。
その頃はもう40歳まで生きた者は、家族全員に祝われ、それから10年ごとに、長生きしていることを祝ったとされる。
60歳で行うらそういう祝い事を『還暦』と言った。
60歳という年齢は、基本的に、隠居する年齢とされていた。
還暦の祝いは、生まれ直すことを祝うもので、赤ちゃんの時につけていたような頭巾や、おもちゃなどを送り、長寿を祝福した。
還暦と言うのは、干支が巡ってくる四回目の時期だからでもある。
長寿の祝いの由来。古希、喜寿、傘寿、米寿、卒寿
還暦を過ぎて、70歳まで生きると、『古希』となる。
これは中国の詩人である杜甫の、「人生七十古来稀なり」という一節から。
77歳まで生きたら、『喜寿』。
喜という漢字が、漢字の七を三つ重ねているように見えることからとされる。
80歳まで生きたら、『傘寿』。
傘の略字が、十に八をかぶせたものに見える。
88歳まで生きたら、『米寿』。
米という漢字が八、十、八に見えるから
90歳まで生きたらか『卒寿』。
卒の略字が、十に九をかぶせたものに見える。
超長寿の祝いの由来。白寿、百寿、茶寿。皇寿。大還暦
99歳まで生きたら、『白寿』。
百から一をとったら、白になるから。
100歳まで生きたら、『百寿』。
そのまま。
108歳まで生きたら、『茶寿』。
茶という漢字が、八十八、十、十(合計108)に分解できる。
111歳まで生きたら、『皇寿』。
皇という漢字が、白、一、十、一分解でき、白を99とすると、合計111。
120歳まで生きたら、『大還暦』。
2回目の還暦。